日子穂穂出見命後漢に朝貢

 瓊瓊杵尊関連地図

 日子穂々出見尊関連地図

 鵜茅草葺不合尊関連地図

 対馬拠点づくり

 日向津姫日向国の宮居を鹿児島神宮の地に遷す

日向津姫は九州地方の未統一地域の統一に乗り出すことにした。AD50年頃における未統一地域は、伊都国、球磨国(狗奴国)、曽於国、薩摩半島、大隅半島で現鹿児島県地域は国分地方以外はほとんどが未統一であった。先ず自らが拠点を西都から国分の鹿児島神宮の地に遷した。

 鹿児島神宮(大隅国一宮)
 大隅隼人の本拠地である。神武天皇が祖父の彦火火出見尊を偲んで、ここに社殿を建てたのに始まるといわれているが、彦穂穂出見尊の宮跡であると いう伝承もあり、はっきりとはしない。隼人の祖は海幸(火闌降命)であり、その本拠地に存在する神社である。
 この神社は、宇佐より古い正統の八幡宮、大隅正八幡宮を称する。社地は日向山にあり、全面に鹿児島湾が開けて、彦火火出見尊の高屋山上陵がある。 例祭は8月15日で、隼人舞が舞われる。近くに天降川も流れている。
 八幡宮なのに、宇佐とは主祭神が異なっている。「続日本紀」によれば、「和銅6(713)年四月、日向国から肝坏(きもつき)・贈於(そお)・ 大隅(おおすみ)・姶羅(あいら)を割いて、初めて大隅国を設けた。また、和銅7(714)年3月15日、隼人は、道理に暗く荒々しく、 法令に従わないので、豊前の民二百戸を移住させて、統治に服するとう勧め導かせるようにした。」とある。この豊前の民というのが宇佐の人で、 この時、八幡神を勧請したのであろう。
 ニ之宮に蛭児神社があり、伊弉諾尊と伊弉冉尊の楠の木の舟で流されたといわれる蛭児が流れ着いた場所と伝えられている。蛭児の乗った舟は、 やがて根づいて、大きな森になった。これが神社周辺の奈気木の杜であるという。
 社伝には、震旦国の王女「大比留女」が7歳で朝日が胸に差し込んで妊娠し、怪しんだ父王に空舟で海に流され、流れ着いた先が九州鹿児島東部の 八幡崎で、生まれた子は八幡だとある。

 この社伝中「大比留女」が日向津姫を指すと思われるが、鹿児島神宮と日向津姫をつなぐ伝承は他に存在しない。これに対し薩摩国一宮である枚聞神社では大日?貴命(日向津姫)が主祭神として祀られている。しかし、この神社は、「綿積神社」「和多都美神社」と称する史料がある。伝承によると、当地は山幸彦が訪れた龍宮で、海神豊玉彦の宮地であり、「和多都美」と称されていた。どう考えても日向津姫とは直接関係がない神社のはずである。本来薩摩国、大隅国は日向国の一部であり、分割されたものである。本来鹿児島神宮で祀られるはずの日向津姫が枚聞神社に移されたのではないかと思われるがどうであろうか。

 豊玉彦の役割

 豊玉彦は飛騨国出身と思われ、飛騨王家と倭国王家との政略結婚成立のために飛騨国から派遣されてきた人物と思われる。飛騨国から開聞岳の麓に上陸しこの地に拠点を作り、日向津姫の皇子日子穂穂出見尊、鵜茅草葺不合尊と自らの娘豊玉姫、玉依姫とを政略結婚させた。

 豊玉彦は飛騨王から託された使命は、娘を政略結婚させることにより飛騨王家の血を将来の天皇家に入れることであった。そして、飛騨王家の血筋を未来永劫安定に継続させることであった。

