縄文早期

 12000年前~7300年前

 12000年前ごろより縄文早期となる。草創期では小規模だった縄文集落が巨大化してきた。

巨大集落の誕生

 縄文早期になると集落が巨大化してくる。巨大化してくると人口も増えてくるので、食料の安定確保が必要となる。地球環境が次第に温暖化してきて、日本列島の食料環境が良くなってきたためと考えられる。  

 植物質食料調理器具である石皿、磨石、敲石、加熱処理具の土器も大型化、出土個体数も増加する。定住生活には、植物質食料、特に堅果類が食料の中心になっていたと想像されている。定住的な生活をするようになった人々は居住する周辺の照葉樹林や落葉樹林を切り開いたことにより、そこにクリやクルミなどの二次林の環境を提供することとなった。定住化によって、縄文人は、集落の周辺の下草にも影響を与えた。これは、ワラビ、ゼンマイ、フキ、クズ、ヤマイモ、ノビルなどの縄文人の主要で安定した食料資源となった。有用植物が繁茂しやすい雑木林という新しい環境を創造したのである。2013年、福井県鳥浜貝塚から世界最古級(約11000~15000年前)の調理土器が発見され、サケなどの魚を調理していたことがわかった。

 
上野原遺跡

 人口が増えるために食べる量も多くなり、廃棄物も増えてくる。その結果、この時期より貝塚が見られるようになってくる。貝塚より、当時の人々の生活が見えてくる。

 鹿児島市にある加栗山遺跡では、16棟の竪穴住居跡、33基の煙道つき炉穴、17基の集石などが検出されている。この頃の遺跡は竪穴住居跡の数の大幅な増加、住居の拡張、重複した住居跡、これらの住居跡やその他の遺構が中央広場を囲むように配置されている事が多い。この頃には、大規模の定住集落が形成されてきたと推定される。

 住居跡が中央広場を囲むように配置されていることから、身分制度のようなものはなく何人も平等な世界だったと思われる。農耕はまだ始まっていないようであるが、クリやクルミなどの堅果類の林が増大していったようでこれが主たる食料源だったようである。集落の人数が増えることにより、専業化が進み、様々な道具が大型化したり出土数が増えたりしている。

 そういった中で土偶が出現する。

土偶の出現

 三重県松坂氏の井尻遺跡から2つの土偶が発見された。そのうち1つはほぼ完全な形で、もう1つは頭だけのものが別々の竪穴住居跡から発見された。2点とも同じ大きさ、形で、砂粒の混じりの少ない粘土が使われ、明るい黄土色をしている。 この土偶は全長6.8㎝、幅4.2㎝厚さ2.6㎝の女性の上半身を形どったもので、目や口などはなく、胸には粘土を貼り付け乳房を表現している。また、脚はなく、手は胴体の粘土を横につまみ出 し、両手を広げた形を表している。土偶は北海道から九州までに1万点余りあるが、今まで発見されたものの中では井尻遺跡のものが日本最古である。

 土偶は女性の生殖機能を強調しているものが多い。初期は顔の表情がほとんどない状態であるが次第に顔だ形成されていく傾向にある。東日本中心ではあるが、大変数多く見つかっている。縄文社会に必須のものだったようである。見つかる土偶はことごとくが破壊された状態で見つかる。ここまでの縄文社会の流れをもとに土偶の役割は何だったのかを推定してみよう。

 縄文早期になると人の集団が大きくなった。現在でもそうだが人数が多くなるとまとまりが無くなる。縄文社会では集団としての協力体制こそが重要であるので、人々の心を一つにするのに必要なものだったのであろう。縄文時代の終焉とともに土偶は作られなくなったが、これほど長い期間常時使われてきたものが人の入れ替わりがないのに消滅することは考えにくく、形を変えて現在まで継承されているのではないかと考えられる。

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 現在の日本文化で作られてしばらくすると破壊しているものに何があるかと探してみると、それに該当するのが「神社のお札」ではないかと考えた。

 神社のお札は多くは有効期間1年で、あるときに神社からお札を受け、1年間家で祀り、1年後神社に返すか、とんどなどで燃やしているのである。御札は神様の魂を分けていただいたものとされているが、その効力は永遠ではない。月日がたてば効力は落ちるので、 そこで古くなった御札をお返しして、新しい御札をいただくことになる。 神様のパワーが衰えるというのは日本の神様独特の考え方である。 伊勢神宮の式年遷宮も同様で、年月ともに神様の力も弱まるので、社を建て替えることで再び神様のパワーを復活させようというものである。 生まれ変わることで常に若々しい力を保つというのが、古くからある考え方である。 他の神社では様々な都合で定期的に建て替えるというのはあまりない(重要文化財や国宝に指定されると建て替えが出来ません。できるのは改修のみ)。しかし、傷んだところを直せば神様の力も強くなるという考え方は引き継がれている。家庭内の神棚も同じで、 御札は神様そのものではなく、神様の魂を分けていただいたもの。だから神様の力も長続きしない。その目安は1年といわれており、1年で替えるのが一般的である。年末に新しい御札をいただいて、新年になると古い御札をお返しするというものが一般的である。年末に古い御札をお返しして、新年に新しい御札をいただくのではない。新年を迎えるときに御札を新しくしておくのである。 年末に大掃除してしめなわを飾るのと同じで、新しくきれいにして新年を迎えるのである。

