紀伊半島統一

 紀伊国統一関連地図

九州統一に成功した素盞嗚尊は、大阪湾岸地方から紀伊半島の統一に乗り出した。

 大阪湾岸地方

 弥生時代中期末に当たるこの頃(紀元20年ごろ)、大阪湾岸地方は池上曾根遺跡をはじめとする多くの遺跡が存在しており、それらからは大型の建物跡が発見されるなど、かなり進んだ国があったようである。弥生時代中期のはじめごろ、瀬戸内海沿岸地方を渡ってきた弥生人が大阪湾岸地方に上陸し、ここを拠点とし、大和盆地をはじめとする近畿地方一帯から濃尾平野まで勢力圏を広げていた。拡張主義を持っていたようで、技術的にも高度なものを持っており、素盞嗚尊が大阪湾岸地方にやってきた時も倭国に加入することを拒否した。そのために、素盞嗚尊の行動を示す神社が大阪湾岸地方に存在しないものと考えられる。

 和歌山県地方

 和歌山県地方には素盞嗚尊一族の行動を示す神社がいくつか存在している。紀伊国は元「木国」といい、五十猛命が朝鮮半島から持ってきた木が最も生長した国なので、木国と呼ぶようになったと言い伝えられている。素盞嗚尊は五十猛命とともに大阪湾岸地方の統一を後回しにして紀伊半島の統一に乗り出したのであろう。

 紀伊半島の素盞嗚尊関連の伝承をまとめると以下のようになっている。

 1. 大和御前之宮 和歌山市北野744-3 祭神 天照大神 大己貴神

 

  神代の時、天照御神の命により五十猛命ら三柱の神が導祖神猿田彦神の導きでこの地に天降られ木種を蒔かれました。三輪大神を祀るを以て大和御前と称す。

 2. 射矢止神社 和歌山市六十谷381 祭神 品陀別命、息長帯姫命、天香山命、一言主命、宇賀魂命

 天香期山命、一言主神は神代のむかし五十猛命と共に本国に天降り、名草の山路に後を垂れたとある

 3. 伊太祁曽神社 和歌山市伊太祈曽 祭神 五十猛神、大屋都比売神、都麻都比売神

 木の神様 素盞鳴命(すさのおのみこと)の子,大屋毘古命(おおやびこのみこと)が,多くの樹木の種をもち,この国に天下られたことから,まつられている。 伊太祁曽神社が現在の社地に静まります以前には、日前神宮・国懸神宮に祭られていた。

 4. 大国主神社 紀の川市貴志川町國主1 祭神 大国主命 

 紀伊続風土記によれば、八十神等の危難から逃れ、五十猛命のもとへ赴こうとした大国主命が当地を訪れた事を由緒としている。古事記では母の神が大国主命を紀の国の大屋毘古の神のもとに逃がしたとある。

 5. 須佐神社 和歌山県有田市千田1641  祭神 素戔嗚尊 

 銅鐸・鉄刀出土地。神代五十猛ノ命出雲国より本国に渡り給ひしより其父神須佐之男命の御霊を有田郡須佐神社の地に鎮め奉れるなるへし

 6. 大神社 和歌山県田辺市芳養町1029-1 祭神 天照皇大御神

中央の森が大神社 大神社

 素盞嗚尊上陸伝承地

 7. 田辺須佐神社 和歌山県田辺市中万呂5 祭神 須佐之男命 配 稻田比賣命、八王子神

須佐神社のある丘陵 須佐神社

 素盞嗚尊が立ち寄り木種を播いたと伝える。

 8. 神倉神社 新宮市新宮 祭神 高倉下命

 神倉山は熊野三所大神(早玉、結、家津美御子)が最初に天降り給うた霊所である。熊野の神が諸国遍歴ののち阿須賀神社に鎮座する前に降臨したところであるとも伝えられている。神倉山は古代より熊野の祭礼場として神聖視され、熊野の根本であるといわれる。御神体はゴトビキ岩である。この岩を袈裟岩が支える構造になっている。この袈裟岩の穴から袈裟襷文銅鐸(弥生後期)の破片が出土している。

