復元古代史のあらすじ

 スサノオ・饒速日尊の統一事業により日本列島は統一された。

4節 神社伝承を基にした復元古代史

神社伝承を分析することにより,判明した復元古代史のあらすじを「古代日本正史」・「上代日本正史」・「消された覇王」・「女王アマテラス」 と先程の年代推定の結果と総合して述べると,次のようになる。

スサノオ出雲国建国

 紀元前37年朝鮮半島北端部(現北朝鮮と中国の国境付近)にあった布留国が滅亡し、その王家の一族であるフツ(布都御魂命)が戦乱をのがれ朝鮮半島南端部から、朝鮮半島の先進技術を携えて船出をした。
 フツ一族は対馬海流に乗って島根半島の河下湾に流れ着いた。36年ごろ、平田市塩津町石上神社の地でフツを父としてスサノオ(素盞嗚尊)が誕生した。スサノオは沼田郷で成長し出西の久武神社の地に住んでいた。
 紀元前20年頃,スサノオは,恋人イナダヒメ(稲田姫)を土地の豪族ヤマタノオロチ(八岐大蛇)に横取りされたことから,酒の席でヤマタノオロチを殺害した。 スサノオはイナダヒメを奪って八重垣神社(現松江市)の地まで逃避行し、すぐそばの須我神社(現大東町)で彼女と結婚した。嫌われ者の豪族ヤマタノオロチを倒したその力を買われ、 スサノオは周りの人々から国王に祭り上げられた。ここに須我神社を中心とした出雲国が誕生した。

瀬戸内海沿岸地方統一(倭国の誕生)

 スサノオは父から受け継いだ朝鮮半島の先進技術を人々に示すことにより出雲国を統治した。先進技術が生活の安定を生み、 周辺の小国家が次々と出雲国に加盟し出雲国は次第に巨大化していった。スサノオは出雲国が次第に巨大化するのを見て、朝鮮半島のような戦乱時代が来るのを避けるため 日本列島を先進技術でもって統一することを決意した。
 国家統一するために必要な先進技術は今手元にあるフツから受け継いだ技術だけでは不十分に感じ、朝鮮半島に渡って更なる高度な技術を輸入することを考えた。 出雲国と朝鮮半島の交易ルートを安定確保するために、紀元前10年ごろ、国がなかった対馬に渡り、対馬国を造り出雲国に加盟させた。スサノオは対馬から、朝鮮半島に渡り先進技術を次々と取り入れた。
 スサノオはその技術を用いて、 瀬戸内海沿岸地方におもむき、日本列島統一の必要性を人々に訴え、西暦紀元ごろ、瀬戸内海沿岸地方及び紀伊半島は統一された。大阪湾沿岸地方は有力豪族がおり、 彼らに追い返されてしまった。スサノオは統一した連合国家を倭国と命名した。大三島の大山祇神社を宮処として瀬戸内海沿岸地方を治めた。中細銅剣を統一のシンボルとして 銅剣祭祀をはじめた。

北九州統一

 紀元10年頃,スサノオは更なる先進技術を朝鮮半島から取り入れ、その一族と共に,宇佐地方を統一した。そこを基点とし、中広銅矛を統一のシンボルとして北九州統一に出発した。 北九州には有力豪族がおり、その有力豪族は周辺小国家を虐げていた。スサノオは安全確保と食料安定供給を交換条件として次々と小国家を倭国に加盟させた。スサノオの第4子オオトシ(大歳) も協力して北九州を統一していった。統一できなかったのは球磨国(現熊本県)及び伊都国(現福岡県前原市)のみであった。スサノオが統一した地域には中広銅矛祭祀が始まった。

南九州統一

北九州を統一したスサノオ一族は南九州を目指して侵攻した。阿波岐原(現宮崎市)に上陸し、南九州統一の拠点とした。木花を拠点としていた中国の呉の太伯の子孫イザナギ(伊邪那岐)一族と出合った。 イザナギに倭国に加盟するように要求した。イザナギはスサノオが娘のムカツヒメ(日向津姫)と結婚することを条件に倭国に下命することを承知した。イザナギは一族を挙げて倭国の拡大に協力することにした。
 スサノオはムカツヒメと共に、現宮崎市から都城市一帯を統一後、高千穂山を越えて国分市付近を統一し、国分(現鹿児島神宮の地)に南九州統治の拠点を作った。イザナギは東霧島神社の地を拠点として都城盆地一帯を統治した。

