朝鮮半島からの新技術導入

 朝鮮半島渡航

 スサノオは,次に,朝鮮半島南端部を統一したようである。「尾張名所図絵」等の資料によると,愛知県の津島神社の創始について,

「朝鮮半島に祭られていた素盞嗚尊の御魂が,七代孝霊天皇の時に,西海の対馬に遷された。」とある。

スサノオが,朝鮮半島に祭られていたということは,その地を統一していたということになる。那祖師神社の記録にも 「朝鮮半島東南部の経営のために対馬と朝鮮半島を往復した」と記録されている。朝鮮半島南端部(狗邪韓国)は魏志倭人伝によっても倭人の国に属していた節があり, 中国の認識する倭国の領域に朝鮮半島南端部が含まれていたようである。また,後の時代の任那日本府にしても,その起源は不明である。 スサノオが統一していたとすれば,説明できる。おそらくスサノオは,外国交易の基点として重要視したい朝鮮半島南端部を,統一していたのであろう。 スサノオは,ここを基点として,朝鮮半島の先進技術をかき集め,日本列島に持ち込んだものと考える。考えられる先進技術は,鉄器製造技術・青銅器製造技術(銅剣・銅矛・銅鐸) ・農耕技術・暦・新作物の種などであり,いずれも以後瀬戸内沿岸で変化が起こっているものである。

 素盞嗚尊関連伝承地図

朝鮮半島における滞在伝承地

 日本側記録

 日本書紀一書(第四)
 「素盞嗚尊の行いはひどいものであった。そこで、神々が、千座の置戸の罪を科せられて追放された。 この時素盞嗚尊は、その子五十猛神をひきいて、新羅の国に降られて、曽尸茂梨(ソシモリ) の所においでになった。そこで不服の言葉をいわれて「この地には私は居たくないのだ。」と。 ついに土で舟を造り、それに乗って東の方に渡り、出雲の国の簸の川の上流にある、鳥上の山についた。」
  一書(第五)
「素盞嗚尊が言われるのに、韓郷の島には金銀がある。もしわが子の治める国に、舟がなかったらよくないだろう」と。 そこで鬢を抜いて杉、胸毛から檜、尻毛から槙、眉毛を樟となしたとある。」
根國へ放逐せられたる素戔鳴尊は身から出た錆の報いで所々方々を流浪しながら其の子の五十猛命と共に 今の朝鮮へ渡られ、新羅國の曾戸茂梨と言う所に居られた。

 此の曾戸と言うのは朝鮮の古い言葉で牛のことであり茂梨は頭と言う事であって今の江原道春川府の牛頭山であろう。よってスサノオの別名を牛頭天王とも書いてある。

 此の牛頭天王が朝鮮に居られる間に「此の國には金銀が沢山有る。これを日本に運ぶ船が無くては叶わぬ」と 仰せられて髯を抜いて散かれると杉の木となり胸毛は桧(ひのき)となり臀毛(しりげ)は披(まき)となり眉毛は樟(くす)となった。 そこで杉と桶とは船にせよと仰せられた。桧は御殿を作れ披は棺桶(くわんおけ)にせよと仰せられた。 御子の五十猛命は此等の木々の苗を沢山朝鮮から持ち歸って九州からだんだんと東へ植え付けられた。

 牛頭天王の素戔鳴尊は吾は最早朝鮮に止まる事を好まないと仰せられて土で船を作り再び日本に帰って来られたのが 出雲の國安来であった。ああこれで心安くなったわいと申されたので安来の名が着いたとの事である。

 このことは考古学的にも裏付けられる。後の北九州統一のシンボルとして使われた中広銅矛をはじめとする倭国関連遺物が朝鮮半島の加羅国の領域から出土するのである。そのほかの領域からは全く出土していないので、この領域がスサノオの統一した領域と考えられる。しかし、統一したのは中広銅矛の出土から考えて北九州統一後のことであろう。この段階では朝鮮半島の先進技術を学んだものと考えられる。

