神武天皇大和進入

神武天皇大和侵入関連伝承地の地図

 第8項 エウカシ誅す

 熊野越えをした佐野命一行の人数はどれほどであったろうか?人数が多すぎれば熊野山越えにおいて兵糧の問題も発生し、少なすぎれば大和のナガスネヒコに対抗することはできなくなる。九州から佐野命に従ってきた人員の大半は二木島の嵐で失われており、これに高倉下が協力者を集めてくれたと推定している。総勢100人を越える程度ではあるまいか。最大でも数百人が限度であろう。一方ナガスネヒコは数千人は集められると予想され、戦力から考えてとても大和盆地にいるナガスネヒコの敵とはならない勢力である。ナガスネヒコ軍と対決するためには宇陀地方の豪族を味方に付けなければならない。また、大和盆地内の賛同勢力にも協力を得ければならなかったと思われる。佐野命一行はナガスネヒコ軍に対してはるかに劣勢であり、地理不案内も重なり、一般に言われているように佐野命が皇軍を編成し、大和に攻め上ってナガスネヒコを征伐することなどとても不可能なことである。佐野命がナガスネヒコ軍に打ち勝って大和盆地に侵入することができたと言うこと自体が大和盆地内に協力者がいたことを意味し、神武天皇東征ではなく、倭国・日本国大合併のための東遷であることを示している。

 宮滝に仮宮を作った佐野命一行がまずしなければならないことは次のとおりである。
① 大和のナガスネヒコに所在を知られてはならない。そのため、極力極秘で行動すること。
② 戦力的に明らかに劣勢である。そのため、周辺地域の豪族の最大限の協力を得ること。
③ ナガスネヒコ軍の情勢を把握すること。

日本書紀記述あらすじ

 秋8月2日、磐余彦尊は莵田県(うだのあがた)の豪族である兄猾と弟猾を呼んだ。兄猾はやって来なかったが、弟猾はやって来た。
 弟猾は「兄猾は天つ神(あまつかみ)がやってくると聞いて、天つ神の軍勢を見て正面からでは歯が立たないと判断し、仮の新宮(にいみや)を造り、御殿の中に仕掛けを作り、兵を隠しておいて、おもてなしすると見せかけて襲いかかろうと考えているようです。」
と奏上した。
 磐余彦尊は道臣命(みちのおみのみこと)を遣わしその計画について調べさせた。道臣命は仔細に調べて兄猾に磐余彦尊の殺害意志があったことを知り、怒り狂って叱責し、剣を構え、弓を構えさせて取り囲み「卑怯者が、お前のような奴は自分で張った罠でくたばるがよい。」と言って彼が造った宮へ追い込んだ。
 兄猾はそのまま自らの仕掛けに落ちて圧死した。その屍を引き出して斬ると、大量の血が流れ出しくるぶしを埋めるほどであった。それでそこを名付けて莵田の血原という。

 この中の情勢を把握するための行動伝承がいくつか残っている。

大蔵神社
 祭  神:大倉比売命、岩押別命、鹿葦津比売命
大和志などによれば当社は「延喜式」神名帳に記載の川上鹿塩神社と言われる。
東川村と南国栖村の氏神で、境内には明治初年神宮寺があった。吉野国栖の祖神を祭る。「神武天皇遥拝所」が近くにある。この遥拝所は「石穂押分命の子が神武天皇に供奉し、遥かに高見山を指してその付近の情勢を奏上したところ」と言い伝える。

烏の塒屋(カラスノトヤ)山
 神武天皇御東遷の際、頭八咫烏、皇軍をここに導き、暫く滞在した。

高鉾神社(現吉野山口神社)
 祭神 高皇産霊神、神皇産霊神
 高鉾山(龍門岳)を御神体として礼拝し、神武天皇御東遷の際の舊社地であり、この山の山嶺に於いて親しく天神地祇を祀らせられ、御戦勝を祈らせ給う。

 これらの山はいずれも山頂部が見晴らしの良い所であり、これらの伝承より、佐野命一行は宮滝に仮宮を作った後、周辺の情勢を把握しようとしていたことが伺われる。

 ・宇陀地方の豪族の配置

 佐野命一行が宮滝に仮宮を作った頃のこの周辺の豪族の勢力圏を推定してみることにする。

 石穂押分命
 現在の吉野町・東吉野村一帯が勢力圏であったと思われる。国栖神社・川上鹿塩神社・大蔵神社等、この地域に石穂押分命を祭った神社が非常に多い。神武天皇の仮宮があったといわれている宮滝はこの命の勢力圏である。
また、佐野命が周辺を視察したと伝えられている大蔵神社・烏の塒山・龍門岳いずれもこの勢力圏にある山であり、烏の塒山・龍門岳は北側の領域境界線上であると思われる。佐野命は石穂押分命の協力を得て、周辺の情勢を把握している姿が浮かび上がってくる。

 弟猾(オトウカシ)
 現宇陀市の南部一帯(関戸・岩崎・岩清水・田原・守道・片岡・東平尾周辺)と思われる。

 兄猾(エウカシ)
 現宇陀市の東部一帯(宇賀志・芳野・内牧・室生周辺)と思われる。

 剣主命(ツルギヌシ)
 剣主命は佐野命東遷時、勲功あって葛城国造となったと伝えられ、現宇陀市宮の奥周辺が本拠地と思われる。周辺に命を祭る剣主神社や白石神社がある。

 ・宇陀の高城

 エウカシを誅した時のものと思われる伝承地がいくつかある。まとめて見ると。

 桜実神社
 祭神 木花佐久夜毘売
 神武天皇御東遷時、佐野命が植えたと伝えられている八ッ房杉がある。口伝によれば、神武天皇東征の砌、皇軍が「菟田の高城」に駐屯して、その四方に定めた神籠の1つで、神社明細帳によると、当社は「天王宮」とも称し、宇陀市菟田野佐倉小字ミヤの「八坂神社」と同境内社の「愛宕神社」、小字紅葉の「十二社神社」と同境内社の「秋葉神社」、小字嶽(だけ)の「弁財天」を合祀している。
 この神社の地はオトウカシの推定領域とエウカシの推定領域の境界線上の丘陵上にある。

桜実神社 桜実神社遠景

 宇陀の高城
 神武天皇東征時、八咫烏に導かれて熊野から大和国へ進軍した皇軍が、ここで休息をするために築いた我が国最古の城跡と伝える。大伴と久米の軍団が、宇陀の兄宇迦斯(えうかし)を討ち取った時、久米歌(くめうた)を歌っている。
 「宇陀の高城に鴫罠張る
  我が待つや鴫は障らず いすくはし鯨障る
  前妻が肴乞はさば たちそばの実の無けくをこきしひゑね
  後妻が肴乞はさば いちさかき実の多けくをこきだひゑね
  ええ しやこしや こはいのごふそ
  ああ しやこしや こは嘲咲ふぞ」
現代語訳
 「宇陀の高地の狩り場に鴫の罠を張る。
  私が待っている鴫はかからず、思いもよらない鯨(鷹)がかかった。
  古妻がお菜を欲しがったら、肉の少ないところを剥ぎ取ってやるがよい。
  新しい妻がお菜を欲しがったら、肉の多いところをたくさん剥ぎ取ってやるがよい。
  エー、シヤコシヤ。これは相手に攻め近づく時の声ぞ。
  アー、シヤコシヤ。これは、相手を嘲笑する時の声ぞ。」

宇陀の高城

 宇賀神社
 祭神はこの血原で果てた兄宇迦斯の御魂を邑人が祀った。神社前の地を血原といい、兄宇迦斯終焉の地と伝える。

血原周辺

 神武天皇穿邑聖蹟
 神武天皇は穿邑に宮を造り暫く滞在したという。

神武天皇菟田穿邑聖蹟 穿邑伝承地

 丹生川上神社中社の聖跡
 神武天皇が天神の教示で天神地祇を祀った、厳甓を川に沈めて戦勝を占った聖地という。この時川の魚が木の葉のように浮いたのを椎根津彦が眺めた跡という魚見石も川下に建てられている。 佐野命丹生川上顕彰碑が建てられている。

