合併論議の台頭

高皇産霊神の焦り

先代旧事本紀の記事

高皇産霊尊は速飄神(はやてのかみ)
「我が神の御子の饒速日尊を葦原中国に使わした。疑わしい事がある。汝は降って調べて報告しなさい。」
と命じられた。速飄命は命令を受け天降り、亡くなられた事を見て天に帰り復命して
「神の御子は既に亡くなられました。」
と報告した。高皇産霊尊は哀れと思い、速飄命を使わして、饒速日尊の遺体を天上に上げ、その遺体の側で七日七夜、騒ぎ悲しまれた。天上に葬られた。
饒速日尊は夢によって妻の御炊屋姫に
「我が子を私の形見としなさい。」
と言い、天璽の御宝を授けた。また、天羽羽弓(あまのははゆみ)と天羽羽矢(あまのははや)、また神衣帯手貫(かみのみそおびたすき)の三物を登美白庭邑(とみのしらにわのむら)に埋葬した。これを持って墓と為した。

 高天彦神社が天孫降臨の地と伝えられているように、この記事は国譲りの物語によく似ている。国譲り神話を要約すると、
葦原中国に派遣した天稚彦がなかなか復命しないので雉を派遣したところ、天稚彦が高天原を裏切っていたので高皇産霊尊は天稚彦を殺した。

この二つの記事は元来同じものではないかと考える。饒速日尊が作ったヒノモト(葦原中つ国)と倭国(高天原)の合併が国譲り神話と重なったのではあるまいか。国譲りの後の天孫降臨伝承も高天彦神社に存在している。このように考えた場合、完全ではないが次のような対応が見られる。 

国譲り神話との対比
記紀神話 大和の伝承
国を開拓した人物 大国主命 饒速日尊
高天原から派遣された人物 天稚彦 味鋤高彦根神
催促に派遣された人物 速飄神
降臨した人物 瓊々杵尊 神武天皇
道案内の人物 猿田彦 鴨建角身命

 高皇産霊神は倭国において日向津姫を補佐している重要人物である。素盞嗚尊の夢は日本列島全体を統一することである。饒速日尊がヒノモトを建国して東日本全体を統一したが、 その最終目的はあくまでも日本列島全体の統一のはずである。東日本全体の統一が完了すれば倭国との間に合併の話がなければならないが饒速日尊からは何の連絡もない。 そのままヒノモトと倭国に別れたまま饒速日尊の子孫がヒノモトを統治するように饒速日尊が考えているのかもしれない。その不安が、先代旧事本紀の記事の「疑わしい事」なのであろう。

 高皇産霊神は饒速日尊が紀元50年ごろ味鋤高彦根を日本列島統一の使者として大和に派遣した。 饒速日尊の隠棲地と考えている白木のすぐ近く初瀬川流域の和田というところに葵坂と呼ばれているところがある。ここに味鋤高彦根神の磐座がある。 白木に隠棲している饒速日尊に会うために、ここまでやってきたのではないかと考えている。そして、味耜高彦根命は饒速日尊と共に陸奥国統一に出発してしまった。 味鋤高彦根がいつまでたっても倭国に復命しないので、高皇産霊神は、数年後、速飄神を派遣したが、このときすでに饒速日尊は亡くなっていたものであろう。紀元66年ごろである。

 ヒノモト内の情勢

 ヒノモトと倭国の合併を推し進めるために大和に派遣されてきた味耜高彦根命は、葛城に拠点を置きヒノモト内の豪族と様々な交渉を進めていった。 ヒノモトは宇摩志摩手の失政もあり地方が 落ち着かなくなっていた。三輪一族、葛城一族、長髄彦一族などが、ヒノモトの後継者争いを起こしたのである。倭国とヒノモトの互いの後継者通しを 政略結婚させて大合併を成功させるというのは饒速日尊・高皇産霊神双方ともに納得している方針である。先ず西倭とヒノモトを合併させ、その後で、東倭を合併させようとした。西倭とヒノモトでは誰と誰を結婚させるかというのが 大きな課題であった。倭国側は正統な後継者としてAD58年に誕生した狭野命であることは確定した。ところがヒノモト側の後継者が決まらなかった。 饒速日尊が存命ならあっさりと決まったであろうが、それぞれの一族が自らの一族の娘を後継者に挙げているのである。また、長髄彦一族は合併そのもの に反対している。