 9. 熊野速玉大社 和歌山県新宮市新宮一番地 熊野結大神(伊弉冉命) 熊野速玉大神(伊弉諾命) 家津美御子命・国常立命 天照大神

 素盞嗚尊降臨地と伝える。

 10. 熊野本宮大社 田辺市本宮町本宮1110 主祭神 家津美御子大神(素盞嗚尊) 

本宮旧社地 大斎原

 『熊野権現垂迹縁起』によると、
 熊野権現は唐の天台山から飛行し、九州の彦山に降臨した。それから、四国の石槌山、淡路の諭鶴羽山と巡り、紀伊国牟婁郡の切部山、そして新宮神倉山を経て、新宮東の阿須賀社の北の石淵谷に遷り、初めて結速玉家津御子と申した。その後、本宮大湯原イチイの木に三枚の月となって現れた。
  崇神天皇六十五年、熊野連、大斎原(旧社)において、大きなイチイの木に三体の月が降りてきたのを不思議に思い「天高くにあるはずの月がどうしてこの様な低いところに降りてこられたのですか」と尋ねましたところその真ん中にある月が答えて曰く、「我は證誠大権現(家都美御子大神=素戔嗚大神)であり両側の月は両所権現(熊野夫須美大神・速玉之男大神)である。社殿を創って齋き祀れ」 との神勅がくだされ、社殿が造営されたのが始まりとする降臨神話となっている。また、当地は神代より熊野の国といわれている。
 大神は植林を奨励し、造船の技術を教えて外国との交通を開き人民の幸福を図ると共に生命の育成・発展を司った霊神と伝える。

 11. 玉置山

 山頂近くに玉置神社があり、神武天皇東征時にはすでに信仰の対象になっていたと伝える。玉石社のご神体の丸い石は地表に少し出ているだけで、
玉石社の下に「十種神宝(とくさのかんだから)」が埋まっていると伝えられている。

 12. 阿須賀神社 新宮市阿須賀町 祭神 事解男之命 

 伊邪那岐伊邪那美さま熊野に参られ御生みになつた神々をお祭りし、従つて熊野は黄泉の国常世の国と読まれ初め家津美御子さまは貴袮谷、結速玉はアスカの森に二宇の社、第十代崇神朝には熊野川上流の音無ノ里、結速玉には第十二代景行朝、今の新宮に遷座、当社は熊野の発祥地と云われています。(熊野山略記)

 13. 花の窟神社 三重県熊野市有馬上時130 祭神 伊弉冉尊 軻遇突智尊

イザナミ命御陵伝承地 花の窟

 七里御浜に突出する高さ約70mの巨巌を神体とする巨巌の根元に方5mほどの祭壇を設けて白石を敷き玉垣をめぐらして拝所とする。神殿はなく巨巌を崇敬する 太古の風習を残している。「日本書紀」神代上の一書に「伊弉冊尊、火神を生む時に灼かれて神退去りましぬ。故、紀伊国の熊野の有馬村に葬りまつる。土俗、此の神の魂を祭るには花の時には亦花を以て祭る又鼓笛幟旗を用いて歌ひ舞ひて祭る」と記され、伊弉冊尊を祀る。

 14. 産田神社 三重県熊野市有馬町1814 祭神 伊弉諾尊、伊弉冉尊、軻遇突智命

 産田は産処の義にして、伊弉册尊がこの地で火の神軻遇突智尊をお産みになったが故に産田と名付けられたという。一説に伊弉冉尊が神退りました地ともいわれる。また、永正十八(1521)年十一月十四日の棟札に「奉棟上産土神社二所大明神」と見え、『紀伊続風土記』によるとこの二所大明神とは伊弉册尊と軻遇突智尊二神を指し、後に伊弉諾尊が併せ祀られるようになったと説く。『三重県神社誌』