 五十猛命が持ち込んだ木の種はなにか

 五十猛命が持ち帰った木の種とはなんであろうか。当時の状況から判断して食用の果実をつける木と思われる。それであるなら、弥生時代後期になって日本列島に出現し、おそらく現在では普通に食べることができるようになっている果物であろう。そこで、弥生時代の遺跡から見つかっている果物の原産地と栽培開始時期を調べてみると下の表のようになった。

 弥生時代に栽培が始まったと思われる果物

果物 原産地 栽培開始時期
中国黄河上流域 弥生時代後期・巻向遺跡で多量に見つかる。桃は食用のほか祭祀用途にも用いられ、斎串など祭祀遺物と伴出することもある。
中国北西地方 弥生時代の遺跡から出土
中国 弥生時代後期・静岡県登呂遺跡で炭化した種が見つかる
中国 弥生時代
中国・日本 弥生時代初期
中国 弥生時代前期・稲作と一緒に日本へ入ってきたと思われる。

 これを見ると五十猛命が日本列島に持ち込んだ果実は桃の可能性が高いことがわかる。桃は弥生時代後期に日本列島に持ち込まれている。また、神話の中でも神の果実といった要素が強く、邪馬台国の首都と目されている纏向遺跡の神殿跡からもおびただしい数の桃の種が見つかっている。これも、五十猛命が持ち込んだものであるからこそ、神聖視されたものであろう。

 しかし、伝承では桃の種と明記されているわけではないので、何種類か持ち込んだものと考えられる。上の表から桃・杏・梨・李などが候補に挙がる。これらの木を日本列島に持ち込み、各地に配って回ると、それらの地で、食用として重宝されるであろう。人々の心をつかむことができ日本列島統一に大きく寄与したことは間違いないであろう。

 これらの原産地はいずれも中国である。朝鮮半島には存在していなかったと推定される。これより、素盞嗚尊・五十猛命は中国まで足を延ばしていることがわかる。

 中国正史の記録

 中国の正史には倭国の領域に関して次のように記されている。

三国志魏書東夷伝倭人条
「(帯方)郡より倭に至るには海岸にそって水行、韓国を経て、南へ行ったり東へ行ったりしてその北岸の狗邪韓国に到ること七千余里。はじめて一海をわたり千余里で対馬国に至る」

魏書東夷伝韓条
「韓は帯方郡の南にあり、東西は海を限界とし、南は倭と接し、四方は四千里ばかり。韓には三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓。辰韓とは昔の辰国のことで馬韓は西にある」

『後漢書』東夷伝倭人条
「倭は韓の東南、大海中の山島によっており、およそ百余国ある。武帝が衛氏朝鮮を滅ぼしてから、三十余国が漢に使訳を通じてきた。国では皆が王を称することが代々の伝統である。そこの大倭王は、邪馬臺国に居する。楽浪郡の境界から、その国までは一万二千里、その西北界の拘邪韓国から七千余里。その地はだいたい会稽郡東冶の東にあり、朱崖や儋耳と相似しており、その法俗も多くが同じである」。

 いずれも狗邪韓国を倭国の西北界と記述している。そして、狗邪韓国は韓と陸続きであり、対馬とは海を隔てていることになる。これは、狗邪韓国が朝鮮半島南端部にあったことを意味し、同時に狗邪韓国は倭の支配領域であったことになる。実際に朝鮮半島南端部では倭系遺物(銅矛・弥生式土器)などが多量に出土している。このことも倭の支配地だったことを裏付けている。歴史時代に入っても朝鮮半島南端部は加羅国、伽耶国などと呼ばれ、任那日本府があったと日本書紀にも記述されている。