 末子相続の原則からすると饒速日尊の末子は事代主命でそのまた末子は誕生間もない五十鈴姫であった。正論としては五十鈴姫がヒノモトの後継者となるのであるが、五十鈴姫は三輪一族に属していた。

 最大の問題点はヒノモト内の後継者争いである。なんとしても強硬に反対しているのが宇摩志摩手の叔父の長髄彦である。彼としては甥の宇摩志摩手が饒速日尊の河内平野統一、 東日本地域一帯の統一に大きく貢献し、ヒノモトの実質支配者であったのに、後継者が自分と関係のない言代主の子では納得できないのも無理はない。彼はこの案に強く反対した。 彼としてはヒノモトの後継者を宇摩志摩手とし、倭国から後継者の娘を向いいれて合併するように主張したのである。

 そのほか反対しているのは葛城の高天彦である。五十鈴姫は葛城一族の血を引いてはいるが言代主が三輪一族の養子になっており、 倭国との合併後三輪一族が勢力を強めるのは明らかである。こういった点が不満であるために葛城一族の賛成を得ることは難しかった。しかし、 味鋤高彦根が葛城一族の娘と結婚しているので長髄彦ほどの強烈な反対はなかった。

 味鋤高彦根は10年ほどかけてヒノモトの各豪族の意見をまとめようとしたが、反対派、賛成派それぞれがなかなかまとまらなかった。倭国の狭野命、ヒノモトの五十鈴姫は共に 適齢期に成長した75年ごろ、いつまでもこの状態が続けば、合併の時期を逸してしまうと判断した味鋤高彦根はヒノモトが承諾したと言って、強引に合併策を推し進めることにした。 倭国は準備を進め、紀元79年狭野命は倭国を出港した。

 ヒノモトと倭国の合併が成功した後、味鋤高彦根は残る東倭の出雲国も合併させるために下照姫と共に、出雲に旅立ち、出雲で亡くなった。

 合併交渉

 ヒノモトで饒速日尊が亡くなった直後のAD66年頃より、本格的に倭国・ヒノモトの合併交渉が始まったと思われる。

 代表者

 倭国の代表者は第三代倭国王日向津姫、高皇産霊神だと思われるが、ヒノモトの代表者は誰であろうか。正規には事代主命となるべきであろうが事代主命は東倭の統治者となっているので、それ以外の代表者が必要である。ヒノモトの実質的権力者は宇摩志摩手命かと思われる。飛騨国の意向もあるので賀茂建角身命の子である玉依彦命も意見を言う立場にあるといえる。代表者がどこかに集まって話をしたという形跡が見られないので、味耜高彦根命が双方の意見を聞いて調整して回ったのではないかと推定する。

 倭国の実態

 合併交渉が始まって間もなく日向津姫が亡くなった。代わって交渉を主体的に行ったのが第4代倭国王日子穂々出見尊であろう。正規の後継者鵜茅草葺不合尊は交渉次第ではヒノモトの国王になるので倭国王にならなかったのではないかと考えている。倭国としては鵜茅草葺不合尊またはその嫡子の狭野命が統一国家の国王になることを想定して話を進めようとしていた。

 ヒノモトの実態

 これに対してヒノモトの方が意見の統一ができていなかった。合併そのものに反対する長髄彦をはじめとする人々も発言力を持っていたが、だれを倭国との結婚相手にするかで各豪族の意向がばらばらであり一つにまとまらなかった。

 合併交渉の推定

 統一国家の都を倭国の都である鹿児島神宮とするには、中心地域から大きく離れているので難がある。また、海外交易の利便性を考えると北九州のどこかにする案もあったが、今後東日本地域が西日本地域に比べて開発が遅れており、この地域の開拓が重要視される中、ヒノモトの都である大和を統一国家の都とするのがよいということで意見がまとまった。

