新羅について
中国史書の新羅
中国史書には新羅に関して次のように書かれている。
『梁書』新羅伝
新羅、その先祖は元の辰韓の苗裔である。辰韓は秦韓ともいう、双方の隔たりは大きい。伝承では、秦代に苦役を避けた逃亡民が馬 韓にやって来たので馬韓は東界を分割し、ここに彼らを居住させたゆえに、この名を秦韓という。その言語、名称には中国人と相似 があり、国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴と言う。皆を徒と呼び合い、馬韓とは同じではない。
また、辰韓王は常に馬韓人を用いて擁立し、代々に継承され、辰韓は自ら王を立てることはできない。明らかにそれは流民 のゆえで、恒久的に馬韓が領土を制している。辰韓は初め六国だったが十二に細分した、新羅はその一国である。新羅は百済の東南に
五千余里。東は大海に沿い、北に高句麗、南に百済と接している。三国魏の時代は新盧と言い、宋代では新羅、あるいは斯羅と 称した。小国なので、自ら通使を派遣することができなかった。
『北史』新羅伝
新羅とは、その先は元の辰韓の苗裔なり。領地は高麗の東南に在り、前漢時代の楽浪郡の故地に居を置く。辰韓または秦韓ともい う。相伝では、秦時代に苦役を避けて到来した逃亡者であり、馬韓が東界を割譲し、ここに秦人を居住させた故に名を秦韓と
言う。
辰韓の初め六国だったが、十二国に細分した、新羅はその一国なり。あるいは魏の将軍の毋丘儉が高麗を討ち破ると、高句麗は
沃沮に奔走、その後、故国に復帰したが、居留する者があり、遂に新羅を立てた、斯盧ともいう。
『南史』新羅
百済は東南に五千余里に在る。その地は、東は大海に沿い、北に高句麗、南に百済に接する。三国魏の時代には新盧と称した。 宋の時代には新羅あるいは斯羅と称した。その国は小さく、自から通使を派遣することは出来なかった。
『隋書』新羅伝
新羅国は高句麗の東南に在り、漢代の楽浪の地に居住、あるいは斯羅とも称す。
魏の将軍の毋丘儉が高句麗を討ち破ると、高句麗は沃沮に敗走。その後、故国に復帰したが、留まる者があり、遂に新羅を立てた。 それ故に、そこの人々は華夏(漢族)、高句麗、百済に属す人々が雑居しており、沃沮、不耐、韓、濊の地を兼ねている。
その王は本の百済人で、自ら海に逃れ、新羅に進入し、遂にその国の王となった。
温祚(おんそ)から伝世、金真平(王名=金姓)に至り、開皇十四年(594
年)に遣使を以て方物を貢献した。高祖は真平を拝謁し、上開府、楽浪郡公、新羅王の爵位を賜る。
『旧唐書』新羅伝
新羅国、昔の弁韓の苗裔である。その国は漢代には楽浪の地に在り、東南方は大海を限界とし、西は百済と接し、北隣は高句麗である。 東西に千里、南北に二千里。城邑や村落があり。王の居城は金城
といい、周囲七~八里。
中国史書をまとめると次のようになる。
① 漢代(~2世紀)の楽浪の地(遼東)に居を置く。(隋書,旧唐書,北史)
② 辰韓の一国が新羅になった。(梁書,北史)
③ 三国時代には新盧と言った。(南史)
④ 魏の毋丘儉(255年)が高句麗を打ち破った後、高句麗の故国に新羅が建国された。(隋書,北史)
⑤ 新羅王は百済人で、新羅に進入し、王となった。(隋書)
⑥ 東と 南方は海、西は百済、北は高句麗である。(旧唐書)
⑦ 百済は東南に五千余里に在る。東は大海に沿い、北に高句麗、南に百済に接する。(南史)
⑧ 新羅は百済の東南に 五千余里。東は大海に沿い、北に高句麗、南に百済と接している。(梁書)
⑨ 昔の弁韓の苗裔であり、東南方は大海を限界とし、西は百済と接する。(旧唐書)
⑩ そこの人々は華夏(漢族)、高句麗、百済に属す人々が雑居しており、沃沮、不耐、韓、濊の地を兼ねている。
場所について
①④は新羅は遼東(現在の中国遼寧省)にあったことを示している。⑦⑧は矛盾しているが⑦は南史、⑧は梁書なので、⑦は⑧を書き写したものとみられ、⑧がより原点に近いと判断する。「南に百済と接している。」が矛盾している。⑥⑧も矛盾しているが、時代による領域の違いと解釈すればよい。
以上をまとめると新羅には二つあるように思える。一つは遼東に居を置いた新羅、もうひとつが朝鮮半島の南東部に居を置く新羅である。前者を新羅A、後者を新羅Bとしよう。
建国時期について