紀伊半島統一

 紀元15年ごろ、スサノオは協力者イザナギ、イザナミ及び五十猛命、大屋津姫、爪津姫をひきつれて紀伊半島の統一に向かった。スサノオは五十猛命、大屋津姫、爪津姫に和歌山市周辺の統一を任せ、自らはイザナギ、イザナミを引き連れて、熊野地方まで進出した。
 紀伊半島統一後、スサノオは九州に戻り、ムカツヒメと妻垣神社(現大分県安心院町)の地で新婚生活をし、イザナギは大阪湾岸地方の統一準備のために淡路島に拠点を造り、イザナミは出雲で製鉄技術の革新のために出雲に渡った。イザナギ、イザナミはそれぞれの地で亡くなった。

倭国の分治

 スサノオはムカツヒメとし、妻垣神社(現大分県安心院町)の地で新婚生活をし、ここで、宗像三女神、オシホミミ(天忍穂耳命)、ホヒ(穂日命)が誕生した。 スサノオは巨大化しすぎた倭国の情勢が不安定化してしてきているのを感じ、出雲に帰還することにした。倭国は大きくなりすぎているので各地方をスサノオ一族で統治することにした。
  南九州はムカツヒメ、北九州西部地方はオオトシの子であるサルタヒコ(猿田彦)、瀬戸内海沿岸地方は琴平を中心としてオオトシ、紀伊半島はイソタケ(五十猛)、 北九州東部地方はスサノオの倭国統治に協力的であったタカミムスビに長子オシホミミを預けて統治させた。 スサノオはムカツヒメに南九州の未統一地域を統一することを頼み、25年ごろ、彼女と別れた。
 出雲に帰還したスサノオは佐田神社(島根県佐田町)に隠棲し、倭国全体の後継者(第二代倭国王)を育てようとした。後継者に選ばれたのは、末子スセリヒメ(須勢理姫)と結婚した出雲古来の豪族クナト(岐戸神・天冬衣神)の子であるオオクニヌシ(大国主)である。 スサノオは北陸地方の統一を始めとした試練を与え、彼もそれに答えた。オオクニヌシは三屋神社(現島根県三刀屋町)を中心として出雲国を統治した。 ムカツヒメもスサノオの指示を受けるために何度か出雲を訪れている。

 スサノオの死

 スサノオは出雲に帰還して10年ほどたったころ、自分の死期を感じていた。オオトシを琴平から呼び寄せ、東日本地域の統一を託し、まもなく息を引き取った。 AD30年ごろであろう。御陵は熊野山である。

 出雲国譲り騒乱

 AD25年ごろムカツヒメは安心院より南九州へ旅立った。途中球磨国の様子を探るために高千穂に立ち寄った。ここでニニギ(瓊々杵尊)が誕生した。 南九州に戻ったムカツヒメは東霧島神社の地を都として、南九州の地固めをした。このときヒコホホデミ(彦火火出見尊)、ウガヤフキアエズ(鵜茅草葺不合尊)が誕生した。
 南九州未統一地域の統一には第二代倭国王であるオオクニヌシが欠かせないことを悟ったムカツヒメはオオクニヌシを南九州に呼んだ。 オオクニヌシは南九州で球磨国や、その他の未統一地域を倭国に加盟させるように努力をしたが、 志半ばにしてコトシロヌシ(言代主)誕生後まもなく、南九州で病のため息を引き取った。 紀元40年ごろのことである。第二代倭国王の突然の死により、倭国王が空位になり、たちまち相続争いが起こった。 タカミムスビはこの状態を憂い、倭国を東西に分割することを提案した。
  東倭は出雲・瀬戸内海沿岸地方・紀伊半島で、出雲国を中心とする。西倭は九州地方・南四国地方で、東霧島を都とする。 そして、全体を統括するために出雲で大々的にスサノオ祭祀を行い、その祭祀者にコトシロヌシをあてるようにした。 コトシロヌシはまだ幼いので、サルタヒコをその協力者とするという計画である。ホヒを出雲に派遣し、根回しをした。出雲国王は大国主とトリミミ命との子であるトリナルミであり、政治はトリナルミ、祭祀はコトシロヌシという体制を造ろうとした。
 ホヒの活躍により出雲は大体納得したが、 タケミナカタだけは反対したので、タケミカヅチ、フツヌシを出雲に派遣しタケミナカタを諏訪まで追い詰め降参させた。 南九州では国分の出雲屋敷をニニギを総大将として急襲することにより南九州一帯には反対勢力がいなくなった。 西倭国王としてオシホミミを即位させようとしていた矢先、オシホミミが急死した。急遽ニニギを派遣し北九州が騒乱に巻き込まれるのを防いだ。ニニギの活躍により 北九州西部統治権をサルタヒコから受け継いだ。サルタヒコは北九州で青銅器祭祀(銅鐸・銅矛)を行っていた。サルタヒコは青銅器を携えて、ホヒの子タケヒナドリとともに出雲に旅立った。