 高見山
山頂に高角神社があり八咫烏を祀っている。
「神代の昔 佐野命 熊野伊勢を経て高見山を踏破この峻岩を天皇自らよじ登り四方展望 兄猾(えうかし)の根拠地、宇陀を眼下に見下し又遠く男坂女坂墨坂方面の長髓彦等の敵情視察なし第一回の軍議評定せし処なり。」
と伝えられている。
 日本書紀によると高見山で展望した後、穿邑に宮を造り、オトウカシを恭順させ、エウカシを誅し、吉野の諸豪族を恭順させたとある。史実が日本書紀のとおりならば、井光から川に沿って山の尾根に出て、そこから高見山経由で穿邑に入ったことになるが、この経路は山、谷を複雑に乗り越えていくコースとなり、古代としては非常に難しく道に迷いやすいコースではないかと思われる。また、宮滝の宮址伝承、龍門岳、烏の塒屋(カラスノトヤ)山で国見をする伝承が宙に浮いてしまう。さらに石穂押分命関連の伝承とも矛盾する。古事記の記事の方が多くの地域伝承と照合するのである。
 佐野命軍は大和軍に対してはるかに劣勢である。とにかく周辺の豪族を味方につけなければ、勝負にならない。このような状況にあるので、山越えで穿邑へ行くよりも、古事記にあるとおり、吉野川流域の豪族を味方につけるほうが先であろう。

 高城岳
 山頂に直径60cm程の球形の石があり、神蘺とする神日本磐余彦命、高オカミ神を祀る小祠がある。神武天皇滞在の聖蹟と伝えられている。周辺の葛神社、十八社神社、椋下神社、天神神社、雨師丹生神社、八咫烏神社、高角神社、桜実神社、龍穴神社、八竜五社神社等、神武天皇関連人物を祭る神社は悉く高城岳を向いている。
 高城岳から東の展望はあまり利かないが南から西への展望は良く利く、大和盆地が一望でき、晴れた日には大阪湾も見えるほどである。
 高城岳の北東には出雲系の神社が多く、南西には日向系の神社が多い。

 高城岳の伝承は周辺の神武天皇関連の中枢となっている様子である。山頂から西への展望が利くので、宇陀地域、大和盆地の様子を探る望楼があったのではないだろうか。常時駐在員を配置し周辺の様子を探り、何か変事があると、本陣に連絡が行くようになっていたと思われる。実際にこれから戦闘を始めようとする時、最も重要なものが敵情視察である。そのための望楼を周辺の山の山頂部に設けていたと考えられる。
 高城岳の南側(内牧)と東側(田口)にエウカシが討たれたという血原伝承地があることから、エウカシの領域に属していたと考えられる。宇賀志の血原でエウカシを誅した後で、その支配地域を訪問し、その全域の豪族が恭順した後、高城岳に望楼を造ったものであろう。

  宮城
 宮城一帯は神武天皇が一時滞在した跡だという伝承がある。諸木野の高城岳、田口の血原橋などと同じく神武伝説が共通している。住塚山(1,009m)は「炭塚山」とも書かれ、山頂には村の目印として木炭を埋めたからと言うところから名が付いたともされている。他には神武天皇の敵・ヤソタケルがかつて住んだところだからとも言う。また、隣の国見山の名は神武天皇が山頂から「国見」をされたからと伝えられている。

 この伝承もエウカシ領域の豪族たちを恭順させた時のものであろうと思われる。

 エウカシとの戦いの概要

 宮滝に仮宮を作った佐野命は、吉野川流域の豪族に協力をさせるために石穂押分命の案内で高倉下、八咫烏などの諸将を極秘裏に各地に派遣した。
 八咫烏は石穂押分命に導かれて、吉野川を遡り、新子→野々口→下出→中黒→栗栖→丹生川上中社を経て高見川流域一帯の豪族を恭順させた。佐野命は東端にある高見山に登り、宇陀地方一帯の状況を調べた。
 高倉下は宮滝から吉野川を下って河原屋に至り、津風呂川沿いに川を遡り、山口を経て三茶屋に達した。ここで、オトウカシに会った。オトウカシは快く協力を申し出た。オトウカシの協力により宇陀市南部地域の豪族は悉く恭順した。高倉下はオトウカシの協力を得てさらに田原→片岡→平尾→大熊と進んで行き、エウカシに協力を要請した。
 エウカシは倭国・日本国の大合併に反対の意思を持っていたのである。エウカシは鳴鏑(なるかぶらや)で高倉下を射た。後世鳴鏑の落ちたところを訶夫羅前(かぶらさき)と称するようになった。エウカシはオトウカシを追い返した後佐野命の存在を大和盆地内の豪族たちに知らせるために使者を派遣した。佐野命の所在が反対派豪族にに知られたので、反対派の豪族たちは榛原・宇陀地方に出陣してくることが考えられる。オトウカシが高倉下にその時に備えて宮奥の剣根命を恭順させることを提案した。宮奥は桜井市方面から多武峰経由で攻め込まれる地であり、この地を押さえておかないと全面戦争になったとき背後を突かれる危険性があったからである。剣根命は恭順した。
 高倉下はオトウカシと共に宮滝まで戻りこのことを報告した。オトウカシ・剣根命は高倉下と共に、宇陀市の大東・守道・和田・佐倉のラインを最前線として防衛ラインを形成した。佐野命は大和を攻めるにあたりオトウカシの支配地が反対派豪族たちに三方から包囲される形になっているので不利であると思い、反対派豪族たちが軍を配置する前にエウカシを攻めることにした。
 佐野命は軍を整え、宮滝を後にした。津風呂川沿いに遡り龍門岳で桜井市方面の反対派豪族軍の様子を調べた。反対派豪族軍は集結しつつあった。早くエウカシを討たないと三方から包囲される危険性があることが分かった。佐野命はエウカシの本拠地のすぐ近くの佐倉に高城を築いて様子を探った。
 エウカシは部民を集め佐野命軍と戦おうとしたが部民のほとんどはオトウカシに協力を誓っていたので、エウカシに協力を申し出るものは少なかった。この戦力では佐野命軍と戦うのは難しいと悟ったエウカシは、新殿に天皇を罠にかけるための仕掛けを造り、佐野命軍に恭順を申し出た。
 オトウカシが罠が仕掛けられていることを察知し天皇に進言した。しかし、その真偽を確かめてからでないとエウカシを誅することはできないと思った天皇は、道臣命と大久米命に罠の真偽を確かめて、罠が本当であればエウカシを誅するように命令した。
 道臣命と大久米命がエウカシの屋敷に赴いて罠を確認するとオトウカシの奏上したとおりであった。道臣命は怒って部下に命じてエウカシ自身をこの罠の中に押し込んだ。エウカシは自分の作った罠にかかり死んだ。道臣命はその死骸を罠から引き出して部下に切らせた。屋敷のそばの川が血で真っ赤になったので、この地を血原という。エウカシの本拠地は宇賀志の宇賀神社の地である。
 エウカシを誅した後、エウカシの支配地域の豪族たちの多くは、エウカシが合併反対派に味方しようとするのに同意していなかったことを知り、この領域の豪族たちを恭順させようとした。穿邑(現在の神武天皇菟田穿邑聖蹟顕彰碑のある位置周辺)に宮を造り、そこを拠点として、内牧川を遡った。この地域の豪族は反抗してきたので、血原伝説のある三島神社周辺で誅した。佐野命はさらに、東に向かい田口周辺(ここにも血原伝説がある)で反対派の豪族を誅した。そのご、宮城に拠点を移し、国見山で周辺を探り、エウカシの支配領域(宇陀郡曾禰村、御杖村、宇陀市室生区)の豪族たちを恭順させた。周辺の豪族たちが恭順したので、高城岳に望楼を造り、宇陀市一帯から大和盆地の様子を探った。
 この間に反対派豪族たちは、宇陀と桜井の境に防衛線を張った。その最前線に出陣して来たのが八十梟師(ヤソタケル)である。

エウカシ討伐関連地図

 第10項 八十梟師軍の配置

・日本書紀の記事(概略)

