推古天皇年表
推古 | 西暦 | 月 | 日 | 記事 |
0 | 592 | 11 | 崇峻天皇暗殺 | |
12 | 8 | 炊屋姫即位 | ||
使者を隋に派遣し、朝貢させた(高句麗本紀) | ||||
1 | 593 | 1 | 15 | 仏舎利を法興寺の刹柱の基礎の中に置いた。 |
4 | 10 | 厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子とした。 | ||
9 | 用明天皇を河内磯長陵に改めて葬った。 | |||
四天王寺を難波の荒陵に作り始めた。 | ||||
明活城を改築した。その周囲は3000歩である。西兄山城を築いた。その周囲は2000歩である。(新羅本紀) | ||||
2 | 594 | 2 | 1 | 皇太子と大臣に詔して、三宝(仏・法・僧)を興して栄えさせようとした。この時、諸々の臣連はそれぞれの親の恩のために競って寺を作った。 |
真平王,「上開府楽浪郡公新羅王」の称号を授けられる。(新羅本紀) | ||||
3 | 595 | 4 | 沈水が淡路島に漂着したので、献上した。 | |
5 | 10 | 高麗の僧の慧慈が帰化し、皇太子は慧慈を師匠とした。 | ||
百済の僧の慧聡が来た。この僧は仏教を広めて、三宝の棟梁となった。 | ||||
7 | 将軍たちが筑紫から帰還 | |||
4 | 596 | 3 | 僧・曇育を隋に派遣し仏法を求める。使者を隋に派遣して方物を献ずる。(新羅本紀) | |
11 | 法興寺が完成した。 | |||
高僧の曇育が隋へ行って、仏法を求めた。この月、王は使節を隋に派遣し、特産物を献上させた(新羅本紀) | ||||
5 | 597 | 4 | 1 | 百済の王は王子の阿佐を派遣して朝貢した。 |
5 | 高麗が使者を派遣して宝物を貢ぐ。(隋書) | |||
11 | 22 | 吉士磐金を新羅に派遣した。 | ||
三郎寺が完成した(新羅本紀) | ||||
使者を隋に派遣し、朝貢させた(高句麗本紀) | ||||
6 | 598 | 2 | 漢王諒をもって行軍元帥となし、水陸三十万で高句麗を伐つ。(隋書) | |
4 | 難波吉士磐金は新羅から到着して、鵲を献上した。すぐに難波社で飼わせた。 | |||
高句麗王は靺鞨の人々1万余人を率いて遼西に侵入したが、営州摠管の韋冲はこれを撃退した。(高句麗本紀) | ||||
6 | 文帝、詔を下して高句麗王高元の冠爵を剥奪する。(隋書) | |||
8 | 1 | 新羅は孔雀を献上した。 | ||
9 | 王は長史の王辯那を使者として隋に行かせて、朝献させた。王は隋が遼東の役(高句麗討伐)を興したのを聞いて、使者を派遣し、上表して、軍の先鋒になりたいと申し出た。 高祖は詔を下して、先年高句麗が貢物を献上せず人臣としての礼を失っているので、将軍に命じて討伐を命じた。高句麗王の高元(えい陽王)の君臣は懼れ慄き、謹んで自ら罪に服した。朕はすでに高句麗を許したので、百済が高句麗を討伐してはならないといい、わが国の使者を手厚くもてなして帰国させた。高句麗は詳しくその事情を知ったので、出兵して、わが国の境を侵掠した。(百済本紀) |
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9 | 隋の陸軍は遼河まで行った。 高句麗王もまた恐れおののき、使者を隋に派遣して、謝罪させた。 その上表文に、「遼東の糞土の臣であるわたくし」と称したので、文帝は戦いを止め、王をはじめのように待遇することにした。(隋書) |
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百済威徳王は使者を派遣して、上表文を奉呈し、隋軍の先導になりたいと願い出た。 文帝は詔を下して、「高句麗は罪に服したので朕はこれを許した。したがって高句麗を討伐してはならない」と百済王を諭し、百済の使節を手厚くもてなして帰国させた。 高句麗王はこのことを知って、百済の国境を侵略した。(隋書) |
