縄文前期

 7300年前~5500年前

 縄文前期から中期にかけては最も典型的な縄文文化が栄えた時期であり、現在は三内丸山遺跡と呼ばれる場所に起居した縄文人たちが保持していたのも、主にこの時期の文化形式である。海水面は縄文前期の中頃には現在より3mほど高くなり、気候も現在より温暖であった。この時期のいわゆる縄文海進によって沿岸部には好漁場が増え、海産物の入手も容易になった。しかし、縄文早期から前期に代わるときに大異変が起こっている。鬼界カルデラ噴火である。

 南九州先進文化

 鹿児島県上野原遺跡で焼石による蒸焼きや燻製のを目的とする集石遺構や連結坑が見つかった。これらは南方系の文化であり、他に、貝殻文土器、壺、耳飾り、石斧などが多数見つかっている。貝殻文土器は縄の代わりに貝殻で文様を付けた土器である。壺は、本州では縄文後期から晩期にならないと現われない。土器のリング状の耳飾りも本州より4000年も早い。石斧は丸木舟を作るためのもので、フィリピンや台湾、沖縄で似たものが見つかっている。

 この頃南九州に住んでいたのは、スンダランド出身で南方系のミトコンドリアハブログループM7系統で、南西諸島を伝って、18000年ほど前に上陸した人々であろう。Y染色体ハプログループではC1a1系統と思われる。

 およそ1万年前から始まった南九州の縄文早期文化は、当時の日本列島では最先端であったことがわかる。ところが、7300年前の鬼界カルデラ噴火によって、この最先端文化は壊滅したのである。

  南九州の先進性を示したのが図7である。列島の縄文文化に先駆けた南九州の縄文文化は先に述べたように7300年前の鬼界カルデラのアカホヤ噴火で壊滅した。そこに住んでいた縄文人は生き延びて他の地域に移り住んだようである。それは、図7の左上の文化が2000~4000年を経て右下に伝えられていることからも解る。

 鬼界カルデラ噴火

 7300年前、鬼界カルデラの超巨大噴火が起きた。鬼界カルデラは屋久島の北にある。 25×15 ㎞の大きさで、薩摩硫黄島や竹島が外輪山である。この噴火は日本列島で最も新しい超巨大噴火である。噴出量170 ㎞3以上でアカホヤ噴火ともよばれる。火砕流は海上を走り、屋久島、種子島、九州南部を覆った。火山灰は東北南部まで達し、紀伊や山陽で20㎝を超えたと推定されている。宮崎県南部では60㎝を超えたとされている。

 この火砕流で、南九州に住んでいた縄文人は壊滅したようである。そこに住んでいた縄文人の一部は生き延びて他の地域に移り住んだようである。それは、南九州の先進文化が2000~4000年を経て本州に伝えられていることからも解る。そして、以後1000年間人が住んだ形跡が見られない。その後に住み着いた前期縄文人の系統(D1a2a)は今までの系統(C1a1)と異なるようである。

 鬼界カルデラ - Wikipedia
鬼界カルデラ噴火降灰領域

 縄文人八丈島進出

 八丈島は東京から330km南にあり、絶海の孤島である。八丈島最古の住人は、7,000~ 6,500年前の湯浜人で、彼らは噴火が続き西山(八丈富士)がまだ形成途上にあった東山(三原山)地域に上陸し、樫立地区の「湯の浜」海岸高台に生活の拠点を設けた。湯浜遺跡からは厚手無文土器と特徴的な撥形の小型打製石器類と刃部磨製石斧、磨石、石皿などが出土している。その故郷は特定されていないが、本土の縄文時代早期の様相が見られる。鬼界カルデラ噴火の直後なので、鬼界カルデラ噴火によって南九州から避難した人々が流れ着いたのではあるまいか。

 八丈島の縄文人はこの後断絶し、5500年前ごろより南関東や近畿・中部地方から移住していると思われる。湯浜人は八丈島で死滅したのか、本土に戻ったのかは定かではない。しかし、八丈島での生活により外洋航海技術を発達させ、本土に戻ったのではないかと推測している。