<高倉山からの国見>
 9月5日、磐余彦尊は莵田の高倉山の頂に登って国中を眺めた。そのころ国見丘(くにみのたけ)の上に八十梟帥(やそたける)がいた。女坂(めさか)には女軍(めのいくさ)を置き、男坂(おさか)には男軍(おのいくさ)を置き、墨坂にはおこし炭を置いていた。男坂、女坂、墨坂の名はこれに由来している。
 また兄磯城(えしき)の軍が磐余邑(いわれのむら)にあふれていた。敵の拠点はみな要害の地にあり、道は絶え塞がれていて通るべき処がなかった。磐余彦尊は苦々しく思いつつもどうすることもできなかった。
<戦闘開始後>
 磐余の地の元の名は片居(かたい)または片立(かたたち)といった。しかし磐余彦尊の軍が敵を破り、兵達が大勢集まりその地に溢れたので磐余と呼ばれるようになった。
 また、磐余彦尊がむかし厳瓮(いつへ)の供物を食べ出陣して西片を討った。このとき磯城の八十梟師(やそたける)がそこに兵を集めて磐余彦尊軍とよく戦ったが、ついに滅ぼされた。そこで名付けて磐余邑といったともいわれている。
 また磐余彦尊の軍が雄叫びを上げた所を猛田(たけだ)という。また城をつくったところを城田(きだ)という。さらに賊軍が戦って屍(かばね)が肘を枕にしていたので頬枕田(つらまきた)という。

 これはAD81年11月初旬のことと思われる。

・関連伝承地の特定

1. 高倉山

 高倉山伝承地には次の候補がある。
① 榛原町の福地岳
② 榛原町の高城山
③ 宇陀市大宇陀区の高倉山(高角神社あり)
④ 東吉野村の高見山
⑤ 宇陀市大宇陀区の城山
 一つ一つを吟味して最も真実性の高いものを決定する。
 兄磯城は宇陀と桜井の境界線に沿って軍を配置していたようである。その軍の様子を眺めることのできる山でなければならない。①及び②は穿邑の宮の位置の北東部に位置し墨坂には近いが男坂・女坂からは遠く、軍の配置までは良く見えないと思われる。また、①は墨坂に近すぎ敵の領域内とも言える。④も遠すぎると判断する。残るは③または⑤である。伝承が最も具体的なのが③である。③は大宇陀区守道にあり、高倉山と呼ばれている山が存在している。この山の山頂部には高角神社が存在しており、「神武天皇高倉山顕彰碑」が立てられており、日本書紀にいうところの高倉山であると伝えられている。
 しかし、⑤の城山に伝わる伝承では、この山も高倉山といい昔高倉神社が存在したそうであるが、この山に松山城を築城するとき③の位置に神社を遷したと伝えられている。この伝承を基にすると、佐野命が国中を眺めた高倉山というのは⑤の現在城山といわれている山となる。
 この山は天皇が見たような軍の配置を最も良く見ることのできる位置に存在しているので、大宇陀区の城山こそ真実の高倉山であろう。
 ただ、佐野命は周辺の敵軍の動きを探るため、方々の山に望楼を設けていたと考えられ、①~⑤の山のいずれにも望楼はあったと判断する。

2. 国見丘

 音羽山が一般に国見丘と呼ばれている。すぐ隣の経ヶ塚山の中腹に「国見原」と呼ばれる地名が存在すること。大宇陀区一帯を桜井側から展望するのに最も良い位置であること。この山は桜井と宇陀市の境界にあること。高倉山からの展望も良く聞くこと。などの好条件がそろっているので、国見丘とは音羽山・経ヶ塚山東側の丘陵地帯を指しているものと判断する。

3.男坂

 男坂伝承地は宇陀市大宇陀区半阪の地と桜井市栗原をつなぐ山道の峠にある。兄磯城軍は佐野命一行が大和盆地に入り込むのを妨害するのが第一目標であるので宇陀市と桜井市の境界線の峠に軍を配置したと考えられる。男坂伝承地はまさにその峠に存在しているので、この伝承地が正しいと判断する。しかし、男軍を配置したので、男坂というのは不自然に感じられる。この地は古来「忍坂」と呼ばれているので、「オシサカ」→「オサカ」と変じたのではあるまいか。

男坂伝承地 嬉河原

4.墨坂

 日本書紀によれば、神武天皇即位四年春鳥見山中に霊畤(マツリノニワ)を築かれ、天皇みづから皇祖天神を祭祀され「この地を上小野榛原(カミツオノハリハラ)下小野榛原(シモツオノハリハラ)という」とある。その下小野榛原が即ち墨坂の地である。現在は西峠地区にあるが、佐野命の軍が大和菟田に入られた時この墨坂において賊軍がいこり炭(山焼きの意)をもって防戦したため、天皇の軍は苦戦し菟田川を堰き止め消火して進軍した所でもある。この墨坂の神(大物主神)は饒速日尊のことと思われ、佐野命東遷時にはすでに祀られていたと伝えられている。
 兄磯城がここに陣を張っているということから、兄磯城もマレビトの子孫と考えられる。
 墨坂は現在の榛原周辺を指しているのであろう。

墨坂伝承地

5.磐余邑

 宇陀市大宇陀区岩室の西北にある山が磐余山でその北の渓谷を「カタイ谷」と呼んでいる。また、すぐ南の迫間に「キダ」の地名があり、迫間から本郷につながる道路の近くの西山岳の南側の丘陵を「横枕」と称しており、日本書紀の「屍が肘を枕にしていたので頬枕田という。」という記事につながる。岩室に皇大神社が存在しており、ここが磐余伝説地である。
 大宇陀区下竹周辺はその昔猛田県といわれており、猛田県主の始祖はオトウカシである。この周辺はオトウカシの支配地域の中心地であったのであろう。

6.女坂

 女坂伝承地は宇陀市宮奥と桜井市をつなぐ通称針道と呼ばれている峠道の針道峠であると伝承されている。宮奥は剣根命が治めていたが、この時すでに佐野命に恭順していたと思われ、それに対抗するために、軍を配置したと当初考えたが、この坂は高倉山から見ることができないし、かなりきつい峠であり、経ヶ塚山に陣を張っていれば、峠を越える軍を見ることができるので、この峠に軍を配置する意味はあまりないと考えられる。高倉山から良く見える位置で佐野命軍の動きを封じる意味のある峠といえば、桜井市栗原から宇陀市本郷へ抜ける峠と国道166号線の女寄峠が考えられる。粟原から本郷へ抜ける峠の方は国見丘のすぐ近くであるので、軍を配置する必要性をあまり感じない。残るは女寄峠のみである。国道上にある峠なので、現在でも桜井と宇陀をつなぐメイン道路となっており、当時の人々もこの峠を通っていたと考えられる。
 しかし、女軍とは何であろうか。女軍は男軍に対して戦力的にかなり劣るために、防衛の拠点となるところに女軍を配置することはまず考えられない。女軍を配置するのは戦略的に陽動するときと考えられる。女軍を配置するのは本格的戦闘があった激戦地周辺と思われる。その激戦地は磐余周辺であるから、その周辺で女坂と取れる場所を探すと、「メメ坂」というものがある。迫間から大宇陀高等学校横を通る道を昔「メメ坂」と言ったそうである。
 このメメ坂は高倉山の正面にあたり、高倉山から見渡せばメメ坂にいる女軍の動きは手に取るように分かるはずである。八十梟師(ヤソタケル)軍は正規軍をどこかに隠しておき、佐野命軍が女軍を見て動き出したところを挟撃する作戦を展開したのではないかと想像できる。 

女坂伝承地

・各軍の配置

 八十梟師軍の動き
 八十梟師は桜井市に軍を集めた。攻撃目標は後のオトウカシの本拠地(大宇陀区下竹周辺)である。軍を二手に分け、別動隊は桜井から忍坂を経由して粟原川を遡り、男坂を経由して岩室へ進軍する計画であり、磐余邑に軍を隠した。主力軍は音羽から経ヶ塚山山麓(国見原)に陣を張った。迫間(メメ坂)に男装させた女軍を配置し、その女軍に攻撃しかけてきた佐野命軍の背後から磐余邑に隠している別働隊を襲撃させ佐野命軍を挟み撃ちにする計画である。