④より、新羅Aは3世紀後半に建国されたようである。③が新羅B(2世紀建国?)を表しているように思える。
新羅は国名が新盧、新羅、斯羅、斯盧などと複数ある。また、新羅王の系統が朴氏、昔氏、金氏と3系統存在するなど他の国では考えられないことが多い。朝鮮半島東南部にあったといわれている新羅Bはその居城は金城で、代々この地より移動したことがないと伝えられている。これらのことから新羅Aと新羅Bは別国家なのではないかと解釈する。名前がそっくりなので中国も間違えたのではあるまいか。
このように考えると⑧の矛盾は解決する。「新羅は百済の東南に五千余里」は新羅Bで、「北に高句麗、南に百済と接している。」は新羅Aと解釈すればよい。また⑩は新羅Aと考えられる。
辰韓の1つ斯蘆国が新羅になったというが、これはどちらの新羅であろうか。辰国王は馬韓人が引き継いでおり、百済人(馬韓人)が王になっているので、地理的状況より新羅Aと解釈できる。
⑨の弁韓は辰韓の間違いとも解釈できるが、新羅Bと考えることもできる。
倭と深い関係にあったのは新羅Bである。新羅本紀に描かれている新羅は新羅Bと思われる。以降は新羅Bを新羅として論ずることとする。
新羅建国
新羅始祖伝承
新羅建国始祖伝承(Wikipediaより抜粋)
辰韓の六村の長の一人が、蘿井(慶州市塔里面に比定される)の林で馬の嘶くのが聞こえたので近寄ったところ、馬が消えて大きな卵があった。卵を割ると中から幼児が出てきて育て上げたが、10歳を越える頃には人となりが優れていたことから六村の人たちは彼を王位につけた。卵が瓠(ひさご)ほどの大きさであったため、辰韓の語で瓠を表す「朴」を姓として名乗った。
建国時に腰に瓠をぶら下げて海を渡って来たことから瓠公と称されるようになった倭人が、大輔という役職名の重臣になった。朴赫居世は紀元前57年に13歳で王位(辰韓の語で王者を表す居西干と称された)に就き、国号を徐那伐とした。
この紀元前57年は半年1年暦なので、現在の暦に直すと144年となる。
新羅は朝鮮半島南端で建国された
新羅建国に関していくつか謎がある。
① 新羅の重臣が倭人の瓠公であり、『新撰姓氏録』によると新羅の祖は鵜草葺不合命の子の稲飯命(神武天皇の兄)だとしている。また、新羅は頻繁に倭の襲撃を受けている。どうして新羅は倭との関係がこんなに深いのであろうか。
② 新羅が建国された144年頃、韓国慶州市一帯は倭の地であった。実際この周辺はこの時期の倭系遺物(糸魚川産翡翠等)が大量出土している。倭の国内で新羅が独立したという形になる。
新羅Aが新羅Bに移動したとは考えられないであろうか。朝鮮半島南部の考古学的状況は、1世紀半ばより社会体制が現れるようになっており、それまでは未開の地であったと解釈される。そのために平和統一の素盞嗚尊によって簡単に倭の領域に編入されたのであり、漢・高句麗等大陸国家は朝鮮半島南部に興味を示さなかったのであり、極めて平和な状態が続いていた。こういった状況なので、朝鮮半島南部に建国された新羅Bはこのような建国神話を持つのが当然であるといえる。
これに対して戦いに明け暮れる地域に誕生した新羅Aは、当初から統率力を持つ強い王が国を引張る必要がある。戦いが継続する中でその始祖は強さが必要となり、その戦いに勝ち抜いたという始祖伝承は大切にされるはずであり、決して平和的なものになるはずがない。
また、新羅本紀によると、新羅は初代の赫居世の時代から①のように倭との関係が深い。これは、最初から朝鮮半島南部に存在した国であることを意味しており、同時に新羅Aとは別国家ということになる。
始祖伝承の解釈
初代王が卵から生まれるというのは、朝鮮半島の始祖伝承にはよくあることである。実際に人が卵から生まれるわけはなく、始祖の血筋を隠すためか、神格化する目的で卵から生まれたことにしたのであろう。
初代の赫居世は周辺の長より生まれた時から王になることが決められていたようである。王となるように育てられ、人となりが優れていたので計画通り王とした。歴史上このようなことが起こるのは、安定した政権があり、その子が王となる時である。初代の王ではこのようなことはほとんどあり得ない。
そこで、次のように推定する。
