百済登場
百済建国事情
建光元年(121年)秋、第7代高句麗王遂成(次大王)が馬韓と濊貊の数千騎で玄菟郡治を囲んだ。扶余王は子の尉仇台を派遣し、二万余の兵を率いて州郡の軍と合力させ、これを討ち破った。
公孫度が東方地域に進出してきたので、第2代夫餘王尉仇台は、改めて遼東に服属することになった。この時期、高句麗と鮮卑が強盛であった。公孫度は、夫餘が高句麗と鮮卑にはさまれている状況から扶余と同盟を結ぶため夫餘一族の女性と結婚した。扶余は、これらの戦いの最中、故地に残留した旧扶余と公孫氏に帰属した尉仇台系扶余に分岐したのである。
このときの尉仇台系の扶余が馬韓の伯済国を支配し、後に馬韓を統一した。扶余王の尉仇台が馬韓統一の基礎を築き、その子温祚が伯済国を足場にして百済を立てた。と考えられる。古代史の復元では百済建国はAD164年である。
『宋書』『梁書』『南史』などによれば、百済は始めは高句麗と「ともに」遼東の東千里の地にあったという。この地は遼東半島周辺である。百済は当初遼東半島地域にあったと思われるが、『唐会要』百済伝に「仇台は高句麗に国を破られ 、百家で海を済(渡)る。故に百済と号する。」とあるように、国を破られて、南に移動したようである。
百済遷都
百済本紀の記録
百済本紀には遷都の状況が次のように記録されている。
温祚13年
王は臣下に対して「我が国の東には楽浪があり、北には靺鞨があって、国境を侵しているので少しも安らかな日がない。いわんや今は怪しい兆しがしばしばあらわれ、国母が世を去り情勢が安らかではないので、都を移さなければならない。私が先日漢江の南を回ってみたら、土地が肥えていたから、よろしく、そこに都を移して、永久に安全な計を諮るべきである。」
秋7月漢山の下に柵を立てて慰礼城の民を移した。8月に使者を馬韓に使わして、都を移したことを知らせ、遂に境界を定めた。北は臨津江、南は熊川、東は平康に達した。9月に都城と宮殿を立てた。翌14年春正月、都を移した。
温祚13年は古代史の復元ではAD170年に該当する。しかし、その後、楽浪や靺鞨の百済攻撃は継続している。遷都の時期が温祚13年より後ではないかと思われる。
百済は倭国や新羅と同じ半年一年暦で考えると事象の一致が見られる。高句麗は中国暦のようである。半年一年暦は倭国固有の暦なので、百済は建国当初半年一年暦を使っていたとは思われない。中国暦だったと思われる。倭国との交流が活発になってから倭国と同じ半年一年暦に変更したと思われる。温祚13年は中国干支で庚戌である。これがそのまま半年一年干支となったとすれば、AD197年が遷都の年と考えられる。これは高句麗第10代山上王が即位した年である。
百済遷都に至る情勢
公孫度は、186年、董卓が実権を握ったとき、友人であった徐栄の推挙もあって、189年、遼東太守に任じられた。遼東で勢力を拡大し、後漢が放棄した楽浪郡を支配下に置いた。遼東が都から遠く離れた地域であったため、192年、董卓が死んだ後は、公孫氏による独立国のような体制をとり、周辺に勢力を伸ばし、高句麗や烏桓を討伐した。
記録にはないが百済はこの頃、遼東にあり、公孫度の攻撃を頻繁に受けていたと思われる。これが、温祚13年の「楽浪が国境を侵している」という記事につながるのである。
百済が遷都したと思われる197年には高句麗山上王が即位しているが、王位継承をめぐって高句麗で大騒乱が起こっている。
第9代高句麗王故国川王が王子のいないままにて死去した。その王妃の于氏は初め喪を伏せたまま、すぐ下の弟である発岐に王位を継ぐことを勧めた。発岐は王の死を知らなかったために于氏の勧めが不遜であると責めたため、于氏は延優の元へ行き延優に王位に継ぐことを勧めた。延優はこれに応え、翌日早朝に延優は王位に就いた山上王である。発岐は王位に就き損ねたことを不服として、遼東太守の公孫度と結託し武力侵攻を行うが、王位簒奪に失敗した。
『唐会要』百済伝には「百済は高句麗に国を破られた」と記録されており、その年が山上王の即位年だとすると、次のような推定が成り立つ。
百済は公孫度の攻撃に破れて遼東の属国のような状態になっていた。このような時に、高句麗王子発岐が公孫度を頼ってきた。公孫度はこれを契機に高句麗を侵略しようと百済に命じて高句麗を攻撃させた。百済は公孫度の命令にやむなく従って高句麗を攻撃したが、高句麗によって公孫度と共に破れてしまった。
高句麗のこの攻撃で百済は領土を失って、遷都を決断したのではないかと推定する。遼東半島から海に逃げ、半島に沿って南下し、漢江(韓国ソウル市)付近に上陸したものと考えられる。
