物部氏の謎
物部氏の系図を天皇の世代と合わせてまとめると下のようになる。
物部氏の系図(古代史の復元) ┏大禰命 ┏大新河━武諸隅 ┃ ┃ 饒速日命━宇摩志麻治命━彦湯支命━意富祢命━╋出雲醜大臣命 ┏━伊香色雄━┻━○━━十市根━○━胆咋宿禰━━五十琴━○━○━物部伊呂弗 ┃ ┏大水口宿禰 ┏━大綜杵命━┫ ┗出石心大臣命━━┫ ┃ ┗━伊香色謎━┓ ┗大矢口宿禰━┻━欝色謎━━┓ ┣━崇神天皇━━垂仁天皇━━景行天皇━日本武尊━仲哀天皇 ┣━開化天皇━┛ ┏神八井耳━━━武宇都彦━━━武速前━━━━孝元天皇━━┛ 神武天皇━┫ ┗綏靖天皇━━━孝昭天皇━━━孝安天皇━━━孝霊天皇 |
物部氏の系図(古代史の復元) ┏布都久留━━━━━木蓮子━━麻佐良━━麁鹿火 ○━━━━━十市根━━━━○━━━━胆咋宿禰━━━五十琴━━━○━━━━━━○━━━伊呂弗━┫ ┗━目━━・・・・・(尾越)━━荒山━━━尾輿━━━守屋 ┏仁賢天皇━武烈天皇 ┏履中天皇━━市辺押磐皇子┫ ┃ ┗顕宗天皇 ┏━日本武尊━━仲哀天皇━━応神天皇━┳仁徳天皇━╋反正天皇 崇神天皇━━垂仁天皇━━景行天皇┫ ┃ ┃ ┏安康天皇 ┗━成務天皇 ┃ ┗允恭天皇━┫ ┃ ┗雄略天皇━━━清寧天皇 ┏安閑天皇 ┃ ┃ ┗稚野毛二派━意富本杼━━乎非王━━━━彦主人王━継体天皇━━╋宣化天皇 ┃ ┗欽明天皇━敏達天皇 |
饒速日命
物部氏の始祖である。BC10年頃生誕、AD60年頃没と思われる。
宇摩志麻治命
饒速日尊と長髄彦の妹御炊屋姫との間に生まれた長子である。
彦湯支命
綏靖天皇の代に足尼(すくね)となり、後に申食国政大夫となる。神武天皇と同世代と思われる。
意富祢命
物部氏の系図には含まれないが、穂積氏の系図に彦湯支命と出石心大臣命の間に存在する人物である神武天皇からの世代数を考えると、この人物が実在したとしたほうが自然である。
出石心大臣命
彦湯支命の子と伝わるが、彦湯支命が神武天皇と同世代と思われるが、出石心大臣命は孝昭天皇と同世代と伝わるので彦湯支命の孫と推定する。
大矢口宿禰
天孫本紀が出石心大臣の子で、孝霊天皇に仕えたと記す。伯耆国日野郡楽々福神社祠官に「大矢口宿禰は「稚武彦命」に隋し、当国(伯耆国)に来たり」となっている。また、「楽々福神社末社の相殿に鬱色雄命大水口命大矢口命三座を祀るは当社神主入澤氏の氏神とせる由」とある。鬱色雄命は大矢口宿禰の子なので、大矢口宿禰は孝安天皇から孝霊天皇の時代に活躍したとみられる。
大綜杵命
鬱色雄命と兄弟なので孝霊天皇と同世代と思われる。
伊香色雄
妹の伊香色謎姫が開化天皇の皇后となっているので開化天皇と同世代と思われる。
十市根
垂仁天皇26年8月3日条、天皇の勅で出雲に出向き、出雲の神宝の検校を行なった。
垂仁天皇87年(AD291)2月5日条、垂仁天皇皇子の五十瓊敷命が妹の大中姫命に石上神宮の神宝の管掌を頼んだが、大中姫命は辞し十千根に治めさせた。
『先代旧事本紀』「天皇本紀」、垂仁天皇81年2月1日に五大夫の1人の十市根命に対して「物部連公」の賜姓があり、さらに大連に任じられた。
垂仁天皇の時代に十市根命の活躍記事が集中しているので垂仁天皇と同世代となるが、その父伊香色雄との間の年数が開いている。おそらく伊香色雄と十市根の間に1代欠落しているものと思われる。
胆咋宿禰
仲哀九年二月、天皇が神意による死をとげた時、神功皇后と武内宿禰は天皇の喪を秘密にして、中臣烏賊津、大三輪大友主、物部胆咋、大伴武以の四大夫と善後策を協議している。この結果、皇后は四大夫に橿日宮(香椎宮)を守らせ、武内宿禰をして密かに天皇の遺骸を穴門の豊浦宮へ運ばせたという。(『紀』)
成務天皇の時代に大臣になり、ついで宿禰になり、神宮(石上)を奉斎した。
天皇本紀にも成務元年正月に大臣に任じられたことがみえる。
成務天皇から神功皇后時代に活躍した人物となる。
五十琴
天孫本紀に、宇摩志麻治命の九世孫で、胆咋宿禰の子。神功皇后摂政の時、はじめ大連となり次いで宿禰となって、石上神宮を奉斎したという。