 その目的が達成されたのち、豊玉彦は対馬に拠点を作っている。

和多都美神社 対馬市豊玉町 御由緒
 当社の所在地表示は、現在「下県郡」であるが、以前は「上県郡」であった。平安時代の律令細則である「延喜式」の「神名帳」の中に「対馬国上県郡和多都美神社(名神大)」とあるのは当社である。貞観元年(八五九年)に清和天皇から従五位上の神階を賜り、また、「三代実録」によれば、永徳元年(一三八一年)に、更に従一位を叙せられ、往古より島内は言うに及ばずわが国の名社大社の一つに数えられた。
 縁起を辿れば、神代の昔、海神である豊玉彦尊が当地に宮殿を造り、宮を「海宮」と名づけ、この地を「夫姫」と名付けた。その宮殿の大きさは、高さ一町五反余り、広さ八町四方もあったという。そして神々しい神奈美「夫姫山」のさざ波よせるこの霊地に彦火々出見尊と豊玉姫命の御夫婦の神を奉斎したと伝えている。
 豊玉彦尊には一男二女の神があり、男神は穂高見尊、二女神は 豊玉姫命・玉依姫命という。ある時、彦火々出見尊は失った釣り針を探して上国より下向し、この宮に滞在すること三年、そして豊玉姫を娶り妻とした。この海幸彦・山幸彦の伝説は当地から生まれたものである。
満潮の時は、社殿の近くまで海水が満ち、その様は龍宮を連想させ、海神にまつわる玉の井伝説の遺跡跡や満珠瀬、干珠瀬、磯良恵比須の磐座などの旧跡も多く、また本殿の後方に二つの岩がある。これを夫婦岩と称し、この手前の壇が豊玉姫命の墳墓(御陵)である。 また、西手の山下に、石があり、それが豊玉彦尊の墳墓(御陵)である。このように当社は古い歴史と由緒を持ち、時の国主や藩主の崇敬も篤く、たびたびの奉幣や奉献それに広大な社領の寄進があった。現在でも対馬島民の参拝は勿論のこと全国各地からの参拝が多い。

 対馬の和多都美神社の伝承によれば、どこからかやってきた豊玉彦がこの地に宮を作り、そこへ、彦穂穂出見尊がやってきて結婚したと伝えられている。豊玉彦の宮跡伝承は薩摩半島にも存在している。薩摩半島の伝承の方が古いようなので、伝承を最大限尊重すると、豊玉彦が薩摩半島からこの地に移動してきて宮を作ったことになる。また、この地は彦穂穂出見尊(山幸彦)の竜宮伝承の地でもある。豊玉彦の御陵も存在するようなので、この地が豊玉彦の終焉の地と考えてよいようである。

 開聞岳の麓にいたはずの豊玉彦は、なぜ、対馬に移動したのであろうか。時期としてはAD50年頃のことであろう。直後のAD57年彦穂穂出見尊は後漢に朝貢していることから判断して、彦穂穂出見尊の後漢朝貢の足掛かりと考えられる。

 飛騨国は大陸と離れているために海外交易とは無縁の存在であった。弥生人が日本列島に大挙押し寄せてくるようになると、大陸の先進情報を積極的に取り入れていないと、飛騨国の滅亡につながることを実感していたのではあるまいか。これを危惧していた豊玉彦は日向津姫に対馬の統治を申し出たのではないかと考える。日向津姫としても海外交易は倭国安定統治のための最優先課題でもあり、豊玉彦に対馬の統治をゆだねたのであろう。

 この当時、対馬は素盞嗚尊が開拓し、出雲系の人々に統治されていた。倭国が東倭と西倭に分裂した結果、東倭には大陸との交易拠点が存在しているが、西倭には存在しないことになってしまう。日向津姫としても対馬に拠点を作ることは重要課題であったのである。

