仁徳天皇
仁徳天皇の在位期間
日本書紀では仁徳天皇の在位期間が87年と異常に長い。古事記の崩年干支により実際は397年~427年までの31年間と思われる。三国史記、好太王碑文などとの照合により、仁徳天皇の日本書紀の記事は半年一年暦であることが分かっている。それを確認してみよう。
西暦 | 仁徳 | 日本書紀 | 外国史書 |
397 | 1 | 即位 癸酉 | 五月、王倭國と好を結び、以て太子、腆支を質と爲す(百済本紀) |
397.5 | 2 | 磐之姫皇后 | |
398 | 3 | ||
398.5 | 4 | 課税停止 | |
399 | 5 | 朝鮮出兵、百済倭国につく(好太王碑文) | |
399.5 | 6 | 高句麗、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。 燕王盛は兵三万を率いて高句麗の背後を突いた(好太王碑文) |
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400 | 7 | 壬生部を定める。 | |
400.5 | 8 | 諸国の者宮廷修理を願い出る | |
401 | 9 | 高句麗・燕の戦いで燕は国力消耗、新羅の人質実聖を新羅に返す。(高句麗本紀) | |
401.5 | 10 | 宮廷修理 | |
402 | 11 | 堀江開拓 | 倭国と国交を結び、奈勿王の王子・未斯欣を人質とした。(新羅本紀) 五月、使臣を倭国に遣り、大珠を求めた。百済 |
402.5 | 12 | 高麗国が鉄の盾を奉った | |
403 | 13 | 茨田屯倉を立てる。 | 二月、倭国から来た使者を大いにもてなした。(百済本紀) 7月、百済が辺境を侵す(新羅本紀) |
403.5 | 14 | 水田増設 | |
404 | 15 | 倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた(碑文) | |
404.5 | 16 | 玖賀姫を召す | |
405 | 17 | 新羅が朝貢しなかったので攻めた | 夏四月、倭兵が侵入して明活城を攻めた。王は騎兵を率いて倭軍を破り、三百人を捕殺した。新羅本紀 倭国に人質だった王子は阿辛王の死により、帰国することになった。 腆支は護送の倭人を国境に留め、国の迎えを受けて帰り、即位した。(百済本紀) |
405.5 | 18 | ||
406 | 19 | ||
406.5 | 20 | ||
407 | 21 | 春三月、倭人が東部を、また六月には南部を侵掠した。(新羅本紀) | |
407.5 | 22 | 八田皇女を召そうとした | |
408 | 23 | 春二月、倭人が対馬に軍営を置いて攻撃の準備をしているとの情報を得たので、先に攻めようとしたが、重臣の意見で取りやめた。(新羅本紀) | |
408.5 | 24 | ||
409 | 25 | 北燕建国、以後朝鮮半島は平和になる。 | |
409.5 | 26 | ||
410 | 27 | ||
410.5 | 28 | ||
411 | 29 | ||
411.5 | 30 | 山城巡幸 | |
412 | 31 | 大兄去来穂別命を皇太子に決定(歳15) | 奈笏王の王子を高句麗に人質として出す。(新羅本紀) |
412.5 | 32 | ||
413 | 33 | 東晋安帝倭国方物を献ず(晋書倭条) 安帝の時、倭王賛あり。(梁書諸夷伝倭条) 好太王崩ず(高句麗本紀) |
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413.5 | 34 | ||
414 | 35 | 磐之姫没 | |
414.5 | 36 | ||
415 | 37 | 磐之姫奈良山に埋葬 | 八月、倭人と風島で戦って勝利した。(新羅本紀) |
415.5 | 38 | 八田皇女を皇后とする | |
416 | 39 | 東晋安帝が使者を使わして王を百済諸軍事鎮東将軍百済王に冊命した(百済本紀) | |
416.5 | 40 | 雌鳥皇女を妃にする | |
417 | 41 | 百済王の王族が無礼を働いたので紀角宿禰を百済に派遣 | |
