4世紀の東アジア情勢
この時代は中国が五胡十六国時代に入り、戦乱の時代となる。倭もその影響を受けて大陸進出するようになる。まずは、その状況を東アジアの視点で解明してみよう。
AD345年を境として倭・百済・新羅が半年一年暦から中国暦に変更したと仮定すると、中国史書、三国史記、好太王碑文の内容がほぼ完全に一致する。その内容をまとめたのがこの項である。年表を見ながら照合していることを確認してほしい。
高句麗遼東奪取
3世紀に魏が支配していた楽浪郡、帯方郡は、西晋の支配下で継続していたが、304年の八王の乱により西晋が弱体化し、合わせて、遼東の楽浪郡、帯方郡ともに弱体化していた。
最初に遼東地区に手を出したのが鮮卑族慕容部の慕容カイである。309年、西晋の遼東太守の内紛につけこんで遼東の治安秩序の維持を行った。
311年、前趙(漢)の侵入により洛陽が陥落して西晋が事実上滅亡する。慕容カイはこの混乱で発生した多量の難民を受け入れ、勢力を拡大した。慕容カイは西晋・東晋を尊重して東晋には臣下の礼をとり、これと連携することで遼東と遼西を統治した。
高句麗は鴨緑江の上流地域の本拠地をもっており、遼東地方は海上交易のためにもぜひほしい領域であった。過去何回も遼東に手を出していたが、遼東太守公孫康によって撃退されていた。高句麗は遼東奪取を常に狙っていたのである。
高句麗は西晋の滅亡の混乱に乗じて、遼東奪取を諮った。まず、311年高句麗美川王は遼東西安平を占領、そこを拠点として、312年楽浪郡を占拠した。続いて313年、高句麗は南方の帯方郡も占拠した。高句麗はこの地にいた漢人を登用する事で技術的、制度的な発展を遂げたのである。
高句麗属国時代
この時高句麗に攻められた帯方郡太守は、315年以前より婚姻関係にあった百済に救援要請をした。百済は、帯方郡救援をすれば高句麗と対立関係になるのはわかっていたが、婚姻関係からやむを得ず帯方郡を救援した。その結果、百済は高句麗からの恨みを買うことになったのである。
高句麗は、百済を襲撃しようとしたが、背後から慕容カイが、遼東奪回を画策していたので、百済に手を出すことができなかった。
高句麗単独では慕容カイに対抗できないと思った高句麗は鮮卑の協力を得て、慕容カイに対抗したが、318年鮮卑・高句麗連合軍は慕容カイに敗れ、遼東の覇権を失った。320年、高句麗美川王は遼東奪回を試みるも、慕容仁に撃ち破られた。
329年、後趙が勢力を増し、華北一帯を統一した。高句麗は後趙の勢力を借りようと、後趙に朝貢した。勢力を増した後趙に対抗しようと、337年、慕容コウは皇帝に即位し、前燕を建国した。
338年、後趙は前燕を攻め遼東奪取を図ったが、前燕慕容恪の奇襲を受けて敗北した。339年その勢いに乗った前燕は高句麗を侵略した。高句麗は前燕の攻撃を何とか防いだ。しかし、342年、再び前燕の侵略を受け首都丸都城が陥落した。高句麗は前燕の属国になったのである。
350年、前燕は後趙を攻め滅ぼした。このとき、高句麗も属国として前燕の軍に参加していることであろう。
352年、テイの族長苻健は東晋から独立して前秦を建国した。前秦は急激に勢力を拡大し、華北一帯は前秦と前燕で東西を二分することになった。危機を感じた前燕は355年、高句麗を征東将軍・営州刺史・楽浪公・高句麗王に冊封した。しかし、まだ高句麗は前燕の管理下にあり独立した動きはできなかった。
高句麗百済侵入
この頃の朝鮮半島部は現北朝鮮領域西側が馬韓、東側が辰韓で、この地域は遼東の楽浪郡に所属していたが、弱体化したため、無風地帯であったと思われる。現韓国北西部が百済、東側が新羅、南端部が倭に所属していた。帯方郡と婚姻関係を結んだ百済は、馬韓を実質支配していたと思われる。
367年、急激に弱体化した前燕は、東晋の攻撃を受け、それに乗じた前秦により、前燕首都洛陽が陥落した。前燕の弱体化を見た高句麗は、早速、積年の恨みを晴らそうと、369年、百済に二万の大軍を向けた。しかし、百済によって打ち破られた。
ここまでは、前燕が高句麗の動きを止めていたのであるが、それが利かなくなったので、百済は、これ以降高句麗の攻撃を受けることを悟ったのであろう。倭の協力を得ようと倭に朝貢することになった。
370年、前燕は前秦の攻撃を受けた。この時戦いに敗れた前燕の慕容評が高句麗に逃げてきたが、捉えて前秦に送った。前秦は慕容評を処刑し前燕は滅亡したのである。371年前秦は、前燕の領地であった遼東をそのまま確保した。
