好太王碑文
好太王碑文は好太王の業績を称えるために息子の長寿王が414年に建てたものであり、建てられた時期が好太王の死の直後であることから信憑性の高い一級資料である。この碑文と他の資料を照合しながら、390年~410年頃までの古代史を復元してみよう。
好太王碑文1
「新羅・百残は(高句麗の)属民であり朝貢していた。しかるに倭が辛卯年(391年)に[海]を渡って来て百残・■■(加羅)・新羅を破り、臣民となしてしまった。」
三国史記、日本書紀、中国史書等には、この碑文を裏付ける記録は一切存在しない。大きな戦いであったのであるなら、何らかの記録が残ると思われる。そのため、この時の倭の侵攻は小規模なものであったと思われる。
この時期、百済・加羅と倭は友好関係にあり、新羅と断続的に戦っているという状況である。高句麗は新羅を属国扱いにしているようであるが、百済とは戦いが継続されていた。
このような時に倭国が大陸に侵攻する理由とすれば、新羅を破ることと百済の支援が目的となろう。これらを総合しながら、391年の出来事を類推してみよう。
389年 高句麗の南の辺境を侵略した。(百済本紀)
9月に百済が来侵して、南辺の辺鄙な部落を掠奪して帰った。(高句麗本紀)
神功皇后没(日本書紀)
390年 高句麗を征伐。都押城を占領(百済本紀)
9月に百済が都押城を攻め破った。(高句麗本紀)
390年9月、百済が高句麗の都押城を占拠した。高句麗は新羅に使者を送り協力を仰いだのである。新羅は高句麗の要請を受け、早速出陣した。百済軍主力は都押城に赴いていたため、百済の首都漢城は手薄であった。新羅軍は漢城を占領することに成功したのである。漢城が落ちたとの情報を得た百済は、動揺し、高句麗の攻撃を受けて総崩れとなって敗退した。漢城を失った百済は戻る地を失い倭国に救援要請をした。
百済からの救援要請を受けた応神天皇は倭国軍を急遽朝鮮半島に送ることにした。加羅に上陸した倭国軍は、軍を二手に分け、一隊は洛東江を遡り、卓淳国から新羅の首都金城を襲撃しこれを落とした。本隊は半島西海岸を北上し、百済軍と合流し新羅軍が占拠している漢城を奪い返した。そして、高句麗軍を北に追いやったのである。
このような出来事であるなら、他の資料と矛盾せず、好太王碑文の391年の出来事が説明できる。
好太王即位
392年
紀角宿禰辰斯王を攻め、殺害、阿花を立てて王となす。(日本書紀 応神3)
7月高句麗兵4万を率いて北辺を攻めた。漢水以北の諸部落はほとんど落ちた。10月関弥城を落とされた。第17代百済王阿花即位(百済本紀)
高句麗に使者を派遣。実聖を人質として送った。(新羅本紀)
新羅に使者を派遣し、修好した。新羅王が実聖を派遣して人質とした。第19代高句麗王広開土即位、好太王は百済の石硯城を含めた10城を奪取し、関彌城を陥落させた。(高句麗本紀)
このような時に高句麗で好太王が即位した。好太王は戦略に優れた人物であった。即位した直後の好太王は、まず、後燕と戦って遼東を奪取し、百済に対しては礼成江を境に百済に対しては攻勢を取った。続く392年、石硯城(黄海北道開豊郡北面青石洞)を含めた10城を奪取し、関彌城を陥落させた。漢水以北の諸部落をたちまちにしてほとんど落としたのである。好太王は圧倒的強さで領地を拡大したのである。
その強さに恐れ入った百済の辰斯王はとても対抗できないと高句麗に服属し、新羅は王子実聖を人質として送った。好太王はたちまちにして朝鮮半島の覇者となったのである。392年のことである。
この情報を得て怒った応神天皇は紀角宿禰・羽田矢代宿禰・木菟宿禰を派遣して百済を責めた。百済国内では高句麗に従うより倭に従おうという意見が主力であったが、辰斯王は高句麗に従ったのである。百済国の重臣たちは倭に従うことを望んでおり、その重臣たちが辰斯王を殺害して、倭に対して陳謝した。紀角宿禰らは阿花を王として帰ってきた。