417.5 | 42 | ||
418 | 43 | 鷹狩を行う | 王の弟で倭国に人質に行っていた未斯欣が逃げ帰ってきた。(新羅本紀) 夏 使者を倭国につかわし、白綿を十反を送った。 (百済本紀) |
418.5 | 44 | ||
419 | 45 | ||
419.5 | 46 | ||
420 | 47 | 直支王没、久爾辛即位(百済本紀) 東晋滅び宋立つ |
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420.5 | 48 | ||
421 | 49 | 詔(みことのり)していわく「倭讃、萬里貢を修む。遠誠よろし。甄(あらわ)すべく、除授を賜うべし」と。(宋書倭国伝) | |
421.5 | 50 | 堤で雁が子を産む | |
422 | 51 | ||
422.5 | 52 | ||
423 | 53 | 新羅が朝貢しなかった | |
423.5 | 54 | ||
424 | 55 | 蝦夷が叛く 武内宿禰没 |
新羅が使者を使わして修交を求める(高句麗本紀) 使者を高句麗に派遣して修交した(新羅本紀) |
424.5 | 56 | ||
425 | 57 | 司馬の曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる。(『宋書』夷蛮伝) 魏に使者を派遣した(高句麗本紀) |
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425.5 | 58 | 荒陵に橡が生えた 呉・高麗国朝貢 |
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426 | 59 | ||
426.5 | 60 | 白鳥御陵の御陵守を搖役に充てる | |
427 | 61 | 都を平壌に遷した(高句麗本紀) | |
427.5 | 62 | 氷を献上 | |
428 | 63 | 倭国から使臣が来た。従者は50人であった。百済 | |
428.5 | 64 | ||
429 | 65 | 飛騨国反乱 | |
429.5 | 66 | ||
430 | 67 | 自らの御陵を作る | |
430.5 | 68 | ||
431 | 69 | ||
431.5 | 70 | ||
432 | 71 | ||
432.5 | 72 | ||
433 | 73 | ||
433.5 | 74 | ||
434 | 75 | ||
434.5 | 76 | ||
435 | 77 | ||
435.5 | 78 | ||
436 | 79 | ||
436.5 | 80 | ||
437 | 81 | ||
437.5 | 82 | ||
438 | 83 | ||
438.5 | 84 | ||
439 | 85 | ||
439.5 | 86 | ||
440 | 87 | 崩御 |
仁徳天皇在位年数追加
日本書紀の垂仁天皇の在位期間は99年であるが、半年一年暦で考え、さらに後半60年は附け加えられたものであった。日本書紀の記事も垂仁39年までが多く、その後の記事はほとんど存在しない。年数のみ附け加えられていることがわかる。仁徳天皇の記事も同様のようである。仁徳68年~86年までの記事は全く存在しないのである。おそらく、後半の何年間かは年数を付け加えているのみであろう。垂仁天皇の記事と同じ手法だとすると、仁徳62年までが半年一年暦の記事であり、それ以降は同じ干支の別の年ということになる。
仁徳87年の仁徳天皇崩御の記事は真実が、仁徳62年になるはずである。ここに25年のずれが生じている。仁徳天皇が亡くなった427年以降の記事は崩御記事以外に二つある。仁徳65年(429年)の飛騨国反乱記事と、仁徳67年(430年)の御陵を作るという記事である。
そのまま、25年ずれているとすれば、飛騨国の反乱は仁徳40年(416年)、御陵を作るのは仁徳42年(417年)である。同じ干支の年だとすれば、飛騨国の反乱は仁徳5年(399年)、御陵を作るのは仁徳7年(400年)である。
