紀伊国の国譲り

 信濃国の開拓事情が他の国と極端に異なり、この国だけ阿智族・諏訪族・安曇族の三系統の人々によって開拓されている。阿智族は饒速日尊系、諏訪族は建御名方命系、安曇族は海神系である。それぞれ、全く違う系統の人々が相争うことなく協力して開拓している姿には驚かされる。信濃国の開拓には何があったのだろうか?以下は推定である。

 饒速日尊が信濃国の開拓を始めたのがAD46年頃と推定している。ちょうどこの時は日向で大国主命が亡くなり、出雲の国譲騒乱が起こる直前である。倭国が不安定になっている時日本国王の饒速日尊としては無視するわけにもいかず、信濃国から引き返して、日向国の高皇産霊神の元にはせ参じたものと思われる。そして、倭国を東西に分割する案が話し合われたことであろう。その時、大きな問題点として残るのが、紀伊国と越国である。越国の方は建御名方命が統治しており、紀伊国は五十猛命が統治していた。ともに安定していたようではあるが、東倭の統治能力が低いことが予想され、さらには西倭からはどちらも遠く、何か不安定な出来事が起こった時に対応できなく、これらの国が独立することを許してしまう可能性がある。倭国の分裂は極力避けたい認識の高皇産霊神は紀伊国を倭国から日本国に譲ることを提案した。紀伊国は出雲よりもはるかに大和国に近いので、日本国に所属した方が安定すると云う考え方からであった。越国も同じような理由により日本国に譲ることを考えたが、建御名方命が反対していることから、越国は様子を見ることにした。

 紀伊国の統治者五十猛命も紀伊国の所属を倭国から日本国に変更するのを快く承知した。倭国も日本国も何れは合体して一つの国になるわけなので、今どちらに所属していても、最終的には同じことだと、五十猛命は考えたのであろう。