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10 | 10 | 越国は白鹿を一頭献上した。 | ||
12 | 威徳王が薨去した。(百済本紀) | |||
7 | 599 | 4 | 27 | 地震があり、舎屋がことごとく壊れた。四方に令して、地震の神を祭らせた。 |
9 | 1 | 百済は、ラクダ1匹、ロバ1匹、羊2頭、白雉1隻を献上した。 | ||
恵王、薨去。贈り名を恵という。法王、即位。(百済本紀) | ||||
8 | 600 | 1 | 隋に遣使朝貢。(高句麗本紀) 突厥、高麗、契丹共に使者を遣わし方物を貢ぐ。(隋書) |
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2 | 新羅と任那は攻め合い、戦争をした。天皇は任那を救おうとした。 | |||
境部臣を大将軍、穂積臣を副将軍とし、一万あまりの兵士を率いて、任那のために新羅を撃った。新羅は多々羅・素奈羅・弗知鬼・委陀・南加羅・阿羅々の6つの城を割譲して、服従すると請願した。 | ||||
新羅と任那の二つの国は使者を派遣して、調を献上した。しかし新羅は再び任那に侵攻した。 | ||||
高僧の円光が朝聘使の奈麻の諸文や大舎の横川に随って帰国した(新羅本紀) | ||||
使者を隋に派遣し朝貢させた(倭国、隋に初朝貢) | ||||
5 | 王が崩じ、第30代武王即位(百済本紀) | |||
9 | 601 | 2 | 皇太子は初めて宮室を斑鳩に建てた。 | |
3 | 5 | 大伴連囓を高麗に派遣して、坂本臣糠手を百済に派遣して任那を救うことを詔した。 | ||
5 | 天皇は耳梨の行宮にいた時、大雨が降り、河の水が宮庭に満ちた。 | |||
9 | 8 | 新羅の間諜の迦摩多が対馬に到着した。すぐに捕まえて、上野に流した。 | ||
11 | 5 | 新羅を攻めることを話し合った。 | ||
10 | 602 | 2 | 1 | 来目皇子を新羅を撃つ将軍とし、軍衆2万5千人を授けた。 |
4 | 1 | 来目皇子は筑紫に到着し、嶋郡に駐屯して、船舶を集めて、軍の食料を運んだ。 | ||
6 | 3 | 大伴連囓・坂本臣糖手はともに百済から到着した。この時、来目皇子は病気に臥して、征討できなかった。 | ||
8 | 新羅の阿莫山城(全羅北道南山市)を攻めたが勝てなかった(百済本紀) 防戦して百済軍を破ったが、このとき貴山と箒項が戦死。(新羅本紀) |
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9 | 大奈麻・上軍を隋に遣わす。高僧の智明が上軍に従って帰国。王は智明を大徳に任ず。(新羅本紀) | |||
10 | 百済の僧の観勒がやって来ました。暦の本と天文地理の書、それと合わせて遁甲・方術を献上した。 | |||
11 | 603 | 2 | 4 | 来目皇子は筑紫で亡くなった。周芳の娑婆に殯し、後に、河内の埴生山の岡の上に葬った。 |
4 | 1 | 来目皇子の兄の当麻皇子を新羅を征伐する将軍とした。 | ||
7 | 3 | 当麻皇子は難波から船で出発した。 | ||
7 | 6 | 当麻皇子は播磨に到着した。その時、付き従っていた妻の舎人姫王が赤石で亡くなったので、征伐を中止した。 | ||
8 | 将軍・高勝を派遣して新羅北漢山城を攻める。(高句麗本紀) 高句麗が新羅の北漢山城を侵す。王、自ら兵一万を率いて防戦す。(新羅本紀) |
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10 | 4 | 天皇は小墾田宮に移った。 | ||
11 | 1 | 皇太子は秦造河勝に蜂岡寺を造らせた。 皇太子は天皇に請願して、大楯と靫を作り、また、旗幟に絵を描いた。 |
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12 | 5 | 冠位12階を制定 | ||
高句麗王は将軍の高勝に命じて新羅の北漢山城を攻撃させた。新羅王が軍を率いて漢水を渡ると、城中でも太鼓を打ち鳴らして援軍に呼応した。 高勝は敵軍が多く味方が少ないので、勝てないと考えて退却した。(高句麗本紀) |