この二つの記事が全くずれていなくて履中天皇の時代だとすれば、履中天皇2年と履中天皇3年である。通常御陵を定めるのは、崩御後次の天皇が行っているはずである。先王の葬儀を盛大に行うことにより、次の王が広く認知されるというのが普通である。反乱がおこりやすいのは天皇の代が変わってすぐの時が安定していないので狙いやすい時である。
これらのことを考えると、これらの仮定の中で、最も自然なのは履中天皇の時代の記事が仁徳天皇の時代に入り込んでいるという仮定である。仁徳天皇の日本書紀の記事は半年一年暦で書かれており、仁徳天皇の時代とされている記事は履中天皇の時代の記事がそのままの年代で挿入されていると判断する。
半年一年歴の復活
神功皇后の時代345年に半年一年暦から中国暦に切り替えられた。応神天皇の時代までは切り替えられた中国暦で記録されていたと思われるが、仁徳天皇の時は再び半年一年歴での記録に切り替わっている。これは、どうしたことであろうか。
仁徳天皇は即位時弟である菟道稚郎子を失っている。これは、王仁が「王位継承は長子を持ってすべき」という中国の思想を持ち込んだためであった。仁徳天皇は菟道稚郎子の死を相当悲しんだと思われ、それが、中国暦に対する嫌悪感につながり、中国暦から慣れ親しんでいた半年一年暦に戻そうとしたのではないだろうか。実際に神功皇后が中国暦に切り替えても、人々は相変わらず半年一年歴を用いており、半年一年暦と中国暦の干支での混乱が生じていたのではあるまいか。それらを総合して、仁徳天皇は半年一年暦に戻したものと思われる。出来事の記録もすべて半年一年暦で記録されたのである。
半年一年干支の変更
仁徳天皇より前と後で半年一年歴の干支に食い違いがみられる。仁徳天皇より前は、神武天皇即位年を辛酉とした半年一年歴の干支が使われていたようであるが、仁徳天皇より後は、中国干支の辛酉と半年一年歴干支の辛酉が一致するように変更されているのである。変更前の干支を旧干支、変更後の干支を新干支と呼ぶことにする。
神武天皇即位年から応神天皇即位年までは旧干支に沿って記録されているようであり、西暦とよく一致している。倭の五王時代より後の時代では新干支がよく一致しているのである。当初はどちらかが本物で、どちらかが修正されたものであろうと考えていたが、共によく一致しており、345年に半年一年暦から中国暦に切り替えるなど当時実際に使用していたと考えなざるを得ない状況があるので、共に実際当時使われていた干支と判定した。
新干支と旧干支は半年一年暦で16年のずれがある。仁徳天皇以前にも、新干支で一致する記事が見受けられるが、仲哀天皇即位年以前ではこのずれが15年となっており、換算ミスが見受けられるので、仁徳天皇以前の新干支は換算されて日本書紀に記録されたものであることがわかる。
いつ、旧干支から新干支に切り替えたのであろうか。切り替え自体が不便さを引き起こすので、中国暦とのかかわりが、変更の理由と思われる。中国暦と半年一年暦の干支の辛酉を一致させていることから、新干支と中国暦の干支が辛酉で一致する年に変更したものと考えられる。その年は、421年である。初めて宋に朝貢した年でもある。
宋に朝貢するとき、中国暦の干支が辛酉であり、辛酉は易姓革命が起こりやすい年と言われている。実際にこの辛酉年に中国では東晋が倒れ宋が成立していて、仁徳天皇も辛酉年に易姓革命が起こりやすいということを信じたと思われる。次の辛酉年が来るまでの年数を最大限伸ばすために、半年一年干支と中国干支の辛酉を一致させたものと考える。これにより平和を祈願したものではないだろうか。
ちょうど朝鮮半島が落ち着きを取り戻した時期であり、それまでの戦乱の時代が再び訪れない事を願って、干支の変更を決断したと考えられる。
421年以降は新干支に切り替えられたのではあるが、それまでの歴史との整合性を維持させるために、それまで言い伝えられてきた出来事の干支を、旧干支から新干支に切り替えて記憶させたと思われる。これが、換算干支である。しかし、仲哀天皇即位前の空位年を付け忘れたために、それ以前の旧干支とのずれが15年になってしまったのである。
しかし、この時、干支の切り替えが行われなかった出来事も混在することになり、日本書紀編集者はそれらの干支の区別ができず、複雑な記事になってしまったと考えられる。
仁徳天皇の在位年数