 大和が都になることが決定してからは合併反対の豪族も少なくなったと思われる。次にどちらが王を出しどちらが妻を出すかであるが、ヒノモトの方から王を出し、倭国から妻を迎えれば実質ヒノモトによる倭国の吸収合併になってしまい、これには倭国が承知しなかった。

 対等合併を目指す以上は、倭国から王を出し、ヒノモトから妃を出す以外になかった。倭国には王の有力候補者狭野命がいたが、妃の候補者はいなかった。逆にヒノモトの方は王を出すとなれば各豪族の意向が強く出るのでまとまりがなくなることが明らかであったので、倭国から王を、ヒノモトから妃を出して政略結婚させ統一国家を作ることで意見がまとまった。

 今後の活躍を考えると、互いの候補者は若い年齢が理想的なので、倭国は鵜茅草葺不合尊の末子狭野命に決定した。ヒノモトの方は豪族の意向がぶつかりあったのではあるが、多くの豪族が納得できる人物は、最終的に飛騨国の血を引いており、饒速日尊の直系の孫で末子の五十鈴姫以外にいなかった。反対する豪族は残ったが、最終的に五十鈴姫で決定した。

 これにより、倭国から狭野命を婿養子にとることにより、倭国とヒノモトとの合併が決定したのである。しかし、大和国内で合併に反対する豪族が数多く存在していたので、ヒノモト内での話し合いが進められた。

合併に対する課題 

 大合併を実現するためには乗り越えねばならないさまざまな課題がある。それをまとめてみると、
 ① 倭国はこの当時東と西に別れているが、西は良いとしても東倭をどうするか。
 ② 合併した後の国名をどうするか。
 ③ 狭野命が婿入りした場合、この日向はどうするのか。
 ④ 北九州の伊都国はいま一大卒(伊都卒)が金印を携えて治めているが、これを初めとする各地の役人をどうするか。

 まず、②についてであるが、都が大和になる以上国名は「ヒノモト」とするのがよかろうということになった。しかし、ヒノモトには外国との交流実績がほとんどなく、外国には倭国という名前で知られている。国名が変わると、せっかく築いた外国との信頼関係が崩れることも予想され、旧ヒノモトを立て直すためにも外国との交流は最優先としなければならない。その上、「倭国」という国名は素盞嗚尊がつけたもので、なくしたくないという人々の気持ちも加わり、海外との交流に関しては今までどおり、「倭国」を使おうということになった。

 ④についてであるが、役人は当然中央との連絡を密にする必要があるために、大和から派遣するという形をとらなければならない。特に、外国交流の玄関口である伊都国は重要である。最重要拠点として、畿内からの役人(一大卒)を派遣することにした。このため後期中葉より伊都国に方形周溝墓が出現し畿内系土器が集中的に出土するようになる。九州内のそのほかの地は、畿内から直接派遣するのは大変なので、一大卒が九州全体を統治することにした。伊都国の一大卒はその全権が任されていた。

 ①の東倭をどうするかというのが最大の課題であった。東倭の事代主命に相談すると、「西倭とヒノモトの合併は素盞嗚尊の夢でもあるので賛成である。しかし、素盞嗚尊の聖地である出雲がヒノモトあるいは西倭の勢力圏に入りその支配下に下るというのは、素盞嗚尊軽視につながり、何が何でも認められない。合併後旧ヒノモトには素盞嗚尊祭祀がないので、素盞嗚尊祭祀を広めるために協力はしたい。」とのことであった。事代主命は饒速日尊が東倭も大合併に参加させるという意図で東倭に派遣したのであったが、出雲の人々の意向が統一国家に参加することに反対だったので、事代主自身はそれを覆すことができなかった。出雲を合併後のヒノモトに取り込むのは無理であると判断した。これにより、東倭に自治を認めるという形になった。これが後期中葉に中国地方に方形周溝墓が出現しない理由となった。そして、これが後の倭の大乱の遠因となるのである。