 豊玉彦は二人の娘を二皇子に嫁がせた直後に、対馬に移ったのであろう。

 彦穂穂出見尊は豊玉彦の養子であった

 枚聞神社近くの婿入谷が彦穂穂出見尊と豊玉姫が新婚生活をした場所と伝えられている。このことは、彦穂穂出見尊は豊玉家(飛騨王家)に婿入りしたことを示している。

 結婚直後、鵜茅草葺不合尊は、種子島、内之浦などに伝承が多く残っており、活発に活動していたことがうかがわれるが、彦穂穂出見尊の行動伝承が少ない。このことは、彦穂穂出見尊は結婚後暫らく、婿入谷で生活しており、ほとんど動いていないためであろうと思われ、このことも彼が婿入りしたことのあかしであろう。鵜茅草葺不合尊は次の第4代倭国王の候補であり、嫡子である。そのために彦穂穂出見尊が婿入りすることになったのであろう。

 日子穂々出見尊対馬に移動

 豊玉彦が対馬に拠点を作ったAD53年頃、日子穂々出見尊は拠点としていた内之浦から宇原神社の地を経由して対馬に移って豊玉彦と共に拠点づくりをした。日向津姫は素盞嗚尊と同様に外国の先進技術を取り入れることを重要視した。対馬に日子穂々出見尊を派遣して対馬経由の交易ルートを確保することにした。

 対馬は素盞嗚尊が拠点作りをしているところで、出雲系の人々が住んでおり、東倭に所属していたと思われる。対馬は大陸との交流の玄関口であり、このまま、対馬が東倭に所属していたのでは西倭は衰退してしまう。日向津姫としては何としても対馬を西倭に取り込む必要がある。

 対馬は素盞嗚尊が国を作り拠点を三根湾周辺においていた。その中心となる祭祀施設は海神神社(対馬一ノ宮)であろう。三根湾周辺の王墓は弥生中期末のもので、弥生後期になるとその中心地が浅茅湾北岸の二位周辺に移動している。遺跡からは突出した統率者集団は認められず、佐保浦を中心とする地域で青銅製品の集中が見られる。素盞嗚尊祭祀の祭祀具である中広・広形銅矛の130本を越える異常なほどの多量出土地域である。後期初頭になって対馬の中心地が三根湾沿岸から朝茅湾北岸に移動してきたためであろう。この時期が日子穂々出見尊が対馬に派遣された時期と重なるのである。また、この地域に日子穂々出見尊がやってきたという伝承を持つ和多津美神社が存在している。
 日向津姫より対馬で交易ルートの安定確保を指示された日子穂々出見尊は対馬の人々に対馬の開祖である素盞嗚尊に対する信仰が強いのに目をつけ、浅茅湾北岸に拠点を構え大々的に素盞嗚尊祭祀(銅矛祭祀)を始めた。日子穂々出見尊は人々の心をつかみ、対馬で外国交易の実権を握ることに成功した。

和多津美神社鳥居 和多津美神社全景

日向津姫は今までのような外国の先進技術を取り入れるのみではなく、外国人を積極的に倭国に招いて本格的交流をする決意をした。その使者に立てられたのが、おそらく日子穂々出見尊であろう。

 日子穂々出見尊後漢朝貢

 日子穂々出見尊は対馬の交易拠点を安定化させた後、57年当時の後漢に朝貢し外国人を招いたと考えられる。

 金印

 後漢書「東夷伝」に,

「建武中元二年(紀元五七年)倭奴国が貢物を献じ,朝賀してきた。使者は自分のことを大夫と称していた。倭の最南端である。光武帝は印綬を賜った。」

とある。この時の印綬が,志賀島より見つかった「漢委奴国王」の金印であることは,ほぼ間違いないといわれている。定説では,委奴国は奴国や伊都国を指すといわれているが,後漢の光武帝が金印を授けるという国は,相当大規模な国に限られている。北九州の小国であると考えられている奴国や伊都国では該当しないのではないか。この委奴国はどこを指すのであろうか。後漢書「東夷伝」では,「倭奴国」となっているが,金印が「委奴国」となっているため,より原典である「委奴国」が正しいと判断する。そのまま読むと「イナコク」である。委奴国とはどこにあった国であろうか。