仁徳天皇の在位年数は日本書紀で87年である。実際は397年前半から427年前半まで61年の在位である。半年一年暦で26年の年数加算が行われている。
旧干支から新干支への変更で、同じ干支の年が新干支の方が旧干支より16年後となる。逆に言えば、新干支の方が旧干支より44年先に来るといえる。干支だけでみると、仁徳天皇の時代に44年追加されたことになる。
帯方界で高句麗軍に敗れた後の倭国の状況
新羅の対応
404年 高句麗領帯方界まで攻め込んだ倭軍を高句麗軍が撃退した。(好太王碑文)
11月、兵を出して燕を侵した。(高句麗本紀)
405年 新羅が朝貢しなかったので攻めた(日本書紀 仁徳17)
倭の人質となっていた百済王子の腆支が、倭の護衛により帰国し百済王に即位した(百済本紀)
夏4月、倭兵が明活城を攻めたが、これを打ち破った。(新羅本紀)
正月、燕王は遼東城を攻めてきたが、勝てずに帰った(高句麗本紀)
404年、帯方界まで高句麗との戦いで攻め込んだ倭国軍であったが、好太王の戦略に敗れた。倭国軍の最初の敗戦であろう。
好太王は背後から後燕がチャンスをうかがっているので、倭国軍との戦いに勝っても、倭国軍を追撃することはできなかった。倭国軍はそのまま引き返したと思われる。
倭国軍の敗戦に素早く対応したのが新羅であった。倭国軍が高句麗に敗れたことを知った新羅は早速高句麗に朝貢し、高句麗の支援を受けた。敗戦の翌年仁徳17年(405年)、新羅は大和朝廷に貢物を送らなかった。貢物をしなくても高句麗が背後にいれば、倭国軍は攻めてこないだろうと思っていたようである。
高句麗と新羅が再び接近していることを知った仁徳天皇はこのままにしていたら、朝鮮半島が高句麗に支配されてしまう危機を感じた。まず、新羅を高句麗から引き離す目的で、高句麗が動けない状況になっているこの時に、倭国軍を新羅に派遣したのである。
仁徳天皇は、倭国軍を派遣し、新羅の明活城を攻めた。新羅本紀では倭兵を撃退したことになっているが、おそらく、朝貢を継続するという約束をした結果倭国軍が引き上げたのであろう。
この年(405年)、百済の阿花王が死去した。百済王子の腆支は倭の人質となっていたので、倭の護衛100人に守られ帰国し百済王に即位した。この同じ年に朝廷は新羅攻撃をしているのである。
百済王子が百済に戻るのに大和朝廷は100人もの護衛をつけている。百済王子が何者かに襲われる危険性があったためと考えるが、この何者かは、新羅ではないだろうか。新羅としては、大和朝廷と百済の関係を断ち切り、百済を新羅・高句麗の陣営に組み入れたいとの思いがあったのではあるまいか。これは高句麗の指示だったかもしれない。
ともあれ、倭国軍の攻撃のもと、新羅の野望は打ち砕かれてしまったのである。高句麗も新羅に援軍を出そうにも後燕が高句麗を狙っているので、新羅支援に動くことができず、新羅は再び大和朝廷の支配下に下ったのである。
後燕滅亡
407年 春三月、倭人が東部を、また六月には南部を侵掠した。(新羅本紀)
燕王木底城を襲うも勝てずに帰る。(高句麗本紀)
後燕は北魏の外圧を受け続ける中で、高句麗・契丹遠征を繰り返して国力を消耗し、7月、慕容熙は漢人の中衛将軍である馮跋に殺害され後燕滅亡。
408年 倭人が対馬島に軍営を設けて、新羅を襲撃しようとしていると聞き、先手を討とうとしたがやめた(新羅本紀)
412年 王子を高句麗に人質として送った(新羅本紀)
高句麗を背後から頻繁に攻撃していた後燕が国力を消耗し、高句麗は背後の安全を担保することができたので、朝鮮半島に出やすくなったのである。新羅はこの機会を逃さず、高句麗に使者を送り、倭国に対して反旗を翻した。
大和朝廷は早速新羅攻撃を開始した。これが、新羅本紀に「407年、春三月、倭人が東部を、また六月には南部を侵掠した。」と記録されている出来事であろう。しかし、この時は新羅が高句麗の援軍を受けており、倭国軍は思い通りの勝利を得ることができなかったのではあるまいか。そのために、3月・6月と間を置かない攻撃がなされたのでろう。
大和朝廷は、新羅の背後に高句麗がいることを知っており、高句麗を攻めなければ新羅は大和朝廷の指示に従わないことがわかっていた。仁徳天皇は高句麗攻撃のために、対馬に倭国軍を集結させた。
新羅本紀408年の記事、「倭人が対馬島に軍営を設けて、新羅を襲撃しようとしていると聞き、先手を討とうとしたがやめた」とある。