 ムカツヒメの南九州統一事業

オシホミミの急死によりムカツヒメが西倭国王(第三代倭国王)に即位した。45年ごろのことである。都を国分に移し、ニニギに引き続き北九州を納めさせ、 ヒコホホデミとフキアエズに南九州各地を巡回させ、地方の情報を集めた。50年ごろ、フキアエズには宇都(宮崎県高原町)で内政をまかせた。58年ここで狭野命(後の神武天皇)が誕生している。 ヒコホホデミには対馬や東倭を巡回させた。
 ムカツヒメはスサノオに習い南九州の統一には外国の先進技術が欠かせないことを悟り、ヒコホホデミに後漢を訪問させた。 ヒコホホデミは57年後漢にわたり、先進技術とともに玉璧、漢委奴国王の金印を携えて戻ってきた。ヒコホホデミは帰国後、金印を携えて伊都国に渡り伊都国を倭国に加盟させた。 ムカツヒメはその先進技術を示し、南九州の未統一地域に自分の子供たちを派遣した。
 ニニギを北九州から呼び戻し薩摩半島北西部に、フキアエズを大隅半島に、ヒコホホデミを串間に派遣した。 ムカツヒメ自身も倭国に加盟することを拒み続けている曽於族を加盟させるために串間のヒコホホデミの元に行った。65年ごろのことである。 70年ごろムカツヒメは串間で亡くなった。墓は王の山で、後漢からの玉璧が副葬された。 75年ごろ後を継いだフキアエズも西州宮(桜迫神社の地)で亡くなり、狭野命が後を継いだ。彼らの活躍により、球磨国と曽於国を残し南九州は統一された。

 饒速日尊の日本国建国

オオトシは琴平で平形銅剣祭祀を行って瀬戸内沿岸地方を統治していたが、スサノオの遺命を受けることにより、近畿地方統一に乗り出すことにした。30年ごろと思われる。 有力豪族がひしめく近畿地方を統一するために、オオトシはマレビトを近畿地方の各国々に送り込み、その子孫の協力によって国を統一することを考えた。オオトシは、自らが統一した北九州各国から有能な若い男子(マレビト)をかき集め、集団として大阪湾岸地方に乗り込んだ。各マレビトは、それぞれの国に分け入り、子孫を繁栄させた。
 オオトシ自身はは日下から大和に入り,国王のナガスネヒコの妹ミカシヤヒメと結婚し,饒速日尊と名乗り、大和国王となった。このため、倭国とは別の国を作ることになったのである。新しい国の名をヒノモト(日本)とした。饒速日尊が日下から大和に入るとき生駒山山頂から昇る太陽の姿の感動したため、この名をつけたようである。
  饒速日尊は大和国王になってから、石切神社の地を拠点として、大阪湾岸地方のマレビトと協力してそれぞれの国を統一していった。AD40年ごろ大阪湾岸地方が統一されたので、饒速日尊は葛城一族にマレビトとして入り込みそこを拠点として大和盆地南部に進出した。倭国に属していた紀伊半島地方を五十猛命より日本国に譲り受け、近畿地方一帯が日本国に所属するようになった。日本国の都を三輪山山麓に造り、大阪湾岸地方の豪族(マレビトの子)たちを東日本各地に派遣し、共同生活をしながら先進技術を示すことにより、東日本各地(福島県以南)を統一させた。饒速日尊自身は関東地方中心に活躍した。
 AD55年ごろ東日本地方が日本国に加盟したので、饒速日尊は帰国した。日本国王を葛城一族の娘(御歳姫)に生ませた事代主命に譲り、自らは初瀬地方で隠棲した。事代主は三輪一族の娘と結婚し三輪山の麓を拠点として日本国を統治した。このような中、AD60年ごろ饒速日尊は初瀬で亡くなり、三輪山に葬られた。
 生前、 饒速日尊は三輪山の形が大変気に入り三輪山山頂から昇る太陽の姿をシンボルとして祭祀を始めた。その中心施設が冬至の日に三輪山山頂から昇る太陽を拝むことのできる 唐古鍵遺跡である。その姿が銅鐸であり、三輪山の形は鋸歯紋として以後の大和朝廷のシンボルとなるのである。饒速日尊は需要の増した銅鐸生産を九州のサルタヒコに依頼していた。