371年、前燕から自由の身となった高句麗は再び百済を攻撃した。しかし、百済軍は強く、百済の逆襲を受け首都である中国集安市にあった平壌城(平壌ではない)が攻められ、高句麗国王は戦死した。
倭の参戦
372年、百済に勝てないと悟った高句麗は前秦に朝貢し、前秦の協力を得ることにした。対する百済も東晋に朝貢し東晋の協力を得ることになった。百済はさらに倭にも朝貢し七枝刀を送った。
375年、高句麗は百済の水谷城(現北朝鮮開城市近く)を攻めた。百済は早速将軍を派遣して防御にあたったが、勝つことができなかった。これ以降高句麗が百済の北辺を侵すようになった。
376年、前秦が華北を統一し、高句麗は前秦に朝貢し、前秦に属することになった。
377年、百済は平壌城を攻めたが、逆襲された。高句麗は前秦の協力のもと次第に強くなってきたのである。
381年、高句麗が次第に強くなっていることを恐れた百済は、倭との協力関係を強化した。倭と百済が強い協力関係で結ばれたのを恐れた新羅は前秦の苻堅に使者を送り、支援を要請し、新羅は前秦に属することになった。
このような時、383年、前秦が東晋に破れて弱体化した。これを見た前燕慕容コウの子、慕容垂が現在の河南省で自立して、384年、後燕を建国した。これを見た高句麗は、早速385年、後燕を攻撃し遼東奪取を成功させた。
遼東奪取に成功した高句麗は以降百済に攻撃を仕掛けた。390年百済辰斯王は高句麗に対して弱腰になり、高句麗に属することを承諾した。
それを知った倭は辰斯王では高句麗に対抗できないと辰斯王を殺害し、阿花王を擁立した。倭は百済阿花王を救援するため、391年、大軍を朝鮮半島に送り、高句麗の勢力を朝鮮半島から駆逐した。
このような時に好太王が高句麗王として即位した。392年のことである。好太王は戦術に非常に優れた人物であった。
好太王は即位後、倭・百済連合軍を破る方法を考え、新羅に使者を送った。倭・百済と新羅は以前より仲が悪かったので、新羅の協力を得ようというものであった。倭の攻撃に悩まされていた新羅は王の子実聖を人質に出してきた。
新羅の協力が得られた高句麗は早速、百済攻撃を行った。好太王率いる高句麗軍は大変強く、漢水以北の部落はことごとく落とされた。395年にかけて、奪回を諮るが、ことごとく失敗している。
395年、5月、後燕皇太子の慕容宝に北魏を攻撃させたが、北魏軍の奇襲を受け、大敗を喫した。この大敗でそれまで優勢だった後燕と北魏の力関係は完全に逆転したのである。
後燕が弱体化したのをみた好太王は、396年、遼東、帯方二国王に任じることを要請した。後燕としても北魏に対抗しなければならないので高句麗を相手にできない。後方の安全が確保できればよいということで、好太王は遼東、帯方二国王に任じられることになった。これにより、後燕に対する防御を考えなくてよくなり、全力で倭・百済連合軍にあたることができる様になった。
後方の安全を確保した好太王は、396年、漢江を越えて百済に侵攻して58城700村を一挙に陥落させ、百済王に多数の生口や織物を献上させ、永く隷属することを誓わせた。
高句麗に服属するのを嫌がった百済の阿華王は王子腆支を人質として倭に送り、倭の援軍を要請した。
百済は高句麗との先年の誓いを破って倭と和通したのである。そこで高句麗は百済を討つため平譲に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、高句麗王は新羅を救援することにした。
400年、高句麗、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍は任那・加羅へ退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
この時、勢力を盛り返した後燕王盛は兵三万を率いて高句麗の背後を突き、遼東を奪取したのである。高句麗は遼東を取り返そうにも、大軍は朝鮮半島南部に派遣しており、高句麗王は後燕に朝貢せざるを得なくなってしまった。
後燕王は高句麗の朝貢の礼が高慢であるとして、兵3万を率いて高句麗を襲った。たちまち新城、南蘇城を落とされた。
倭・百済連合軍との戦いどころではなくなった高句麗は倭に使者を送り和平協定が成立した。高句麗の後ろ盾がなくなった新羅もたちまち降参し、倭に対して奈忽王の子未斯欣を人質に送って属国となった。