 この狗邪韓国の存在は三世紀のことである。一般にはこれより後の時代になって、朝鮮半島南端部が倭国に所属するようになったと言われているが、中国正史の記録は三世紀時点で朝鮮半島南端部が倭に所属していたことを示している。中国正史の記録は倭に所属した直後であるような表現が見られないので、三世紀よりはるか前に朝鮮半島南端部は倭に所属していたことになる。

 どういう過程を経ていつごろ朝鮮半島南端部が倭国に所属していたのかは全く不明とされているが、その起源を素盞嗚尊の朝鮮半島訪問に求めることができる。

 朝鮮半島の伝承

 素盞嗚尊は五十猛命と共に朝鮮半島に渡っているが、その地は具体的にどこであろうか。伝承地を探ってみる。

 ① 春川

 大石武氏著「伝説散歩・八幡の島」p191に次のような記述がある。
 峰町の竜造寺辰馬氏の言葉として「私は戦前長く朝鮮にいましたが、北朝鮮江原道の春川郡春川面というところに「ソシモリ」と呼ばれているところがありました。ちょっとした丘が聖地になっていて、土地の人はそこの神様のことを大昔日本から来た神様だと伝わっていると申していました。その丘をソシモリの丘と呼んでいました。」

また、現地では次のような言い伝えもある。
 「素盞嗚尊が五十人の兵士と妹を連れて出雲へ渡ったと云う」

日本側の伝承とつなぎ合わせると、50人の兵士とは五十猛命、妹とは抓津姫,大屋津姫と考えられる。

 ② 高霊

 韓国慶尚北道の高霊にはその昔「ソシモリ山」と呼ばれていた山があったという。現在の加耶山である。加耶山は、古代には「牛頭山」と呼んでいたという。 「牛頭」は韓国語のよみで「ソシモリ」。その山が「牛頭山」と呼ばれたのは、加耶山麓の白雲里という村の方から見た時、山全体が大きな牛が座っているように見えるからだといわれている。
 さらに白雲里には「高天原」という地名がある。高霊は洛東江の上流にあり、伽耶大学校内に高天原故地碑の石碑が建てられている。ここは南朝鮮有数の鉄の産地である。素盞嗚尊は『日本書紀一書(第五)』で「韓郷の島には金銀がある」と言っている。この高霊の地に坐したことを強く示している。

 須佐神社のある佐田町内から出土した剣と同じ剣が加耶大学の歴史資料館に展示してあり、また、同じく佐田町内から出土した麻布模様の土器と同じ大きさ、模様、形をしたものがやはり歴史資料館にあるそうである。そして、このタイプの土器は高霊邑以外では全く造られていない。

 素盞嗚尊と高霊邑が深い関係があることは間違いないであろう。

 この地はAD42年頃に始祖王(伊珍阿鼓)が出て半路国を建てた地である。これは大伽耶の前身とされている。初代王は伽倻山の神が生んだ2人の子供のうちの1人であるといわれている。伽耶は倭国に所属していたと思われている狗耶韓国とおもわれ、素盞嗚尊が建国した国と思われる。伊珍阿鼓が素盞嗚尊の子とすれば、年代的にも整合性はある。

 ③ 済州島

 泉州の日根郡に遠祖を持つという日根輝己氏は、『倭国・闇からの光』の中で、済州島の東の洞窟のある小島にある山が「ソシモリ」と呼ばれていることを紹介しておられる。氏は先ず祇園祭りの山鉾巡行のルーツを南インド・タミール地方のクマーリー信仰に置く。少女を祭主とする民俗行事だそうだ。このクマーリーを祀った有名な寺がインド最南端のコモリン岬にあり、ここの牛頭山のルーツであるマラヤ山があるとのこと。 『大唐西域記』にマラヤ山について「高い崖に嶮しい峰、洞穴の様な谷に深い谷川がある。」などと記されている。このような景色は日本では熊野地方(花窟神社)や南朝鮮の海岸、済州島の東の小島などがよく似ていると指摘される。 逆に言えば、山中の春川や高霊はこの景色に当たらないとされておられる。<神奈備HPより>

