神武天皇東遷 瀬戸内航路 山口県下の伝承
岡田宮出航
日本書紀には岡水門に11月9日に到着、安芸埃宮に12月27日到着となっており、また、古事記には岡田宮に1年滞在したことになっている。この通りなら計算は合うのであるが、山口県周南市の神上神社の伝承によると、神武天皇はここに6ヶ月間滞在したことになっている。また、12月27日に安芸国に到着後翌年3月6日には高島宮に移っている。古事記では7年と8年滞在したことになっており、両者には大きな違いがある。
安芸国に伝えられている神武天皇関連の伝承はかなり多く、日本書紀にあるような短期間の滞在とは考えられない。戊午の年2月11日に高島宮を出航しているが、これ以降の日本書紀の日付に大きな矛盾は見当たらない。岡田宮出航から高島宮出航までの期間に問題があるようである。
山口県下には、神武天皇関連伝承地は少ないが存在している。神上神社には半年滞在したと伝えられている。しかし、滞在日数の割には伝承が少ないのである。実際は半年も滞在していないように思われる。
1. 加茂神社
山陽小野田市厚狭奥の浴392 祭神 別雷命 瓊瓊杵命 神武天皇
2. 厳島神社
防府市三田尻1103 祭神 市杵島姫命 田心姫命 瑞津姫命
「この松原は磯の神厳島明神此処に天降りまして、今の厳島に迂らせ給ひければ・・・」と伝えている。
3. 国津姫神社
防府市富海 祭神 市杵島姫命 田心姫命 瑞津姫命
三女神宇佐島よりの御船着地の地と伝える。
4. 神上神社
周南市川上59 祭神 神武天皇
神武天皇御東幸の砌の行在所と伝える。ダム建設で当初の位置から移動している。
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神上神社 |
5. 神上神社
周南市下上1054 祭神 神武天皇他
神上神社由緒書
神倭伊波礼毘古命(神武天皇)は、遠大な建国の御計画の元に、舟師をひきいて、日向高千穂を進発され、長い年月と幾多の辛酸を経て大和を御平定、橿原宮においてわが国初代の天皇として御即位になった。
この神上の地は、天皇が日向御進発の当初、海上の遭難によってお立ち寄りになり、半年の間をお過ごしになった行宮であり、御東行の途次、暫し安らかに憩われ、深く御心に留め給うた聖跡である。
天皇は、日向より筑紫国を経て海路内海を御東行中、周防灘に至り思わぬ風波に御遭遇、北の方へ吹き寄せられたので、ほど近い小島(竹島)にお舟を留められた。この時天皇は御船酔い甚だしく、島の対岸に漕ぎ入れてお休みになった。里人は種々の薬草を献じ御快癒をお祈りした。これを含まれると即ち御快くならせられ、「我が心たいらかなり」と仰せられ、里の名を「たいらの里」(平野)と命名された。
さらに、波音の聞こえぬ地でお休みのため、水際伝いに進まれると里があり、此の処の石に御腰をお掛けになるうちに夜が明けた。この地は海上より微かな光を見た吉兆の地であり、微明(見明・みあけ)という。
ここより山の麓をおのぼりになると、谷水の音が幽かに聞こえる静かなところ、彼方に黒髪島、仙島などが夢のように浮かぶ瀬戸の海を眼下にした絶勝の小高い丘にお着きになった。ここに仮宮の御造営を仰せ出された。
天皇は近い高根に登って四方の地勢をご覧になり御東行の道を御案じになった。この時、四匹の熊が地に伏し額づいたので、この山を「四ツ熊の峯」(四熊嶽)と名づけられた。
およそ半年、この仮宮で態勢を整えられた天皇は、「御舟は海の上を経よ、我は陸地を行かん」と仰せられて再び御進発、安芸国・吉備国を経て遂に大和にお入りになり建国の鵬図は成った。
天皇は、この神上の地に深く御心をお留めになり、ご出発にあたって、「朕何国ニ行クトモ魂ハ此ノ仮宮ヲ去ラザレバ長ク朕ヲ此ニ祀ラバ国ノ守神トナラン」と宣らせ給うた。
里人等はその御旨を畏み、仮宮の地に祀宇を建立し、「神上宮」と称して斎祀し奉った。
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神武天皇御腰掛岩 | 神上神社 |