 1.紀伊国

一宮 日前神宮・國懸神宮 和歌山県和歌山市 日前大神(日前神宮),國懸大神(國懸神宮) 神武 鏡はいずれも伊勢神宮内宮の神宝である八咫鏡と同等のものであり、八咫鏡は伊勢神宮で天照大神の神体とされていることから、日前宮・國懸宮の神はそれだけ重要な神とされ準皇祖神の扱いをうけていた。
社伝によれば、天照大神降臨の時、大神詔して、当宮御霊代をも三種の神宝とともに副へて降し給ひ、神武天皇は天道根命を紀伊國造とし、紀伊國名草郡毛見郷に、この宝鏡を御霊代として大神を祀らせられた
一宮 丹生都比売神社 和歌山県伊都郡かつらぎ町 丹生都比売大神、高野御子大神、大食都比売大神、市杵島比売大神 不詳 丹生大明神告門』では、祭神の丹生都比売大神は紀の川川辺の菴田の地に降臨し、各地の巡行の後に天野原に鎮座したとしている
一宮 伊太祁曽神社 和歌山県和歌山市 五十猛命、大屋都比賣命、都麻津比賣命 不詳 古くは現在の日前宮の地に祀られていたが、垂仁天皇16年に日前神・国懸神が同所で祀られることになったので、その地を開け渡したと社伝に伝える
射矢止神社 和歌山市六十谷381  品陀別命、息長帯姫命、天香山命、一言主命、宇賀魂命 天香期山命、一言主神は神代のむかし五十猛命と共に本国に天降り、名草の山路に後を垂れたとある
神倉神社 新宮市新宮 高倉下命 神倉山は熊野三所大神(早玉、結、家津美御子)が最初に天降り給うた霊所である。熊野の神が諸国遍歴ののち阿須賀神社に鎮座する前に 降臨したところであるとも伝えられている。神倉山は古代より熊野の祭礼場として神聖視され、熊野の根本であるといわれる。御神体はゴトビキ岩である。 この岩を袈裟岩が支える構造になっている。この袈裟岩の穴から袈裟襷文銅鐸(弥生後期)の破片が出土している。
熊野速玉大社 和歌山県新宮市新宮一番地 熊野結大神(伊弉冉命) 熊野速玉大神(伊弉諾命) 家津美御子命・国常立命 天照大神 熊野速玉大神は、熊野速玉大社では伊邪那岐神とされ、熊野本宮大社では同じ神名で日本書紀に登場する速玉之男(はやたまのを)とされる。また、この速玉之男神の名から神社名がつけられたといわれる。熊野夫須美大神は伊邪那美神とされるが、諸説ある。
もともとは近隣の神倉山の磐座に祀られていた神で、いつ頃からか現在地に祀られるようになったといわれる。神倉山にあった元宮に対して現在の社殿を新宮とも呼ぶ。
熊野本宮大社 田辺市本宮町本宮1110 家津美御子大神(素盞嗚尊) 神代 『熊野権現垂迹縁起』によると、
 熊野権現は唐の天台山から飛行し、九州の彦山に降臨した。それから、四国の石槌山、 淡路の諭鶴羽山と巡り、紀伊国牟婁郡の切部山、そして新宮神倉山を経て、新宮東の阿須賀社の北の石淵谷に遷り、初めて結速玉家津御子と申した。 その後、本宮大湯原イチイの木に三枚の月となって現れた。
  崇神天皇六十五年、熊野連、大斎原(旧社)において、大きなイチイの木に三体の月が降りてきたのを不思議に思い「天高くにあるはずの月がどうして この様な低いところに降りてこられたのですか」と尋ねましたところその真ん中にある月が答えて曰く、 「我は證誠大権現(家都美御子大神=素戔嗚大神)であり両側の月は両所権現(熊野夫須美大神・速玉之男大神)である。社殿を創って齋き祀れ」 との神勅がくだされ、社殿が造営されたのが始まりとする降臨神話となっている。また、当地は神代より熊野の国といわれている。
  大神は植林を奨励し、造船の技術を教えて外国との交通を開き人民の幸福を図ると共に生命の育成・発展を司った霊神と伝える。
玉置神社 奈良県吉野郡十津川村玉置川1番地
国常立尊 神代 神武天皇東征時にはすでに信仰の対象になっていたと伝える。玉石社のご神体の丸い石は地表に少し出ているだけで、 玉石社の下に「十種神宝(とくさのかんだから)」が埋まっていると伝えられている。熊野大社奥の院
阿須賀神社 和歌山県新宮市阿須賀1-2-28 事解男命 熊野三山信仰とも深い関わりを持ち、神倉山に最初に降臨した熊野三所大神はその後熊野三山に遷座し、そのとき阿須賀神社には熊野三所大神と関連の深い事解男命が勧請されたといい、熊野速玉大社の境外摂社となりました。ただし『熊野権現御垂迹縁起』『熊野社記』という書物によると、熊野速玉大神は今の阿須賀神社の近くに一時鎮座してから現速玉大社に遷ったともいわれており、阿須賀神社の創建経緯には複雑なものがある

 紀伊国の伝承によると、紀伊国の国譲りがあったことになっている。紀伊国はAD20年頃、素盞嗚尊が伊邪那岐・伊邪那美命を伴って統一し、倭国に所属するようになった国である。その後素盞嗚尊の子である五十猛命・大屋津姫・爪津姫が統治していた。出雲国譲りが起こるAD45年頃もこの三者が安定して統治していたと思われる。

 この紀伊国がなぜ国譲りされることになるのか?その理由は倭国の他の地域から遠く離れた飛び地になっていることと、国譲りが起こって倭国が不安定になったことと深い関係があるであろう。また、この時争った形跡もなく、五十猛命はあっさりと国を明け渡しているようである。五十猛命は紀伊国を明け渡した後、出雲に帰りそこで世を去っている。どう考えても平和的明け渡しである。