 中国書物の倭奴国記事をまとめてみると,

①倭国は古の倭奴国である。「旧唐書」

②倭の最南端である。「東夷伝」

そのまま直接解釈をすると,倭奴国は大和朝廷の前身で,日本最南端にある国ということになる。さらに金印を賜っていることから,当時の日本列島の大半を治めている強大な国ということである。1世紀中頃と推定される国内伝承と照合すると,委奴国は日向国としか考えられない。委奴国が日向国である可能性について考えてみよう。

まず、「日向」は古代なんと呼んでいたのであろうか。推古天皇の頃の記事に「ヒムカ」と呼んでいる部分があり、この頃は「ヒムカ」だったようである。景行天皇が九州征伐に赴いたとき(日本古代の実年代によると312年~315年)にこの地方に日向という地名をつけたことになっている。このときから呼び名が「ヒムカ」となったものと考えられる。それ以前はどうだったのであろうか。それがもし広く使われていたものであればその呼び名は現在まで何らかの形で残っていると思われる。全国に「日向」という地名が散見するが、その多くは「ヒナ」あるいは「ヒナタ」と呼んでいて「ヒムカ」や「ヒュウガ」と読む例は数少ない。そして、日向から出雲に来たイザナミの陵があると推定した奥出雲地方には「日向」と付く地名が4個所あり、「日向(ヒナ)」、「日向原(ヒナノハラ)」、「日向山(ヒナヤマ)」、「日向側(ヒナタガワ)」といずれも「ヒナ」と読んでいる。このように日向と書いてヒナと読ます例が多いこととから「日向」は,当時,「ヒナ」と呼んでいた可能性は高い。

h音は落ちやすいことからイナ国の前にhが付いていて中国人が聞き間違えたとすると,日向国・委奴国は共にヒナ国となる。霧島連山の中に夷守岳というのがあり、その北麓の小林市は昔夷守(ヒナモリ)と呼ばれていたと言われている。ここは大和朝廷の日向出張所のあったところではないかと思われ、日向守の意味と推定している。大和朝廷成立後,ヒナ(雛)は都から遠く離れた国という意味で田舎を指す言葉となったものか?,魏志倭人伝の卑奴母離は,この頃設置されたと思われ,日向守の意味か? 

日向国は現在の宮崎県であり最南端ではないという指摘もあるが、律令時代の極初期は現在の宮崎県と鹿児島県とを合わせて日向国といっており。古代の日向国は宮崎県と鹿児島県を合わせた領域であった。その後713年大隅国と薩摩国を分離し日向国は現在の宮崎県の領域になった。昔は宮崎・鹿児島合わせて日向と呼んでいた事から考えて、古代において、この領域は一つの文化圏にあったといえよう。まさに倭国最南端の国「日向国」である。

 日子穂々出見尊は日向国王「日向津姫」の使者として後漢に朝貢したのである。漢の武帝が朝鮮を滅ぼしたBC108年以降,倭から中国に朝貢する国が出てきたと,中国史書に書かれているが,具体的な内容が出ているのはこれが始めてである。それまで、中国との交流を主に行っていたのは北九州の豪族達であった。倭国の朝鮮半島との交流は素盞嗚尊以来続いていたが、新しい技術が少なくなってきたので、さらに強力な新技術を導入するために中国との交流を考えたものと考えられる。

王の山の璧

 串間市の王の山で璧が出土した。ここは,江戸時代に発掘されて,現在,その位置が不明になっているのであるが,記録によると,鉄器30点と共に,中国王侯の印とされている璧が出土している。璧は現在国内で四点しか見つかっていないが,いずれも一世紀の王墓と考えられる墳墓から出土している。璧は中国において銅鏡を遥かにしのぐ貴重なものである。しかも王の山の璧は,そのうち最大で国宝になっている。この璧は径33cmと超大型で,中国にもこれほどの大きさのものはいくらもないといわれるほどのものである。中国で見つかった漢武帝の兄である中山王劉勝の墓から出土した壁のうちで最大のものが径23cmであるから王の山の璧が如何に大きいかわかる。