好太王は折角服従させた百済が、また倭についたので、394年、倭に書簡を送った。その上表文に「高麗の王、日本国に教う」とあったため、応神天皇皇子の菟道稚郎子は怒って、高句麗の使いを責め、書簡を破ってしまった。おそらく、「倭国は百済に手を出すな、高句麗の意向に従え」というようなことが書いてあったのであろう。
393年
菟道稚郎子を皇太子にする。(日本書紀・応神40)
8月関弥城奪回を図ったが勝てずに帰る(百済本紀)
倭人が来て金城を包囲したが、打ち破った。(新羅本紀)
秋8月、百済が南辺を侵したのでこれを防いだ。(高句麗本紀)
393年、倭についた百済は奪われた開弥城を奪回しようと高句麗に対して攻勢をかけた。新羅が百済の背後を狙っているのを知った応神天皇は倭国軍を新羅に向けて金城を包囲し新羅の動きをけん制した。倭国軍は百済を背後から援護したのである。倭国軍に金城を包囲された新羅軍は動きが取れなかったが、高句麗軍は強く、百済は奪われた土地を奪回することができなかった。
394年
高麗王朝貢。菟道稚郎子は無礼な表書きを怒った。(日本書紀・応神28) 応神天皇崩御(日本書紀・応神41)
高句麗と水谷城と戦って敗れた。(百済本紀)
秋7月に百済が攻めてきたので、逆襲しこれを破った。(高句麗本紀)
後燕、西燕を滅ぼし、東晋と戦って山東半島を奪回し、西は山西から東は山東・遼東に至る広大な勢力圏を築き上げる。(中国)
394年、百済は水谷城の奪回を諮って攻勢に出たが、奪回に失敗している。翌395年百済は、高句麗に攻勢をかけ大同江(平壌市内を流れる川)の上流まで攻め登って戦ったが、好太王の戦略の前に敗退した。好太王は百済軍を礼成江まで後退させ、百済との接境に7城を築いて防備を強化した。
倭国が百済に着いたのを知り、好太王は倭国に対して百済から手を引くように手紙を送った。しかし、皇太子菟道稚郎子は無礼であると怒り、これを無視した。その直後、応神天皇崩御。
仁徳天皇即位
395年
8月王は高句麗を征伐しようとしたが破れた。(百済本紀)
好太王は礼成江まで反撃する百済軍を撃破して、百済との接境に7城を築いて防備を強化した。(高句麗本紀)
皇太子菟道稚郎子は即位せず兄大鷦鷯尊に皇位を譲ろうとした。(日本書紀)
後燕は北魏を攻撃したが、参合陂の戦いで大敗(中国)
このような時に応神天皇が崩御した。394年のことである。大陸が大変な時であるので、次の天皇がすぐにも即位して倭国軍を動かさなければならないのであるが、ここで、難しい問題が起こった。
応神天皇は末子である菟道稚郎子を皇太子として決定して亡くなったのである。ところが菟道稚郎子は382年(応神16年)百済から来朝した王仁によって、「先王を継ぐものは長子である。」という教育を受けたために、自分は天皇になるべきではない。兄である大鷦鷯尊が天皇を継ぐべきだとして、天皇即位を拒んだ。
倭国内ではこのような状態にあった時、大陸では好太王の侵攻がますます激しさを増していたのである。
396年
後燕王広開土王を遼東、帯方二国王に封じる。北魏は後燕王が死んだのを好機とし山西省全土を制圧した。(中国)
好太王は漢江を越えて侵攻して百済の58城700村を陥落させ、百済王に多数の生口や織物を献上させ、永く隷属することを誓わせた。(高句麗本紀)
菟道稚郎子自害(日本書紀)
好太王の活躍を見た後燕王は好太王を遼東、帯方二国王に封じた。しかし、新しく起こった北魏が後燕王が死んだのを好機とし山西省全土を制圧したのである。
背後の安全を確保した好太王は、396年、百済に一挙に攻勢をかけ漢江を越えて侵攻し、百済の58城700村を陥落させ、百済王に多数の生口や織物を献上させ、永く隷属することを誓わせた。
この時、倭国は応神天皇崩御の後、次の天皇が即位できない状態が続いていた。百済に救援を送らなければならないはずであったが、それができない状態が続き、百済は高句麗に隷属しなければならない羽目に陥ってしまった。