 国譲りを受ける相手はヒノモト以外にあり得ない。ヒノモトの中心である大和国と紀伊国は近い関係にあり、交流を活発に行うことができる。射矢止神社伝承によると「天香期山命、一言主神は神代のむかし五十猛命と共に本国に天降り、名草の山路に後を垂れた」とあり、天香期山命(高倉下命)、一言主神(饒速日尊)が五十猛命に導かれて紀伊国にやってきたことがうかがわれる。また、日前神宮・國懸神宮の社伝にある「天照大神(饒速日尊)降臨の時、大神詔して、当宮御霊代をも三種の神宝とともに副へて降し給ひ、神武天皇は天道根命を紀伊國造とし、紀伊國名草郡毛見郷に、この宝鏡を御霊代として大神を祀らせられた」は、この地に饒速日尊が降臨したことを示している。後の世神武天皇が熊野山中を抜ける道をヤタガラスが伝えられたのも、大和と熊野を結ぶ道がこの時開かれていたことを意味し、人々の移動があったことを示している。これも、紀伊国の国譲りがあったためであろう。

 熊野本宮大社・玉置神社はともに神武天皇が通過するときには祀られていたそうで、神代の創建と考えられている。熊野大社奥の宮と呼ばれている玉置神社の祭神は国常立尊でこの神は饒速日尊と推定している。事解男命はその正体が不明であるが熊野三所大神と関係が深いと言われており、この神も根拠はほとんどないが饒速日尊と考えている。紀伊国国譲りを受けた饒速日尊は紀伊国を巡回したことであろう。大和国から和歌山市近辺(射矢止神社の地)に上陸し、素盞嗚尊の古跡をたどって海岸沿いを新宮まで巡回し、熊野川を遡り、本宮の地を経由して、玉置山に登り、熊野山中を越えて、大和に戻ったと考えられる。この時、熊野大社、玉置神社が創建されたのではあるまいか。

 日向国における国譲り会議に紀伊国統治者の五十猛命もヒノモト日本国王饒速日尊も参加していたであろう。出雲国の統治能力が不安定となり、紀伊国は倭国の外の地に対して飛び地のようになっており、倭国に所属していたのでは、不便な点も多いのでこの会議によって、日本国に所属するようになったのではないかと推定している。饒速日尊も五十猛命もともに承諾し、紀伊国は日本国に所属するようになった。

 高倉下について

 日本書紀の記事
 高倉下という人が、夢を見ました。「天照大神が武甕雷神(饒速日尊)に言われるには、葦原の中つ国は騒々しいので、お前が行って平らげなさいと。すると武甕雷神は、私が行かなくても、私が国を平らげた剣(布都御魂剣)がありますから、それを差し向ければ、国は平らげることができるでしょうと答えました。武甕雷神は、高倉下に、「今、あなたの庫に置きましたから、天孫に献上しなさい」
 高倉下命と言う人物は饒速日尊の子と言われている。紀伊国国譲りがあった時、紀伊国を統治する人物に高倉下命を選んだと思われる。饒速日尊は高倉下命を伴って大和国から紀伊国にやってきた(射矢止神社伝承)、高倉下命関連伝承地は熊野地方の多いので、新宮市(神倉神社)を拠点として熊野地方を中心に統治したと思われる。和歌山市周辺は大屋津姫・爪津姫が継続統治していたのであろう。饒速日尊は高倉下命に東国統一のシンボルである布都御魂剣を預け、それが神武天皇に伝わったと思われる。