 ④ 太白山

 桓雄降臨の地が素盞嗚尊五十猛命降臨の地であるソシモリであると考える。 五十猛命の本宮は伊太祁曽神社であるが、「太祁」は半島の開闢神の檀君(ダンクン)ではあるまいか、檀君に偉大さや威力の「イ」を付けて「伊太祁」が出来 る。 この名前の神社は伊太祁曽神社を勧請した愛媛県の伊太祁神社の名前として残っている。出雲にいくつか鎮座する韓國伊太氏神社の「イタテ」にも通じる。 伊太祁曽の「ソ」は祭壇のような意味があると云われる。伊太祁曽神社の伊太祁曽をして「威力ある檀君を祭る祭壇」と考えることができないだろうか。 紀氏が渡来人を束ねるに檀君を祭ることは必須ではなかったかと考えているのだが、世俗的に過ぎるだろうか。
 桓雄降臨の神話は十四世紀初頭に高麗の一然と言う坊主が編集した三國遺事の古朝鮮條に記載されているが、モンゴルに支配されていた半島民族を鼓舞する目的で構想されたとの見方もあるが、福岡県添田町の英彦山にもよく似た伝承が伝わり、単なる創作だとは思われない。
 この檀君神話によると、桓因の子神の檀君の父親神桓雄が、三危太白すなわち太白山の頂きに祀っていた神檀樹という神木の下に天降ったとある。太白山のある場所がソシモリと言える。
 桓因・桓雄・檀君神話は神話である。伊弉諾尊、素盞嗚尊、五十猛命に対応しているように見える。
<神奈備HPより>

 素盞嗚尊は牛頭天王とも呼ばれている。朝鮮半島の素盞嗚尊伝承を持つ地には牛頭山と呼ばれている山があるのが共通点である。牛頭という地名は、江原道春川の牛頭山ほか、慶尚北道の慶州・金泉、慶尚南道の陜川・居昌、江原道の原州、咸鏡南道の甲山、全羅南道の光州にもある。また、『三国史記』には新羅の牛頭州(ソウル付近)、楽浪牛頭山城(平壌付近)の記事があり、素盞嗚尊はこれらの地を訪れているかもしれない。

伽耶諸国建国神話

①『新増東国輿地勝覧』
 高霊郡の背後にある伽倻山の神である正見母主と天神『夷毗訶之』とから生まれた兄『伊珍阿豉王』が大伽耶の始祖で弟『惱窒靑裔』(首露王)が金官伽耶の始祖である。

②『三国遺事』

 北から次第次第に大きな国が広がってくる一方で、朝鮮半島南部は統一されない無数の部族がひしめき合っていた。天地開闢以来、この地には未だ国というものがなく、ただ我刀干、汝刀干、彼刀干、五刀干、留水干、留天干、神天干、五天干、神鬼干という九人の干が連合し、民を治めていたといわれている。
 AD42年3月、人里の北に亀山という山があるが、その頭に当たる亀旨峰から不思議な声が聞こえてきた。その声につられて2、300人が集まったところ、そこには誰の姿もなく、ただ声だけが聞こえてきた。
「ここに人はいるか?」
九干が答えて。
「わたくしたちが ここにおります」
「ここはどこだ」
「亀旨です」
「天帝が私に命じた。この地に留まって新たに国を興しその王となれと。汝らは 峰の頂の土を掘り、『亀よ亀よ 頭を出せ 出さないと 灼いて食べるぞ』と歌い踊れ、そうすれば、すぐに大王を迎え、汝らは 歓喜勇躍するであろう」
 九干たちは言われたとおりにみんなで楽しく歌い踊りました。しばらくすると、天から紫色の紐が降りてきて、紐の先には紅い布で包んだ金の合子があった。開けてみると、中には太陽のように丸い黄金の卵が六個入っていた。人々はそれを見て驚き、喜んで百拝した。
 半日が過ぎた翌日の夜明け、人々が集まって合子の蓋を開けてみると、六個のうちの一つが孵って綺麗な男の子になっていました。人々はこの子を床に座らせて礼拝した。男の子は日に日に大きくなり、十日あまり経ちますと背丈は九尺にもなり、大変立派な青年になった。
 彼は、六個の金の卵から最初に首を出したというので「金首露」と名乗り、その月の十五日には もう王として即位していた。彼の国を大駕洛または金官伽耶と称します。残りの五つの卵からも次々男の子が孵り、それぞれ別の五つの伽耶の王になりました。