兄倉下、弟倉下の動き
 これら豪族たちは桜井市から榛原の墨坂(現在の西峠付近)に陣を張り、墨を起こしてこの周辺にやってきた佐野命軍に炭火を浴びせようとしていた。

佐野命軍の配置
 朝原の伝承地(後述)から推察して、佐野命軍の主力は高倉山の南の大東あたりに集結していたと推定する。主力は穿邑を出陣し佐倉→守道→大東と軍を進め、天皇自身高倉山に登り敵軍の配置を見ていたと判断する。しかし戦端が開かれたのは北側の磐余邑である。磐余邑の八十梟師軍との間で戦端が開かれているので別働隊がいたと考えられる。磐余邑の八十梟師軍は南に逃避しているので、別働隊は磐余邑の北側の小付あたりから攻め込んだと考えられる。別働隊は穿邑を出発し芳野川に沿って北上し母里あたりに隠れていたものと判断する。

松山城祉(高倉山)より見た周辺の景色
宇陀高城(中央の山) 烏の塒屋山(中央)・龍門岳(右)
伊奈佐山 三輪山・磐余・男坂方面
榛原(墨坂)方面 右写真の拡大(鳥見山)
国見山(左経ヶ塚山・右音羽山) 松山城址

第11項 宇陀の朝原の祈祷

 南宇陀で八十梟師軍と佐野命軍との戦闘が始まる前に宇陀の朝原で戦勝の祈祷が行われている。これに関して日本書紀では以下のような記述がなされている。以下あらすじ

 また兄磯城(えしき)の軍が磐余邑(いわれのむら)にあふれていた。敵の拠点はみな要害の地にあり、道は絶え塞がれていて通るべき処がなかった。磐余彦尊は苦々しく思いつつもどうすることもできなかった。その夜は神に祈って眠った。すると高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)が夢に現れて言った。
「天香具山の社の中の土で天平瓦を八十枚作りなさい。あわせて御神酒を入れる器を作り天神地祗(あまつやしろくにつやしろ)を祀り敬いなさい。また厳呪詛(いつのかしり)をしなさい。そうすれば敵は自ら降伏し従うでしょう。」
弟猾も同じことを言ったので実行することにした。
 椎津根彦(しいねつひこ)、弟猾、を天香具山へ派遣した。
 そこで椎津根彦は卑しい衣服と蓑笠をつけ老人に化けさせ、弟猾には箕を着せて老婆に化けさせて天香具山に向かわせた。このとき敵軍は道を覆い通る事も難しかった。しかし椎根津彦が神意にうかがいを立てた。
「我が君がこの国を良く治める事が出来る人物で有れば、道は開けるだろう。それが出来ぬ人物で有れば敵が道を塞ぐだろう。」
敵は「なんて汚い翁と媼だ。」とあざけり笑い、二人に道を開けた。そして無事に山から土を持って帰ることが出来た。磐余彦尊は大いに喜んでこの土で天平瓦や御神酒の器を作らせ、丹生(にふ)の川上に行って天神地祗を祀った。莵田川の朝原で水沫(みなは)の様にかたまり着くところがあった。
磐余彦尊は神意を占った。
「私は八十の平瓦で水なしに飴を作ろう。もし飴が出来れば、武器なしに天下を治めることが出来るだろう。」
はたして飴はたやすく作ることが出来た。さらにまた神意を占った。
「私は今御神酒を入れた器を丹生の川に沈めよう。もし大小の魚が全部酔って、ちょうどまきの葉が流れる様に流れたら自分は天下を治めることが出来るだろう。もしそうならなければ、事を成し遂げることは出来ないだろう。」
 はたして器を投げ込んでしばらくすると魚が浮き上がってきて流されていった。椎根津彦がその事を報告すると、磐余彦尊は大いに喜んで、丹生の川上の沢山の榊を根こぎにして諸神にお祀りした。
このときから祭儀の際に御神酒瓶の置物が置かれるようになった。

・朝原伝承地の特定 

 朝原には以下のような伝承地がある。
① 丹生神社(宇陀市雨師)
 社前の掲示板には「佐野命が丹生川上に陟って天神地祇を祭り、莵田川の朝原で呪いをしたと日本書記にあるが、その莵田川の朝原の地がここである。」と記されている。1km南を莵田川が流れている。吉野から分遷したと言われている
② 丹生川上神社中社
 佐野命が天神の教示で天神地祇をまつり、厳甓を川に沈めて戦勝を占った聖地という。
③ 神戸神社(宇陀市大東)
 境内に朝原神社がある。
④ 八坂神社(宇陀市本郷)
 境内に朝原神社がある。
⑤ 阿紀神社(宇陀市迫間)
 神武天皇東遷の時、神夢に依つて椎根津彦命と弟迦斯の二人に命じて天の香山の埴土を取り土器と壼を作らせて多数の器に天の甜酒を入れ、神戸の社(当社)の木々の下に備ヘて天神地祇を祭った。 

 佐野命が宇陀で戦闘をする前に朝原で祈祷をしているのであるから、その地は戦場の近くで、佐野命・オトウカシの支配地内のはずである。この点から考えると、①は墨坂の近くでこのときはまだ敵地であり、②は戦場から離れすぎているので、共に候補から脱落する。③④⑤はいずれも大倉山周辺で互いに近い位置にある。④⑤は八十梟師軍を佐野命軍が追い込んで殲滅した横枕と呼ばれている場所のすぐ近くであり、戦闘をする前の支配地とは考えにくい。よって、朝原の候補地として残るのは③の神戸神社以外にはないことになる。

 神戸神社のすぐ西を宇陀川が北に向けて流れている。また、神社の東の丘陵は「鏡作」と称しており、ここには水銀の路頭鉱床がある。宇陀川流域はこのような路頭鉱床が多い。水銀鉱床即ち辰砂は朱の原料であり、硫化水銀である。朱は古代において塗料・防腐剤として使われている。弥生式土器の表面の塗料も朱である。朱は丹ともいい、朱を産する地を丹生という。宇陀川は朱を産するので古代丹生川と呼ばれていた可能性がある。丹生川上とはこの地を指していると言える。

・ 朝原の祈祷の意味

 戦いの勝敗には兵士の戦意が大きな影響を与える。戦端を開く直前に戦意を高揚するために神に祈祷したものと考えられる。兵士にとって目の前で縁起の良い奇跡が見せられたら戦意は高揚するであろう。そのために考えられたのが朝原の祈祷ではあるまいか。
 書紀に書かれている「飴」は「タガネ」と読ませている。「タガネ」とは多賀禰餅のことであろう。多賀禰餅とは秋の収穫時にこぼれた米を粉にして作った餅のことで、古代において神酒の原料になったと言われている。蒸した後のこの米を使えば餅を作ることができる。また、神酒を入れた祭器等を川に沈めれば魚は酔って浮かび上がってくる。佐野命はタネを明かさず兵士たちの前でこのようなことを実践したのではあるまいか。タネを知らない兵士たちは奇跡が起こったと勘違いし神威がわれわれに味方していると大いに士気が上がったものと推定する。

・ 天香具山の土を取ることの意味

 当時の大和の人々にとって神聖なる山である。武埴安彦の妻吾田姫が香具山の土を取ったとか、天の岩戸事件のときも香具山の土をとることが書かれている。香具山の土を取ることは神威を味方に付けるために重要な儀式であったと思われる。しかし、佐野命東遷時の天皇一行は大和の人間ではないため、そのような信仰はなかったと考えられ、佐野命が香具山の土を取ってくる意味はないのではないかと推定する。日本書紀のみにあって古事記には記載されていないことと合わせて考えると、これは、後世挿入された説話ではあるまいか。

・椎津根彦、弟猾を大和へ派遣した意味 

 宇陀市嬉河原に笑ヶ嶽という山があり、椎津根彦、弟猾がここを通ったときに敵の兵卒に醜いと笑われたのが起源といわれている。嬉河原は男坂伝承地の手前にあるので、椎津根彦、弟猾は高倉山の麓から、嬉河原→男坂→磯城と通ったと考えられる。彼らは香具山の土を取りに行ったのではないとすると、大和に何をしに行ったのであろうか。