赫居世誕生直前の140年頃、倭王は第5代孝昭天皇の時代である。大和朝廷が成立して半世紀ほどたって、安定期に入ったころである。大和朝廷から技術者が派遣され、生活は安定しかけていた。農耕もおこなわれるようになり社会体制が充実しつつあった。このような時に代表となる人物が必要となった。それまで、社会の代表者を話し合いで決めていたのであろうが、争いが起こるようになり、争いが起こらないような代表者を決める必要があった。だれでも納得する人物と言えば、倭の天皇につながる人物である。幸い、AD80年頃までこの地に滞在していた、初代神武天皇の兄稲飯命につながる人物(おそらく孫)がいた。この人物の子供をこの地域の王にしようということで村長たちの意見がまとまった。このようにして生まれたのが初代新羅王赫居世であると考える。
赫居世は人望もあり、この土地をよく治めたので人心は一つになり、強力な共同体となっていき、次第に国が形成されていった。大和朝廷としても稲飯命につながる人物であることから、この小国を当初は応援していた。梁書、南史に「小国なので自ら通使を派遣することができなかった。」とあるのも、倭国の一領域だったためと考えられる。
倭との関係
新羅は倭の国内にできた一領域であると考えている。そのために、新羅内には倭人が数多く存在しており、新羅の初期の重臣(瓠公)が倭人であることも不思議ではない。
倭の国内にこのような領域ができると当時の大和朝廷(第5代孝昭天皇)はどのように対応するであろうか。この時代日本列島内にも独立国のようなものが存在していた。東倭(出雲国)、日向国、球磨国である。朝廷としてはこれらを何れ一つにまとめようと考えていたことであろうから、国内に独立国のようなものが誕生するのを歓迎するとは思えない。
その状況を示しているのが赫居世8年(BC50年=修正147年)の記事であろう。
倭人達が兵を率いて辺境を侵そうとしたが、始祖に神徳があるということ聞いて、すぐに帰ってしまった。
おそらく、朝鮮半島の倭の領域内に国ができていることに疑念を持った朝廷は兵を送って様子を探った。赫居世が稲飯命につながる人物だと知って、これなら大丈夫と安心して引き返したのであろう。
当初はこのような状態であったが、次第に倭と新羅は戦いに明け暮れる様になる。
第二代南解王11年(AD14=修正179年)のとき、倭人が兵船百余隻で海辺に侵入したと新羅本紀に記録されている。それはどういった事情によるものであろうか。
当時の大和朝廷と地方との関係は朝廷から地方へ技術者を派遣し、技術者は地方に技術を伝え、地方は朝廷に貢物を送るという関係で成り立っていたと考えている。当然、朝廷から朝鮮半島にも技術者が派遣されていたことであろう。
この頃は倭国内で倭の大乱の最中であり、朝廷も新羅攻撃を本格的にやる余裕はなかったはずである。そのような時に新羅攻撃をするというのはそれなりの理由があったと考えられる。
この時期は東アジア全体が寒冷期に入っており、作物が取れない状況が続いていた。新羅国内の状況も厳しく朝廷に貢物を送ろうにもそれができなかったのではあるまいか。
朝廷としても新羅が貢物を送ってきている間は安心できるが、貢物を送ってこなくなったとすれば、朝廷の支配下から離れて完全独立するのではないかという疑念がわいてくるのである。朝廷は新羅からの貢物が滞っている状態に疑念を抱き、貢物を送るようにとの催促もしたであろうが、新羅はそれを無視したと考えられる。
しかし、これだけでは倭の大乱の最中、軍を派遣することはあり得ないであろう。唯一考えられるのが、出雲国との関係である。朝廷は出雲国との間で激しく戦っており、新羅が出雲国を背後で応援していたとすると、朝廷としても軍を派遣せざるを得なくなると考える。
出雲国と新羅国は距離も近く、当初から深い関係にあったと考えてもおかしくはない。実際朝鮮半島を統一したのは出雲国王素盞嗚尊だったのである。出雲国が新羅国に応援要請をしていた可能性がある。
関連記事が孝霊天皇61年(修正178年)の日御碕神社(島根県出雲市)の記事である。
「孝霊天皇61年 月支国(朝鮮)の彦波瓊王多数の軍船を率いて襲来す。特に神の宮鳴動し虚空より自羽の征矢落つるが如く飛びゆき、見るほどに波風荒びて賊船覆没せりと云う。」
月支国は辰王が都するところといわれているが、詳しい場所はわかっていない。孝霊天皇61年は、新羅本紀にある倭人が新羅に侵入した年の前年に当たる。これらの記事が真実を伝えているとすれば、関係があることになるであろう。この記事は新羅国が出雲国に援軍を送ったことを意味しているのではあるまいか。