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神上神社前の景色 | 腰掛岩標柱 |
6. 四熊嶽神社
周南市四熊2850 祭神 神武天皇他
「天皇近き高根に登り給うたところ、穴ありその穴の中より熊四匹あらはれたが、神威にうたれてか地にふしぬかづいた。此の山こそ山容秀麗なる周防小富士四熊山であって、「四熊の峰」の名はこの尊き故事より起こったのである。天皇此の山より四方の地勢を臠(みそな)はし御東行のみちを按じさせ給うた。」 ・・・神武天皇御東征と山口県より
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四熊嶽神社 | 四熊嶽 |
7. 橿原神社
熊毛郡熊毛町呼坂27 祭神 神倭伊波礼毘古尊
神武天皇東征御途次の聖地と伝える。神社より1km程西に熊毛神社がある。その西200m程の所に御所尾原の台地がある。「天皇この地を切り開いて行宮を作り、御母玉依姫戸とともに御滞留あらせられ、又軍兵を調練し給うた霊蹟である」と古老は伝える。
徳山市の北山→毛利邸裏→大河内→馬屋→久米→上地→浴→時宗→山田→呼坂の経路を通ったと里人は伝えている。
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橿原神社 |
8. 加茂神社
光市浅江558 祭神 別雷命 玉依姫 建角身命 神日本磐余彦尊
9. 浅江神社
光市浅江 祭神 別雷命 玉依姫 神日本磐余彦尊 三女神 他
10. 賀茂神社
光市三井817 祭神 別雷命 玉依姫 建角身命 神日本磐余彦尊
11. 野島神社
熊毛郡平生町平生131 祭神 市杵島姫命 多伎理姫命 多岐都姫命
市杵島姫命厳島に降臨の時、この島に暫時御休止あり。
12. 日向平・箕山・皇座山
神武天皇が立ち寄った所と伝える。箕山山頂には神武天皇を祀った祠がある。皇座山は神武天皇が座ったところと伝えられている。平生から柳井津の間は現在は陸地であるが当時は水道だったとのことである。水道の出口にあたる柳井市遠崎には「御一行の御船艇が大畠瀬戸通過のためしばらくここに潮待ちす」との口碑あり。
13. 賀茂神社
柳井市阿月相浦516 祭神 別雷命 玉依姫 神日本磐余彦尊
14. 賀茂神社
柳井市伊保庄近長538 祭神 別雷命 玉依姫 三毛入沼命
15. 岩隈八幡宮
玖珂町九重山903 祭神 磐余彦神 三毛入野神 玉依姫神 他
「往古三毛入野命祖生郷天降岩熊山。故名之謂熊毛、今熊毛宮之也云々」
16. 岩隈八幡宮
周東町祖生7184 祭神 三毛入野命 他
岩熊山にある。もと熊毛宮。三毛入野命降臨地。岩熊山の西麓にある熊岩は特に命の愛で給ひ、又此の岩に御越を掛け釣を垂れ給うた聖蹟と伝えられている。熊毛神の熊はこの熊岩の「熊」、御名三毛入野命の「毛」より起こったと云われている。
命には字降居の地に宮を営み御滞留遊ばされたが、里人はその御徳を慕い奉り、熊毛の宮を「鎮座」の地に創めて命の霊を祀ったのである。岩熊山の中腹岩隈八幡宮参道の西側に三毛入野命御神陵伝説地がある。
17. 賀茂神社
岩国市柱島491 祭神 神倭磐余彦命 他
神武天皇東遷時に寄港し、従軍した者の子孫が御遺徳を偲んで奉祀したと伝える。
18. 装束神社
岩国市装束232 祭神 市杵島姫命
市杵島姫降臨の時、神衣を改められた。
19. 着神社
岩国市小瀬2369番 祭神 神武天皇
神武天皇東征時、御寄港遊ばされたの伝承あり
山口県下の伝承から推定する東遷経過
岡田宮出航
狭野命一行は出航準備が整ったので、AD79年前半11月、岡田宮を出航した。洞海湾を出て、遠賀川河口からの一団と合流し、関門海峡の潮の流れに合わせて、海峡を一挙に越え、初日は30kmほど隔てた長府港あたりに入港した。長府近辺には神武天皇上陸伝承は見当たらないが、航行距離からこのあたりに停泊しているはずである。