この時倭国軍は対馬に集結していたが、新羅がその情報を得ても動いていないことから、この倭国軍の集結は高句麗との戦いのための集結であると考えられる。
当初、新羅は倭国軍が自らを攻撃する準備をしていると勘違いしたが、高句麗を攻撃する目的で集結していたことを知り、倭国軍攻撃をやめたのではないかと判断する。
この408年から数年にかけて倭国軍と高句麗軍が戦っていると思われるが、その記録はどこにもない。おそらく、直接の戦いというより、にらみ合いによる拮抗状態であったのであろう。
このとき、新羅は倭国から独立したいという気持ちが非常に強く、何とかして独立できないものかと色々と策を練っていた。このころは、高句麗の力を借りて倭国から独立しようと企ててはいたが、新羅が倭国についたり高句麗についたりするので、高句麗としても新羅を信頼してよいものか疑っていた。
新羅が使者を送っても高句麗はよい返事を返さなかったのである。そう言った事情もあり、新羅は412年、奈笏王の王子卜好を高句麗に人質として送った。これにより、高句麗は新羅を味方につけ、倭国と対峙することになった。
東晋に朝貢
412年 高句麗好太王死去(好太王碑文)
413年 東晋安帝倭国方物を献ず(晋書倭条)、安帝の時、倭王賛あり。(梁書諸夷伝倭条)
415年 八月、倭人と風島で戦って勝利した。(新羅本紀)
416年 東晋安帝が使者を使わして王を百済諸軍事鎮東将軍百済王に冊命した。(百済本紀)
高句麗と倭国との間のこう着状態が、続いている中、412年、新羅が高句麗側についたのである。仁徳天皇はこの状態が何とか打開できないものかと思案をした。
ここで、大陸事情に詳しい帰化人から、提案があったものと考える。
「高句麗は北魏から、将軍に任命されており、高句麗周辺の国々は高句麗の命に従わなければならない状況にある。それが、高句麗の朝鮮半島進出を助けているのである。中国大陸では北魏に対抗する勢力として東晋がある。東晋に朝貢して東晋から将軍の爵位を得ることができれば、倭国の背後に東晋がいることになり、高句麗も倭国に対して手が出しにくくなるのではないか」
仁徳天皇はこのような提案を受け、早速東晋に使者を派遣することにしたのである。おそらく、阿知使主が文面を考え、孫の阿多倍が使者となって東晋の安帝に朝貢したものであろう。
これが、413年の「東晋安帝倭国方物を献ず(晋書倭条)」、「安帝の時、倭王賛あり。(梁書諸夷伝倭条)」と記録された 出来事であろう。
新羅本紀には、415年の「八月、倭人と風島で戦って勝利した。」という記事がある。風島とは韓国釜山市の影島である。ここは、新羅領ではなく、伽耶諸国の領域である。ここで新羅と倭国軍が戦うということは新羅が伽耶諸国に侵入していることを意味している。415年、新羅が伽耶諸国に侵入し、風島を占拠したものであろう。新羅のこのような行動は高句麗の支援のもとに行われたと解釈される。
仁徳天皇は413年の東晋への朝貢の時、鎮東将軍の位を百済王に授けるように安帝に願い出たのではないだろうか。事実、倭国軍が朝鮮半島で高句麗をはじめとする諸国と戦うよりも、百済自身がそれらの国々に対して防衛の役割を果たしてくれれば、倭国としては最もありがたいことである。
その結果として、416年百済本紀「東晋安帝が使者を使わして王を百済諸軍事鎮東将軍百済王に冊命した。」ということになったのではあるまいか。
百済王が東晋より、鎮東将軍に任じられてからは、頼みの綱だった高句麗の好太王もなくなり、新羅は倭国に対してだけではなく百済に対してもその命に服さなければならなくなったのである。
その影響で、新羅は再び倭国に朝貢するようになり、新羅本紀から倭国との戦いの記事がこの後、しばらく見えなくなる。
宋への朝貢
420年東晋が滅び宋が建国された。東晋から任じられた将軍の名前は朝鮮半島の状況を安定化させるのに十分な威力があった。仁徳天皇は早速宋に使者を送り、宋から継続して将軍に任じてもらうように祈願したのであろう。
新半年一年暦の採用