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12 | 604 | 1 | 1 | 初めて冠位を諸々の臣たちに与えた。 |
4 | 3 | 憲法十七条を制定 | ||
7 | 大奈麻の万世・恵文などを隋に遣使朝貢。(新羅本紀) | |||
9 | 朝廷の礼を改めた。 「すべての宮の門を出入りする時は、両手で地を押し、両方の足を膝まづいて、梱を越えたら、立って行け」 黄書画師・山背画師を定めた。 |
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煬帝、父文帝を殺して隋第2代の皇帝に即位。 南川州(利川)を廃して、ふたたび北漢山城を設置す。(新羅本紀) |
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13 | 605 | 4 | 1 | 初めて銅と刺繍の丈六の仏像を、それぞれ1体作り始めた。高麗国の大興王は日本国の天皇が仏像を造ると聞いて、黄金三百両を献上した。 |
7 | 1 | 皇太子は諸々の王と諸々の臣に命じて、褶を着させた。 | ||
8 | 新羅が百済の東辺を侵した(百済本紀) 百済の東辺を侵す。(新羅本紀) |
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10 | 皇太子は斑鳩宮に居た。 | |||
14 | 606 | 4 | 8 | 銅と刺繍の丈六の仏像が完成し、元興寺の金堂に坐らせた。この年より寺ごとに4月8日(濯仏会)と7月15日(盂蘭盆会)に拝んだ。 |
5 | 5 | 鞍作鳥(仏像工)に大仁の位と、近江国の坂田郡の水田20町を与えた。この田に天皇のために、金剛寺を作った。 | ||
7 | 天皇は皇太子に請願して、勝鬘經を読経させた。 | |||
皇太子は法華経を岡本宮で読経した。天皇はとても喜んで、播磨国の水田百町を皇太子に贈った。それで斑鳩寺に入れた。 | ||||
15 | 607 | 2 | 1 | 壬生部を定めた。 |
2 | 9 | 詔して 、「群臣とともに心を尽くして、神祗を拝み敬い祀るべきだ」という。 | ||
2 | 15 | 皇太子と大臣と百僚を率いて、神祗を祀り拝んだ。 | ||
煬帝が東突厥の首長啓民の陣屋に行幸した時、啓民は高句麗の使者と共に煬帝に謁見した。 高句麗王は懼れて、藩屏国としての儀礼を甚だしく欠いた(煬帝の求めに応じなかった)ので、煬帝はこ高句麗王に朝貢するように要請したが、高句麗王はこれを聞かなかったので、煬帝は高句麗を討伐することにした。 |
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5 | 高句麗王は出兵して、百済の松山城(熊津)を攻めたが、下すことができず攻撃目標を変更して、石頭城を襲撃、男女の捕虜3千人を得て帰国した。(高句麗本紀・百済本紀) | |||
7 | 3 | 大礼の小野臣妹子を隋に派遣した。鞍作福利を通事とした。 | ||
冬 | 倭国に高市池・藤原池・肩岡池・菅原池を作った。山背国に大溝を栗隈に掘った。また河内国に戸苅池・依網池を作った。また国ごとに屯倉を置いた。 | |||
16 | 608 | 2 | 将軍に命じて新羅の北部国境地帯を攻撃させ、捕虜8千人を得た(高句麗本紀) | |
3 | 使者を隋に派遣して朝貢した。隋の使者が百済の南路を経由して倭を訪問した。(百済本紀) 百済、倭、赤土、加羅、舎国ともに使者を遣わし方物を献ず。(隋書) |
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4 | 小野臣妹子は隋から到着した。隋国は妹子臣に蘇因高と名付けた。大隋の使者の裴世清と下客12人を妹子臣に従って、筑紫に到着した。難波吉士雄成を派遣して、大隋からの客人の裴世清たちを呼び寄せた。唐の客人のために、新しい館を難波の高麗館のそばに造った。 | |||
