呉太伯子孫渡来

 弥生時代に日本列島に住んでいた人々は、戦乱の大陸から逃げてきた人が多い。

呉太白関連地図

 呉太伯子孫渡来

 これまで、日本列島には少しずつ渡来人がやってきており、縄文人との間に共同生活ができており、渡来人は弥生人として、九州を中心として生活をしており、BC500年頃は、西日本地域に若干弥生文化が浸透していたという状況であった。

 このころ、最初の大規模渡来があったようである。呉太伯の子孫の渡来である。

 史記の記録

 呉太伯はBC1000年頃の伝説上の人物と言われている。司馬遷の『史記』に記録されている。
 呉太伯の父は古公亶父(ここうたんぽ)といい、3人の子があった。長男が太伯(泰伯)、次男が虞仲(ろちゅう)、三男が季歴(きれき)といった。末子・季歴は英明と評判が高く、この子の昌(しょう)は、聖なる人相をしており後を継がせると周は隆盛するだろうと予言されており、古公もそれを望んでいた。太伯、虞仲は季歴に後継を譲り南蛮の地、呉にながれて行った。呉では周の名門の子ということで現地の有力者の推挙でその首長に推戴されたという。後に季歴は兄の太白・虞仲らを呼び戻そうとしたが、太伯と虞仲はそれを拒み断髪し、全身に分身(刺青)を施した。当時刺青は蛮族の証であり、それを自ら行ったということは文明地帯に戻るつもりがないことを示す意味があったという。太伯と虞仲は自らの国を立て、国号を句呉(後に寿夢が呉と改称)と称し、その後、太伯が亡くなり、子がないために首長の座は虞仲が後を継いだという。<司馬遷『史記』「呉太伯世家」>

 太伯(句呉を建国)→虞仲→季簡→叔達→周章→熊遂→柯相→彊鳩夷→余橋疑吾→柯盧→周?→屈羽→夷吾→禽処→転→頗高→句卑→去斉→
 寿夢(BC585年国名を句呉から呉に改名)→諸樊→余祭→余昧→僚→闔閭→夫差(BC495年 - BC473年)

 BC480年頃より、呉は越による激しい攻撃を受けていた。BC473年、ついに呉の首都姑蘇が陥落した。呉王夫差は付近にある姑蘇山に逃亡し、大夫の公孫雄を派遣して和睦を乞わせた。公孫雄は夫差の命乞いをし、夫差を甬東の辺境に流すという決断が下された。公孫雄は引き返して、夫差にその旨を伝えたが、夫差は「私は年老いたから、もう君主に仕えることはできない」とこれを断り、顔に布をかけて自害した。夫差は丁重に厚葬され、呉は滅亡した。

 松野連系図

 日本側資料にも松野連に伝わる系図と言うのが存在している。中国の史書には「周の元王三年、越は呉を亡し、その庶(親族)、ともに海に入りて倭となる」と記されている。「松野連系図」によると、この夫差の子「忌」が、生まれ育った江南地方を離れ、日本列島にやってきたと伝わっている。この系図によると「忌」のところに「孝昭三年来朝。火の国山門に住む。菊池郡」と記されている。孝昭3年は皇紀ではBC473年に当たる。これは記紀の年代に合わせて挿入したものであろう。系図は以下のようになっている。

 夫差→忌→順→景弓→阿岐→布怒之→玖賀→支致古→宇閉→阿米→熊鹿文→厚鹿文→宇也鹿→(子)→謄→讃→珍→済→興→武→哲→満→牛慈→長提→廣石→津萬→大田満呂→猪足

 「日本書紀・景行紀」には「厚鹿文」「?鹿文」が登場する。景行天皇によって暗殺された熊襲の王である。また、忌の住んでいたという火の国山門(菊池郡)は熊襲の本拠地である。また、宇閉のとき、漢の宣帝に遣使した(BC68年)と記されている。この系図は熊襲王系を示しているようである。

 この系統に倭の五王とされている讃→珍→済→興→武が記されている。「讃」は古代史の復元では仁徳天皇であると推定しているので、「謄」が応神天皇となる。正史では応神天皇は仲哀天皇と神功皇后との間に誕生した天皇となっているが、仲哀天皇の崩御から応神天皇の誕生まで10カ月となっており、不自然な点も多い。応神天皇は仲哀天皇の子ではない可能性を秘めている。しかし、当時熊襲は仲哀天皇の敵であり、神功皇后にとっては夫の仇でもある。熊襲の系統とは考えられない。この頃熊襲は大和朝廷に服属しており、後に挿入したものではないかと思われる。

 忌から宇閉まで、8世。1世30年として240年となる。しかし、忌はBC473年、宇閉はBC68年でその間405年である。通常では14世ほど必要となり、かなり代数欠落があると推定される。また、厚鹿文が第12代景行天皇(AD310年頃)と同世代と考えられるので、宇閉との間は380年ほどの開きがあるがその間3世である。厚鹿文から倭の五王までは欠落はないようである。