この状態を知った菟道稚郎子はいつまでも皇位を空けておくことは許されないと、大鷦鷯尊に皇位を譲るために、自らは自害して果てた。これを知った大鷦鷯尊はやむなく、翌397年、第16代仁徳天皇として即位したのである。
397年
仁徳天皇即位(日本書紀・仁徳1) 百済人来朝。皇子直支を遣わす。(日本書紀・応神8)
倭国と友好関係を結び王子腆支を人質とした。(百済本紀)
大鷦鷯尊は百済からの要請もあり、天皇位を空位にすることはもう許されないと悟り、第16代仁徳天皇として即位した。日本書紀の即位年の干支は半年1年暦の397年前半癸酉である。
高句麗に散々な目にあわされた百済の阿華王は、仁徳天皇が即位したことを知り、すぐに、王子腆支を人質として倭に送り、倭に支援を要請したのである。
398年
民が苦しんでいるので課役を免除した。(日本書紀・仁徳4)
内紛と北魏の圧力により、後燕は遼東と遼西を支配するだけの小国に没落(中国)
397年百済からの要請を受けた仁徳天皇は、398年、早速倭国軍を大陸に派遣し、百済を救援した。仁徳天皇はこの時課役を免除しているが、これは、大和国内の人々は兵役に駆りだされて、農作業の人材もなく、貧しい状態にあったのであろう。仁徳天皇はその様子を見て課役を免除したのである。
高句麗を背後から牽制していた後燕が内紛と北魏の攻撃により、弱体化し、高句麗は新羅・百済などの朝鮮半島制圧に全力を注げるようになったのである。
好太王碑文2
百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は399年百済を討つため平譲に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
399年
高句麗を征伐しようとして兵馬を大いに徴発したので、民はこれを嫌がり新羅に逃げた。(百済本紀)
倭国軍の救援を受けた百済は、勢いづき、高句麗を征伐しようとして兵馬を大いに徴発した。民はこれを嫌がり新羅に逃げた。新羅は百済を弱体化させるために、百済の人々を背後から、百済から逃げる様にけしかけていたのである。そして、百済を攻撃してきた。百済は高句麗と戦わなければならない上に新羅に対しても防衛しなければならない状況になった。
即位した仁徳天皇は、高句麗に同調して百済を攻めている新羅を抑えるために、新羅の金城を包囲した。倭の支援を受けた百済は高句麗に隷属するといった誓いを反故にして高句麗に対して攻勢に出た。
好太王は裏切った百済を攻撃するために出陣したのであるが、平壌まで出向いた時に新羅からの使者に出くわした。新羅の使者は「倭国軍が新羅の金城を包囲しているので困っている。高句麗王の支援で助けてほしい」と要請した。
好太王は百済征伐の前に新羅を救援することにした。倭国軍と高句麗軍の最初の衝突が起こるのである。
好太王碑文3
高句麗、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
400年
2月、王は燕に朝貢した。燕王は礼が高慢であるとして、兵3万を率いて襲ってきた。新城、南蘇城を落とされた。(高句麗本紀)
燕王盛は兵三万を率いて高句麗の背後を突いた。(中国)
好太王は391年の倭国軍の戦いぶりから、倭国軍は百済や新羅よりもはるかに強いと感じ、400年、5万の大軍を派遣することにした。弱体化したとはいえ、後燕に背後を突かれることも考えられ、百済総攻撃の前に後燕に朝貢した。好太王は背後の安全を確保して百済・倭国連合軍に対して5万の大軍を送ったのである。好太王の5万の大軍は、倭国軍が包囲している新羅に向けられたのである。
好太王の5万の大軍が金城を包囲している倭国軍を襲ってくるという情報が倭国軍にもたらされた。好太王の戦いぶりは倭国軍もよく知っていたであろうし、さらに5万の大軍が襲ってくるとあって、まともに戦っては勝てないと倭国軍は感じた。
そこで、伽耶諸国に応援要請をし安羅国軍を近くに配備させていた。そこへ、好太王の5万の大軍が押し寄せた。倭国軍はかねてからの作戦通り金城から手を引き、伽耶諸国方面に退散した。この隙をついて安羅国軍が金城を占領したのである。