物部多遅麻大連の娘の香児媛を妻とし、伊呂弗が生まれる。天皇本紀も神功摂政三年正月に、大連に任じられたとする。
これだけをみると、五十琴命は神功皇后時代に活躍した人物となる。しかし、その妹の記録に次のようなものがある。
五十琴姫命。天孫本紀に、宇摩志麻治命の九世孫で、五十琴宿禰連の妹で、景行朝に妃となって、天皇との間に五十功彦命を生したという。
天皇本紀も、景行四十六年八月に物部胆咋宿禰の娘・五十琴姫命が天皇妃となり、五十功彦命を生したとする。
これは五十琴命が景行天皇と同世代であることを意味している。五十琴命が景行天皇と同世代であるならば、十市根が崇神天皇と同世代で、胆咋宿禰が垂仁天皇と同世代となり、天皇家と世代数が一致する。
この後、伊呂弗命は履中天皇と同世代になる。実に4世代に該当する人物が系図から欠落しているのである。この欠落部分がどうなっているか不明であるが、日本書紀の胆咋と五十琴が成務天皇時代から神功皇后時代に記録が残っているので記録を優先すると十市根と胆咋宿禰の間に1代欠落しており、その妹が五十琴姫命となる。
なぜ、ここで、2世代ほど欠落しているのであろうか、神功皇后時代までの記録があるので欠落は、応神天皇の即位前後から仁徳天皇の時代に起こっていることになる。その原因として考えられるのが忍熊・香子坂王の変が考えられる。忍熊王は仲哀天皇崩御後天皇として即位していたと思われるが、神功皇后が誉田別命を天皇に即位させるためにクーデターを起こしている。この時、物部氏は忍熊天皇についていたと思われ、クーデター成功後、忍熊天皇についていた豪族は処分され、その後中央政権から遠ざけられていたと考えられる。その間の記録が存在しないために、この間の2世代が欠落しているものと推定する。なお、この傾向は大伴氏や三輪氏にも見られる。
伊呂弗
履中天皇の時「大連」となった。履中天皇と同世代と思われる。
以降大連は次のようになっている。
18反正(伊筥弗)。19允恭(麦入)。20安康(大前)。21雄略(布都久留)。22清寧(目)。23顕宗(小前)。24仁賢(木蓮子)。(旧事本紀)
目
雄略18年物部菟代、大斧手らと一緒に伊勢「朝日郎」を討つ(紀)
雄略天皇と同世代と思われる。
荒山
宣化天皇朝の大連(旧事紀)とされている。天孫本紀に、宇摩志麻治命の十二世孫で、物部目大連の子となっていおり、宣化朝に大連となって石上神宮を奉祭したと伝えられている。荒山は継体天皇と同世代と思われ、目との間が少しあいているので、目と荒山の間に一代欠落があるのではないかと推定する。
尾輿
安閑元年閏十二月、廬城部連幡媛が、尾輿の珠の首飾りを盗み、春日皇后に献上したことが発覚した。尾輿は事件が自分にかかわることを避けるため、大和国十市部、伊勢国来狭狭・登伊の贄土師部、筑紫国胆狭山部を献上した。
旧事紀では、安閑、宣化朝で大連とされている。
欽明即位前紀(宣化四年)十二月、大伴金村(再任)とともに大連になる。大臣は蘇我稲目。
欽明元年、継体6年に大伴大連金村が、「任那国の四県」の百済への割譲を認めたことを持ち出し、その責任を追求した。
欽明13年10月、百済の聖明王が仏像・経論等を贈ってきた時、礼仏の可否の勅問に対して、蘇我稲目の意見に反対し、尾輿と中臣鎌子は排仏を主張した。
その後、仏像は稲目が賜り試みに礼拝されていたが、疫病が流行ったため、尾輿らはこれを国の神の怒りであると奏上し、天皇の命を受けて仏像を難波の堀江に捨てさせたという。(『紀』)
安閑・宣化・欽明天皇と同世代と思われる。
守屋
585年 物部大連守屋、寺塔を焼き仏像を捨てようとして馬子と争った。
585年 敏達天皇崩御。後継天皇として、稲目の娘の子大兄皇子(用明天皇)が馬子の後ろ盾で即位した。守屋は、危機意識を深め「小姉君」の三男「穴穂部皇子」の擁立を画策した。
587年 用明天皇は、病気となり仏教帰依を表明し、その可否を重臣に協議させた。この会議で崇仏派と、排仏派の対立再燃。