次の日の停泊地は16kmほど隔てた小野田市の厚狭川河口あたりに停泊したものと考えられる。河口から12km程厚狭川を遡ったところに加茂神社があり、神武天皇が祀られている。この周辺に滞在したかもしれないが伝承はともなっていない。次の日は宇部港あたり、その次の日は阿知須あたりに停泊したと思われるが、伝承は一切存在しない。
防府市の佐波川河口あたり、次の日に富海に停泊したものであろう。富海の国津姫神社に市杵島姫が祭られており、市杵島姫が厳島へ行く途中停泊したという伝承がある。市杵島姫は狭野命と共に安芸国へ行ったと考えているので、狭野命も此処に停泊したのであろう。順当であれば岡田宮出航後ここまで6日程であろう。
徳山神上神社仮宮
神上神社の伝承を元に行幸過程を推理して見ることにする。伝承では風波により北に寄せられたと伝えられているので、距離からして狭野命一行は下松港辺りを目指していたと思われる。富海を出航してまもなく天候が悪化して、海が荒れたため、北に寄せられ、竹島に緊急的に立ち寄ったものであろう。狭野命は舟のゆれの激しさから船酔いをし、現在の周南市平野に上陸、ここで、休息をした。ここで人々から薬草の献上を受け、見明の里(周南市下上)に滞在した。体調の回復と舟の修繕のため、暫らくここに滞在する事とした。仮宮を求めて、近くの丘陵に登ると、眼前の景色の美しさに惹かれた。狭野命は瀬戸内の島々を見るのは此処が初めてであり、その感動はかなりのものだったであろう。此の地に仮宮を設けた。現在の神上神社の地である。
狭野命は仮宮を造って暫らく後、周辺の地勢を知るため、近くにある四熊嶽に登った。熊が4頭出てきたので、四熊と名づけたと伝えられている。
狭野命は四熊嶽に登って暫らく後、周辺を巡幸している。その一つに周南市川上の神上神社の地がある。此の地にも仮宮を造ったという伝承があるが、見晴らしが良い場所ではなさそうである。巡幸途中の一泊の仮宮であろう。ここは現在川上ダムの湖底になっているので、元の地勢がわからなくなっている。この周辺の巡幸伝説が乏しいのでどの範囲で巡幸したのかは不明である。
舟の修繕も終わり、周辺の探索も終わったので、この地を出航することになった。此処より西には神武天皇関連伝承地が存在しないのに、東には神武天皇関連伝承地が内陸にも及んでいる。このことは、ここまで、狭野命はただ東を目指して進んでいたが、ここからは方々に滞在して地方の人々と交わったことを意味している。このことから、この周辺は東倭に所属しているが、現地の人々に触れる中で、大和朝廷成立後の停泊地確保のためにも東倭の内陸部の豪族にも協力を求めていく方針を固めたと思われる。
それを裏付けるのが、狭野命出発時の舟は海を行き、我は陸を行くという言葉である。
島田川流域巡幸
海陸両方で進むと海路が一日20km程、陸路が一日7kmから10km程であり、海路のほうが2~3倍速い。海路を行く側では待ち合わせのために長期間港に滞在することになる。島田川流域に神武天皇または、三毛入野命の伝承地がちらばっている。また、島田川河口に神武天皇を祀った神社が加茂神社・浅江神社と複数存在している。このことから、里人の伝承より狭野命は神上神社の地より陸路を徳山市北山(現住吉町)→毛利邸裏(現市民会館)→大河内→馬屋→老郷地→上地→浴→時宗→山田→呼坂勝間の経路を通ったと考えられる。この経路は現在の国道2号線と山陽自動車道の間を通る廃道になっている旧道である。勝間では熊毛神社の地に三毛入野命、御所尾原に狭野命が宮を作りしばらく滞在している。ここを基点として周辺の豪族に大和朝廷への協力を依頼して周った。四熊山に出てきた熊というのは帰順した周辺豪族のことであろう。
同時に滞在した人物に玉依姫がいる。狭野命の母であるが、ほかの伝承地に一行に母が同行しているという伝承は全くない。これは同行していたと推定している市杵島姫ではあるまいか。