 璧の出土状況が定かでないので,井原鑓溝遺跡から出土した璧を調べてみると,鏡の間に納められていたようである。これより,璧は鏡と同様にステイタスシンボルと考えられる。このような璧の,しかも,最大の物が鉄器30点と共に南九州の墳墓から出土することは,尋常では考えられない。このようなものが副葬されている墓の被葬者は並大抵の地位にある人物とは考えられない。倭国の小国の王にこのようなものを漢の皇帝が渡すとはとても考えられず,この人物こそ倭国王ムカツヒメのものと考えられる。漢の皇帝は金印を与えるだけでなく、このような璧まで与えており、倭国王ムカツヒメを破格の扱いで、大変重要視していた。この交流が中国に記録されていないというのも不自然で,これが57年の記事であろう。

 この墓こそが、日向津姫の墓と考えている。この墓は、まったく伝承されていないが、古事記・日本書紀を編集するとき,日向津姫を天上に上げてしまった関係上,御陵の伝承が消えてしまったものと考える。

 後漢の使者日向国訪問

 魏志倭人伝の邪馬台国への行程記事に矛盾が見られる。(詳細は邪馬台国への行程)これは、三世紀の邪馬台国(大和国)への行程記事と一世紀の倭奴国(日向国)への行程記事と混乱しているために生じたと考えられる。このことは、AD57年日子穂々出見尊が後漢に朝貢すると同時に、後漢の使者が日向国を訪れていることを意味している。

 初めて中国正史に記録されたわけ

 中国正史への初めての記載、金印、璧、使者の倭国訪問など、AD57年の朝貢は後漢にとっても非常に重要なものであったことになる。後漢は日子穂々出見尊の訪問を位置地方の国王の使者の訪問として捉えたのではなく明らかに特別扱いしていることになる。これはどうしたことであろうか。

 当時中国は中華意識が強く、周辺国家はその朝貢の相手であった。周辺国があいさつに来れば、それ相応の待遇をして、中国皇帝こそ世界の中心という立場であり、その権威を保っていたのである。中国皇帝の日向国への対応は、そのレベルをはるかに超える破格の待遇ということになる。

 中国がこのような対応をするのは、その文化が先進的であると同時に、王の出自が中国の古代皇帝の血筋にあるということであろう。これこそが、、『晋書』『梁書』で「倭人が太伯の子孫と言っている」であろう。しかし、狗奴国王も太伯の子孫であり、これ以外にも何かあったのではないかと推定している。

 それこそが、秦徐福の先進技術ではないかと思われる。漢は秦を滅ぼしており、その先進文化はかなり失われていたのではあるまいか。秦徐福は秦が滅びる前にその最高技術者集団を日本列島に移住させているのである。後漢皇帝もそのことは知っており、その先進文化を倭人が引き継いでいるとなれば、後漢皇帝も関心を持つであろう。当時の倭国には徐福から引き継いだ先進技術があると同時に、徐福が求めたといわれる不老不死の妙薬に皇帝は関心を持ったのではないだろうか。

 日子穂々出見尊の父は高皇産霊神であり、徐福の直系の子孫と思われ、母は日向津姫で呉太白の子孫と思われる。この両系統の人物を両親に持つ日子穂々出見尊の朝貢は中国にとっても特別なものであったことが推定される。

 後漢の皇帝は日子穂々出見尊の訪問を受け、その出自を知った。日子穂々出見尊は伊都国がまだ倭国に加盟していないことなどを伝えたものであろう。後漢皇帝としても中国古代の要人の血を引く人物に倭国を治めさせた方が都合がよかったのであろう。伊都国を統一しやすいように権威の象徴として日子穂々出見尊に金印を授けた。また、当時の伊都国王であった井原鑓溝遺跡の被葬者に送った璧よりはるかに巨大な璧を日向国王に授け、倭国は後漢の支援を受けた国であることを内外に示そうとした。

 日子穂々出見尊は後漢の使者を日向国王日向津姫の元に導いた。AD57年のことである。

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