 紀伊半島統一準備

 AD12年頃、素盞嗚尊は土佐国を統一した後、日向に戻り日向津姫と結婚し、鹿児島神宮の地で、周辺統一をしていた。しかし、山陽地方統一時に失敗した大阪湾岸地方の統一は気になっていたことであろう。鹿児島神宮周辺の豪族は有力豪族も見当たらず、急いで統一する必要もないことが分かってきた。それよりも大阪湾岸の統一に失敗すると、日本列島を二分することになりかねない。大阪湾岸地方の統一は急務だったのである。そこで、伊弉諾尊・伊弉冉尊にもそのことを相談し、日向津姫をこの地に残して、伊弉諾尊・伊弉冉尊に大阪湾岸地方統一に協力してくれるように頼んだと思われる。その結果、両神共に大阪湾岸地方統一に協力することになり、高皇産霊神を交えた作戦を立てるために、宇佐の地まで戻った。

 このとき、高皇産霊神は独自の情報網を使い大阪湾岸地方を調査していたのである。高皇産霊神は大阪湾岸地方統一の統一は一筋縄ではいかないことを熟知しており、マレビト作戦(後述)を考案し、その準備の最中であった。そのため、素盞嗚尊に大阪湾岸地方を平和的に統一するのはすぐには無理であることを伝えた。そのかわり、その周辺(紀伊半島)の統一を勧めた。

 「熊野権現垂迹縁起」は、現存する文献の上では熊野縁起最古のものであり、この中に熊野権現が九州から紀伊国に降臨した道筋が伝えられている。おそらく、この経路に準じた経路で紀伊国に達したと思われる。あらすじは以下のようなものである。

 「昔、唐の天台山の王子信の旧跡が、日本の九州英彦山に天降った。その形は八角形の水晶の石で、高さは3尺6寸。そのような姿で天降りになった。
 次に、伊予国の石槌山にお渡りになった。次に、淡路国の諭鶴羽山にお渡りになった。次に、紀伊国牟婁郡切部山の西の海の北の岸に玉那木の淵の上の松の木の本にお渡りになった。
 熊野新宮の南の神倉山にお降りになった。それから61年後の庚午の年、新宮の東の阿須加の社の北、石淵の谷に勧請し奉った。初めは結玉家津美御子と申した。
 本宮大斎原の一位木の3本の梢に3枚の月形にて天降りなさった。

 唐の天台山は、中国浙江省中部の天台県の北方2kmにある霊山である。紀伊半島統一前に大陸に渡って新たな技術を手に入れ、そして、宇佐の地からそれほど離れていない英彦山に登ったのかもしれない。これも紀伊半島統一の準備行動の一つであったのであろう。素盞嗚尊は全国に木種をまいて回った五十猛命・大屋津姫命を出雲から呼び寄せ、準備万端を整えてから宇佐の地を出発した。方々に寄りながら紀伊半島に達したようである。宇佐から豊予海峡を渡り、伊予国の石鎚山に登った。この周辺地はこの数年前饒速日尊が統一している処で、その様子を確認したのかもしれない。さらに東へ行った。

 坂出市林田町1881に総倉神社がある。この神社は神代の昔、須佐之男命が船にお乗りになり南海道にご巡狩遊ばされ此処に仮泊なされた旧跡と伝えられており、紀伊半島に赴くときに滞在した地であろう。このすぐ近くに饒速日尊が滞在していた琴平がある。この時、饒速日尊と会い今後の統一計画を話し合ったことであろう。