好太王としては作戦の失敗であった。そのまま倭国軍を追い詰めて滅ぼしてしまおうと思った矢先、本国からとんでもない情報が寄せられた。
高句麗と燕との戦い
好太王が5万もの大軍を朝鮮半島南端部に集結させていることを知った後燕の盛は、朝貢の態度が無礼であることを口実として、高句麗の背後を突いて遼東を占領してしまったのである。
後燕は内紛と北魏との戦いで疲弊して、398年に小国に転落しており、好太王としては全くの無警戒であった。後燕も勢力の回復を図るためにこのチャンスを逃さなかったのである。後燕は兵3万を率いて、高句麗の新城、南蘇城を落としたのである。
好太王は倭国軍との戦いの最中であったが、戦いを中断して帰らざるを得なかった。高句麗軍はたちまち退却していった。後燕が遼東を襲撃するタイミングはあまりにも絶妙であり、あるいはこれは仁徳天皇の作戦であったのかもしれない。
401年
課役を命じる(日本書紀・仁徳10)
慕容盛が禁軍の反乱により殺害された。高句麗・燕の戦いで燕は国力消耗(中国)
高句麗に人質として行っていた実聖が返ってきた。(新羅本紀)
高句麗は燕との一進一退の戦いが継続され、高句麗は国力を消耗した。新羅の支援ができず、401年、人質実聖を新羅に返したのである。
高句麗が燕との戦いに明け暮れるようになり、朝鮮半島に出向いていた倭国軍は引き揚げることとなった。仁徳天皇はその様子みて再び課役を課したのである。
一時的平和
402年
新羅人朝貢する。難波堀江、茨田堤築造(日本書紀・仁徳11)。山城に大溝掘る。高麗国鉄の盾、鉄の的を奉る(日本書紀・仁徳12)
王は兵を派遣して燕の宿軍城を攻めた(高句麗本紀)
五月、使臣を倭国に遣り、大珠を求めた。(百済本紀)
国と国交を結び、奈勿王の王子・未斯欣を人質とした。(新羅本紀)
高句麗の支援をなくした新羅は、高句麗にひと泡吹かせた倭国に恐れをなし、新羅本紀に、402年、倭国と国交を結び、奈勿王の王子・未斯欣を人質として送ってきた。百済本紀に百済も同じ年、使臣を倭国に遣り、大珠を求めたとある。
この時の様子を日本書紀で追ってみよう。
仁徳天皇4年(398年)、仁徳天皇が高殿から遥かに眺めると炊煙が上がっていないことから人々が貧しいと感じて課税をやめたと記録されている。この年は新羅遠征の399年の前年である。大陸に大軍を送り込むために、都周辺の数多くの人々を徴兵していたはずである。そのために人々は苦しんでいたのであろう。そのために課税免除をしたと思われる。日本書紀の記録から戦いの記録が抜けたために、仁徳天皇は徳の高い天皇になったといえる。
仁徳天皇が課役を次の命じたのは仁徳10年(401年)で、戦いが終わり、大陸に派遣されていた人々が返ってきた時である。大陸情勢と日本書紀の記述ががぴったりと一致しているといえる。
仁徳天皇の時代の記事は半年1年暦に戻っているようである。半年1年暦で読み取ると、外国記事とよく一致するのである。
仁徳11年(402年)新羅からの朝貢があったと記録されている。これは、新羅本紀の「402年、倭国と国交を結び、奈勿王の王子・未斯欣を人質として送ってきた。」という記事に対応する。
仁徳12年(402年)高麗国が鉄の盾・鉄の的を奉った。
高句麗は燕との戦いで国力を消耗している時であり、倭国に背後を突かれるのを恐れたのであろう。倭国と和平交渉をしたのである。これで、暫らくは平和が訪れたのである。
仁徳13年、14年(403年)にかけて土木工事の記事が多くなる。難波堀江、茨田堤築造(仁徳11)、山城に大溝掘る(仁徳12))。和爾池、横野堤を築く(仁徳13)小橋、大道を作る。石河の水を引く(仁徳14)などである。
高麗・新羅・百済からやってきた人々を使って土木工事をしたのである。
好太王碑文4
404年、高句麗領帯方界まで攻め込んだ倭軍を高句麗軍が撃退した。