百済再建
漢江付近はこの当時倭国の領域であった。しかしながら、大和朝廷の施政権はほとんど及んでおらず、ほとんど未開地のような情勢であったと思われる。百済としては、まだどこにも所属していないと思い、新しい国として百済再建を諮った。
周辺がほとんど未開の地であるために、少しずつ領土を拡張していった。その中でこの地が倭国領であることを知ったと思われる。
百済王としては、倭国が巨大な領域を占めており、かなりの強国であるという噂を知り、このままこの地を領有していると、何れ倭国と交戦しなければならなくなり、存亡の危機にかかわることになりかねないので、倭国王との接触を図ろうとしたと思われる。
その関連記事が神功皇后44年及び46年の記事であろうと思われる。
神功44年 百済王は、卓淳旱岐のもとへ、日本へ渡る道を知っているか三人の使者を送った。
神功46年 斯摩宿禰を卓淳國に遣す。百済との交流が始まる。
神功44年は364年である。百済が建国後200年も倭国の存在を知らないなど考えにくいことであり、この記事は神功皇后ではなく卑弥呼の時代のものと考える。神功44年は中国干支で甲子である。この干支がこの当時の半年一年干支の間違いであるとすれば、同じ甲子となるのはAD204年後半である。よって、卓淳國で使者を送ったのは204年、百済との交流が始まったのは205年となる。
新羅との衝突
百済は領地拡張する中で、新羅の領域内にも入り込む結果になり、しばしば新羅と衝突することになった。新羅は倭国領内の一領域なのであるが、次第に独立国の様相を持ち始め大和朝廷との対立がしばしば起こっていた。
新羅はAD201年、倭人である脱解が第4代新羅王に即位し、大和朝廷との和解をはかろうと202年倭国との間で使者の交換をした。
新羅本紀脱解王3年
夏五月、倭国と国交を結び、互いに使者を交換した。
この当時卑弥呼は独自の情報網により、おそらく百済が侵入していることは知っていたと思われるが、百済の活用を考えて様子を探っていたのではあるまいか。
このような時に百済が西から新羅の国境侵犯をしてきたのである。ここで、百済と新羅の国境争いが起こった。
新羅本紀 脱解王5年(AD203年前半) 馬韓の将軍新羅に投降
馬韓は新羅の北西、百済の北の領域に存在した諸国の総称である。その馬韓の将軍が新羅に投降したのである。馬韓はこの頃公孫康率いる楽浪郡に攻め立てられ、楽浪郡に所属するようになった時期である。それを嫌った将軍が新羅に投降したものと考えられる。
この203年には、楽浪郡の攻撃が百済の北辺に迫っていたといえる。百済としては楽浪郡を迎え撃たなければならず、新羅と争っている余裕はなく、AD204年前半、新羅に使者を出して、新羅との間の国境を確定させようとした。それが、以下の記録である。
百済本紀 多婁王36年(AD204年前半) 使者を新羅に派遣して会見を乞うたが聞かなかった。
新羅本紀 脱解王7年(AD204年前半) 百済王が地境を拓定するために会見を乞うたが合わなかった。
この時、脱解王は百済王に使者を出し、「その地は倭国領である。倭王卑弥呼の許可は取ってあるのか。そうでなければ倭国に滅ぼされるぞ」とでも脅しを入れたと思われる。
倭国との交渉
百済王は早速その実態を調べたことであろう。その結果、今都としている漢江周辺は間違いなく倭国領であり、このまま放置していたのでは倭国との戦いが始まるのは確実であると思った。北から楽浪郡、南から倭国に攻められたのでは百済の滅亡は日を見るよりも明らかだった。百済の選択肢は二つだった。楽浪郡の支配下に下るか、倭国と組んで楽浪郡と対峙するかである。
焦った百済王は早速倭国との交渉に入ることにしたが、倭国とのパイプがないために、伽耶の卓淳旱岐のもとへ三人の使者を送り、倭国との橋渡しをしてもらうように頼んだのである。卓淳旱岐が倭国に使者を送り、倭王卑弥呼との連絡を取ったのである。
卑弥呼は百済からの挨拶を待っていたのである。卑弥呼の情報網により、百済は遼東を追い出されて、領地を失った国であること、楽浪郡の勢力がすぐ北まで攻め依ってきていること。新羅と対立関係にあることなどを既に知っていた。
百済を倭国領から追い出してしまえば、彼らは住むところを失うので、窮鼠猫を咬むの例えにもある通り、倭国に対して宣戦布告をしてくる可能性がある。今、倭国内は倭の大乱を終えたばかりで、安定状況になく、海外遠征での戦いは避けたい気持ちがあった。また、新羅が朝鮮半島で幅を利かせており、新羅に対抗できる国が朝鮮半島には存在していない。また、北からの楽浪郡の侵入を阻止しなければならないという思いもあった。伽耶諸国を強く育てる対策は打ったが、まだ実用段階ではなかった。