 佐野命が大和に来た目的は倭国・日本国の大合併のためである。大和国内に賛成派が存在するはずである。反対派が現在宇陀に向けて進軍してきているのであるが、このとき、大和国内の賛成派はどうしていたのであろうか。三輪山西麓の磯城一族は饒速日尊の子である事代主を婿王として迎えており、佐野命は事代主の娘と結婚する予定である。しかしこの政略結婚にはそのほかの多くの一族が反対しており、ナガスネヒコが佐野命を生駒で追い返してから反対派の勢力が強くなり、賛成派は反対派に押さえ込まれて動きが取れなかったものと考えられる。日本国の政治形態はこの時点では崩壊していたのであろう。賛成派にとって佐野命から使者を受けると元気付けられ、大和国内に佐野命受け入れ態勢を整えることができるであろうし、反対派を背後からけん制することもできるであろう。また、賛成派から反対派の情勢を聞きだすこともできたであろう。これらのことを目的として賛成派と連絡を取るために椎津根彦、弟猾を大和へ派遣したのではなかろうか。

 反対派とは桜井市外山を本拠とする兄磯城であり、賛成派とは三輪に拠点を置く弟磯城である。弟磯城は事代主の子と思われ、三輪氏の祖である天日方奇日方命のことではあるまいか。その妹と政略結婚する予定であろうと推定する。兄磯城もマレビトの系統であろうが、娘が結婚相手に選ばれなかったのを理由として合併に反対しているものと推察する。饒速日尊のマレビト作戦は有力豪族がひしめいていた近畿地方を統一するのには一役買ったが、その子孫が多くなりすぎ、饒速日尊の死後、後継者争いが頻発しており、日本国は分裂寸前の状態にあった。

 日本書紀の記事

 まず使者を出して兄磯城(えしき)を呼び出したが、兄磯城は返答しなかった。さらに頭八咫烏(やたのからす)を遣いに出した。そのとき烏は兄磯城の陣営に行って鳴いた。
「天神の子がお前を呼んでいる。」
兄磯城は「天神が来たと聞いて、慌ただしいときに何故烏がこうも五月蠅いのか。」と怒って弓で射た。烏は逃げ去った。次に弟磯城(おとしき)の家に行って鳴いた。
「天神の子がお前を呼んでいる。」
弟磯城は「私は天神が来られたと聞いて朝も夜も畏まっていた。烏よお前がこんなに鳴くのは良いことである。」と言って、皿八枚に食べ物を盛って烏をもてなした。そして烏に導かれて磐余彦尊のもとに参じた。
「我が兄の兄磯城は、天神の御子が来ると聞いて、八十梟師(やそたける)を集めて、武器を整えて決戦しようと考えています。磐余彦尊も速やかに準備された方が良いと思います。」
「聞いての通り、兄磯城はやはり我々と戦うつもりらしい。どうすればよいか。」
「兄磯城は知恵者です。まず弟磯城を使者に出して降伏を進めてはいかがでしょう。あわせて兄倉下(えくらじ)と弟倉下(おとくらじ)にも諭させて、それでも従わぬ場合に戦いを仕掛けても遅くないでしょう。」
 磐余彦尊はこの案を取り入れて弟磯城を遣いに出して降伏を進めた。だが兄磯城は承知しなかった。

 日本書紀のこの記事は朝原祈祷の後に忍坂の大室の戦いがあり、その後の記事である。しかし、この記事は戦う前の和平交渉を意味しており、朝原の祈祷の前と思われる。椎津根彦、弟猾を大和に派遣したときのものではあるまいか。磯城にいる豪族で反対派の首領を兄磯城と呼び、賛成派の首領を弟磯城と呼んだものであろう。
 賛成派を介した和平交渉を幾たびか行ったが、進展しないのでついに戦端が開かれることになった。

第12項 八十梟師軍との戦い

 八十梟師軍の方から戦いは仕掛けられた。八十梟師は国見丘に本陣を張り、別働隊を磐余に控えさせていた。迫間のメメ坂に女軍を配置し、その女軍をけしかけ、大東の佐野命軍本体を陽動した。佐野命軍が女軍に襲い掛かったとき、磐余の別働隊がその背後を襲い、国見丘の本隊と別働隊で挟撃し佐野命軍を殲滅する作戦であった。軍の配置からこのように考えられるのである。
 ところが、高倉山で八十梟師軍の動きを察知していた佐野命軍はこの陽動作戦には乗らず、母里に控えさせていた別働隊を磐余に隠れている八十梟師軍の別働隊に北側の小附付近から襲撃させた。八十梟師別働隊は人数的に有利ではあったが、不意をつかれ体制を整えるまもなく、南へ逃避することになった。

 八十梟師軍別働隊は南に逃避し迫間周辺に達したとき、南から佐野命軍本隊の襲撃を受けた。八十梟師軍別働隊は佐野命軍に逆に挟撃される形になり、八十梟師軍本隊の控える国見丘に向けて逃避行を始めたが、本郷の横枕でその多くは戦死した。国見丘の八十梟師軍本隊は、別働隊が挟撃されているのに気づくのが遅く、手の打ちようがなかった。逃げてきた別働隊の敗残兵を保護するしかなかった。 

 佐野命は迫間の阿紀神社の地に本拠を構え、10月1日(AD81年11月中旬)に国見丘の八十梟師軍本隊を襲撃した。このときの久米歌が

 「神風の 伊勢の海の 大石にや い這ひ廻る 細螺の 細螺の 吾子よ 吾子よ 細螺の い這ひ廻り 撃ちてし止まむ 撃ちてし止まむ」

(伊勢の海の大石に這いまわる細螺(しただみ)のように、我が軍よ、我が軍勢よ。細螺のように這いまわって、必ず敵をうち負かしてしまおう。)

 八十梟師軍本隊は打ち破ったが、その敗残兵がその周辺に身を潜めて機を伺っていた。

阿紀神社
 元阿貴宮又は神戸大神宮と称す
祭神 天照坐皇大神 秋姫命 八意思兼命 天手力男命 

由緒 大国主神の孫姫秋毘売神 宇陀の荒野を拓殖経営し給ひ秋野の狭間を万代の宮處と擇び定めて鎮座し給へるが此の神社の創祀なりと云う。神武天皇御東征の砌りには此宮處に大纛を樹て給ひ天神地祇を祀られ、崇神天皇60年には皇女倭姫命天照大神の御杖代となり四カ年間此宮に斎き奉る今を遡る2千余年前也
神武天皇が当社に於いて天照大神を奉齋
 神武天皇東遷の時、神夢に依つて椎根津彦命と弟迦斯の二人に命じて天の香山の埴土を取り土器と壼を作らせて多数の器に天の甜酒を入れ、神戸の社(当社)の木々の下に備ヘて天神地祇を祭った。
 社地の前を西南から東北に流下する本郷川は当社の御手洗川で、南岸狭長な水田を隔てて数十メートルの高い位置に墳丘を覆う樹叢の地があり、ここを高天原と称する。

 阿紀神社の地には朝原伝承があるが、戦端を開く前の敵陣内に存在しているので朝原ではないと考える。佐野命が天照大神を奉斎しているので、この地が、戦闘終了後の宮址と推定する。佐野命はおそらく、ここを拠点として国見丘に攻め上ったと考えられる。

 

八十梟帥軍との戦い

 第13項 忍坂の大室

 日本書紀記述

 残党はまだ多く残っており、その情勢は測り難たかった。そこで道臣命に密かに命じた。
「お前は大来目部(おおくるめら)を率いて大室を忍坂邑(おさかのむら)に造って、盛大に酒盛りをして敵を騙して討ち取れ。」
道臣命は言われた通り味方の強者を選んで、敵と同居させた。しかし密かに示し合わせていた。
酒宴がたけなわになった頃、私が立って舞う。お前達は、私の声を聞いたら一斉に敵を刺せ。
酒宴がはじまり皆が席について酒を飲んだ。敵は陰謀を巡らされていることを知らないため、つがれるままに酒を飲んで酔った。そのとき道臣命は立って歌った久米歌。

「忍坂の 大室屋に 人多に 入り居りとも  人多に 入り居りとも  みつみつし 来目の子等が 頭椎い 石椎い持ち 撃ちてし止まむ」
(忍坂の大きい室屋に、人が多数入っているが、入っていても、御稜威を負った来目部の軍勢の頭椎(柄頭が椎の形をした剣)石椎(柄頭を石で作った剣)で敵を討ち負かそう。)