翌421年が辛酉であった。易姓革命が起こるといわれている年である。その前年に中国で革命が起こったのである。このことは、仁徳天皇にも衝撃を与えたものであるといえる。仁徳天皇は弟の菟道稚郎子を自害に追い込んだ中国大陸の思想に警戒感を持っていたようで、神功皇后が採用した中国暦を半年一年暦に戻そうと考えていた。仁徳天皇は421年の辛酉を機会として、新しく辛酉をスタートとした半年一年暦を始め、過去の出来事を新干支に書き換えさせ、以降の出来事を新干支で記録させたものと考える。
高句麗の朝貢
421年以降、次のような出来事が起こっている。
423年、仁徳53年、新羅が朝貢してこなかったので、新羅を攻める。
424年、新羅が使者を使わして修交を求める(高句麗本紀)。
425年、高句麗長寿王北魏に使者を送り、朝貢した(高句麗本紀)。
425年、呉・高麗国朝貢(仁徳58年・日本書紀)
427年、仁徳天皇崩御(日本書紀)、都を平壌に遷した(高句麗本紀)
東晋が滅亡したのを機会として、東晋の将軍位が有名無実化したので、423年、新羅は再び大和朝廷に背いたのである。仁徳天皇は早速新羅攻撃をした。新羅はその攻撃に耐え兼ね、424年、高句麗に使者を送り、高句麗の援護を受けようとしたのであろう。
長寿王は新羅の救援要請を受け、朝鮮半島に出陣した。しかし、好太王ほどの戦略がない長寿王では倭国の攻撃を跳ね返すこともできなかった。戦いが不利となった高句麗は北魏の応援を得ようと北魏に使者を送った。ところが、この時、北魏は夏との戦いの最中であり、夏に苦戦を強いられていた。その関係で、北魏の救援は得られない状況であった。
ついに高句麗は倭国の攻撃に対抗することができず、倭国に対して和を結ぶこととなった。425年、高句麗は倭に朝貢したのである。
このような中、仁徳天皇は427年崩御した。仁徳61年のことである。
仁徳天皇時代の年表
西暦 | 和暦 | 中国歴 | 旧半年一年干支 | 新半年一年干支 (換算干支) |
日本書紀 | 修正・推定 | 百済本紀 | 新羅本紀 | 中国 | 高句麗本紀 | |||
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394 | 28 | 甲午 | 癸未 | 甲申 | 丁卯 | 戊辰 | 高麗王朝貢。菟道稚郎子は無礼な表書きを怒った。(応神28) | 天皇崩御(応神41) 武内宿禰没(仁徳55) |
高句麗と水谷城と戦って敗れた(394) | 後燕、西燕を滅ぼし、東晋と戦って山東半島を奪回し、西は山西から東は山東・遼東に至る広大な勢力圏を築き上げる。 好太王は水谷城を築いた |
秋7月に百済が攻めてきたので、逆襲しこれを破った。(394) | ||
395 | 空位 | 乙未 | 乙酉 | 丙戌 | 己巳 | 庚午 | 8月王は高句麗を征伐しようとしたが破れた。(395) | 後燕は北魏を攻撃したが、参合陂の戦いで大敗 好太王は礼成江まで反撃する百済軍を撃破して、百済との接境に7城を築いて防備を強化した。 |
王は百済と貝水(大同江)の上流で戦ってこれを破った。(395) | ||||
396 | 空位 | 丙申 | 丁亥 | 戊子 | 辛未 | 壬申 | 菟道稚郎子自害 | 後燕王広開土王を遼東、帯方二国王に封じる。北魏は後燕王が死んだのを好機とし山西省全土を制圧した。 好太王は漢江を越えて侵攻して百済の58城700村を陥落させ、百済王に多数の生口や織物を献上させ、永く隷属することを誓わせた。 |
|||||
397 | 仁徳1 | 2 | 丁酉 | 己丑 | 庚寅 | 癸酉 | 甲戌 | 塩を作る。(応神31) 仁徳天皇即位(仁徳1) 磐之姫皇后(仁徳2) |
百済人来朝。皇子直支を遣わす。(応神8) | 倭国と友好関係を結び王子腆支を人質とした(397) | 百済の阿?王は王子腆支を人質として倭に送り通好する。 | ||
398 | 3 | 4 | 戊戌 | 辛卯 | 壬辰 | 乙亥 | 丙子 | 課税停止(仁徳4) | 内紛と北魏の圧力により、後燕は遼東と遼西を支配するだけの小国に没落 | ||||
399 | 5 | 6 | 己亥 | 癸巳 | 甲午 | 丁丑 | 戊寅 | 高句麗を征伐しようとして兵馬を大いに徴発したので、民はこれを嫌がり新羅に逃げた(399) | 百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平譲に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。 | ||||