 「丹後風土記残欠」に以下のような記事がある。

 田造郷。田造と号くる所以は、往昔、天孫の降臨の時に、豊宇気大神の教えに依って、天香語山命と天村雲命が伊去奈子嶽に天降った。天村雲命と天道姫命は共に豊宇気大神を祭り、新嘗しようと したが、水がたちまち変わり神饌を炊ぐことができなかった。それで泥の真名井と云う。ここで天道姫命が葦を抜いて豊宇気大神の心を占ったので葦占山と云う。 ここに於て天道姫命は天香語山命に弓矢を授けて、その矢を三たび発つべし、矢の留る処は必ず清き地である、と述べた。天香語山命が矢を発つと、矢原(ヤブ)山に到り、 根が生え枝葉青々となった。それで其地を矢原(矢原訓屋布)と云う。それで其地に神籬を建てて豊宇気大神を遷し、始めて墾田を定めた。巽の方向三里ばかりに霊泉が湧出ている、 天香語山命がその泉を潅ぎ、その井を真名井と云う。亦その傍らに天吉葛が生え、その匏に真名井の水を盛り、神饌を調し、 長く豊宇気大神を奉った。それで真名井原匏宮と称する。ここに於て、春秋、田を耕し、稲種を施し、四方に遍び、人々は豊になった。それで其地を田造と名づけた。

 籠神社の海部氏系図によると天香語山命と天村雲命は天火明命の子と孫である。丹後風土記にはこの2命は天孫降臨時にやってきたと記されているが、但馬故時期の降臨メンバーの中にこの2命はない。天孫降臨時饒速日尊は35歳程であり、孫である天村雲命が誕生しているような年齢ではない。この2命がこの地にやってきたのはだいぶ後のことと考えられる。別伝にこの時「天道姫命は年老いていた」と記されており、AD45年頃と推定する。おそらく、饒速日尊がこの地を去っても、天道姫命がそのままこの地に残り、この地の開拓を継続していたのではないかと思われる。天香語山命は火明命(饒速日尊)が、高天原(北九州)にいるとき、天道姫命との間にできた子である。AD10年頃の誕生と思われる。

 一般に天香語山命は高倉下命とも云い、この後紀伊国に降臨している。神武天皇東遷時に神武天皇に協力し、大和朝廷成立後は尾張国へ次いで越後国に派遣されてその地を治めたと記録されている。ところが、大和朝廷成立はAD83年であり、このとき、高倉下命は70歳程となっており、その後、尾張国、越後国を統治するのは年齢的に無理がある。ところが、海部氏系図では天村雲命が熊野高倉下命であると記録されている。また、熊野本宮大社・熊野速玉大社にも天村雲命は祀られている。高倉下命=天村雲命と考えた方が矛盾がないので、高倉下命は饒速日尊の孫で天村雲命であると考える。そうであるならば、神武天皇東遷時高倉下命は40歳前後となり、後の活躍にも十分な年齢である。

 天香語山命と天村雲命がAD45年頃丹後国を訪れた時、天香語山命は35歳前後、天村雲命は15歳前後と思われる。天香語山命はそのままこの地を統治し、天村雲命はAD50年頃、日本国に所属替えした紀伊国に派遣され、新宮を拠点として紀伊国をまとめたのであろう。

