倭の大乱後の改革
倭の大乱終了後、吉備国を中心として考古学上の大きな変化が起こっている。
大乱後の改革関連地図
第一項 | 四隅突出型墳丘墓 | ||
第二項 | 方墳 | ||
第三項 | 出雲地方の古墳分布 | ||
第四項 | 吉備国の繁栄 | ||
考古学的事実 | |||
吉備国は投馬国 | |||
吉備津彦について | |||
弟稚武彦(若健吉備津彦),稚武彦 大吉備津彦(五十狭芹彦) |
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吉備国の変化 | |||
楯築遺跡,黒宮大塚,宮山墳墓群 矢藤治山弥生墳丘墓,上東遺跡 浦間茶臼山古墳・網浜茶臼山古墳 備前車塚古墳,中山茶臼山古墳 |
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第五項 | 東海地方の前方後方墳 | ||
第六項 | 伊都国王 | ||
第七項 | 考古学的事実の解明 |
第19節 大乱後の改革
倭の大乱は卑弥呼を共立することにより収まった。しかし、大乱終了後反省することが多かった。二度とこのような大乱が起こらないようにするためには、さまざまな改革が必要であった。大乱後に起こったさまざまな変化を検討してみることにする。
四隅突出型墳丘墓は古墳時代になると,方墳と入れ替わるように姿を消している。方墳と四隅突出型墳丘墓の関係を考えてみよう。
①方墳と四隅突出型墳丘墓は同じ地域で群集墳を造っている。
②同じ時期に共存している様子がない。
③四隅突出型墳丘墓も方墳もその分布の中心は出雲にある。
④四隅突出型墳丘墓も方墳も周溝がない。方形周溝墓、円墳、前方後円墳は周溝があり、さらに同じ地域に群集墳を作っていることもあるので、これらとは別系統と考えられる。
これらのことより、四隅突出型墳丘墓が方墳や前方後方墳に変化したものと考えられる。四隅突出型墳丘墓は王以外が対等であるといった考え方から生まれた墳丘墓で,階級がピラミッド構造をしてくると都合が悪くなり、一方向からの祭礼に適している前方後方墳や方墳が誕生したものと考えられる。また、方墳や前方後方墳は前方後円墳よりも先に出現している。
方墳の特徴を挙げてみると,
①出雲地方に多い,特に松江市南部の国府のあったあたりに多い。出雲地方の古墳時代初期は,すべて,方墳か前方後方墳だったようで,円墳や前方後円墳が現れるのは,古墳時代3期に入ってからである。吉備地方でも初期は方墳である。発生期の古墳はすべて方墳で,出雲・吉備地方によく見られる。
②鉄器・勾玉の副葬が多い。勾玉の産地は出雲である。出雲では勾玉を神宝として扱っている。
③西都原古墳群中に唯一基方墳が存在するが,その位置は男狭穂塚のとなりで,古墳群のほぼ中央に位置している。これは,古墳の大きさの割に重要視されていることを意味している。
④方墳の付近から出雲系土器がよく出土する。
⑤円墳と方墳の混在地方でも,円墳の存在する領域と方墳の存在する領域は分かれている。
⑥複数の埋葬施設を伴うことが多く,それらは,規則正しく配置されている。
⑦築造技術にかなり高度なものが要求されるので,外国からの技術導入がないと難しい。
⑧勾玉には,素盞嗚尊の意味が込められている(八坂瓊勾玉の八坂は素盞嗚尊を意味する。)。
これらを見てみると出雲が関連していることがわかる。そこで,出雲に関する情報を集めてみると,
⑨出雲の国造は,熊野神社(素盞嗚尊の霊廟)から,火継ぎの儀式を受けて初めて神に使えることができた。これは,出雲大社の神事として現在まで続いている。