大和朝廷成立

饒速日尊の死後、AD70年ごろ第二代日本国王事代主命もまもなく亡くなった。事代主命が若くして亡くなったので、後継者は幼少のイスケヨリヒメのみであった。後見人を誰にするかでまとまらず、各豪族間で主導権争いがおこり、日本国は乱れ始めた。その状態を憂えたオオクニヌシの子アジスキタカヒコネは倭国の狭野命と日本国のイスケヨリヒメとの政略結婚による両国の大合併を提案した。 日本列島統一はスサノオ・饒速日尊の夢であり、そのことを当時の人々は知っていたのでヒノモトの人々も倭国の人々もその多くは賛成した。しかし、大和国の三輪一族以外は反対派となった。 反対派が賛成に回る気配がないのでアジスキタカヒコネは強引に話を進めた。。
 西倭の狭野命がヒノモトのイスケヨリヒメに婿入りする形で大合併をし、合併後の都は大和、国名はヒノモト(日本国)とする。 ただし対外的には倭国を用いることにした。東倭・日向地方は大和朝廷の聖地として自治を認める。以上のような条約が交された。
 ヒノモトの人々は反対派を説得したが納得しない。時機を逸してはならないので、78年、狭野命が大和に行くことになった。狭野命は南九州各地の一族に挨拶を済ませ、美々津海岸より出港した。
 西倭・ヒノモトの大合併にはもうひとつ課題があった。北九州と大和の間にある瀬戸内海は大和朝廷にとって最も重要な交易路であるが、その全域が東倭に所属していたのである。 狭野命は、安芸国に長期滞在し出雲のコトシロヌシと交渉を行った。その結果安芸国と吉備国西部(備後国)の割譲に成功した。狭野命は割譲地を安定化させるためにさらにしばらく滞在(高嶋宮)した。
  狭野命は日下から大和に入ろうとしたがナガスネヒコに追い返された。狭野命は紀伊半島南部に迂回し、吉野川流域、宇陀市周辺の豪族たちを味方に付け、反対派を打ち破り、AD81年大和進入に成功した。
 狭野命は大和に入り吉日(AD83年冬至の日・当時の1月1日)を選びイスケヨリヒメと結婚式を挙げ、大和朝廷初代神武天皇として即位した。 神武天皇は15年ほど在位した後、三皇子を第二代綏靖天皇・第三代安寧天皇・第四代懿徳天皇と即位させた。第四代懿徳天皇(倭国王帥升等・107年)のとき、後漢に生口(技術者)160人を派遣し先進技術を学ばせた。 その技術者を地方に派遣して、地方を開発し朝廷の技術を普及させた。これにより、地方は朝廷の下にまとまっていった。