 朝鮮半島南端部の弥生土器出土状況から判断すると、この地域と北九州地方との交流は、弥生前期末頃から始まり、中期ごろ最盛期を迎え、後期になると縮小化したようである。中期においては北九州の糸島半島部から出土する土器と同じ形式であり、糸島半島を中心としていた勢力との交流が激しかったようである。

 この地は素盞嗚尊が訪問してきたBC10年頃は、統一政権は存在せず、小集落がばらばらと存在した状態で、当時の日本列島とよく似た状況だったと思われる。このような状態ながら倭系遺物および楽浪系遺物、中国系遺物は数多く出土しており、先進技術は入り込んでいるという状況である。考古学的状況から判断すると、この地域は紀元前1世紀ごろより統合が始まり、1世紀中ごろに国ができ始めたと解釈される。建国神話における建国時期とまさに一致しているといえよう。中国の記録にもこの地に住む人々は北部の馬韓とは全く異なり、辰韓や倭人とよく似た習慣であったようである。辰韓は秦からの流入者が占めていた地域と思われる。この地域にもBC200年頃秦からの人々が数多く流れてきたのであろう。また、倭人の習俗をそのまま持っていたようであり、秦の人々が居ついて後、倭から倭人が多量に流れ込んでいることを意味している。倭人が多量に流れ込んできたのは土器の搬入から考えて弥生時代中期ごろ(BC1世紀頃)と思われる。
 伽耶の建国伝承を紐解くと、双方の伝承とも外部からやってきた人物の子が、この地の王となったことを示しているようである。その時期はAD42年である。時期から考えるとこの王たちは倭からやってきた王と考えられる。
 この地域の状況を分析すると、BC10年頃素盞嗚尊がこの地を訪問したのをきっかけとして多くの倭人がやってきて、国を作ったと考えれば多くの事象を矛盾なく説明できるのである。

 朝鮮半島での行動足跡を推定

 高霊邑に到着

 朝鮮半島での伝承はかなり失われていると思われる。ごく僅かに残っている伝承をつないでみよう。
素盞嗚尊は五十猛命と共にBC10年頃初めて朝鮮半島に渡ったと思われる。対馬の最北端の島大国魂神社の地が出港地であろう。そこから北西に航路をとり現在の韓国釜山港近くに上陸したと思われる。現在の実験によれば距離は52kmほどで、艪のある船で8時間程度だそうである。

 そこから直線で75km程北に高霊邑がある。釜山から洛東江に沿って遡れば高霊邑に着く。この地は鉄の産地である。素盞嗚尊はこの地の製鉄技術の習得。鉄鉱石の採取を目的としてこの地を狙ってやってきたものと考える。この地はこの当時まだ、統一政権は存在していなかったようで、この地をまとめることによって、鉄資源の安定確保を狙ったものであろう。この地に暫らく滞在し、この地の娘を妻とし子を作り、この子が後に大伽耶の始祖王伊珍阿鼓となったと思われる。

 日本列島統一を夢見ていた素盞嗚尊は将来にわたって朝鮮半島からの安定した技術導入を図る必要がある。そのためには毎回対馬海峡を渡って技術習得するのは極めて効率が悪い。朝鮮半島内に拠点を作っておき、役人を滞在させておき、常時先端技術集めをしておけば、日本列島内に効率よく技術を持ち込めるはずである。そのためには、何としてもこの高霊の地に拠点を作ろうとしたのであろう。

