倭の五王の照合
古代日本を記した外国資料は好太王碑文の次の時代が宋書倭国伝である。讃、珍、済、興、武の五王が倭のどの人物に該当するかが意見の別れるところである。古代史の復元の流れによって解明してみよう。
倭王と天皇の照合
中国史書の記事
西暦 | 中国王朝 | 中国元号 | 倭王 | 用件 |
---|---|---|---|---|
413年 | 東晋 | 義熙9 | 讃 | 東晋・安帝に貢物を献ずる。(『晋書』安帝紀、『太平御覧』) |
421年 | 宋 | 永初2 | 讃 | 倭の讃、万里を越えて貢献を修める、遠来の忠誠を宜しく審査し、除授を賜うべきなり。(『 宋書』夷蛮伝) |
425年 | 宋 | 元嘉2 | 讃 | 讃がまた司馬の曹達を遣わし、奉表して方物を貢献した。(『宋書』夷蛮伝) |
430年 | 宋 | 元嘉7 | 讃? | 1月、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる。(『宋書』文帝紀) |
438年 | 宋 | 元嘉15 | 珍 | これより先、讃が死に、弟の珍が立つと、遣使を以て貢献した。 使持節、都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王を自称する。上表して正式な除爵を求め、詔を以て安東将軍、倭国王に叙爵した。珍はまた倭隋ら十三人に平西、征虜、冠軍、輔国将軍号の正式な除爵を求め、詔を以てすべて聞き届けた。(『宋書』夷蛮伝) 4月、宋文帝、珍を安東将軍倭国王とする。(『宋書』文帝紀) |
443年 | 宋 | 元嘉20 | 済 | 倭国王済の遣使が奉じて貢献、再び安東将軍、倭国王とする。(『宋書』夷蛮伝) |
451年 | 宋 | 元嘉28 | 済 | 使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東将軍に旧来のように加叙し、併せて上る所の二十三人を将軍や郡太守に除した。(『宋書』倭国伝) 7月、安東大将軍に進号する。(『宋書』文帝紀) また、上った23人は、宋朝から軍・郡に関する称号を与えられる。(『宋書』夷蛮伝) |
460年 | 宋 | 大明4 | 済? | 12月、孝武帝へ遣使して貢物を献ずる。 |
462年 | 宋 | 大明6 | 興 | 済が死に、世子の興が遣使を以て貢献してきた。 倭王の世子の興、奕世(累代)忠を掲げ、外海に藩を作り、王化を受けて境を安寧し、うやうやしく貢職を修め、新たに邊業を嗣ぐ、宜しく爵号を授け、安東将軍、倭国王にすべきなり。(『宋書』孝武帝紀、倭国伝) |
477年 | 宋 | 昇明1 | 興(武) | 11月、遣使して貢物を献ずる。(『宋書』順帝紀)これより先、興が死に、弟の武が立ち、使持節、都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王を自称した。(『宋書』夷蛮伝) |
478年 | 宋 | 昇明2 | 武 | 遣使が上表して曰く「封国は残念ながら遠く、藩を外に作り、昔より祖先は自ら甲冑を着け、山川を跋渉し、安らかに暮らす暇なし。東に毛人を征すること五十五国、西に衆夷を服すること六十六国、(海を)渡り海北を平定すること九十五国。王道は安泰に調和し、国土を拡げ、京畿を遠く離れる。累代に亘って朝廷を尊び、歳を誤らず。臣は下愚といえども、忝くも後裔を先に残し、統べる所を率いて駆け、崇め帰すこと天を極め、道を百済に直行し、船舶を装備する。然るに高句麗は非道にも併呑を欲して謀り、辺境を略奪し隷属させ、(南朝宋の)劉氏を尊重して已まず、(そのために)いつも延滞させられ、(航行の)良風を失する。道を進むといえども、あるいは通じ、あるいは不通。 臣の亡き済は、仇敵が天路を塞ぐことを実に憤り、百万の弦を鳴らして訴え、正義の声に感激し、まさに大挙せんと欲するも、突然に父兄が亡くなり、垂成の功をして一簣(モッコ一杯分)も獲れず。諒闇(一年の服喪)に在り、軍装の兵を動かさず、ここに休息するを以て未だ戦勝を得られず。今に至り、甲を練り、兵を治め、父兄の志を述べんと欲し、義士と勇士、文武に功を尽くし、白刃を前に交えるも、また顧みることなし。 もし帝德の覆戴を以てこの強敵を挫き、勝って方難を鎮めるも、前功に替えることなし。密かに開府儀同三司を自ら仮称し、その余も皆、各々に仮授(して頂ければ)、以て忠節を勧める」。 詔を以て武を使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王に叙爵した。 (『宋書』順帝紀) |
479年 | 南斉 | 建元1 | 武 | 南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王の武を鎮東大将軍(征東将軍)に進号。(『 南斉書』倭国伝) |
502年 | 梁 | 天監1 | 武 | 4月、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を征東大将軍に進号する。(『 梁書』武帝紀) |
古事記の崩年干支で考えると倭王の推定崩年は下の表のようになる。
古事記日本書紀 | 古代史の復元 | |||||||||||||
世数 | 代数 | 天皇 | 崩年干支 | 宝算 | 太歳干支 | 崩年干支 | 在位 | 即位前空位 | 宝算 | 即位 | 崩年 | 中国干支 | 半年干支 | 在位 |
7 | 10 | 崇神 | 戊寅 | 168 | 甲申 | 辛卯 | 68 | 120 | 245.5 | 278 | 辛卯 | 32.5 | ||
8 | 11 | 垂仁 | 153 | 壬辰 | 庚午 | 99 | 140 | 278.5 | 297.5 | 庚午 | 19 | |||