海路を行った一行は徳山港から島田川河口まで22kmほどを1日で行き、此処を待ち合わせの地としたものであろう。勝間での役割を終えた狭野命一行は勝間の御所尾原から川に沿って下り中村→小周防で島田川に到達するそこから、島田川に沿って下り河口で待ち合わせの船に乗ったと考えられる。三毛入野命は勝間から陸路を岩国まで移動したものと推定する。両者は岩国で再び出会うこととして呼坂で別れた。三毛入野命は玖珂(岩隈八幡宮)まで進んだ。この地方では彼を熊毛神として崇めることになった。
島田川河口で合流した一行は平生港まで1日の行程である。
平生港にて
平生港は田布施川河口に広がる湾で、舟を長期に渡って停泊させるには適当なところである。追従して来た市杵島姫一行は湾内の野島に宮を造り滞在し、狭野命は日向平というところに宮を造った。宮伝承はないようであるが、地名から判断してここに宮があったと考えられる。平生港は今は湾であるが、この当時は反対側の柳井津まで水道が通じていたようである。この水道を田布施水道と仮称しておく。
ここからは島が多く高い山の上から航路を探るか、案内人がいないと無事に通過するのが難しいところである。狭野命はここから箕山・皇座山と山の稜線を歩き、山から航路を一望した。市杵島姫もここから故郷の国東半島を眺めたのではあるまいか。箕山には神武天皇を祀った祠があり、皇座山には天皇が座したといわれている岩がある。
岩国を目指して
平生港から三毛入野命との待ち合わせ場所としている岩国まで航行しなければならないが、途中柱島に立ち寄っている。柱島は広島県との県境近くではるか沖合いにある。ここを通過するということは、その経路が周防大島の南側であることを意味している。なぜ、このような大周りをしたのであろうか。直に岩国に向かおうとすれば柳井から大畠の海峡を抜ければ良いはずである。安芸国に向かうとすればこの経路は矛盾だらけである。しかし、地図で調べる限りにおいて、大和と北九州の交易航路という視点から考えると、周防大島の東端は四国松山まで20km、広島県倉橋島まで20kmと共に1日の行程の位置である。ここに航海の拠点を造っておけば、北九州と大和との航路は安定したものとなりうるのである。
そういった配慮があったかどうかわからないが、早く岩国に着いても何日も三毛入野命を待つ必要があり、その点では遠回りする日数の余裕はあったことになる。この点を考えると次のような経路が推定される。
平生港を出た一団は田布施水道を通過し、柳井市の遠崎に滞在した。ここで一行が潮待ちしたという伝承がある。そこから、周防大島の南側海岸に沿って進み、周防大島町の外入港、そして、周防大島の東端の日向泊に停泊したものと考えられる。日向泊とはここまでの航路で、狭野命が停泊した処に良く付けられている地名である。伝承の確認はしていないが、ここは四国・広島方面との分岐点にあたりここに瀬戸内海航路の拠点を造ったのであろう。次の日、ここから、柱島に渡った。柱島には神武天皇東遷団の子孫が天皇を祀ったと伝えられている神社が存在している。ここで、滞在中東遷団の一部が島に残ったものと判断する。各拠点となるところではその拠点を維持するために東遷団の一部が残ったのかもしれない。
柱島を出た狭野命一行は市杵島姫が岩国市装束の地にて滞在をし、狭野命一行は岩国市小瀬の着神社に宮を作って滞在した。ここで、内陸部を巡幸していた三毛入野命と合流したものであろう。ここから安芸国目指して進むことになった。
旧山陽道の苦ノ坂に市杵島姫に関する伝承がある。
「市杵島姫が九州筑紫の国から安芸国へ移動の途中、木野坂へさしかかったところ長旅の疲れも出て苦しかったので、手に持っていた「ちきり」(機織具)を傍の池に投げてしまわれた。村人は哀れんで池の畔に小さな祠を建ててお祀りしたと伝えられている。それ以来、木野坂を「苦の坂」、池を「ちきり池」と呼ぶようになった。」
この伝承は市杵島姫が陸路を移動したことを意味している。狭野命一行は海路を市杵島姫は陸路を安芸国へ向かったのではあるまいか。
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