 素盞嗚尊は外部からの侵入者にすぎないために、拠点となる国を作るにはやはり土地の人の血が入った人物を王とする必要がある。そのために素盞嗚尊は土地の女性を妻とし、この地で子をもうけたと思われる。この地には数年は滞在していたことであろう。

 古事記神話と合わせると素盞嗚尊が高天原を訪れ、天安川の誓約で天照大神との間に5男三女をもうけて信頼を得て、滞在したが、乱暴したために高天原を追放された部分とよく似ている。或いはここがその高天原かもしれない。実際に高天原伝承地ではある。

 朝鮮半島南端部は紀元前はまだ遺跡がばらばらの状態で、統一政権はできていなかったようである。遺跡の状態を見る限りにおいて、紀元前後より、小国が乱立し、連合国ができてきたと思われる。その最初の国が伽耶国と言われている。素盞嗚尊はこの後、たびたびここを訪れ、国の経営をしたと思われる。

 太白山

 洛東江をさらに遡って行くと、その水源地として聖地太伯山(1567m)がある。直線160kmである。この山も牛頭山と呼ばれている。その山頂には天皇檀があると言われ、伝承はないが牛頭天王と呼ばれている素盞嗚尊が訪問したのであろう。

 ソウル市

 太白山から南漢江を下ると直線180kmで現ソウル市に着く、韓国の首都は「ソウル」という名前だが、中世・古代の韓国語(朝鮮語)をいくら調べても、ソウルの意味は不明らしい。この「ソウル」は、古代日本語で解釈するとソ・ウラ(曾浦)の意味でとなる。ソ(曾)は、熊曾・クマソのソであり、「遠くの」あるいは「遠い土地」という意味の言葉である。ウラ(浦)は「海辺」の意味である。つまり、ソ・ウラとは「遠方の海辺」という意味であり、半島南部に住んでいた倭人たちが、京畿湾の沿岸地方をソ・ウラと呼んでいたと思われる。

 また、『三国史記』には新羅の牛頭州が記録されており、これが、現在のソウル市付近といわれている素盞嗚尊が訪れていると思われる。

 春川市

 ソウル市から北漢江を遡ると直線80kmで春川市である。この地にも暫らく滞在したようである。

 春川近辺は西暦紀元前後は貊国と呼ばれていた。春川の清平山南方に牛頭大村があり、これが貊国の昔の都邑地である。貊国の中心地であるので、この周辺に先進技術があったのであろう。

 白頭山

 素盞嗚尊の先祖の旧地(布流国)はこの時、高句麗の本拠地になっていた。BC37年、始祖朱蒙が布流国を滅ぼして建てた国が高句麗である。先進技術を学ぼうとすれば、強大な国の都に行くのが最も確実である。この時の高句麗の都は現在の遼寧省本渓市桓仁満族自治県(吉林省との省境近くの鴨緑江の少し北)であり、都城の卒本城は五女山山城に比定されている。素盞嗚尊はこの地にやってきてさまざまな技術を学んだと思われる。高句麗を形成した濊貊系民族は、中朝国境をはさむ山岳地帯で農耕を主とし、その他に狩猟・牧畜を生業としていた民族と言われているので、素盞嗚尊は国の経営の在り方以外にこの農耕・牧畜・狩猟などを学んだことであろう。その近くに白頭山がある。