400 | 7 | 8 | 庚子 | 乙未 | 丙申 | 己卯 | 庚辰 | 壬生部を定める。(仁徳7) 諸国の者宮廷修理を願い出る(仁徳8) |
高句麗、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。(碑文) | 高句麗軍が新羅へ軍を進めると新羅の都にいた倭軍は任那・加羅へ退き、高句麗軍はこれを追撃した。これにより新羅は高句麗の朝貢国となった。 燕王盛は兵三万を率いて高句麗の背後を突いた |
2月、王は燕に朝貢した。燕王は礼が高慢であるとして、兵3万を率いて襲ってきた。新城、南蘇城を落とされた。(400) | ||
401 | 9 | 10 | 辛丑 | 丁酉 | 戊戌 | 辛巳 | 壬午 | 宮廷修理(仁徳10) | 高句麗に人質として行っていた実聖が返ってきた。(401) | 慕容盛が禁軍の反乱により殺害された。高句麗・燕の戦いで燕は国力消耗、新羅の人質実聖を新羅に返す。 | |||
402 | 11 | 12 | 壬寅 | 己亥 | 庚子 | 癸未 | 甲申 | 堀江開拓(仁徳11) 高麗国が鉄の盾を奉った(仁徳12) |
五月、使臣を倭国に遣り、大珠を求めた。(402) | 倭国と国交を結び、奈勿王の王子・未斯欣を人質とした。(402) | 王は兵を派遣して燕の宿軍城を攻めた(402) | ||
403 | 13 | 14 | 癸卯 | 辛丑 | 壬寅 | 乙酉 | 丙戌 | 茨田屯倉を立てる。(仁徳13) 水田増設(仁徳14) |
高麗・百済・任那・新羅人来朝、池を作らせる(応神7) | 2月倭国の使いが来たので慰労した。7月新羅の辺境を侵した(403) | 秋7月、百済が辺境を侵した(403) | ||
404 | 15 | 16 | 甲辰 | 癸卯 | 甲辰 | 丁亥 | 戊子 | 玖賀姫を召す(仁徳15) | 高句麗領帯方界まで攻め込んだ倭軍を高句麗軍が撃退した。(碑文) | 11月兵を出して燕を侵した。(404) | |||
405 | 17 | 18 | 乙巳 | 乙巳 | 丙午 | 己丑 | 庚寅 | 新羅が朝貢しなかったので攻めた(仁徳17) | 阿花王死去。直支王即位(応神16) | 倭の人質となっていた百済王子の腆支が、倭の護衛により帰国し百済王に即位した(405) | 夏4月、倭兵が明活城を攻めたが、これを打ち破った。(405) | 正月、燕王は遼東城を攻めてきたが、勝てずに帰った(405) | |
406 | 19 | 20 | 丙午 | 丁未 | 戊申 | 辛卯 | 壬辰 | 直支王妹を遣わす。(応神39年) | |||||
407 | 21 | 22 | 丁未 | 己酉 | 庚戌 | 癸巳 | 甲午 | 八田皇女を召そうとした(仁徳22) | 春三月、倭人が東部を、また六月には南部を侵掠した。(407) | 後燕滅亡 | 燕王木底城を襲うも勝てずに帰る。(407) | ||
408 | 23 | 24 | 戊申 | 辛亥 | 壬子 | 乙未 | 丙申 | 倭人が対馬島に軍営を設けて、新羅を襲撃しようとしていると聞き、先手を討とうとしたがやめた(408) | |||||
409 | 25 | 26 | 己酉 | 癸丑 | 甲寅 | 丁酉 | 戊戌 | 北燕建国、以後朝鮮半島は平和になる。 | |||||
410 | 27 | 28 | 庚戌 | 乙卯 | 丙辰 | 己亥 | 庚子 | ||||||
411 | 29 | 30 | 辛亥 | 丁巳 | 戊午 | 辛丑 | 壬寅 | 山城巡幸(仁徳30) | 王子を高句麗に人質として送った | ||||
412 | 31 | 32 | 壬子 | 己未 | 庚申 | 癸卯 | 甲辰 | 皇太子決定(歳15)(仁徳31) | |||||
413 | 33 | 34 | 癸丑 | 辛酉 | 壬戌 | 乙巳 | 丙午 | 東晋安帝倭国方物を献ず(晋書倭条) 安帝の時、倭王賛あり。(梁書諸夷伝倭条) |
好太王崩ず | ||||
414 | 35 | 36 | 甲寅 | 癸亥 | 甲子 | 丁未 | 戊申 | 磐之姫没(仁徳35) | |||||
