天の岩戸
天の岩戸神話
古代史と神話の対応
神話と復元古代史を対応させてみると,次のようになっている。
・国生み神話=スサノオ・饒速日尊による国家統一。
・ヤマタノオロチ神話=スサノオが出雲の一豪族を倒した。
・国譲り神話=後継者問題のもつれによる日向対出雲の争乱。
・天孫降臨神話=ニニギとサルタヒコの交渉と、薩摩半島への赴任とが重なったもの。
・黄泉国神話=倭の大乱。
これらを見ると,神話は,過去にあった出来事を元にして,組み立てられていることが分かる。
天の岩戸神話の舞台
ところが,天の岩戸神話は,神話の中でも重要な位置を占めているにも関わらず,対応する事件が見つからないのである。そこで,古事記の天の岩戸神話を良く調べてみると,天照大神が天の岩戸に隠れたときに出てくる地名は,「天香具山」と「天の安川」である。「天香具山」は大和の地にある。
「天の安川」は,当初琵琶湖に注いでいる野洲川であろうと思っていたが、大和の明日香川が昔安川と呼ばれていたという情報が手に入り、神話にいうところの「天の安河原」に該当する場所は明日香川流域にあるはずだと地図で探ってみた。すぐに多神社が見つかった。
多神社は明日香川の川辺に位置し、三輪山から真西に位置している。境内からは弥生時代の祭祀遺跡がある。祭神は神武天皇の大和での長子・八井耳命である。八井耳命は祭祀をつかさどったといわれており、この地が大和での一台祭祀場だったことは間違いがない。また、多神社は橿原の神武天皇陵、田原本町の鏡作神社と南北に一直線に並び、しかもその中点に位置している。
地図ソフトによる計測では三輪山山頂・神武天皇陵中心付近間の距離は8360m、神武天皇陵・鏡作神社本殿間は8340m、鏡作神社・三輪山山頂間の距離は8360mと驚くほど正確な正三角形を形成している。神武天皇陵は後世に加工されており、その中心地を特定することが難しいので、地図上の区画の中心地で計測した。区画内の点を有効に取れば誤差無しの完全な正三角形となりうるのである。古代の測量技術には驚かされるものがある。神武天皇陵は後世決められたものという説があるが、これだけ正確な正三角形を形成していることは神武天皇陵の位置が古代における特別な位置であることだけは間違いがないことである。
多神社はこの正三角形の底辺の正確な中点の位置より100mほど西に位置している。この位置は三輪山の真西にあたり、春分・秋分の日に三輪山山頂から昇る太陽の姿を見ることができる。実際は三輪山山頂との標高差が400mほどあるので、この地より300mほど北側の道路の位置で春分・秋分の日に三輪山山頂から太陽が昇る姿を見ることができる。この二地点は古代の多神社の敷地内ではなかったかと考えられる。多神社の地は古代大和の祭祀場たる条件を満たしている。神武天皇陵との位置関係、祭神等から考えて、神武天皇即位後、まもなく八井耳命により、この位置での祭祀が始まったのであろう。
大和朝廷初期においては、スサノオの国家統一の頃からの伝統に習って、神の前で人が集まり会議を開いて重要事項を決定していた。その地こそ多神社の地であろう。この地が神話伝承では「天安河原」と言い伝えられたものと考えられる。
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多神社 | 多神社から見た三輪山 |
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明日香川 | 天安河原? |
天岩戸神話に出てくる地名はいずれも大和にある。これから、天岩戸神話は大和朝廷成立後の出来事を伝えたものであることになる。
天の岩戸神話の時期
また「古語拾遺」にある記事を要約すると,「崇神天皇は,神威を畏れ,同じ宮殿に住むことに不安を覚えて,鏡と剣とを造らせ,護身のものとし,八咫の鏡と草薙の剣とを豊鍬入姫に祭らせた。」とあり,日本書紀と比較すると,この記事は崇神六年(247年)ということになる。
この中の八咫の鏡であるが,現在,これは,三種の神器として扱われているものであり,八咫の鏡は,天照大神の岩戸隠れの時に造られた ことになっている。また,天照鏡作坐神社(祭神天火明=饒速日尊)の伝承や「古語拾遺」によれば,「崇神天皇六年,この神社の地で,日像 之鏡として二枚作られ,一枚目は紀伊国日前神社に二枚目が伊勢神宮に納められた。」とある。この二枚目の鏡が八咫の鏡である。そして, 内区だけの三角縁神獣鏡が神宝として保存されている。日前神社の祭神は国懸大神であるが,「女王アマテラス」によると,この神は素盞嗚尊である。
神話によると,八咫の鏡は天の岩戸事件の時に作られたことになっているが,八咫の鏡は三世紀の大和で崇神 6年(247年)に作られていることになる。実際,一世紀では,鏡を作る技術も未熟であり,国産の八咫の鏡を作る技術はなかった と考えられる。そして,八咫の鏡は三角縁神獣鏡と思われ,天の岩戸神話も三世紀の大和で起こった出来事が元になっ ているということになる。
日食との関係
岩戸隠れをある女王の死で,岩戸開きを次の女王の誕生と考えれば,魏志倭人伝の卑弥呼の死と次の台与の登場に似ているが卑弥呼の死は崇神10年(249年)なので年代が少しあわない。そこで,この事件と日食とを繋ぐ説を検討してみることにする。
このころの日食は天文ソフトによる計算では247年3月24日18時27分頃と次の248年9月5日6時3分頃に日本列島で皆既日食が起こっているという結果が出た。しかし、天文ソフトに地球の自転周期の遅れは入っていない。地球の自転周期は毎年 少しずつ長くなっている。そのため、2・3年に1回ほどうるう秒を入れているのである。この変化は時間に対して一定ではないので詳しく 計算はできないはずである。一定であるとして計算した値よりもずれていると推定されている。自転周期の遅れを 考慮しなければならない。
247年の日食は,3月24日18時27分で実質19時ごろと考えられ、これは日没直後(福岡で18:34、奈良で18:09 日没)になる。248年9月5日6時3分頃で実質6時30分ごろ(福岡で5:56奈良で5:32 日の出)ということになる。
皆既日食のコースは248年が東北地方を通過するようで、大和も福岡も皆既日食ではないようである。247年の日食は近畿地方から北九州地方を通過する日食である。皆既日食は247年の日食のようである。次のHPのP23に日食の計算結果が示されている。
自転周期のずれ⊿T=9700秒のとき、まさに大和で皆既の状態で日没となる皆既日食が起こっていることになる。実際、朝廷が八咫の鏡を作らせたのが崇神6年(247年1月~6月)であり、また、天照大神が岩戸隠れをしたときに八咫の鏡を作っている。この二つの記事を繋ぎあわせると天照大神の岩戸隠れは 247年(崇神6年)となる。日食の起こった年と推定年代が見事ぴったりと一致している。当時日食は人々にとって相当ショックなものであったようである。さらに加えて日本書紀によると、このころ疫病が流行るなどして人々が苦しんでいるときだっただけに人々の恐れは極地に達し ていたと予想される。そのために八咫の鏡を作ったのかもしれない。そして、その2年後に卑弥呼(倭迹迹日百襲姫)が没している。
日没時の皆既日食は次の日の太陽を見るまでは暗闇である。半日間恐怖が続くので、3月24日の夜は、天の岩戸神話に会ったような長鳴鳥を泣かせたり、アメウズメが踊ったりということが起こりそうである。
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