このとき、高句麗、新羅、百済から数多くの人が倭にやってきて、倭はその人たちを活用して難波堀江、茨田堤築造(仁徳11)、 山城に大溝掘る(仁徳12)。和爾池、横野堤を築く(仁徳13)。小橋、大道を作る。石河の水を引く(仁徳14)などの数多くの土木工事が行われた。世界最大の御陵である仁徳天皇御陵もこの人たちによって作られたのであろう。
しかし、この平和は長く続かなかった。401年後燕慕容盛が禁軍の反乱により殺害されたのである。これを見た高句麗は早速、後燕の宿軍城(遼寧省朝陽東北)を陥落させ、遼東の奪回をしたのである。
高句麗が再び南下してくることを恐れた倭は、高句麗の背後を突き、404年、一挙に帯方界(現中国と北朝鮮の国境付近と思われる)まで攻め込んだのである。このとき、高句麗は戦力を遼東に向けていたので、帯方界まで侵攻するのはたやすかったと思われる。しかしながら、攻め込まれた高句麗は体勢を立て直し、倭軍を破ったのである。
戦術に優れた高句麗好太王も413年に亡くなった。
この時代の中国皇帝の系図 2 ┏恵帝師 ┏恵帝 ┃ 1 ┃290 4 宣帝司馬懿╋文帝昭━━━━武帝炎━━━╋司馬晏━━━━━愍帝 ┃ 265 ┃3 313 ┃ ┗懐帝 ┃ 306 ⑥ ┃ ┏━哀帝 ┃ ③ ┃ 361 ┃ ① ② ┏成帝━━┫ ┗司馬チュウ━━司馬覲━━━━元帝睿━━━┳━明帝━━━━┫325 ┃ ⑦ 317 ┃ 322 ┃ ┗━廢帝 ┃ ┃ 365 ┃ ┃④ ⑤ ┃ ┗康帝━━━━穆帝 ┃ 342 344 ┃ ⑧ ⑨ ⑩ ┗━簡文帝━━━━孝武帝━┳━安帝 371 372 ┃ 396 ┃ ⑪ ┗━恭帝 418~420 前秦 ① ② 苻洪━━━━┳苻健━━━━苻生 ┃351 355 ┃ ③ ④ ⑤ ⑥ ┗苻雄━━━━苻堅━━━苻丕━━━苻登━━━苻崇 357 385 386 394~394 後秦 ① ② ③ 姚弋仲━━━姚萇━━━姚興━━━姚泓 384 394 416~417 前燕 後燕 ┏━━曄 ┃ 2 ┃ 3 ┏━━翰 ┏━━━儁━━╋━━暐 ┃ ┃ 348 ┃ 360~370 ┃ 1 ┃ ┃ ┣━━皝━━╋━━━恪 ┣━━泓 ┃ 337 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 慕容廆━━━╋━━仁 ┣━━━宣 ┗━━冲 ┃ ┃ ┃ ┃ ① ② ③ ┣━━昭 ┣━━━垂━━┳━━宝━━┳━━盛 ┃ ┃ 383 ┃ 396 ┃ 397 ┃ ┃ ┃ ④ ┃ ⑤ ┗━━評 ┣━━━納 ┗━━煕 ┗━━雲 ┃ 401 407~409 ┃ ┗━━━徳 |
◯朴氏の王 1 2 3 5 6 赫居世━━━南解━━━儒理━┳━婆娑━━━祇摩 144 174 184 ┃ 212 228 ┃ 7 8 ┗━逸聖━━━阿達羅 239 249 ◯昔氏の王 4 9 11 14 脱解━━━仇鄒━━━伐休━━┳━骨正━┳━助賁━┳━儒礼 201 264 ┃ ┃ 287 ┃ 314 ┃ ┃ 12 ┃ 15 ┃ ┗━沾解 ┗━乞淑━━━━━基臨 ┃ 296 321 ┃ 10 16 ┗━伊買━━━奈解━━━于老━━━━━訖解 270 327 ◯金氏の王 13 18 金閼智━━━勢漢━━━阿道━━━首留━━━都甫━━━━仇道━┳━未鄒━━━大西知━━━━実聖 ┃ 303 402 ┃ 17 19 20 21 ┗━末仇━━━奈勿━━━┳━訥祇━━━━━━━━慈悲━━━炤智 356 ┃ 417 458 479 ┃ 22 ┗━末斯━━━━━━━━習宝━━━智証 500 日本 8 9 10 11 12 13 17 孝元━━━開化━━━崇神━━━━垂仁━━━━━━景行━┳━成務 ┏━履中 186 214 244 278 298 ┃ 325 ┃ 427 ┃ 14 15 16 ┃ 18 ┗━日本武尊━仲哀━━応神━━━仁徳━╋━反正 328 367 397 ┃ 433 ┃ 19 ┗━允恭 438 百済 7 5 6 ┏━沙伴 15 ┏━阿辛 ┏肖古━━━━仇首━┫ 289 ┏━枕流━━┫ 392 1 2 3 4 ┃255 279 ┃ 11 13 14 ┃ 384 ┃ 18 扶余王━━尉仇台━━温祚━━━多婁━━━己婁━━━蓋婁━━┫ ┗━比流━━━照古━━━貴須━┫ 16 ┗━直支 163 186 211 236 ┃ 324 346 375 ┗━辰斯 405 ┃ 8 9 10 12 385 ┗━古爾━━━責稽━━━汾西━━━契 289 315 321 345 |
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