415 | 37 | 38 | 乙卯 | 乙丑 | 丙寅 | 己酉 | 庚戌 | 磐之姫奈良山に埋葬(仁徳37) 八田皇女を皇后とする(仁徳38) |
八月、倭人と風島で戦って勝利した。 | ||||
416 | 39 | 40 | 丙辰 | 丁卯 | 戊辰 | 辛亥 | 壬子 | 雌鳥皇女を妃にする(仁徳40) | 東晋安帝が使者を使わして王を百済諸軍事鎮東将軍百済王に冊命した | ||||
417 | 41 | 42 | 丁巳 | 己巳 | 庚午 | 癸丑 | 甲寅 | 紀角宿禰を百済に派遣(仁徳41) | |||||
418 | 43 | 44 | 戊午 | 辛未 | 壬申 | 乙卯 | 丙辰 | 鷹狩を行う(仁徳43) | 新羅王、汗禮斯伐・毛麻利叱智・富羅母智等を遣して朝貢る。微叱許智伐干を返す。襲津彦新羅を討つ(神功5年) | 夏 使者を倭国につかわし、白綿を十反を送った。 | 秋、王弟の未斯欣が倭国から逃げ還った。 |
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419 | 45 | 46 | 己未 | 癸酉 | 甲戌 | 丁巳 | 戊午 | ||||||
420 | 47 | 48 | 庚申 | 乙亥 | 丙子 | 己未 | 庚申 | 直支王没、久爾辛即位(応神25) | 東晋滅び宋立つ | ||||
421 | 49 | 50 | 辛酉 | 丁丑 | 戊寅 | 辛酉 | 壬戌 | 堤で雁が子を産む(仁徳50) | 詔(みことのり)していわく「倭讃、萬里貢を修む。遠誠よろし。甄(あらわ)すべく、除授を賜うべし」と。(宋書倭国伝) | ||||
422 | 51 | 52 | 壬戌 | 己卯 | 庚辰 | 癸亥 | 甲子 | ||||||
423 | 53 | 54 | 癸亥 | 辛巳 | 壬午 | 乙丑 | 丙寅 | 新羅と争う(仁徳53) | |||||
424 | 55 | 56 | 甲子 | 癸未 | 甲申 | 丁卯 | 戊辰 | 蝦夷が叛く(仁徳55) | 新羅が使者を使わして修交を求める | ||||
425 | 57 | 58 | 乙丑 | 乙酉 | 丙戌 | 己巳 | 庚午 | 荒陵に橡が生えた。呉・高麗国朝貢(仁徳58) | 司馬の曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる。(『宋書』夷蛮伝) | 高句麗長寿王北魏に使者を送り、朝貢した。 | |||
426 | 59 | 60 | 丙寅 | 丁亥 | 戊子 | 辛未 | 壬申 | 白鳥御陵の御陵守を搖役に充てる(仁徳60) | |||||
427 | 61 | 履中1 | 丁卯 | 己丑 | 庚寅 | 癸酉 | 甲戌 | 氷を献上(仁徳62) | 仁徳天皇崩御(仁徳61) 仲皇子の乱 磐余稚桜宮にて即位 黒姫を妻とした。(履中1) |
都を平壌に遷した | |||
428 | 履中2 | 戊辰 | 辛卯 | 壬辰 | 乙亥 | 丙子 | 瑞歯別皇子を皇太子とする。 磐余池を作った。 |
倭国から使臣が来た。従者は50人であった。 | |||||
429 | 3 | 己巳 | 癸巳 | 甲午 | 丁丑 | 戊寅 | 飛騨国反乱(仁徳65) | 宋に朝貢した。(百済本紀) | |||||
430 | 4 | 庚午 | 乙未 | 丙申 | 己卯 | 庚辰 | 仁徳天皇陵を作る(仁徳67) 諸国に国史を置いた。 石上に用水路を掘った。 |
1月、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる。(『宋書』文帝紀) | 宋文皇帝は、先王の称号をそのまま百済諸軍事鎮東将軍百済王となった | ||||
431 | 5 | 辛未 | 丁酉 | 戊戌 | 辛巳 | 壬午 | 皇后が亡くなる。 | 倭国軍が大陸を平定(推定) | 倭兵が東の辺境に攻めてきて、明活城を包囲したが、功なく引き上げた | ||||
432 | 6 | 壬申 | 己亥 | 庚子 | 癸未 | 甲申 | 天皇病死 |
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