 淡路国統一

 淡路島の考古学的状況

 南淡路では弥生時代中期の大集落が数多く確認されている、後期に入るとその数・規模ともに縮小する。それに対して北淡路では弥生時代後期に高地性集落が爆発的に発生し、三世紀になると北淡路では集落が見られなくなり、南淡路に大集落が見られるようになる。
 そのような中、AD50年頃から200年頃にかけて五斗長垣内遺跡が盛行する。多数の鍛冶工房があり、弥生時代最大級の鉄器製造遺跡である。
 この遺跡は鉄器製造施設跡が23棟から成っており、うち12棟から鉄を加工した炉跡の遺構が確認された。遺物の鉄器は、矢尻、鉄片、鏨(たがね)、切断された鉄細片など75点が出土した。また石槌や鉄床石、砥石など、鉄を加工するための石製工具も数多く出土した。1棟の中に10基の鍛冶炉がある建物も発見された。しかし、住居は少なく、鉄器製作に特化した特異な遺跡である
 外部勢力の影響などが想像されるが、外部勢力の痕跡は乏しい。島全体にわたって、淡路型甕や淡路型器台といった在地色の強い土器が生まれて盛行する。阿波や讃岐・吉備などから搬入品はあるが定着していない。

 この遺跡から南西4km程の所に伊弉諾尊終焉の地とされる伊弉諾神宮が存在している。伊弉諾尊がこの地で終焉を迎えたのはAD30年頃と思われ、五斗長垣内遺跡の初期段階がAD50年頃と推定されており両者は大変近い関係にある。何らかの関係があるものと思われる。

オノコロ島神社

 当神社は、古代の御原入江の中にあって、伊弉諾命・伊弉冉命の国生みの聖地と伝えられる丘にあり、古く からおのころ島と親しまれ、崇敬されてきた。古事記・日本書紀によれば、神代の昔、国土創世の時に二神は天の浮橋 にお立ちになり、天の沼矛を持って海原をかき回すに、その矛より滴る潮が、おのずと凝り固まって島となる、こ れが自凝島である。二神はこの島に降り立たれ、八尋殿を建て、先ず淡路島を造り、つぎつぎと大八洲を拓かれたとなって いる。
 この地は古代の入江であり、讃岐方面と往来する時は必ず利用する位置にある。淡路島と讃岐の交流の玄関口と考えられる。

伊弉諾神宮

 古事記・日本書紀には、国生みに始まるすべての神功を果たされた伊弉諾尊が、御子神である天照大御神に国家統治の 大業を委譲され、最初にお生みになられた淡路島の多賀の地に、「幽宮」を構えて余生を過ごされたと記されている。その 御住居跡に御神陵が営まれ、そこに最古の神社として創始されたのが、伊弉諾神宮の起源と云われている。

伊弉諾神宮

沼島

沼島 ( ぬしま ) は南あわじ市灘の沖4.6 キロに位置する離島で、 灘の土生港からの沼島汽船によって結ばれている。はるか昔、神々がつくり出した最初の島「おのころ島」だという伝説が残り、今もなお自然のままの姿を残し、海の楽園となっている。東南海岸には見る人を驚かせる岩が多く、「上立神岩」「屏風岩」「あみだバエ」などの勇壮な奇岩が点在している。
 沼島は古代の海人族 が本拠地にした島であると伝えられ、戦国時代には沼島水軍が名を馳せた。沼島は紀伊半島南部へ行く時の拠点となる島である。

絵島

岩屋漁港にある「絵島」も、別名「おのころ島」と呼ばれる。地質学的に珍しい約 2 千万年前の砂岩層が露出した小島で 、岩肌の侵食模様が特徴的である。本州との交流玄関口である

オノコロ島伝説がある地はいずれも外部との交流の玄関口となるところである。素盞嗚尊一行は大阪湾岸地域を意識してその玄関口をまず抑えたのであろう。そして、この島に拠点を構えたのである。