9 | 12 | 景行 | 137 | 辛未 | 庚午 | 60 | 106 | 298 | 320 | 乙卯 | 22 | |||
10 | 13 | 成務 | 乙卯 | 95 | 辛未 | 庚午 | 60 | 107 | 321 | 327.5 | 庚午 | 6.5 | ||
11 | 14 | 仲哀 | 壬戌 | 52 | 壬申 | 庚辰 | 9 | 1 | 52 | 328 | 332.5 | 庚辰 | 4.5 | |
11 | 神功 | 100 | 辛巳 | 己丑 | 69 | 100 | 333 | 389 | 己丑 | 34 | ||||
12 | 15 | 応神 | 甲午 | 130 | 庚寅 | 庚午 | 41 | 110 | 367 | 394 | 甲午 | 27 | ||
13 | 16 | 仁徳 | 丁卯 | 83 | 癸酉 | 己亥 | 87 | 2 | 397 | 427 | 丁卯 | 30 | ||
14 | 17 | 履中 | 壬申 | 64 | 庚子 | 乙巳 | 6 | 70 | 428 | 432 | 壬申 | 4 | ||
14 | 18 | 反正 | 丁丑 | 60 | 丙子 | 庚戌 | 5 | 433 | 437 | 丁丑 | 4 | |||
14 | 19 | 允恭 | 甲午 | 78 | 壬子 | 癸巳 | 42 | 1 | 438 | 459 | 癸巳 | 21 | ||
15 | 20 | 安康 | 3 | 460 | 462 | 3 |
倭王讃は413年~425年までの間には確実に存在していたことになり、古代史の復元年代では第16代仁徳天皇となる。
倭王珍は438年に朝貢している。しかし、第18代反正天皇が437年に亡くなっている。438年の朝貢の出発は437年と思われ、反正天皇が亡くなる直前に使者を送ったと考えることができる。よって、倭王珍は第18代反正天皇となる。
倭王済は443年~451年には存在している。古代史の復元年代と会わせると第19代允恭天皇がこれに該当する。よって、倭王済は第19代允恭天皇である。
倭王興は462年に朝貢している。第20代安康天皇であろう。安康天皇は在位3年で暗殺されており、推定没年は462年である。そうすると、倭王武はその後の雄略天皇となる。
照合の矛盾点
古代史の復元年代と照合すれば、どの倭王がどの天皇に該当するかは単純に照合ができる。しかし、ここに問題点が一つ持ちあがってくるのである。
倭の5王の関係は、宋書によると、倭王讃の弟が倭王珍、倭王済の子が倭王興でその弟が倭王武となっている。済・興・武の関係は日本書紀の反正天皇・安康天皇・雄略天皇の関係と同じであるので問題はない。ところが、珍は讃の弟ということになっているが、仁徳天皇と反正天皇は親子である。
この矛盾を解決するのが、438年の朝貢記事である。
使持節、都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王を自称する。上表して正式な除爵を求め、詔を以て安東将軍、倭国王に叙爵した。珍はまた倭隋ら十三人に平西、征虜、冠軍、輔国将軍号の正式な除爵を求め、詔を以てすべて聞き届けた。(『宋書』夷蛮伝)
この記事の中に登場する倭隋なる人物である。他13名は誰であるかは不明であるが、筆頭の倭隋は平西将軍の爵位を受けていると思われる。中国の都から見て倭国自体が「西」のはずはないので、これは明らかに倭国の視点でみた平西将軍である。それに対し、中国の天子からの追認を求めているので、「平西将軍の任地」は、「倭国から見て西方に当る地域」だということになる。それは朝鮮半島を意味することになる。
倭王珍は都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王を自称している。この中に朝鮮半島の百済(現韓国西側)、新羅(現韓国東側)、辰韓(現北朝鮮東側)、馬韓(現北朝鮮西側)が含まれている。これが、当時の倭の勢力範囲と考えてよいであろう。倭王珍の時代倭国は朝鮮半島全域を支配していたと判断できる。平西将軍はその朝鮮半島を統治する人物に与えられる称号と思われ、倭王以外に考えられない。倭王隋は第6番目の倭王となる。
430年に宋に朝貢しているが、この時の倭王が記されていない。第16代仁徳天皇が427年に亡くなっており、反正天皇は433年即位である。430年に朝貢した倭王は第17代履中天皇以外に考えられない。倭王隋が履中天皇と考えられる。履中天皇は宋に朝貢しているので何がしかの名前で呼ばれていたはずであるが、430年の記事には記録されていない。438年時点で倭王隋の名が出ているので、追認という形になっている。隋という名がついていることから、宋も履中天皇の存在は知っていたはずである。
宋書は本来「讃が死に、子の隋がたち、隋が死んで、弟の珍が立つ」とあったものが、間が抜けて「讃が死に、弟の珍が立つ」と記録されたものであろうと推定する。
┏菟道稚郎子 ┏飯豊青皇女 ┃ ┃ ┏武烈天皇 仲哀天皇━応神天皇╋大山守皇子 ┏履中天皇━━市辺押磐皇子╋仁賢天皇━┫ ┃ ┃(隋) ┃ ┗手白香皇女━┓ ┣仁徳天皇━━╋反正天皇 ┗顕宗天皇 ┃ ┃(讃) ┃(珍) ┏安康天皇 ┃ ┃ ┗允恭天皇━┫(興) ┣━欽明天皇━━━┓ ┃ (済) ┗雄略天皇━━━清寧天皇 ┃ ┃ ┃ (武) ┃ ┣敏達天皇 ┗稚野毛二派━━意富本杼━━乎非王━━━━彦主人王━━継体天皇━━┫┏安閑天皇 ┃ ┣┫ ┃ 尾張目子姫━━┛┗宣化天皇━石姫┛ |
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