 稲作の開始

  岡山県灘崎町にある彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から、イネのプラントオパール(イネ科植物の葉などの細胞成分)が大量に見つかった。最古の稲のプラントオパールである。イネの栽培が始まったようである。プラントオパールの数は土壌1グラム中2000-3000個。岡山理科大の小林博昭教授と、ノートルダム清心女子大の高橋護・元教授が、地表から約2メートルの炭の混じった地層を中心に検出。イネのほかにキビ、ヒエ、小麦など雑穀類のプラントオパールも検出されているという。当時、貝塚は海岸部にあり、イネは近隣から貝塚に持ち込んだとみられる。貝塚には墳墓があることやイネのもみ殻のプラントオパールも見つかっていることから、祭祀の際の宴会や脱穀などの共同作業で持ち込んだと推定されるという。高橋元教授は「見つかったイネは中国南部原産の可能性があり、大陸から伝わったイネではないか」と話している。この状態では、まだ農耕とは言えず栽培という程度であったと思われる。イネは多種多様な食べ物の一つにすぎなかったのであろう。多種多様な穀物の栽培が始まったと考えられる。

 祭祀の始まり

 前期末にあたる6000年前ごろ長野県諏訪郡原村に阿久遺跡が見つかった。この遺跡には最古と思われるストーンサークル(環状列石)が見つかっている。

 この環状集石群の規模は長径120メートル、短径90メートル、幅30メートルで、約20万個のこぶし大から人頭大の河原石をドーナッツ状に配するものである。ドーナッツ状リングの中央に立石構造があり大小24個の板状の角柱石(安山岩)と半径1メートルの円形に8個の平石が囲んでいて、その周りに人骨を埋葬したと思われる竪穴と河原石を直径2-3メートルの円形に積んだ集石遺構が多数取り巻いている。約700基余りの土壙墓があると推定されている。さらに、この集石墓から約50-100メートル程離れたところに、ほぼ同じ時期の竪穴住居址が南と東に分かれ、それぞれひとまとまりになって分布している。これらの立石・集石群は、中央の立石からドーナツ状の集石群の間を通して蓼科山を拝望できるように作られた祭祀場であったと考えられている。これだけの大遺跡が一つの集落だけで造ったものでなく、この地域に存在する集落群(村落)の労働力を集中して造られたと推測できる。このころの縄文社会は、村落をあげての共同作業の管理運営組織が存在したようである。

 勾玉の登場

 早期末から前期の初期にかけて、滑石や蝋石で作られた勾玉が出土するようになる。縄文人が装飾品を身に着けるころと一致しているので装身具の一つであろう。その後弥生時代のも継続的に作られ、現在でも作られている。神社で売られている勾玉は守り神の意味がある。縄文時代から継続して存在するものなので、縄文時代も同じ意味であったと解釈できる。当時の人々も守り神として勾玉を所持していたと思われる。

 海外とのかかわり

 海外の状況

 鬼界カルデラ噴火が起こる頃、海外ではどうなっていたのであろうか。7500年前ごろシュメール人が農耕を開始し、6500年前ごろエジプトで文明が始まりかけたころである。中国大陸では長江文明による灌漑農法が6500年前ごろに始まっている。世界最古級の文明が始まりかけた頃と言える。

 海外への避難

 縄文時代前期は鬼界カルデラの大噴火に始まっている。噴火直後日本列島内に住んでいた縄文人に多大な影響を与えたことは間違いないことであろう。特に西日本地域の縄文人はほとんど壊滅状態であったと思われる。ちょうどその頃より、八丈島への縄文人の進出が始まっている。おそらく緊急避難的に海に出て流され、たまたま八丈島に流れ着いたのではないかと推定される。海に避難した縄文人は数多かったとみられ、八丈島だけではなく、方々に避難したことがうかがわれる。東日本地域に避難した人々もいたことであろうし、アメリカ大陸まで避難した人々もいたようである。