味方の兵はこの歌を聞いて一斉に剣を抜き敵を皆殺しにした。佐野尊の軍勢は皆、大いに悦び天を仰いで歌をよんだ。

「今はよ 今はよ ああしやを 今だにも 吾子よ」
(今はもう、今はもう、敵をすっかりやっつけた。今だけでも、我が軍よ)

今、来目部が歌った後に大いに笑うのは、これがそのいわれである。

「夷を 一人 百な人 人は云へども 抵抗もせず」
(夷を、一人で百人に当たる強い兵だと、人は言うけれど、抵抗もせず負けてしまった)

これは密命をうけて歌ったので、自分勝手に歌ったのではないという。
この後、佐野尊が言った。
「戦いに勝っても、おごる事がない者が良将だ。大きな敵には討ち勝ったが、まだ敵が居なくなったわけではない。討つべき敵はまだ数多く残っている。さぁ、何時敵が攻めてこないとも限らない。長く同じ所に居ては危険だ。出発するぞ。」
佐野尊の軍はさらに進軍した。

 忍坂の大室の位置

 桜井市忍坂にオブロの地名があり、佐野命が大室を設けて賊虜を斬った所と伝承している。しかし、この地はまだ敵地奥深くであり、神武軍が策略を練るような地ではありえない。真実の忍坂はどこであろうか?10月1日に佐野命軍は国見丘の八十梟師軍本隊を打ち破った。その後の勢力圏の境界線上(桜井市・宇陀市の市境)にあるはずである。男坂伝承地が当時の忍坂領域に入っていることから、この近くであろう。この近くに存在する伝承地は麻生田の是室山である。巨大な岩室があることから名づけられたという。

 戦いの状況

 国見丘の八十梟師軍本隊を打ち破ったが、その残党が跋扈している状態にあった。残党の掃討作戦を実施するためには、残党を一箇所に集めて一挙に誅する必要があった。地元の事情を良く知っている協力者弟磯城の配下を残党にしたてて、佐野命一行を殲滅するための戦力の終結に協力させた。忍坂に大室をつくり、そこに残党を集めた。残党にしてもある程度の戦力の結集がなければ佐野命一行と対決しがたいがために、情報を聞いた残党が集まってきた。道臣命は、これら残党を盛大な酒盛りで欺き、一挙に殲滅したものであろう。

 これにより、現宇陀市一帯は墨坂の弟倉下軍が残っているだけの状態になった。

 第14項 大和制圧

 日本書紀記述

椎根津彦が磐余彦尊に作戦を上申した。
「まず女軍(めいくさ)を遣わして忍坂の道から攻めましょう。そうすれば敵はおそらく精兵を出して応戦してくるでしょう。こちらは、強兵で別働隊を組織して墨坂に向かわせ、莵田川の水で敵兵の起こした墨の火にかけ敵が驚いている間に不意を付けば敵は敗れるでしょう。」
 磐余彦尊はその計り事をほめて、まず女軍を出した。敵は大兵が来たと思い全力で迎え撃った。これまで磐余彦尊の軍は攻めれば必ず取り、戦えば必ず勝った。しかし兵達も疲労しなかったわけではない。そこで将兵の心を慰めるために歌を作った。

「盾並めて 伊那瑳の山の 木の間ゆも い行き瞻らひ 戦えば 我はや飢えぬ 嶋つ鳥 鵜飼が徒 今助けに来ね」
(伊那瑳(いなさ)の山の木の間から、敵をじっと見つめて戦ったので、我らは腹が空いた。鵜飼いをする仲間達よ、いま助けに来てくれよ。)

はたして男軍(おいくさ)が墨坂を越えて現れて、後方から挟み討ちにして敵を破り梟雄兄磯城(たけるえしき)を斬った。

 椎根津彦の作戦

 宇陀市南部は悉く平定され、反対派は外山(桜井市中心付近)に兄磯城・兄倉下が本陣を張っており、宇陀市内には弟倉下が墨坂(榛原)に拠点を置いていた。佐野命は大室の戦いで女寄峠まで支配下に置くことができた。女寄峠は女軍が配置されたためにつけられた名といわれている。また、女寄峠は忍坂の道の入り口となっているので女軍を配置したのは女寄峠であろう。
 佐野命はどのようにして大和を制圧したら良いかを話し合った。女寄峠を確保したが、ここから大和に攻め込めば、背後から墨坂の弟倉下軍に襲撃されるのは明らかである。

 そこで、別働隊を伊那佐山経由して墨坂の背後に回らせ、女寄峠に女軍を配置して、墨坂の弟倉下軍を女寄峠に向かわせ、その背後を別働隊に襲撃させる計画をたてた。しかし、女軍で陽動するのはかなりの危険がともなう。この女軍に対して西側から外山の兄磯城、兄倉下が、東側から墨坂の弟倉下軍が襲ってくるであろう。その場合女軍は壊滅してしまう。そのため、女軍の背後に精鋭を控えさせておくことにした。

 佐野命軍としてはまず、墨坂の弟倉下軍を壊滅させねばならなかった。墨坂が落ちれば忍坂を通って大和にはいることができる。そうすれば、三輪の弟磯城軍の協力を得て兄磯城軍を壊滅させることができるのである。

 墨坂の弟倉下軍は見晴らしの良いところに陣取っており、佐野軍の動きは丸見えである。正面から墨坂を攻めれば多大の人的被害をこうむることは明らかであるので、女寄峠の陽動作戦により墨坂の主力軍を女寄峠に向けさせ手薄になったところを背後から攻めることを考えた。

 背後から攻めるには墨坂の弟倉下軍に見つからないように墨坂の東側に回りこまなければならない。そのために越えなければならないのが伊那佐山である。その経路を推定すると次のようになる。

 阿紀神社の地を出発した別動隊は高倉山の南を抜けて、岩清水を経て母里に達する。母里で芳野川をわたり、伊那佐山山中に分け入り、北東部の西谷川流域に出た。川に沿って下り宇陀川と内牧川の合流点付近まで到達したと考えられる。この地は現在檜牧と呼ばれているが、この付近は古来岩舟といい、饒速日尊の滞在伝説地でもある。この近くの淵を「神武の淵」と言って、神武天皇御東遷の時天皇の通過されたところと言い伝えられている。この付近の木々の間から墨坂の敵陣を観察し、敵陣の主力が女寄峠の方へ出陣した直後を狙って襲撃する計画である。女寄峠の女軍の準備が整うまで暫く待っていたのである。このときの歌が上記の久米歌であろう。

 しかし、この作戦にも難点がある。それは女寄峠の女軍が桜井方面からの兄磯城軍本隊と、墨坂の弟倉下軍主力とに挟撃されることになることである。敵軍をその利点を狙って出撃させるのであるから危険が伴うのは当然であるが、女軍が壊滅してしまえば佐野命軍としても戦いが一挙に不利になってしまう。そこで、墨坂を占拠した後、軍を二手に分けて一隊を笠間方面に向かわせ、墨坂の本隊を女軍と共に挟撃し、もう一隊は現在の朝倉の慈恩寺付近に向かわせた。この地は兄磯城軍の本拠地であり、女寄峠の女軍めがけて出撃しているであろうから手薄になっているはずである。そこを襲撃し、弟磯城軍に背後を任せ、忍坂道を遡り女軍との間で今度は兄磯城軍を挟撃するというものである。