倭国大乱

日本列島は大和朝廷の技術指導の下、安定化してきたが、2世紀半ばごろから始まった寒冷期により不作が続き、政情不安定になっていった。特に朝廷からの技術指導を受けなかった自治区であった東倭は凶作であった。 その影響で、各地に略奪集団(鬼)が出没するようになった。東倭王の出雲振根はサルタヒコが九州から持ち込んだ祭器を使った祭礼強化で人々の心を安定化しようとしたが、鬼の出没はひどくなる一方であった。
  第六代孝安天皇はこのことを憂えて、皇太子楽楽福(ささふく)命に祭礼に使う祭器を没収することを命じた。楽楽福命は伯耆国孝霊山麓に滞在して出雲と交渉したが埒が明かなかった。 このようなとき(175年)に孝安天皇が大和で崩御した。楽楽福命は大和に戻り第七代孝霊天皇として即位した。天皇として即位した孝霊天皇は兄の子である吉備津彦・吉備武彦兄弟に鬼が出没している吉備国平定を命じた。
 吉備津彦兄弟は吉備中山を拠点として吉備国平定を行なった。孝霊天皇自身は吉備国から伯耆国に入り吉備津彦兄弟の協力を得ながら、鬼住山・大倉山・鬼林山と鬼退治を行なった。 185年吉備国伯耆国の平定が完了したので、出雲本国に侵入することになった。
 出雲との激戦は続いたが出雲軍は強く戦いはこう着状態に陥った。このとき、大天才として知られていた 当時讃岐国に派遣されていた倭迹迹日百襲姫が調停を行い、東倭は大和朝廷の支配下に下ることで倭の大乱が終結した。
  人々は倭迹迹日百襲姫の指導力に驚き、彼女が日本国を治めることを臨んだ。 倭迹迹日百襲姫は大和最高神饒速日尊の妻となることにより、大和朝廷最高権力者となった。邪馬台国女王卑弥呼である。

古墳時代の始まり

倭国大乱の直接の原因が出雲と大和での祭礼形式が異なることであった。旧東倭を平穏に治めるためには大和と出雲の祭祀の統一がどうしても必要であった。その中間にある吉備国で 祭祀の試行錯誤が行なわれた。そのなかで、大和系の前方後円墳、出雲系の前方後方墳にまとまってきた。
 大和では、倭迹迹日百襲姫の指示の元、三輪山山頂から春分の日に太陽が昇る位置に日本国最初の巨大都市巻向遺跡が作られ始めた。 その祭礼施設として前方後円系の巻向石塚が作られた。前方後円墳は三輪山から昇る太陽の姿である。 倭迹迹日百襲姫は人々の心を安定化させるために祭礼強化を図った。そのシンボルとして 三角形(三輪山の形)の縁をもつ鏡を作ろうと魏に使いを出し技術者を日本に呼び寄せた。この技術者が三角形の縁を持つ鏡(三角縁神獣鏡)を作った。
 大和朝廷が地方に国造を任命し地方に課税を始めた。課税を確実にするためには球磨国が朝廷の支配下でないのは甚だ不都合であり、この頃より、球磨国との戦いが始まった。 球磨国とは狗奴国のことである。このような時250年(崇神10年)倭迹迹日百襲姫が亡くなった。魏からの技術者の指導の下、最大級の墳丘墓である箸墓を作った。 古墳時代の始まりである。
 大和朝廷は三角縁神獣鏡を作るための青銅不足を補うために各地の青銅祭器(銅剣・銅矛・銅鐸)を没収した。人々は没収されるのを逃れるために 土に埋めた。
 曽於国は第12代景行天皇が、球磨国は第14代仲哀天皇がそれぞれ平定した。

古事記・日本書紀の編纂

 大和朝廷の創始者であるスサノオと饒速日尊は人々から敬われ大和朝廷でも大々的に祭られていたが,後になって仏教を広めるにあたり, この二人が邪魔になり,この二人の業績をイザナギやオオクニヌシのものとすり替えて全国の神社から抹殺し,それに合わせて,古事記・日本書紀を編纂した。 これらの出来事があった跡には,いずれも現在神社が建っていて,これらの出来事を裏付ける伝承を伝えている。 この復元古代史は,国内資料のみを基にしたものである。そのため,中国史料や考古学的事実と照合する必要がある。 どのような統一方法を採ったかを吟味した後,照合をしてみたいと思う。

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