しかし、この平和は長くは続かなかった。404年には次の戦いが始まっている。高句麗領帯方界とはどこであろうか。定説ではソウル近辺と解釈されているが、ソウル近辺は百済領であり、高句麗領ではない。帯方郡があったところと思われる。古代史の復元では帯方郡は現北朝鮮の北側の遼東半島近くと推定している。倭国軍はそこまで攻め込んだことを意味している。
ここでいう帯方界はほとんど高句麗の本拠地近くである。倭軍は戦って高句麗を追い詰めたのではなく、高句麗の隙をついて攻め込んだと思われる。この時、高句麗は後燕との戦いで疲弊しており、倭軍はその隙を突いたのではないだろうか。
倭国軍は折角の平和を壊してまで、なぜ、帯方界まで攻め込んだのであろうか。次の405年(仁徳17年)新羅が朝貢しなかったと記録されている。新羅も真底倭に朝貢しているわけではなく、倭国軍の強さに恐れをなしているだけである。高句麗と新羅が裏でつながっており、高句麗が後燕との戦いを終了した後、再び倭を攻撃すると言った情報を手に入れたものではないかと推定する。
高句麗としては、400年の戦いで倭国軍に一杯喰わされたという形で戦いが終了している。好太王としては面白くなかったと思われる。倭国を何とかしたいと思っていても目の前の敵である後燕がいる限り、倭国に手を出せない状況にある。
そういった画策を知った仁徳天皇は、好太王とまともにやり合ったのでは、倭国軍の被害は甚大なものになると予想され、かつ、倭国自体が好太王の侵攻を受ける可能性もあったのである。そういったことを避けるには、好太王が後燕の攻勢のために動けなくなっているこの瞬間こそチャンスだと捉えて、高句麗を背後から襲撃することを考えたのであろう。
404年、仁徳天皇は倭国軍に高句麗征伐を命じた。倭国軍は朝鮮半島に上陸し、百済領を通過し、北上した。帯方界近くまでやってきた時、好太王も倭国軍が背後から迫っていることに気づいたのである。
体勢を立て直した高句麗軍はたちまち倭国軍を打ち破った。好太王のあまりの強さに倭国軍は退却したが、高句麗軍は倭国軍を深追いしなかった。後燕が背後を狙っているからである。
その様子を見ていた新羅は高句麗健在と思い倭国への朝貢をしなかったのであろうが、勢力が衰えていない倭国は405年(仁徳17年)新羅を責めたのである。新羅本紀では「倭兵が明活城を攻めたが、これを打ち破った。」とあるが、日本書紀では新羅は謝罪し貢物を送ったとある。好太王と勝負できる当時の倭の国力から判断すると、日本書紀の記事の方が正しいといえる。
このように考えると、日本書紀、中国史書、好太王碑文、高句麗本紀、百済本紀、新羅本紀の記述がほぼ完全に一致することになる。
好太王時代の年表
西暦 | 日本書紀 | 中国史 | 好太王碑文 | 高句麗本紀 | 百済本紀 | 新羅本紀 |
391 | 19代好太王は後燕と戦って遼東に勢力を伸ばし、南に百済を討って一時は首都漢城(現ソウル特別市)のすぐ傍まで迫り、百済王を臣従させた。 そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった | |||||
392 | 後燕、?魏滅ぼす。 好太王は百済の石硯城を含めた10城を奪取し、関彌城を陥落させた。 |
新羅に使者を派遣し、修好した。新羅王が実聖を派遣して人質とした。第19代高句麗王広開土即位(392) | 7月高句麗兵4万を率いて北辺を攻めた。漢水以北の諸部落はほとんど落ちた。10月関弥城を落とされた。第17代百済王阿花即位(392) | 高句麗に使者を派遣。実聖を人質として送った。(392) | ||
393 | 高麗倭に書簡を送る (応神28) |
秋8月、百済が南辺を侵したのでこれを防いだ | 8月関弥城奪回を図ったが勝てずに帰る | 倭人が来て金城を包囲したが、打ち破った。 | ||
394 | 応神天皇崩御 | 後燕、西燕を滅ぼし、東晋と戦って山東半島を奪回し、西は山西から東は山東・遼東に至る広大な勢力圏を築き上げる。 好太王は水谷城を築いた |