 大和進入

 11月7日、三輪の弟磯城軍と作戦の意志統一ができたので、計画は実行されることになった。本拠地としている阿紀神社の地より、まず、女軍・弟猾軍を女寄峠方面に派遣した。暫くして、佐野命自身が別働隊を率いて高倉山の南を東に向かった。母里より芳野川を渡り伊那佐山を通過して西谷川沿いに出て、檜牧周辺に軍を控えさせ、墨坂の弟倉下軍を様子を観察した。
 女寄峠の女軍が配置を完了し女軍の陽動作戦が開始された。反対派の見張り役がその動きを察知し、外山の兄磯城、墨坂の弟倉下の方へ連絡が届いた。兄磯城の方は軍を集めて、その主力を兄倉下に任せ、女寄峠に向かわせた。墨坂の弟倉下軍は兄磯城軍との協調により佐野命軍を挟撃する絶好の機会であるとその主力を女寄峠方面に向かわせた。
 墨坂の弟倉下軍主力が西へ移動したのを確認した佐野命は、宇陀川を下り福地岳の東側を回りこみ、西峠の墨坂陣地(墨坂伝承地)に北側から一挙に攻め込んだ。留守部隊しか残っていないところへ東から佐野命の大軍を受けた留守部隊は周辺に火を放って抵抗した。佐野命は川(宇陀川の支流・鳥見町付近と思われる)を堰きとめてその水で火を消し、墨坂を確保した。すぐに佐野命は軍を二手に分け、道臣命に一軍を預け、弟倉下軍を追って女寄峠に向かわせ、自らは外山の兄磯城軍本拠地に向かった。
 弟倉下軍は女寄峠に向かっているとき前面からの弟猾軍と、背後からの道臣命軍によって挟み撃ちに会い、笠間にて全滅した。
 弟猾軍及び道臣命軍は連合して忍坂道を遡ってくる兄磯城軍主力と戦うことになった。
 外山の兄磯城軍はその主力を女寄峠に向かわせたので、兄磯城自身が少数の留守番部隊とともに残っていた。佐野命率いる主力部隊はこの留守部隊をめがけて、墨坂から初瀬川を下り一挙に襲った。兄磯城留守部隊は虚を着かれまもなく壊滅した。
 桜井市慈恩寺に佐野と呼ばれているところがある。外山の兄磯城軍を破った佐野命はここに本拠地をおいて、周辺の守備を弟磯城に任せ、兄磯城軍主力を逆に挟撃するため、すぐさま忍坂道を遡った。兄倉下率いる兄磯城軍主力は相当の戦力を持っていたが、佐野命の全軍に挟撃されたため、活路を見出すこともできず、兄倉下戦死後全軍が投降して来た。
 投降して来た兵士は数が多く、「磐(兵士)が余れり」ということで、この周辺の地を「磐余」という様になり、佐野命は敵の兵士といえど、投降して来た以上は自らの民となる人々であるということを忘れないという意味で、自らの名を「磐余彦」と改名した。

 これにより磐余彦はついに大和の地に立つことができたのである。その最初の本拠地は桜井市佐野である。

兄磯城との戦い

 第15項 長髄彦との戦い

 日本書紀記述

12月4日、磐余彦尊(いわれひこ)の軍はついに長髄彦(ながすねひこ)を討つことになった。しかし戦いを重ねたが、なかなか勝利をものに出来なかった。そのとき急に空が暗くなって雹が降り出した。そこへ金色の不思議な鵄(とび)が飛んできて、磐余彦尊の弓先に止まった。その鵄は光り輝いて、その姿はまるで雷光のようであった。このため長髄彦の軍の兵達は皆幻惑されて力を出すことが出来なかった。
 長髄というのは元々は邑の名であったが、これを人名に用いたものだった。そこで磐余彦尊の軍が鵄の力を借りて戦ったことから、人々は鵄の邑と名付けた。今、鳥見というのはなまったものである。
 以前、孔舎衛(くさえ)の戦いにおいて、五瀬命(いつせのみこと)が矢に当たって戦死したが、磐余彦尊はこれを忘れず常に仇を討とうと考えていた。
 長髄彦は磐余彦尊に使いを送って言った。
「その昔、天神の御子が天磐舟に乗って天降られた。御名を櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと)といわれる。それで我々は饒速日命を主として仕えている。天神の子は二人おられるのか。どうして天神の子と名乗って、人の土地を奪おうとするのか。私が思うにあなたは偽物でしょう。」
磐余彦は
「天神の子は数多くいる。お前が主とあがめる人が本当に天神の子ならば必ずその表(しるし)があるはずだ。それをしめせ。」
と言った。
 磐余彦が使いの者に返答すると長髄彦は、饒速日命の持つ天の羽羽矢と歩靫(かちゆき)を磐余彦に示した。長髄彦が示した羽羽矢と歩靫を見た磐余彦尊は、自分の持つ羽羽矢と歩靫を長髄彦に示し自分もまた天神の子であることを示した。長髄彦はそれを見て、ますます恐れ畏まった。しかし戦闘は、いままさに始まろうとしており、回避することは難しかった。そして長髄彦の軍は、改心の気持ちがなかった。
 饒速日命は天神が気にかけているのは、天孫である瓊瓊杵尊の子孫だけだということを知っていた。また長髄彦は性質がすねたところがあり、天神と人とは全く異なるところがあるのだということを説いても無駄だと思い殺害した。そして饒速日命は部下と共に磐余彦に帰順した。

神武天皇鵄邑顕彰碑 

 長髄彦本拠地の碑がある白庭台より2kmほど南東に神武天皇鵄邑顕彰碑がある。富雄川の東岸である。
碑文「神武天皇戌午年十二月皇軍ヲ率イテ長髄彦ノ軍ヲ御討伐アラセラリタリ時に金鵄ノ瑞ヲ得サシ給ヒシ二因リ時人其ノ邑ヲ鵄邑ト稱セリ聖蹟ハ此ノ地方ナルベシ」

神武天皇鵄邑顕彰碑

鵄山伝承地

 長髄彦本拠地の碑がある白庭台の富雄川をはさんだ対岸の丘陵が鵄山と呼ばれており、日本書紀の金色の不思議な鵄が飛んできた地である。

鵄山伝承地

 桜井市外山

鵄山がなまって外山となったという 

勝負谷(兄磯城終焉地?)

 長髄彦との戦いの状況推定

 鵄山の伝承地は桜井市にもあるがこの地は兄磯城の本拠地であり、すでに磐余彦の勢力圏に入っているのであるから鵄邑は生駒市にあるものが真実性が高いと思われる。外山は兄磯城の伝承と混乱したためではないかと推定する。生駒市高山にある鵄山伝承地はまさに長髄彦本拠地の真正面である。この本拠地を攻めるとき、拠点とすべき丘陵地と考えられる。しかし、この地は本陣とするにはまさに正面過ぎるので、磐余彦本隊は現在の神武天皇鵄邑顕彰碑のあるあたりまで富雄川を遡ってきたと推定する。神武天皇鵄邑顕彰碑周辺の丘陵地を本陣として、長髄彦本拠地を攻略する部隊がここを出発し、鵄山に前線基地をつくり、富雄川をはさんで弓矢の射掛け合いをしたものであろう。長髄彦の軍隊の方が優勢で鵄山の前線基地が破られそうになったとき、背後から救援隊(金鵄)がやってきたものであろう。
 金鵄とは何者であろうか?長髄彦軍は金鵄を見ると戦意を喪失し、使者を磐余彦に送っている。この伝承から判断して長髄彦が尊敬している人物ということになる。それは饒速日尊であることになるが、彼はこの時はすでにこの世の人ではなくなっている。饒速日尊の直系の子孫であろう。長髄彦の甥でもあり、饒速日尊の長男であるウマシマジがこの条件を最も満たしている。
 長髄彦にしてみれば、侵略者である磐余彦を追い返そうとしているときに孫であるウマシマジが敵軍の援軍として登場したのである。戦うことができなくなり「どうしてなのか」と早速、使者を送って事情を聞きだそうとした。ウマシマジはこのままでは日本国と倭国の大戦争が起こると考え、大合併に賛成に回ったのである。ウマシマジと長髄彦は話し合ったが、長髄彦は承諾せず、あくまでも戦う意思を崩さなかった。やむを得ずウマシマジは長髄彦を刺し殺し、長髄彦の部下を磐余彦に帰順させた。日本書紀にいう饒速日尊とはその長男であるウマシマジのことであろう。
 このように考えると状況が最も良く説明できる。