 紀伊半島統一

 素盞嗚尊一行の淡路島における拠点は、讃岐方面からやってきたことを考慮すると、オノコロ神社の地が考えられる。熊野権現が遷ったという淡路国の諭鶴羽山は淡路島南部にある島内最高峰の山である。この山に登って、これから統一すべき紀伊半島、まだ未統一の阿波国の様子、大阪湾岸の様子を見渡したのであろう。五十猛命・大屋津姫には和歌山市周辺の統一を任せ、紀淡海峡を渡って和歌山に到達した。素盞嗚尊は伊弉諾尊・伊弉冉尊を引き連れて、オノコロ神社の地を出発。経路はおそらく、鳴門海峡を超えて 沼島経由して、和歌山県の有田市に上陸したものであろう。有田市には須佐神社(和歌山県有田市千田1641  祭神 素戔嗚尊)がある。次に熊野権現垂迹縁起にある切部山(切目)を通過して、田辺市の大神社(素盞嗚尊上陸伝承地)および田辺須佐神社(素盞嗚尊が木種を蒔いた)に滞在して周辺を統一した。

 次に串本を回って新宮に着いた。新宮では神倉山に登って新宮一帯を見渡したのであろう。ここは徐福上陸伝承地であり、高皇産霊神がこの地のことを紹介していたのではあるまいか。次に熊野川を渡り石渕に到達した。

 貴祢谷社(三重県南牟婁郡紀宝町鵜殿)

神代の頃に新宮の神倉山にお降りになった熊野神が約2500年前にここにお移りになり始めは速玉大神、夫須美大神、家津御子大神の三柱の神を二つの社殿に祀り約2000年前に石渕の祭神の内 家津御子大神が本宮へ移られ約1900年前に石渕の熊野神が新宮へお移りになった。この時に鵜殿諸手船(もろたぶね)神船を先導し奉ったことが伝えられている(熊野権現御垂迹縁起、帝王編年記、扶桑略記)

 新宮を拠点として周辺を周辺を統一し、最後は熊野川を遡り、湯河原の地にたどり着いた。この地に宮を作り暫らく滞在したものであろう。ここが後の熊野本宮大社となるのである。

 伊弉諾尊・伊弉冉尊は三重県熊野市まで行き、周辺を統一しそこで暫らく滞在したようである。この間に二人の間に子供が生まれている。丹生都比売である。誕生地は三重県熊野市産田の産田神社の地であろう。

 丹生都比売神社 和歌山県伊都郡かつらぎ町大字上天野230 略記

 丹生都比売大神は日本の国をお作りになった伊井諾・伊井冊の神様の御子で伊勢皇大神宮にお祀りしてあります。日本の祖神天照皇大神の御妹神であらせられ稚日女尊(あかひるめのみこと)とも申し上げました。大神は機を織ること織物の祖神でもありまして、丹生都比売大神のお子様に当る高野御子大神と共に紀伊・大和地方を御巡歴になり人々のために農耕殖産(衣食の道・織物の道)を教え導かれまして最後にこの天野の地にお住い遊ばされました。

 素盞嗚尊一行はAD14年頃よりAD17年頃までこの地に滞在したと思われる。

 紀伊国からの帰還

 紀伊半島がほぼ統一されたので、帰還することになった。この時の伝承と思われるものが愛媛県今治市にある。

 野間神社伝承

昔、紀伊の国から幾日も航海されて、現在の大西町九王(旧大井村)のあたりにお着きになった須佐之男命は、 天の磐く樟船で品部川を上られました。船から降りられた須佐之男命は、更に牛に乗られて、今の宅間、野間、延喜 を経て阿方のあたりを通られようとしました。
 ところが、阿方の村人の中に、随分意地の悪い者がいて不浄物をかけるなど色々と悪だくみをし、わざと須佐之男命の 通られるのを邪魔しました。
 須佐之男命はいたし方なく、矢田の方にまわられ神宮の地にお着きになりました。ご自身が乗って来られた磐く樟船を 置かれた神宮の奥の熊野峰というところで、牛に食物を与えてご自身も休まれました。
 この磐く樟船が、長い年月の間に化石になったといわれており、今は摩滅して跡を見ることは出来ませんが、 古老の話では、以前は須佐之男命のご足跡と牛のえさおけの跡が残っていたそうです。
 この化石になったと言われる巨石は、「石神さん」と呼ばれ、現在も、この野間神社の奥の山にあります。

 素盞嗚尊は無事に宇佐の地に戻ってきたのである。

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