 BC473年呉が滅亡したのを機会としてその子「忌」は東シナ海に出て、現熊本県玉名市近辺の菊池川河口付近に到達し、菊池川を遡って現在の菊池市近辺に定住したものであろう。一族はそこを拠点として繁栄し、後の球磨国(狗奴国)となったと推定される。

当時、菊池盆地一帯には茂賀の浦という湖があった。この湖周辺は遺跡が多く、この周辺に栄えた国が後の狗奴国と考えている。 

 茂賀の浦推定湖面
 

 狗奴国との関連

 「呉」を称した句呉の裔は「鯰」をトーテムにするという。
 後漢書倭伝に「会稽の海外に東(魚是)人あり。分かれて二十余国を為す。」とある。(魚是)は鯰の意。東(魚是)人とは鯰をトーテムとする民であるという。(魚是)は一つの文字。そして「会稽の海外の東(魚是)人」とは、漢の会稽郡の東、日本列島の二十余国であるという。
 呉人の風俗が「提冠提縫」と表される。提とは鯰。呉人は鯰の冠を被っているとされる。BC473年に「呉」は長江の下流域に在って「越」に滅ぼされる。呉人は東シナ海から列島へと渡った。
 そして阿蘇に住んでいた一族も鯰をトーテムとしている。阿蘇に下向した健磐龍命は大鯰を退治して阿蘇の開拓を成した。阿蘇の古い民も鯰をトーテムとしていたのである。
 鯰を祀る「阿蘇国造神社」は阿蘇神社の元宮である。本来は阿蘇の母神とされる「蒲池媛」を祀るといわれる。「蒲池媛」は八代海、宇城の地より阿蘇に入ったと言われており、蒲池媛は満珠干珠の玉を操り、海人の血をひいている。「蒲池媛」はのちに筑後、高良神の妃ともされ、宗像三女神の「田心姫」に習合した。隼人である「狗呉」が、熊襲の裔、「肥人」をも含んで八代海、阿蘇、有明海周辺を支配したのが「狗奴国」であったのかもしれない。

古代湖「茂賀の浦」から狗奴国へ。 熊本県菊池市 中原 英 (sakura.ne.jp)

 後の狗奴国は、素戔嗚尊の統一にも参加せず、大和朝廷にもかなり抵抗している。それまでの縄文人による飛騨王朝の影響を受けていないように見える。そのことから、縄文人との共同生活を拒否していたのではないかと考えられる。

 それまでの渡来人は家族レベル、ムラの小集団レベルと考えられ、日本列島上陸後、縄文人のマレビトを快く受け入れ、共同生活をしていたようである。共同生活の中で互いに学びあい、縄文連絡網にも参加し、平和を維持することができたと考えられる。

 しかし、菊池地方に上陸した一団は、中国大陸における「呉」の王家の系統である。王の血筋の人物も含まれているので、中国大陸同様に国を作ろうとしたのではないだろうか。そのために、飛騨王朝の縄文連絡網に参加せず、独自の文化を築くことになったと考える。

 王の系統であったために、同時期に中国大陸を出港したその国に所属していた人々は、王を頼って、同じ菊池地方に住み着くようになり、縄文人も中々入り込めなかったのではないかと予想する。縄文人との共同生活は拒否しているが、外部との交流はしていたと状況ではないかと思われる。

 飛騨王朝の対策

 飛騨王朝は縄文連絡網により、菊池地方の渡来人集団が縄文連絡網に参加しないことはすぐにわかったと思われる。おそらく、何度か使者を派遣して、縄文集団に溶け込むように交渉したと思われるが、拒否されてしまったのであろう。

 このような集団が日本列島内に複数できてしまえば、その集団同士の争いができ、日本列島に戦乱が起こることになる。飛騨王朝としてはこれは大変まずいことである。

 飛騨王朝はこの対策として考えたのが、縄文人の意識改革であろう。飛騨王朝の都の遷都・飛騨王のスメラミコトへの神格化があげられる。

 また、関連があるかどうかわからないが、菊池の狗奴国本拠地近くの山鹿市菊鹿町に吾平山があり、鵜茅草葺不合尊の御陵とされている。ウエツフミによると第8代姫天皇の墓と記録されているが、時代が合わない。同じく45代天皇が阿蘇で落馬して阿蘇の衣尻に葬られたとされている。45代天皇は第15代上方様と推定している人物の一代前である。菊池にこのような一団が住み着いたとなれば、飛騨王朝としてもそのままにしておけないはずで、飛騨王自身がこの地を訪れている可能性は考えられる。上記の伝承はそれに関係しているのかもしれない。

 ウエツフミによるとウガヤ王朝の御陵はそのほとんどが九州にある。特に多いのが大分県である。ウガヤ王朝はその記録すら怪しいので、どこまで真実を伝えているのかわからない。「古代史の復元」でも、その伝承はそのままには扱わないことにしている。しかし、このウエツフミの記録は、飛騨王が頻繁に九州にやってきたことを意味しているのではないかと思っている。

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