守屋は、身の危険を知らされ、会議の最中に、阿都(八尾市跡部)のヤケに引き上げ手勢を集めた。
用明天皇崩御。馬子は、守屋討滅を決意。
崇峻天皇、竹田皇子ら諸皇子と紀男麻呂、巨勢比良夫を引いて兵を挙げる。守屋が討たれた。
敏達天皇と同世代と考えられる。
布都久留
雄略天皇の時代に大連になっているので、雄略天皇と同世代と思われる。
木蓮子
『旧』天孫本紀では、宇摩志麻治命十二世の孫。父は布都久留、母は依羅連柴垣の娘・全姫とある。仁賢天皇の時代、大連となり、御大君の祖の娘・里媛を妻にして、二児を生んだ。
顕宗・仁賢天皇と同世代と思われる。
麻佐良
顕宗・仁賢天皇と同世代と思われるが、活躍時期は短かったようである。
麁鹿火
武烈即位前紀に、天皇が皇太子のとき、麁鹿火大連の娘・影媛を召そうとしたことがみえる。
継体元年一月四日、大伴金村、許勢男人らとともに、男大迹王擁立を議している。同年二月四日、天皇の即位とともに大連となる。
継体六年十二月、百済が上表して任那四県の割譲を請い、大伴金村がこれをゆるし、このことを上奏したとき、麁鹿火は宣勅使になり、難波館に向かい百済の使者に宣勅しようとした。だが、妻の諫言で病と称して、宣勅使を辞退している。
継体二十一年六月三日、筑紫の国造・磐井が叛乱し、征新羅将軍の近江毛野をさえぎった。天皇は大臣大連に将にすべき人物を諮り、金村の推薦によって麁鹿火が将軍になった。同年八月一日、詔を受け、天皇は長門から東を制し、麁鹿火は筑紫以西を制し、賞罰を専権することとなり、継体二十二年十一月十一日、大将軍として、筑紫御井郡で磐井と戦い、ついにこれを斬った。
安閑即位前紀に、金村を大連、麁鹿火を大連とすること元のごとし、とある。
宣化元年2月にも、同様に金村、麁鹿火をそのまま大連にすることが記されているが、このときは蘇我稲目が大臣になっている。
宣化元年7月、没する。(『紀』)
継体天皇と同世代と思われる。
「真清探當證」における物部氏の謎
「真清探當證」では、男大迹王(後の継体天皇)が、幼少時に草平夫婦に預けられて育ったことが伝えられている。継体天皇即位後草平夫婦が中央に呼び出され、物部姓をたまわり、物部尾越となり、その子孫が尾輿、守屋だと伝えられている。古代史の復元では、このことは物部系図と相容れないものとなるので、誤りであると考えていたが、物部尾越に該当する位置、すなわち顕宗・仁賢天皇と同世代に該当する人物の物部系図がちょうど代数欠落になっていることが分かった。
偶然とするにはあまりにも一致しているので、ここで一つの仮説を設けることにする。
草平夫婦は物部五十琴の子孫であろう。忍熊王の乱の時、物部五十琴が忍熊天皇側に着いたために、応神天皇以降、朝廷から遠ざけられた。その子孫は中央から離れ、散り散りになって生活していたと思われる。履中天皇は、大和朝廷成立時からの豪族で応神天皇以降遠ざけられていた者たちを朝廷に呼び返した。物部伊筥弗は子の呼び出しに応じて中央に戻り、履中天皇朝で活躍することになったのであろう。
このとき、草平夫婦の先祖は戻らなかったのであろう。しかし、尾張で隠棲生活をしている億計王・弘計王の事を知り、両皇子に仕えることをしたのではないだろうか。その縁で、男大迹王の養育の役を引き受けることになったと思われる。
男大迹王が継体天皇として即位した後、継体天皇はこの草平夫婦を中央に呼び出し、物部一族として朝廷に奉公させたのである。このとき、物部氏は物部伊筥弗のところで2系統に分かれているが、宗家はその後の大連から判断して布都久留から麁鹿火につながる系統と思われる。しかし、途中から物部目の系統が守屋までつながることになっているのである。
草平改め物部尾越は、それ以前の系統がわからなかったために、目の系統に繋いだのではないだろうか。そうすると、「真清探當證」の伝承とつながるのである。
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