4 | 新羅の牛鳴山城を陥落させた(高句麗本紀) | |||
6 | 15 | 客人たちは難波津に宿泊した。この日に飾船の30艘で客人たちを江口で出迎えて、新しい館に滞在させました。中臣宮地連烏磨呂・大河内直糠手・船史王平を掌客とした。 隋の皇帝からの書を紛失した。 |
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8 | 3 | 唐の客人は京に入りました。この日に飾騎75匹を派遣して唐の客人を海石榴市の術で出迎えた。 | ||
8 | 12 | 隋の客人を朝廷に呼び出して、使者の旨を申し上げさせた。 | ||
8 | 16 | 隋の客人たちと朝廷で宴会をした。 | ||
9 | 5 | 客人たちを難波の大郡で宴会で歓待した。 | ||
9 | 11 | 隋の客人の裴世清は帰った。 | ||
この年、新羅人が多く帰化した。 | ||||
17 | 609 | 4 | 4 | 肥後国の葦北津に百済人が多数流れ着いた。 |
5 | 16 | 百済の人たちを本国に送ろうとしたところ、対馬に至って、請願して留まりたいと申し出た。そこで留まることにし、元興寺に居らせた。 | ||
9 | 小野臣妹子たちは隋から到着した。ただし通事の福利だけ帰って来なかった。 | |||
18 | 610 | 1 | 倭国が遣使して方物を貢ぐ。(隋書) | |
3 | 高麗の王は僧の曇?・法定を献上した。 |
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7 | 新羅の使者の沙?部奈末竹世士と任那の使者の?部大舍首智買が筑紫に到着した。 | |||
9 | 使者を派遣して新羅と任那の使者を呼び寄せた。 | |||
10 | 8 | 新羅と任那の使者は京に到着した。 | ||
9 | 客人たちは朝廷を拝礼した。 | |||
17 | 使者は朝廷で宴会をした。 | |||
23 | 客人たちの礼は終わり、帰国した。 | |||
19 | 611 | 2 | 煬帝が高句麗を討つよう詔をくだした(隋書) 百済、遣使朝貢。(隋書) |
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5 | 5 | 菟田野で薬猟をした。 | ||
8 | 新羅は沙?部奈末北叱智を派遣し、任那は習部大舍親智周智を派遣した。どちらも朝貢した。 | |||
10 | 新羅の瑕岑城を攻め滅ぼした(百済本紀) | |||
20 | 612 | 1 | 7 | 酒を置き、飲んで、群卿と宴会をした。 |
2 | 20 | 皇太夫人の堅塩媛を檜隈大陵(欽明天皇陵)に改めて葬った。 | ||
5 | 5 | 薬猟をして、羽田に集まり、連なって朝廷に参上した。 | ||
百済国から路子工、味摩之が帰化した。 | ||||
隋の六軍が遼河を渡り高句麗に攻め入るというので、王は兵を挙げて国境を守り、隋を援助すると声明を発するが、実は隋と高句麗の両端を持つ政策をとる。(百済本紀) | ||||
遼東城の攻防、高句麗が勝利(高句麗本紀) | ||||
21 | 613 | 7 | 隋の使者・王世儀が皇竜寺に来て百高座を設け、円光などの法師を迎えて仏教を説いた。(新羅本紀) | |
11 | 掖上池・畝傍池・和珥池を作った。また難波から京まで大道(竹内街道)を作った。 | |||
12 | 1 | 皇太子は片岡に行った。その時、飢えた人が道のほとりに伏せていた。皇太子は飲食物を与え、衣裳を脱いで飢えた人を覆った。 | ||
2 | 皇太子は使者を派遣して、飢えた人を視察させた。 | |||
隋、再び高句麗を攻める | ||||
22 | 614 | 2 | 隋の煬帝は群臣を召して高句麗征討を議る。数日しても発言するものなし。煬帝はまた詔そ下し、天下の兵を徴募しともに進撃す。(高句麗本紀) | |
5 | 5 | 薬猟をした。 | ||
6 | 13 | 犬上君御田鍬・矢田部造を隋に派遣した。 | ||