秋7月に百済が攻めてきたので、逆襲しこれを破った。(394) | 高句麗と水谷城と戦って敗れた(394) | ||
395 | 後燕は北魏を攻撃したが、参合陂の戦いで大敗 好太王は礼成江まで反撃する百済軍を撃破して、百済との接境に7城を築いて防備を強化した。 |
王は百済と貝水(大同江)の上流で戦ってこれを破った。(395) | 8月王は高句麗を征伐しようとしたが破れた。(395) | |||
396 | 後燕王広開土王を遼東、帯方二国王に封じる。北魏は後燕王が死んだのを好機とし山西省全土を制圧した。 好太王は漢江を越えて侵攻して百済の58城700村を陥落させ、百済王に多数の生口や織物を献上させ、永く隷属することを誓わせた。 |
396年、好太王は兵を率いて百済の城を占領した。兵は首都に到着し、百済は降伏、高句麗への服従を誓った。好太王は百済王子といくらかの貴族を連れて首都へと引き返した。 |
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397 | 仁徳天皇即位 皇子直支を遣わす。(応神8)) |
倭国と友好関係を結び王子腆支を人質とした(397) | ||||
398 | 課役免除(仁徳4) | 内紛と北魏の圧力により、後燕は遼東と遼西を支配するだけの小国に没落 | ||||
399 | 百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平譲に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。 | 高句麗を征伐しようとして兵馬を大いに徴発したので、民はこれを嫌がり新羅に逃げた(399) | ||||
400 | 燕王盛は兵三万を率いて高句麗の背後を突いた | 高句麗、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。 | 2月、王は燕に朝貢した。燕王は礼が高慢であるとして、兵3万を率いて襲ってきた。新城、南蘇城を落とされた。(400) | |||
401 | 課役を命じる(仁徳10) | 慕容盛が禁軍の反乱により殺害された。高句麗・燕の戦いで燕は国力消耗、新羅の人質実聖を新羅に返す。 | 高句麗に人質として行っていた実聖が返ってきた。(401) | |||
402 | 新羅人朝貢する。難波堀江、茨田堤築造(仁徳11)山城に大溝掘る。高麗国鉄の盾、鉄の的を奉る(仁徳12) | 王は兵を派遣して燕の宿軍城を攻めた(402) | 五月、使臣を倭国に遣り、大珠を求めた。(402) | 倭国と国交を結び、奈勿王の王子・未斯欣を人質とした。(402) | ||
403 | 和爾池、横野堤を築く(仁徳13)小橋、大道を作る。石河の水を引く(仁徳14) 高麗・百済・任那・新羅人来朝、池を作らせる(応神7) |
2月倭国の使いが来たので慰労した。7月新羅の辺境を侵した(403) | 秋7月、百済が辺境を侵した(403) | |||
404 | 高句麗領帯方界まで攻め込んだ倭軍を高句麗軍が撃退した。(碑文) | 11月兵を出して燕を侵した。(404) | ||||
405 | 新羅朝貢せず。新羅を責めた(仁徳17年) | 正月、燕王は遼東城を攻めてきたが、勝てずに帰った(405) | 倭の人質となっていた百済王子の腆支が、倭の護衛により帰国し百済王に即位した(405) | 夏4月、倭兵が明活城を攻めたが、これを打ち破った。(405) | ||
406 | ||||||
407 | 後燕滅亡 | 燕王木底城を襲うも勝てずに帰る。(407) | 百済王子直支を人質とし、倭国と講和(407) | 春三月、倭人が東部を、また六月には南部を侵掠した。(407) |
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