 最近の研究により、現代日本人と7,000年前に生きていた北米のインディアンが、遺伝子のレベルで共通の基盤を持っていたことがわかった。しかし、縄文の遺物は見つかっていないので、緊急避難的に北アメリカまで流されたと考えて良いであろう。鬼界カルデラ噴火の噴煙は偏西風に流され東に降灰しているので、西に逃げた人々もいたことであろう。それらの人々は、アジア大陸から、インド、メソポタミア地方まで移動した可能性も考えられる。

 この避難した人々はメソポタミア地方やエジプト地方、長江流域にも赴き、そこに住んでいた人々と接触したことが考えられる。その時、縄文人の特質が生きたものであろう。縄文人は日本列島内に住んでいるとき、訪問地の人々に自らの持っている情報を伝えると同時に、その人たちが持っている情報を吸収することを常としていた。海外に出ても同じようなことが繰り返されたと思われる。これら縄文人は自らの持っている知識を現地の人たちに伝えると同時に現地の人々の持っている知識を吸収したことであろう。鬼界カルデラ噴火の時期と世界各地の最古の文明が誕生する時期がほとんど重なっていることから、縄文人と現地人との情報交換が影響している可能性は考えられる。

 避難した人々は、そのまま現地で亡くなった人もいるであろうが、数十年、数百年ほどたったころ、再び日本列島に戻ってきた人々もいたと思われる。日本列島に戻ってきた人々は海外の情報を、在地の縄文人に伝えたものと考えられる。縄文連絡網が形成されていたため、その情報は、しばらくして、全国の縄文人に伝えられたことであろう。

 その人たちがもたらしたのが稲のプラントオパールをはじめとする穀物の栽培であった。ストーンサークルをもとにして、栽培・狩猟時期を探る方法がメソポタミア地方からもたらされたのではあるまいか。阿久遺跡は日本最古と言えども、いきなり巨大なので、まだ見つかっていないながら小規模なストーンサークルが、7000年ごろより、存在していると考えられる。その中で、ストーンサークルの有用性が確認され、阿久遺跡で巨大なストーンサークルが作られたのではないだろうか。

 それまでの縄文人は海外にも人が住んでいるということは知らなかったのではないだろうか。海外に何があるかわからない中で丸木舟で外洋に漕ぎ出すことは大変勇気のいることである。しかし、鬼界カルデラ噴火による緊急避難で、縄文人は海外の様子を知ることになったのである。しかし、縄文前期の日本列島は温暖期で海進が進んでおり、過ごしやすい環境にあるので、わざわざ危険を冒して海外に計画的に出るということはなかったと思われる。

漁労の発達

 6000年前ごろ、温暖になり、海進が進んだ。浅瀬が増え、そこに住んでいる魚類が増加した。その魚類を採取するために、この時期、漁労が発達したようである。漁労は船で沖に出ることが多くなり、船に関する技術も発達したようである。

 1993年青森の遺跡でタイ、マグロ、ニシン等の魚の骨が大量に出土した。これ等の魚は太平洋を流れる千島海流や日本海を流れる対馬海流に乗って来る。縄文人は5000年前に外洋まで乗り出す海洋技術を持っていたことになる。マグロのような巨大魚は不安定な丸木舟ではひっくり返されてしまうはずである。丸木舟を二隻並行に並べ、脇に浮きをつけたアウトリーガーカヌーのような物を作っていたのではないかと思われる。実験で安定度を測定したところ、台風クラスの波を受けても転覆しないことが分かった。このような船があれば、外洋航海も可能であろう。

 外洋航海するには水と食料が必要であるが、水は縄文式土器を積んでおき、雨をためておけば何とかなるであろう。食料は寄ってくる魚を釣ればよい。前期に海進が進み漁労が盛んになり釣りの技術が進んでいたと思われる。この技術を使えば外洋航海は可能であったと思われる。縄文人は外洋航海可能な技術を得ることができたのである。

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