7 | 煬帝が懐遠鎮に到着。時に天下乱れ、徴募した兵は期限に遅れてこないもの多し。一方、高句麗も疲弊し困憊していた。 隋将の来護児が卑奢城を攻めこれを落とし、平壌に向かおうとす。王は恐れて、煬帝に使者を送り、降伏を乞い、解斯政を送る。煬帝は大いに喜び、使持節を遣わして来護児を召還す。(隋書) |
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8 | 大臣は病気に臥した。大臣のために男女合わせて1000人が出家した。 | |||
10 | 煬帝が西京に帰還す。高句麗の使者に王の入朝を督促するも、王はついに従わず。(高句麗本紀) | |||
23 | 615 | 1 | 突厥、新羅、靺鞨など共に遣使朝貢。(隋書) | |
9 | 犬上君御田鍬・矢田部造は隋から到着した。百済の使者が、犬上君に従って来朝した。 | |||
11 | 2 | 百済の客をもてなし、宴会をした。 | ||
11 | 15 | 高麗の僧の慧慈が国に帰った。 | ||
24 | 616 | 1 | 桃季が実った。 | |
3 | 屋久島の人が3口、帰化した。 | |||
5 | 屋久島の人が7口、帰化来た。 | |||
7 | また、屋久島の人が20口来た。前のと合わせて30人。全員が死んだ。 新羅は奈末竹世士を派遣して、仏像を献上した。 |
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10 | 新羅の母山城を攻めた(百済本紀) | |||
25 | 617 | 6 | 出雲国が「神戸郡に瓜がある。大きさは缶のようだ」と言った | |
五穀がよく実った。 | ||||
煬帝のいとこであり、太原総督の李淵は、長安を陥落させると、煬帝を太上皇帝とし、その孫恭帝を傀儡の皇帝に立て、隋の中央を掌握。 | ||||
26 | 618 | 8 | 1 | 高麗は使者を派遣して方物を献上した。それで言いました。 「隋の煬帝が30万の軍隊を興して我が国を攻めてきたが、私に敗れました。そこで俘虜貞公・普通の2人と鼓吹・弩・抛石などを10種の物と、合わせて土物・駱駝1匹を献上します」 |
河辺臣を安芸国に派遣して、舶を作らせた。 | ||||
9 | 高句麗王(平陽王)が崩じた。 | |||
煬帝が殺害され、李淵は恭帝から禅譲を受けて即位、唐を建国。 | ||||
新羅、瑕岑城を奪回(百済本紀) | ||||
27 | 619 | 4 | 4 | 近江国が、「蒲生河に物があります。その形が人のようです」と言った。 |
7 | 摂津国で漁父が網を堀江に沈めました。物があって網に入った。その形が児のようだった。 | |||
7 | 使者を唐に派遣して朝貢(高句麗本紀) | |||
28 | 620 | 8 | 屋久島の人が2口、伊豆嶋に流れて来た。 | |
10 | さざれ石を檜隈陵(欽明天皇陵)の上に敷いた。域外に土を積んで山をなした。それで氏ごとに科して、大柱を土の山の上に建て、倭漢坂上直が建てた柱は、非常に甚だ高かった。その時代の人は名付けて「大柱直」と言った。 | |||
12 | 1 | 天に赤い気が有った。形が雉の尾に似ていた。 | ||
この年、皇太子と大臣は合議して、天皇記と国記、臣連伴造国造百八十部と公民等の本記を録した。 | ||||
29 | 621 | 2 | 5 | 夜中に厩戸豊聡耳皇子命が斑鳩宮で亡くなった。 |
2 | 上宮太子を磯長陵に葬った。高麗の僧の慧慈は上宮皇太子が亡くなったと聞いて、大いに悲しみました。皇太子のために僧に請願して設斎をした。それで自らお経を説いた日に、誓い願いて言った。 「日本国に聖人がいました。上宮豊聡耳皇子と言います。まことに天に許されていました。素晴らしいほどの聖人の徳を持ち、日本の国に生まれました。三統(中国の古代の国)を追い抜いて、先人の聖人の広大な計画を引き継ぎ、三宝を慎み敬い、人民を厄災から救いました。これは真実の大聖人です。今、太子はなくなりました。私は国が違っていても、心は強く繋がっていて、その友情は金属も断つほどなのです。これから独りで生きていくとして、何の利益があるというのか。私は来年の2月5日を持って、必ず死ぬ。それで上宮太子と浄土で会い、ともに衆生に生まれ変わろう」 慧慈は約束した日になって死にました。それでその時代の人は誰も彼も共に言いました。 「上宮太子だけが聖人なのではない。慧慈もまた聖人だ」 |