百済は新羅と対立関係にある実力を持った国なので、百済が新羅に対抗できる国となれば、新羅の朝鮮半島での横暴も抑えられると思ったのではないか。
このような思いもあって、卑弥呼は百済からの使者に会ったのである。
百済としても、倭国との交渉が決裂してこの領地を追い出されてしまえば行くところもなく、なんとか倭国に漢江周辺の地の領有を認めてもらおうと、最高の対応で礼儀正しく卑弥呼に会ったのであろう。
卑弥呼としては百済に漢江周辺の領有を任せる代わりに次のような条件を出したと思われる。
① 毎年貢物をよこすこと。
② 新羅に対抗し、新羅の横暴を止めること
③ 朝廷からの使者が大陸に渡る時の橋渡しをすること。
④ 朝鮮半島や大陸の情報を知りうる限り、朝廷に伝えること。
⑤ 楽浪郡の北からの侵入を阻止すること。
百済としては倭国と戦争したり、追い出されることに比べればたやすいことであり、百済王は承諾した。卑弥呼としても、朝廷の力で朝鮮半島の倭の領域を統治するのは大変であることと、楽浪郡や高句麗が何れ朝鮮半島に進出してきて、朝鮮半島が戦乱状態になることを予想しており、百済がその防波堤になってくれることを願っていた。AD205年を境に倭国と百済との強力な同盟関係が成立した。
三国史記 | 修正年 | 百済本紀 | 新羅本紀 |
63 | 204 | 使者を新羅に派遣して会見を乞うたが聞かなかった | 百済王が地境を拓定するために会見を乞うた |
64 | 204 | 蛙山城を攻めたが勝てなかった。 | 百済が蛙山城・狗壌城を攻撃した。 |
66 | 205 | 蛙山城を攻めとったが暫らくして破れた | 百済が蛙山城を攻めとったが奪回した。 |
70 | 207 | 新羅を攻めた | 百済が攻めてきた。 |
74 | 209 | 新羅を攻めた | 百済が辺境を侵したのでこれを防いだ。 |
75 | 210 | 蛙山城を攻め落とした | |
76 | 210 | 蛙山城を奪回された | 蛙山城を奪回した。 |
84 | 214 | 百済が辺境を侵した | |
85 | 215 | 新羅の辺境を侵した |
百済は倭国の了解のもと遠慮なく新羅と戦えるようになり、頻繁に新羅と戦うこととなった。
日本・百済・新羅の系図(下の数字は即位年)
◯朴氏の王 1 2 3 5 6 赫居世━━━南解━━━儒理━┳━婆娑━━━祇摩 144 174 184 ┃ 212 228 ┃ 7 8 ┗━逸聖━━━阿達羅 239 249 ◯昔氏の王 4 9 11 14 脱解━━━仇鄒━━━伐休━━┳━骨正━┳━助賁━┳━儒礼 201 264 ┃ ┃ 287 ┃ 314 ┃ ┃ 12 ┃ 15 ┃ ┗━沾解 ┗━乞淑━━━━━基臨 ┃ 296 321 ┃ 10 16 ┗━伊買━━━奈解━━━于老━━━━━訖解 270 327 ◯金氏の王 13 18 金閼智━━━勢漢━━━阿道━━━首留━━━都甫━━━━仇道━┳━未鄒━━━大西知━━━━実聖 ┃ 303 402 ┃ 17 19 20 21 ┗━末仇━━━奈勿━━━┳━訥祇━━━━━━━━慈悲━━━炤智 356 ┃ 417 458 479 ┃ 22 ┗━末斯━━━━━━━━習宝━━━智証 500 日本 8 9 10 11 12 13 17 孝元━━━開化━━━崇神━━━━垂仁━━━━━━景行━┳━成務 ┏━履中 186 214 244 278 298 ┃ 325 ┃ 427 ┃ 14 15 16 ┃ 18 ┗━日本武尊━仲哀━━応神━━━仁徳━╋━反正 328 367 397 ┃ 433 ┃ 19 ┗━允恭 438 百済 7 5 6 ┏━沙伴 15 ┏━阿辛 ┏肖古━━━━仇首━┫ 289 ┏━枕流━━┫ 392 1 2 3 4 ┃255 279 ┃ 11 13 14 ┃ 384 ┃ 18 扶余王━━尉仇台━━温祚━━━多婁━━━己婁━━━蓋婁━━┫ ┗━比流━━━照古━━━貴須━┫ 16 ┗━直支 163 186 211 236 ┃ 324 346 375 ┗━辰斯 405 ┃ 8 9 10 12 385 ┗━古爾━━━責稽━━━汾西━━━契 289 315 321 345 |
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