 紀伊國国譲り

 この当時、紀伊国はどうなっていたのであろうか。紀伊国はAD20年ごろ、南九州を統一した素盞嗚尊が伊弉諾尊、伊弉冉尊、五十猛命、大屋津姫、抓津姫を率いて統一した。五十猛命、大屋津姫、抓津姫は和歌山市周辺、伊弉諾尊、伊弉冉尊は熊野地方を統一した。この地方はそのまま倭国に所属していたが、倭国分裂後出雲の統治力が低下し、東倭の支配権が十分に届かない状態になっていた。紀伊国は大阪湾岸地方と文化的つながりが深く、饒速日尊も和歌山市周辺に名草一族の祖である天道根命、熊野地方には饒速日尊の九州での御子である高倉下命のマレビトを送り込んできた。天道根命はAD30年ごろ、高倉下命は少し遅れてAD50頃ではあるまいか。
伊太祁曽神社に伝わる伝承では、本来の鎮座地は現在の日前宮の地で、後にこの伊太祁曽の地に遷座になったと伝えている。このことから、五十猛命は日前宮の地を拠点として紀伊国を統治していたと推定できる。
 また、大和御崎之宮(御祭神 天照大神 大己貴神 猿田彦神)によると、「はるかなる太古、神代の時代、天照大神の命により、素戔嗚命の子五十猛命(別名伊太邪曾大神・大屋津姫神、?津姫神の三柱の神が木種を持って、道祖神猿田彦神の導きで、この和歌山市北野の地に天降られました。」とある。五十猛命は大和御崎之宮の地に到着し、統一後日前宮の地に移動したものであろう。
 10年ほど経った、AD30年ごろ饒速日尊命の一行に伴って天道根命がマレビトとしてやってきた。AD35年ごろ出雲で素盞嗚尊命が亡くなった後、不安定になった出雲を立て直すために、五十猛命は出雲に帰ることになった。その後、紀伊国は大阪湾岸地方と文化的つながりが深いので、天道根命は倭国から離れ、日本国に所属することにした。
 伊太祁曽神社に伝わる社伝によれば、「日前宮・国懸宮この地には元々伊太祁曽神社が祀られていたが、紀伊の国譲りの結果、日前神・国懸神がこの地を手に入れた。その後、伊太祁曽神は山東の地に引いた」とある。 日前宮は天照大神で、国懸宮は御神体が鉾(素盞嗚尊のシンボル)なので、日前宮が饒速日尊、国懸宮が素盞嗚尊と思える。この宮は紀伊国国譲り後の拠点であったのであろう。
 おそらく、いずれ出雲に帰ることを考えていた五十猛命はマレビト天道根命がやってきた時、その統治権を天道根命に譲り、自らは伊太祁曽に引いたものであろう。二人協力して紀伊国を開発していったものと考える。
 素盞嗚尊の死後出雲に帰った五十猛命は横田町大呂の地で、製鉄開発に努力しその地で亡くなった。同地の鬼神神社に五十猛命の御陵がある。
 熊野地方も高倉下の努力によって日本国に所属するようになった。また、熊野地方の開祖、素盞嗚尊、伊弉諾尊、伊弉冉尊に対し熊野本宮大社での祭祀が始まった。
 熊野地方が日本国に所属するようになると、大和との交流が必要になるが、熊野山岳地帯は急峻であるために、交流がままならなかった。しかし、熊野奥の宮といわれている玉置神社は神武天皇東遷時には既に開かれていた。このことは、大和・熊野の連絡道がすでに存在していたことを意味する。、饒速日尊は後の神武天皇東遷経路に沿って道を切り開き、その途中の玉置山でも祭祀を始めた。これが現在の玉置神社であろう。
 八咫烏命はこの経路を通って、熊野・大和の連絡役をしていたと考えられる。

     神皇産霊尊━━天道日女┓
                ┃
     神大市姫┓      ┣━━━天香語山命━━高倉下命
         ┣━━饒速日尊┻━━━━━┓
         ┃            ┣事代主命━┓
         ┃    天知迦流美豆姫━┛     ┃
         ┃                  ┃
         ┃ ┏五十猛命            ┃
     素盞嗚尊┫ ┃                ┃
         ┣━╋大屋津姫            ┃
     稲田姫━┛ ┃                ┃
           ┗岩坂彦             ┃
                            ┃
           ┏━天御食持命━━天道根命    ┃
     神皇産霊神━┫                ┣━五十鈴姫┓
   (67代春建日姫)┗━天活玉命━鴨建角身命━活玉依姫┛     ┃
           (68代宗像彦・大山祇命)           ┣綏靖天皇
           高皇産霊神━┓                ┃
                 ┣━━鵜茅草葺不合尊━━━神武天皇┛
呉太白・・伊弉諾尊┓ ┏日向津姫━┛ 
         ┣━┫
     伊弉冉尊┛ ┗和歌姫
            (丹津姫)
             
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