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新羅が奈末伊弥買を派遣して朝貢した。書をたてまつって使者の旨を申し上げた。おそらく新羅が表を献上したのは、これが初めてだったか。 | ||||
7 | 使者を唐に派遣して朝貢(高句麗本紀、百済本紀) 使者を唐に派遣して朝貢する。唐の高祖は親しくねぎらい、通直散騎常侍・痩文素を派遣して璽書と絵屏風と錦のあやぎぬ三百緞を賜る。(新羅本紀) |
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30 | 622 | 使者を唐に派遣して朝貢(高句麗本紀) | ||
31 | 623 | 7 | 新羅は大使の奈末智洗爾を派遣し、任那は達率奈末智を派遣し、並んで一緒に来朝しました。それで仏像を1具と、金塔と舎利を献上した。また、觀頂の儀式に使う幡を1具、小幡を12条を献上した。すぐに仏像を葛野の広隆寺に居らせた。残りの舎利・金塔・觀頂幡などを全部、四天王寺に納めました。この時に、大唐の学問者の僧の恵斉・恵光と医者の恵日・福因たちは、皆、智洗爾たちに従って、日本に来た。恵日たちは、ともに申し上げて言った。 「唐国に留学する学者は皆、学業を成しました。召喚するべきです。また、かの大唐国は法式を備えて定めている珍しい宝の国です。常に通うべきです」 |
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新羅は任那を征伐した。任那は新羅に付き従った。数万の軍隊を率いて新羅を征伐に向かった。任那に到着して話し合い、新羅を襲おうとした。すると新羅国王は軍隊が大量に到着していると聞いて、あらかじめ恐れて、服属すると請願した。その時、将軍たちは、ともに話し合って表を天皇に献上した。天皇はそれを聞いて許した。 | ||||
秋 | 兵を派遣して新羅の勒弩県を侵した(百済本紀・新羅本紀) | |||
10 | 唐に使者を派遣して朝貢(新羅本紀) | |||
11 | 磐金・倉下などが新羅から到着した。 | |||
春から秋に霖雨で大量に雨が降った。五穀が実らなかった。 | ||||
使者を唐に派遣して朝貢(高句麗本紀) | ||||
32 | 624 | 1 | 大臣を唐に派遣して朝貢す。唐の高祖はこれを良しとし、使者を派遣し王を帯方郡百済王に册封した。(百済本紀) | |
3 | 唐の高祖が使者を差し向けて、王を柱国楽浪郡公新羅王に册封した。(三国史記・新羅本紀) | |||
4 | 3 | 1人の僧がいて、斧を手にとって祖父を殴った。天皇はそれを聞いて大臣を呼び出して、その僧を除いた。 | ||
13 | 詔して言った。 「その道人も法を犯す者だ。何を持って俗人に教えるのか。今から後、僧正・僧都を任命して、僧尼を検校することにしよう」 |
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17 | 観勤僧を僧正、鞍部徳積を僧都、阿曇連を法頭とした。 | |||
7 | 使者を唐に派遣して朝貢す。(百済本紀) | |||
9 | 3 | 寺と僧尼を調べて、詳細にその寺を作った縁と、僧尼が仏道に入った縁、また出家した年と月日を記録した。この時、寺46箇所、僧816人、尼569人、合わせて1385人いた。 | ||
10 | 1 | 大臣は葛城県を治めようとしたが、天皇は聞き入れなかった。 新羅の速含、旗懸、冗柵などの六城を攻め取る。(百済本紀) |
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10 | 百済の兵が攻めてくる。級(九品官)の納催が桜岑、岐岑、烽岑の三つの城を堅く守ったが勝てずして戦死。(新羅本紀) | |||