 最後に③合併後の日向をどうするかである。東倭に自治を認めたということで「日向にも自治を認めよ。」という流れが起こった。やむを得ず日向にも自治を認めることになり、日向(現在の宮崎県・鹿児島県領域)にもこの時点で方形周溝墓が出現しない理由になった。その結果、新王朝大和朝廷の勢力範囲は球磨国、日向国、東倭を除いた南東北以南の日本列島ということになった。 日向国に自治権が認められたので第4代倭国王日子穂々出見尊が鹿児島神宮の地で継続して政務を司ることになった。

 大和国内に反対勢力が存在していたが、彼らの承諾を待っていたのでは、いつまでたっても合併できず、時期を逸してしまうことが考えられた。AD75年頃合併にゴーサインが出た。この前後で鵜茅草葺不合尊が亡くなった。狭野命が兄弟と力を合わせて東遷事業を成し遂げなければならなくなったのである。

 東遷開始時の狭野命の兄たちの所在

 五瀬命

 五瀬命を祀っている神社は全国で34社ある。このうち13社が大分県に存在している。このことから五瀬命と大分県は深い関係があると推定される。鎮座地は大野川流域が多いので大野川流域の開拓をしていたのではないかと思われる。

 水谷神社 延岡市吉野町 
 吉野町には、神武天皇の長兄五瀬命(イツセノミコト)が、結婚したばかりの妃と住まう場所を五ケ瀬川流域で探し、同町に構えたという伝説があり、同神社は五瀬命夫妻と水神の三柱を祭っている。五瀬命を妻と一緒に祭っているのは、全国でも同神社だけという。

 高千穂峡 神橋久太郎水神 
 古くよリ、高千穂郷を貫流する五ヶ瀬川流域の要地五ヶ所に、「鵜葦草葦不合命」の御子「五瀬命」に命じられた、五人の兄弟水神の一人「神橋久太郎水神」がこの地 三田井、御塩井に中央守護のためは配され、鎮座されたのが始まりと伝えられています。

 五瀬命は宮崎県北部~大野川流域を統治していたと判断してよいであろう。五瀬命のみは東遷準備段階から狭野命と共に出てくるので、東遷開始時に鹿児島神宮の地にいたのであろう。東遷に最初から参加していたと考えられる。

 稲飯命

 剣柄神社 東諸県郡国富町大字本庄4845 祭神 彦稲飯命,玉依姫命,神倭磐余彦命
 稲飯命が埋葬された処と伝える。

 皇子神社 日南市大字殿所1199 祭神 稲飯命
伝承は特にない。

 稲飯命を祀る神社は全国で14社ある。東日本の神社、数多くの祭神を祀る神社、東遷時の水難にかかわる神社を除くと上記二社のみとなる。この二社の地に滞在していたことがあるのかもしれない。稲飯命が新羅に渡り新羅王の祖になったという伝承もある。しかし、新羅建国はAD150年となっており、稲飯命の生存時期AD70年頃よりも80年も後のことである。これについて検討してみよう。

『三国遺事』王暦・新羅始祖赫居世条の建国神話は、次のとおりである。
 天から降りてきた6村の長が有徳の王を求めて評議していたところ、霊気が蘿井の麓に下ったので見に行った。白馬が跪いている様が伺えたが、そこには紫(青色)の卵があっただけで、馬は人の姿を見ると嘶いて天に昇った。卵を割ってみると中から男の子が現れ出て、その容姿は優れていた。村長たちは男の子を沐浴させると、体の中から光が出てきた。鳥や獣は舞い踊り、地は震え、日月の光は清らかであった。このことに因んで赫居世王と名づけた。

 この時期朝鮮半島南端部は統一国家が存在せず、倭国の一部となっていた。伽耶国という。考古学的にも1世紀あたりよりまとまりができてきたようであることが分かっている。しかし、誰かが力で持って支配したという感じではなく、小集落が共通の王を求めて、王が誕生したという感じである。朝鮮半島南端部に九州からも多くの人物が訪れており、それら人物の子孫が新羅を建国したともとれる。稲飯命は伽耶国に住んでいたのではないかと思える。その子孫が新羅王に推挙された可能性はある。