孝霊天皇は出雲国の背後に新羅国がいることを知り、次の年、新羅に軍を送ったと解釈される。
新羅本紀では新羅王が倭人の軍に戦いを挑んでいる最中その背後を楽浪の軍に襲われ、戦いをやめたことになっているが、楽浪はこの新羅から遥かに離れた場所にあり、楽浪がタイミング良く攻めてくるのは考えにくい。実際は朝廷軍の攻撃にあっさりと引いたのではあるまいか。
新羅と大和朝廷が仲悪くなったのはこれが原因であろう。これ以降新羅本紀に倭との戦いが頻繁に出てくるようになる。新羅は次第に独立国としての体制固めをし、強国になっていったと思われる。
第4代新羅王脱解について
第4代新羅王脱解に関して次のような説話が伝わっている。
脱解は倭国の東北一千里のところにある多婆那国出身で、金官国に上陸し、さらに阿珍浦(慶尚北道慶州市)の浜辺にやってきた。 このとき、新羅の赫居世居西干の39年(紀元前19年)であったという。老婆がその男の子を育てると、成長するにしたがって風格が 優れ、知識が人並みならぬものになった。長じて、第2代南解次次雄5年( 8年=修正176年)に南解次次雄の娘を娶り、10年(修正179年)には 大輔の位について軍事・国政を委任された。南解次次雄が死去したときに 儒理尼師今に王位を譲られかけたが、「賢者は歯の数が多い」という当時の風説を元に餅を噛んで歯型の数を比べ、 儒理尼師今に王位を継がせた。儒理尼師今が57年10月に死去したときには、王(儒理尼師今)の遺命に従って脱解が王位についた(修正201年)。
多婆那国は丹後国といわれており、丹後にもこの地から旅立った人物が新羅国王になったという伝承が伝わっている。赫居世39年は修正紀年で164年に該当する。第6代孝安天皇の時代で倭の大乱直前にあたり、国内が不安定になっていたころである。この当時丹後地域は独自の日本海交易ルートを持っており、独自に対外交易をしていた。この中の人物が朝鮮半島に上陸したのであろう。おそらく脱解は幼少時に親と共に朝鮮半島に渡ったが、両親が遭難か何かで亡くなり、新羅国の人たちによって育てられたのであろう。
201年、脱解は即位すると、その直後202年に倭国との友好関係を結んでいる。新羅としては179年以降、倭国と仲たがいになっていることを憂いており、なんとか状況を打開したいと思っていたのであろう。新羅国の人たちによって育てられていた脱解が能力が高い人物である上に倭人なので、倭国との関係修復ができるのではないかと考えて脱解を王にしたのではあるまいか。
脱解は即位後倭人である瓠公を大輔にするなど倭との関係を重視しているようである。朝廷としても新羅のこれら誠意を重んじて、すぐに関係修復に応じたのであろう。
179年、寒冷化が起こり、作物が取れない状況が数年続いた。それまで、朝廷に産物を献上していたが、それもできない状態が続いた。貢物が来なくなった朝廷は圧力をかけた。
201年、倭人の脱解が第4代王となり、彼の努力で倭との関係が修復された。暫らくは倭と新羅は友好関係を保っていたが、その状態も長続きしなかった。
三国志馬韓伝
建安年間(196年-220年)、公孫康は屯有県以南の荒野を分けて 帯方郡とし、公孫摸や張敞などを派遣して(後漢の)遺民を収集するため、兵を挙げて韓と濊を
討伐したが、旧民は少ししか見出せなかった。この後、倭と韓を帯方郡に属させた。
この記事によると倭と韓は帯方郡に属すことになっている。しかし、大和朝廷は帯方郡には属していない。これは、何を意味しているのか。この倭は朝鮮半島の倭と考えられるが、倭の領域で、この当時国としての体制を整えているのは新羅国のみである。他の国々は社会体制がなんとかできかけたころで、帯方郡に朝貢できるような体制ができていなかったと思われる。このような中で朝貢できるのは新羅国以外には考えられないので、新羅国が帯方郡に朝貢したものと判断する。中国にとってこの頃の新羅国はまだ倭の一領域との認識だったのであろう。
朝鮮半島の他の地域はまとまりがなく、その領域から貢物を得ようとすると、体制固めの方を先にやらねばならず、帯方郡も手を出さなかったのであろう。帯方郡は、まずは体制ができている新羅国に手を伸ばしたのである。