 このお札の考え方と土偶が同じではないかと推定する。縄文人は食料を自然からの恵みととらえ、自然との共生を重視してきている。そうすると、自然の神(精霊)の存在を信じ、精霊に守られていると考えるようになる。その精霊を形で表したものが土偶ではないだろうか。御札と同じく、土偶は精霊そのものではなく精霊の仮の住まいという形になっているのではないだろうか。1年間集落を守っていただいた後、精霊に自然に戻ってもらうために破壊したと考えることができる。

 この土偶が時代がたつにつれて、神社の御札に代わって、土偶が作られなくなったと考えることができる。人々も形のないものを信仰するのが難しく、具体的な形を持っているものを用意することで人々の心を一つにできたのではないだろうか。

 丸木舟の作成

 丸木舟は旧石器時代から存在したと思われるが、まだ見つかっていない。鹿児島県の栫ノ原遺跡で12000年前の世界最古の丸ノミ石斧が見つかった。丸ノミ石斧は丸木舟を作るための石器である。この時期の丸木舟は見つかってはいないが、丸木舟の制作数が増えてくる中で、このような石斧が考え出されたのであろう。最古の丸木舟が見つかったのは7500年前の千葉県の雷下遺跡で出土したものである。発掘された丸木舟はムクノキをくりぬいたもので、長さ約7・2メートル、幅約0・5メートル。側面が残っていないが、丸木舟としては大型である。同遺跡の発掘は、東京外郭環状道路(外環道)の建設のため県教育振興財団が2012年11月から行い、丸木舟は昨年11月中旬に見つかった。木材の一部を年代測定したほか、一緒に出土した土器の年代から鑑定した結果、約7500年前のものと特定された。 現在の東京湾から同遺跡までは数キロ離れているが、当時は温暖化により海面が上昇する「縄文海進」が始まったころとされ、遺跡の周辺は干潟が存在するような地形だったとみられる。

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 見つかった丸木舟は縄文海進のころである。当時は干潟であったが今は陸地になっているという事情からである。縄文早期より前の海岸線は今の海の中にあることになる。そのために、これより前の丸木舟が見つからないと解釈できる。この頃より、人口も増えているので丸木舟の需要は大きくなっており、丸木舟の製造数は増えていったものと考えられる。

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7500年前雷下遺跡出土丸木舟

 人口が増えているので丸木舟の数も増え、他集落との交流も盛んになっていったことであろう。

 装飾の始まり

 巨大集落になって専業化し、一人一人の生きていくための負担が減って生活が楽になってくると、人々が次にやるのは装飾に走るということである。

 巨大集落の鹿児島県の上野原遺跡では装飾品と思われるものが見つかっている。
 石製垂飾・・・・ ごく普通の石に穴をあけて,ペンダント風に仕上げている。穴のあけ方や用途については謎。
 石製耳飾り・・・ 軽石や凝灰岩を削ったり,こすったりして土製耳飾りと同じ様な形に仕上げた石製耳飾りで,中には赤色顔料で彩色したものもある。

 漆の登場
 北海道函館市で、漆を使った約9,000年前の副葬品が発見され、これが世界最古のものである。福井県や青森県八戸市の是川遺跡などからも、漆塗の櫛などが数多く出土している。椀・皿・鉢や壺、土器などの器の類、弓などの武器、櫛や腕輪などの装飾品と、縄文時代の漆製品は多岐にわたっている。そして、赤色漆製品が多く作られているのも、この時代の特徴である。縄文人にとって赤は、特別な色だったのであろう。血や魂の色で、魔除けや復活・再生、隆盛を意味したのではないかと推定される。塗料であり接着剤でもある、漆。赤い櫛は、縄文人たちが赤色顔料を作り、漆に混ぜて塗ったものである。壊れた土器が、漆で補修されたものも見つかっている。漆工の道具類も出土していて、この時代にはすでに、現代に通じる基本的な技術が確立されていたことがわかるという。いずれにしても日常から祭祀まで、漆製品は、縄文の人たちの暮らしとともにあったということである。

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 縄文早期になると、縄文土器に粗製土器と精製土器の作り分けが始まった。これは通常使用の器と祭り用の器の使い分けが始まったと考えられる。

 縄文早期になると、装飾系の遺物の出土が見られるようになる。大人数の集落が出現するようになると、その集落の中での祭りが始まったと考えられる。中央広場で祭りが行われたものであろう。 

 

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