 第16項 残党一掃

 日本書紀記述

翌年春2月20日(AD82年2月?)、磐余彦尊は諸将に命じて士卒を選んで訓練を行った。この時に層富県(そほのあがた)(添県)の波多の丘岬に新城戸畔(にいきどべ)という女賊がいた。また和珥(天理市)の坂下には居勢祝という者が居て、臍見の長柄(ほそみのながら)の丘岬に、猪祝という者が居た。この三人は自分の力を信じて帰順しなかった。そこで磐余彦尊は兵を投じて皆殺しにした。
 また高尾張邑(たかおわりむら)に土蜘蛛(つちくも)がいた。その人態は身丈が低く手足が長かった。磐余彦尊の軍は葛の網(かつらのあみ)を作り罠をはって捕らえこれを殺した。そこで邑の名を変えて葛城とした。

 磐余彦が大和国内に入り込み、ウマシマジが帰順したことにより、大和国内の大勢は賛成派で占められた。しかし、周辺にはあくまでも反対する勢力が残っていた。あくまでも反対する勢力を駆逐していったのである。その中の土蜘蛛の墓が高天彦神社のすぐ近くにある。土蜘蛛もマレビトの子孫であることを意味している。磐余彦が大和に侵入したときは同じ一族のマレビトが賛成派と反対派に分かれて互いに争っていたのであろう。

 第17項 神武天皇即位

 日本書紀記述

 31年夏4月1日、天皇の御巡幸があった。腋上(わきがみ)のほほ間の丘に登り国の形をながめて言った。
「なんと素晴らしい国を得たものだ。狭い国ではあるが、蜻蛉(あきつ)がとなめ(後尾)しているように山々が連なり囲んでいる。」

 神武天皇社

祭神 神倭伊波礼毘古命   鎮座地 奈良県御所市柏原字屋舗
 神武天皇の即位した場所であるといわれている。

 須賀神社

 通称 ほほまの丘の宮 祭神 素盞鳴命 鎮座地 奈良県御所市本馬字麦山
掖上ほほま丘という、この丘へ神武天皇がお登りになり「大和は山々にかこまれて美しい国だ、蜻蛉(あきつ)のとなめしているようだ」と仰せられたという。
 わが国の別名「秋津島」の名はここから起こったのだという。この丘の木を切ることは恐れられている。斉明天皇の越智岡の御陵をつくる時にもこの丘の木を切ることを恐れてしなかったという。また頂上にハライタ山という土壇があり、吾平津媛を祀った跡だと伝えられている。

 神武天皇即位について

 白髪峠
 神武天皇が熊野から上陸しこの地の白髪峠を越え大和へ向かう際に、月が余りにも美しかったので、月出の里と名づけたと伝わる。

 これから戦闘が始まるという時に月の美しさに見とれたというのが本当であれば、佐野命は余程豪胆な人物であるということになるが、なかなかそのような人物は存在しないと考えられる。むしろこれは、平和になった後の伝承ではないかと考える。

 神前神社 半田市亀崎町2-92
 祭神 神倭磐余彦尊
 由緒 神武天皇が大和入国の時、この地に上陸した。
 半田市は愛知県の知多半島にある。この地は神武天皇の東遷コースから大きく外れているが、東遷関連伝承を持っている。これはどうしたことか。

 以上二つの伝承は神武天皇東遷時のものと云われているが、高見山伝承と共に東遷コースから外れている。高見山及び白髪峠はともに共に三重県の櫛田川上流域にあり、この川を下ると三重県松坂市(伊勢)である。神武天皇は即位後伊勢津彦を伊勢に派遣しており、伊勢はかなり重視していたようである。松坂市から伊勢湾に出るとその対岸が神前神社のある知多半島である。
 神武天皇は即位後、何か理由があって、三河国を巡幸してその時の伝承地が白髪峠や神前神社の伝承となったものではないだろうか。
 濃尾平野は大和朝廷即位後の銅鐸と思われる、突線紐式銅鐸が集中出土する地域である。神武天皇の訪問と何か関係があるのではないだろうか。

 神武天皇31年(AD98年に相当)に、腋上(わきがみ)のほほ間の丘で国見をしたと記録されているが、この地は御所市柏原の須賀神社の地である。ここは神武天皇が即位したと伝承している神武天皇社のすぐ近くである。神武天皇の宮址は橿原神宮の地と伝えられているが、即位伝承地が神武天皇社の地であるから宮址もこのすぐ近くと見るべきであろう。即位後31年も経ってから国見をするような地とは考えられない。国見をしたのが神武天皇31年と干支が同じであれば神武天皇元年(AD83年)となる。即位直後に国見をしたと考えるのが自然である。
 また、須賀神社は出雲の須我神社と同じ名である。出雲の須我神社はスサノオ命が稲田姫と結婚して最初の宮を造った地である。柏原の須賀神社は神武天皇の最初の宮址ではあるまいか。

 AD83年1月1日(当時は冬至が一年の最初と考えていたようなので、AD82年12月下旬頃と思われる)、残党一掃も終わり大和国内が平穏となったので、事代主の娘・媛蹈鞴五十鈴姫命との結婚式を盛大にあげることになった。これにて倭国と日本国の大合併が成立し、新生日本国が誕生したのである。磐余彦は大和朝廷初代神武天皇として即位した。その場所は神武天皇社の地である。
 その本拠地は葛城勢力の牽制も含め柏原の地に定めたのであろう。神武天皇はAD100年ごろ第二代綏靖天皇に皇位を譲った。日本書紀の神武天皇31年の記事が暗にその事実を伝えているのではないかと推定している。おそらくこの時、宮を柏原から畝傍山の麓の橿原に遷したのであろう。代わりに綏靖天皇の宮址が葛城山麓に造られることになる。

 神武天皇即位4年鳥見山霊峙を行ったとある。大和朝廷が成立し、国も一段落がついたので、神武天皇が大和に入る時に協力してくれた豪族を労うために周辺を巡幸した。御所市付近から紀ノ川流域に入り五条市付近(吉野の川尻)から、吉野に回った。吉野に宮を造り、井光の大塔宮にて勝利の矢を奉納した。
 このとき、高見山から櫛田川沿いに下り、松坂市から伊勢湾に出て、知多半島に上陸するコースで、巡幸した。帰りは、櫛田川を遡った。川の上流域で、見た月の出があまりに美しかったので、「月出の里」と名づけ、そこから、白髪峠越えで御杖村に入った。この村経由で、大和に帰ったものであろう。

 福岡県行橋市長尾の五社八幡神社に次のような記録がある。
神武天皇即位12年(AD89年)、日向御巡幸の時、この地に着きて大元祭をおこなう。
このことは神武天皇即位後九州地方を巡回していることを意味している。

 また、福井県鯖江市石田神社の記録
 「神日本磐余彦命(神武天皇)の東征の折り、石田彦という人物が、それに従った。神日本磐余彦命が、越の国を巡幸され、当地に滞在した時、懐中より玉串を取り出して、「朕今汝に石田郷を与えむと思う。汝朕の命に従い之を無窮に伝えよ」
と、石田彦に勅したという。
このことは神武天皇が即位後越国を巡回していることを意味している。

 これらの伝承を照合すると、神武天皇は即位後全国を巡幸していることが分かる。初めての日本列島統一王朝である大和朝廷が成立したのであるから、天皇自身が全国を巡幸して、諸国の実態を知ることは大変重要なことであり、当然であろう。ただし、その記録がほとんど失われており、巡回コースの復元はできない。

 熊本県天草地方は神武天皇を祀った神社が全国一多い。また、熊本県矢部町の男成神社の伝承によると、神武天皇の七六年二月、健磐龍命(たけいわたつのみこと)がこの地に下向の際、皇祖の三神を祭祀されたことに始まるとのことである。健磐龍命は阿蘇開拓の祖神であって、日向から高千穂を経て、阿蘇盆地にやってきたようである。
 熊本県一帯は球磨国(魏志倭人伝の拘奴国)であって、大和朝廷の支配を拒否し続けている。その関係で、神武天皇は球磨国を大和朝廷の支配下に組み込もうと健磐龍命を晩年(AD120年ごろ)球磨国に派遣したものであろう。

 神武天皇は治世76年(現年代計算で38年)でAD121年橿原神宮の地で生涯を終えた。畝傍山の麓の神武天皇陵に葬られた。現年齢計算で63歳の生涯であった。

 
 トップへ  目次へ 
神武天皇即位
関連 神武天皇誕生
大和朝廷成立
倭国・ヒノモト合併交渉