204年に帯方郡を設置した公孫康は、207年頃韓及び倭を属国にしようと倭に触手を伸ばしてきた。倭との関係を重視したい脱解は当初それを拒否しようとしたであろうが、帯方郡が武力を背景に圧力をかけてきたので、新羅国民のことも考え、やむなく帯方郡に属すことを承諾したと思われる。
この情報を聞いた大和朝廷第8代孝元天皇は、当然新羅国に帯方郡に属するのをやめる様に要求したと思われるが、新羅国も首を縦には振らなかった。
209年、朝廷は、新羅に軍を派遣した。その記事が脱解17年(修正209年)の記事であろう。
倭人が木出島(慶尚南道蔚山広域市の目島?)を侵して来たので、王は角干羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。
この頃までに任那の金官伽耶国が体制固めをしてきた。後の任那日本府である。朝廷から直接軍を派遣するのは大変なので、朝廷は、新羅の扱いを金官伽耶国に命じたのである。以降新羅と伽耶国の戦いが継続されることになる。
新羅本紀の倭との関係
この修正紀年で新羅本紀の倭人関連事象をまとめると次のようになる。
新羅本紀 | 修正 | 王 | 天皇 | 事象 |
-50 | 147.5 | 赫居世 | 孝昭 | 倭人達が兵を率いて辺境を侵そうとしたが、始祖に神徳があるということ聞いて、すぐに帰ってしまった。 |
-20 | 162.5 | 赫居世 | 孝安 | 春二月に、瓠公を馬韓に派遣して、外交関係を結ぼうとした。瓠公は、元は倭人で、はじめ瓠を腰につって海を渡って来たために瓠公と称した。 |
14 | 179.5 | 南 解 | 孝霊 | 倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。 |
57 | 201 | 脱 解 | 孝元 | 4代王「脱解尼師今(一云吐解)立。時年六十二。姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生。其國在倭國東北一千里」脱解は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里にあり。 |
59 | 202 | 脱 解 | 孝元 | 夏の五月に倭国と友好関係を結んで修交し、使者を派遣し合った。 |
73 | 209 | 脱 解 | 孝元 | 倭人が木出島を侵して来たので、王は角干羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。 |
77 | 211 | 脱 解 | 孝元 | 伽耶の軍兵と黄山津の入江で戦った。 |
94 | 219.5 | 婆 娑 | 開化 | 伽耶の賊たちが馬頭城を包囲したのでこれを打ち破った。 |
96 | 220.5 | 婆 娑 | 開化 | 9月、伽耶人が南の辺境を襲った。王は勇士5千名を率いてこれを破る。 |
97 | 221 | 婆 娑 | 開化 | 兵をあげて伽耶を征伐しようとしたが、伽耶の国王が謝罪するのでこれを許した。 |
115 | 230 | 祇 摩 | 開化 | 春2月、伽耶が南の辺境を侵すので、7月に黄山河(洛東江)を渡ったが、伏兵の待ち伏せを受けた。王はこれを突破して退却した。 |
121 | 233 | 祇 摩 | 開化 | 夏四月に倭人が東の辺境を攻めた。 |
123 | 234 | 祇 摩 | 開化 | 春三月に倭国と講和した。 |
158 | 251.5 | 阿達羅 | 崇神 | 倭人が礼物を持参した。 |
173 | 259 | 阿達羅 | 崇神 | 倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」) |
193 | 269 | 伐 休 | 崇神 | 倭人が大飢饉となり千余人にも及ぶ避難民到来。 |
232 | 288.5 | 助 賁 | 垂仁 | 夏四月に倭人が金城を包囲。 |
233 | 289 | 助 賁 | 垂仁 | 五月 倭兵が東辺を攻めた。 |
249 | 297 | 沾 解 | 垂仁 | 夏四月に倭人が舒弗邯、于老を殺した。 |
287 | 316 | 儒 礼 | 景行 | 夏四月に倭人が一礼部を襲う。 |