12 | 使者を唐に派遣して朝貢、唐は王を上柱国遼東郡応公高句麗王とした。(高句麗本紀) | |||
33 | 625 | 1 | 7 | 高麗の王は僧の恵灌を献上したので、僧正に任命した。 |
使者を唐に派遣して朝貢(高句麗本紀) | ||||
11 | 使者を唐に派遣して朝貢す。(百済本紀) 冬十一月、唐に使者を派遣して、高句麗が唐に通じる道をふさいでいるため朝貢できずまたしばしば侵入することを訴える。(新羅本紀) |
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34 | 626 | 1 | 桃季に花が咲いた。 | |
3 | 寒くて、霜が降りた。 | |||
5 | 20 | 大臣蘇我馬子が亡くなり、桃原墓に葬った。 | ||
6 | 雪が降った。この年の3月から7月まで長雨が降った。老人は草の根を喰らい、道のほとりで死んだ。幼い子は乳を飲み、母子ともに死んだ。強盗・窃盗がたくさん発生して、止められなかった。 | |||
8 | 兵を派遣して新羅の王在城を攻め、城主の東所を捕らえて殺す。(百済本紀) 百済が主在城に攻めてくる。城主の東所が防戦につとめたが戦死。高墟城を築く。(新羅本紀) |
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新羅と百済が唐に使者を派遣し、「高句麗が道を遮るので、朝貢できないし、しばしば侵略をする」と訴えた。帝の諭され、王は二国との平和を乞うた。(高句麗本紀) | ||||
35 | 627 | 2 | 陸奥国に狢があり、人に化けて歌を歌った。 | |
5 | 蝿が集まっていた。それが凝り固まって、重なって、十丈になっていた。虚空に浮かび、信濃坂を越えた。羽が鳴る音は雷のようだった。東の方の上野国に至って、自然と散った。 | |||
6 | 使者を唐に派遣して朝貢。(新羅本紀) | |||
7 | 将軍・沙乙に命じて、新羅の西辺の二つの城を陥落させ、男女三百名を捕虜とする。 王は、新羅に奪われた地方の奪回のため、大軍を挙げて熊津に出て駐屯す。新羅王が唐に使者を派遣して急を告げたので、王は出兵を止めた。(百済本紀) |
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8 | 王は甥の真平を唐に派遣して朝貢す。(百済本紀) | |||
36 | 628 | 2 | 27 | 天皇は病に伏せた。 兵を派遣して新羅の岑城を攻めたが、勝てず。(百済本紀) |
3 | 2 | 日蝕があった。 | ||
6 | 天皇は痛みがひどくなって、忌まわしい事態になった。すぐに田村皇子を呼び寄せて言った。 「天位に登り、鴻基を治め、整え、万機を治め、国民を養うことは、もとより容易く言うものではない。常に重く捉えるものです。お前は慎しみ、明らかにするのだ。軽々しく言ってはいけない」 その日のうちに、山背大兄を呼び寄せて教えて言った。 「お前はまだ未熟ものだ。もし、心に望むものがあっても、やかましく言ってはいけない。必ず、群の言葉を待ち、従いなさい」 |
|||
7 | 天皇は崩御した。年齢は75歳。南庭に殯した。 | |||
4 | 10 | 雹が降った。大きさは桃の実のようだった。 | ||
4 | 11 | 雹が降った。大きさは李の実のようだった。春から夏まで日照りだった。 | ||
9 | 20 | 始めて天皇の葬礼をしました。この時に群臣がそれぞれ殯宮で誄をした。これ以前に天皇は群臣に遺言として詔をしており、それが発表された。 「このごろ、五穀は実らない。百姓はとても飢えている。朕のための陵を立てて、厚く葬ることをしないよう。ただ竹田皇子の陵に葬って欲しい」 |
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24 | 竹田皇子の陵に葬った。 | |||
9 | 使者を唐に派遣して、太宗が突厥の頡利可汗を捕らえたことを賀し、兼ねて封域図を献上する。(高句麗本紀) |
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