 神話伝承を調べてみると、何人かの人物の伝承がある期間に限って存在していないことがある。これら人物がこの時期伽耶国にいたのではないかと思っている。伽耶国にいたとなれば、後の時代大和朝廷の支配下から外れたため滞在伝承が消えてしまったということが考えられるのである。

 稲飯命は幼少時は日向国にいたが、成長後伽耶国に派遣されたとみている。派遣されたのは年齢から推察してAD70年頃ではないかと推定する。東遷には北九州で合流したと判断する。

 三毛入野命

 三毛入野命を祭神とする神社は全国16社存在している。最も多いのが山口県である。これは、神武天皇東遷時、山口県内で活躍したためである。それを除けば大分県の3社が次に来る。

 高千穂の高千穂神社に伝承が残っている。東遷の途次三毛入野命がこの地を訪れているというのである。そして、東遷時の熊野灘の水難も生き抜き、再び高千穂を訪れ、鬼八を退治した伝承が残っている。

 三毛入野命がいつから東遷に加わっていたのかは不明であるが、東遷時本隊から離れることの多かった人物である。延岡で本体から離れて、おそらく北九州で合流し、山口県徳山で再び離れ、岩国で合流している。

 東遷準備段階で三毛入野命が出てこないので、宮崎あたりで合流したのではあるまいか。

 狭野命出港準備

 数年前からヒノモトとの合併論議が起こっていた。何回かの話し合いにより、狭野命がヒノモトに婿入りすることに話がまとまったが、大和国内の反対勢力によってなかなかゴーサインが出なかった。しかし、時機を逸するということから、狭野命が大和に向かうことになった。
 狭野命は東遷の準備のための打ち合わせに山野と高千穂宮との間を往復した。この時の通過伝承が若尊鼻や宮浦神社に伝えられている。
 宮浦宮・・・神武天皇この浦より船出あり、若尊鼻に向かわれたと伝える。
 若尊鼻・・・神武天皇宮浦より船出して、この鼻に船を寄せた。若尊神社あり。

大隅半島の統一が中途であったので、狭野命が鵜茅草葺不合尊の跡を継ぐことになった。狭野命は皇宮屋から、東串良の山野に宮を移した。狭野命はここを拠点として、大隅半島部の統一に尽力した。
 大根占の河上神社に神武天皇滞在伝承地がある。大隅半島統一のために一時滞在したものであろう。

東遷の挨拶

 東遷が本決まりとなり、狭野命は関連人物に対して挨拶に赴いた。母である玉依姫が鵜葺草葺不合尊の死去後生まれ故郷に戻っていたため、大隅半島の古江港より出航して、鹿児島市谷山に上陸(谷山の柏原神社に伝承あり)し、母の里に挨拶した。
 その後、宮原(加世田)の瓊瓊杵尊に挨拶するため、伊佐野(神武天皇滞在伝承あり)に滞在した。薩摩藩東部の人々に挨拶が完了し、大隅半島に戻ってきた。AD78年前半のことであろう。

東遷準備

 篠田(現霧島市国分)に神武天皇東遷の際矢竹を出す(三國名勝図会・鹿藩名勝考)という伝承あり、また、同地に神武天皇腰掛岩あり。さらに、春山牧(現霧島市重久)に神武天皇東遷の軍馬を出したという伝承がある。これらの伝承より、東遷のための準備は鹿児島神宮周辺の高千穂宮あたりで行われたことがわかる。彦火火出見尊も東遷に協力していることが推察される。倭国の総力を挙げての取り組みだったのであろう。
 神武天皇発港伝承のある肝属川河口は多くの船を繋ぎとめておくのに十分な広さがあり、食糧、造船用材確保に十分な土地柄である。また、東串良の山野の山王屋敷には神武天皇の宮址伝承があり、近くの戸柱神社には東遷準備は田畑(皇神山)で行われ、その跡地に立てられたのが戸柱神社であるといわれている。この地を拠点として東遷準備をしたと考えられる。 

 肝属川の河口の柏原に大和に行く舟を集め、荷造りをしていった。まもなく準備がそろい、78 年柏原の波見港を出港した。

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銅鐸について
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