289 | 317 | 儒 礼 | 景行 | 夏五月に、倭兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。 |
292 | 318.5 | 儒 礼 | 景行 | 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。 |
294 | 319.5 | 儒 礼 | 景行 | 夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。 |
295 | 320 | 儒 礼 | 景行 | 春 王は倭人を討とうとしたが臣の忠告によってやめた。 |
300 | 322.5 | 基 臨 | 景行 | 春正月に、倭国と使者を派遣し合った。 |
312 | 328.5 | 訖 解 | 仲哀 | 春三月に、倭国の国王が使臣をつかわして、息子のために求婚したので、王は阿?の急利の娘を倭国に送った。 |
344 | 344.5 | 訖 解 | 神功 | 倭国が使者をつかわして、婚姻を請うたが、すでに以前に女子を嫁がせたことがあるので断った。 |
345 | 345 | 訖 解 | 神功 | 二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。 |
346 | 346 | 訖 解 | 神功 | 倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。 |
364 | 364 | 奈 勿 | 応神 | 倭人は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した。 |
393 | 393 | 奈 勿 | 応神 | 倭人が来て金城を包囲し、5日も解かなかった。 |
402 | 402 | 実 聖 | 仁徳 | 三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質として倭に送った。 |
405 | 405 | 実 聖 | 仁徳 | 倭兵が明活城を攻める。 |
407 | 407 | 実 聖 | 仁徳 | 春三月 倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を攻める。 |
408 | 408 | 実 聖 | 仁徳 | 春二月、王は、倭人が対馬島に軍営を設置し、兵器・武具・資財・食糧を貯え、我が国を襲撃することを企てているとの情報を手に入れた。倭兵が出動する前に、精兵を選んで兵站をしようと考えたが、舒弗邯の未斯品曰く「兵は凶器であり戦は危険な事です。ましてや大海を渡って他国を討伐し、万が一に勝つことができなければ、後で悔やんでも仕方ありません」王はこの意見に従った。 |
新羅王系図
◯朴氏の王 1 2 3 5 6 赫居世━━━南解━━━儒理━┳━婆娑━━━祇摩 144 174 184 ┃ 212 228 ┃ 7 8 ┗━逸聖━━━阿達羅 239 249 ◯昔氏の王 4 9 11 14 脱解━━━仇鄒━━━伐休━━┳━骨正━┳━助賁━┳━儒礼 201 264 ┃ ┃ 287 ┃ 314 ┃ ┃ 12 ┃ 15 ┃ ┗━沾解 ┗━乞淑━━━━━基臨 ┃ 296 321 ┃ 10 16 ┗━伊買━━━奈解━━━于老━━━━━訖解 270 327 ◯金氏の王 13 18 金閼智━━━勢漢━━━阿道━━━首留━━━都甫━━━━仇道━┳━未鄒━━━大西知━━━━実聖 ┃ 303 402 ┃ 17 19 20 21 ┗━末仇━━━奈勿━━━┳━訥祇━━━━━━━━慈悲━━━炤智 356 ┃ 417 458 479 ┃ 22 ┗━末斯━━━━━━━━習宝━━━智証 500 日本 8 9 10 11 12 13 17 孝元━━━開化━━━崇神━━━━垂仁━━━━━━景行━┳━成務 ┏━履中 186 214 244 278 298 ┃ 325 ┃ 427 ┃ 14 15 16 ┃ 18 ┗━日本武尊━仲哀━━応神━━━仁徳━╋━反正 328 367 397 ┃ 433 ┃ 19 ┗━允恭 438 |
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