 素盞嗚尊はソウル市から海岸線を北に進み、楽浪郡の郡役所のあった現在の平壌の地に赴いたと思われる。出雲から出土した遺物の中に楽浪郡のものと思われるものがあったり、交流の玄関口と思われる壱岐の原の辻遺跡では出雲系土器とともに楽浪郡の文物が出土している。素盞嗚尊の新技術を手に入れた目的地は楽浪郡であったと思われる。『三国史記』には楽浪牛頭山城の記事があり、この地は現在の平壌付近と推定されている。素盞嗚尊がこの地を訪れていると思われる。
 素盞嗚尊はさらに北に進んで、現在の中国と北朝鮮との国境線である鴨緑江を遡り、白頭山にまでたどり着いたのではあるまいか。この川沿いに素盞嗚尊の父であるフツの故郷であると思われる布流国があったと思われ、素盞嗚尊はその地を訪れていると思われる。白頭山も牛頭山である。

 ソウル市以南はまだ部族連合と云う感じで統一国家はなく、未統一地域であった。そのため、先進技術を手に入れようとすると、漢の出張所のあった楽浪郡の郡役所周辺(平壌)まで来ないと難しいであろう。このあたりまでくると中国の漢の領域に入り、漢帝国の技術を入手できたと思われる。
 しかし、最新の先進技術となれば、やはり当時の漢帝国の都まで行く必要がある。この当時の漢の皇帝は哀王で都は長安であった。長安まで赴いたと思われる。五十猛命が持ち帰ったと思われる桃・杏は中国奥地原産のものである。長安まで来ないと手に入らないのがあるので、この地まで来たのは間違いないと思われる。しかし、日本列島に木種を配って回ったのは素盞嗚尊ではなく、五十猛命である。このことから、素盞嗚尊はおそらく長安までは行っていないのではないかと思われる。素盞嗚尊のこの時の渡航は新技術導入よりもむしろ朝鮮半島での拠点づくりが目的だったのではないだろうか。五十猛命が2回目以降の渡航の時に長安までいったのではあるまいか。

 素盞嗚尊は楽浪郡で数年を経て、新技術をいろいろと学び、再び日本列島に帰ることとなった。帰る途中で再び高霊に立ち寄っていると思われる。高霊より楽浪郡の文物が出土しており、朝鮮半島南端部に新技術を集めるための拠点づくりも目的と思われ、その中心地と思われる高霊に楽浪郡の技術を持ち込んでいるのではあるまいか。この時のものと思われる古事記伝承がある。

素盞嗚尊の暴挙(古事記)

素盞嗚尊は天照大神との誓約に勝った勢いのまま天照大神の耕す田の畔を壊し、その溝を埋め、また、新穀を召し上がる御殿に屎を撒き散らした。
 このようなことをしても天照大神が咎めずに言うには、「屎のようなものは酒に酔って吐き散らしのでしょう。また、田の畔を壊し溝を埋めたのは土地をもったいないと思ってそうしたのでしょう」と、良いように言い直したものの、なおその乱暴な仕業は止まなかった。
 天照大神が神聖な機織場で神様の衣を織らしていた時、その機屋の屋根に穴を開け、天の斑馬の皮を逆さに剥ぎ取って落とし入れたので、天の機織女が見て驚き、梭で陰部を刺して死んでしまいました。

 素盞嗚尊は高天原で上のような暴挙を行っている。これは楽浪郡で入手した技術を使って稲作の実験をしたものではあるまいか。具体的にはどのような実験を行ったのかは分からないが、暴挙の前半は水田開発を後半は工具の開発と考えることもできる。この実験は数多くの失敗を引き起こしたのではあるまいか。
 しかし、それなりのめどが立ったので、帰国することになった。

 素盞嗚尊は対馬の那古師神社の伝承にある通り、この後もたびたび朝鮮半島にわたっていると思われる。この後の素盞嗚尊の行動から推察すると、最初はBC10年頃、次が九州統一に向かう直前のAD3年頃、次が紀伊半島統一に向かう直前のAD10年頃、最後が出雲帰還直前のAD20年頃が考えられる。ほかにも行っているかもしれないが、ほぼ10年おきに朝鮮半島にわたっているようである。

 

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