⑩出雲の国造は,他の国造と共に朝廷から任命されるが,8世紀においては,その一年後,朝廷に赤・青・白の玉を神宝として献上し,神賀詞をするという風習があった。このことは,朝廷も出雲を特別扱いしている証である。
⑪日本書紀にも出雲の国で出雲大神を神宝と共に祭っていたという記事があり,この出雲大神は素盞嗚尊以外には考えられないので,素盞嗚尊を祭っていた証である。
⑫出雲地方では方形周溝墓を山の頂上に造る風習があった。出雲出身の素盞嗚尊も饒速日尊も高い山の頂上に葬られている。このことからこのような風習になったのではないか。
出雲地方だけが特別扱いされる理由として考えられるのは,神祖素盞嗚尊のゆかりの地であるということである。素盞嗚尊は神祖であるから,大和朝廷は,饒速日尊以上に強力に祭らなければならないはずである。そうしなければ,特に出雲が承知しないと考えられる。ところが,朝廷は饒速日尊の方は祭っているが,素盞嗚尊は,それほど祭られていないのである。⑥~⑪の内容から考えて,素盞嗚尊は,出雲で盛大に祭られていたようである。出雲は大和朝廷にとって聖地だったのである。
そうすると,地方の人々が饒速日尊を祭るときは,朝廷の支持に従えばよいことになるが,素盞嗚尊を祭るときは,朝廷の自由にできないことになる。朝廷が素盞嗚尊を祭っていない以上,素盞嗚尊を祭るためには,出雲へ行ってその指示を受けなければならないことになる。出雲の国造は,火継ぎの儀式を受けなければ素盞嗚尊を祭ることができなかったようであり,地方でも,素盞嗚尊を祭るための斎主にはそれなりの資格が必要なようである。そのための斎主を出雲から呼び寄せたり,出雲へ修行に行かせたりしたのではなかろうか。方墳はこのような人物の墓と考える。大和朝廷にしても素盞嗚尊を無視することはできないため,朝廷でも饒速日尊とは別の型で素盞嗚尊を祭っていたのではないだろうか。そのために,大和地方にも方墳は多い。
素盞嗚尊を祭るための斎主は特別な身分になり,他の古墳とは違った形にする必要があったと考えるのである。それならば①~⑤の内容が説明できるのである。
方墳は畿内よりも先に,出雲・吉備地方に現れている。稚武彦の働きにより外国から技術導入した結果そのようになったと解釈される。古墳築造をするということは,以前の墓制を全面的に変更することになり,出雲の豪族も抵抗がかなり強いと想像される。それが,簡単に導入されているのは,神の力が作用しているとしか考えられない。稚武彦の働きにより方墳・前方後方墳が考え出され、出雲はそれを積極的に受け入れた。後に大和もそれを受け入れ、それよりも巨大な大物主の神の意味が込められている前方後円墳を考え出したのである。
素盞嗚尊祭祀者は四隅突出型墳丘墓に埋葬され,その周辺で祭礼が行われていたが,倭の大乱の後,階級社会になり,身分がピラミッド構造化してきているために,墳丘墓を取り囲むような祭礼は適さず,一方向からの祭礼を行うために,前方後方墳が出現した。倭の大乱の和平条件により,素盞嗚尊祭祀が全国に広められることになった結果,方墳は全国に分布することになったのである。
次に、なぜ四角なのかであるが,素盞嗚尊の別名(八幡,八坂,八千矛など)に八がつくものが多いことや,出雲系の神社が四拍手であることや,素盞嗚尊の神紋が十字形であることが関係しているのではなかろうか。
出雲地方の四隅突出型墳丘墓、方墳、前方後円墳の出現時期、分布領域には様々な特徴がある。
①倭の大乱の直後と思われる時期(2世紀末)に斐伊川下流域に西谷墳墓群と呼ばれている大型の四隅突出型墳丘墓群があった。この墳墓からは吉備系の大型特殊器台が出土している。その後この地域では大型墳墓が断絶し、4世紀になってから、そこを遠巻きにするように前方後円墳や円墳など大和系の古墳が出現する。
②能義平野周辺では、四隅突出型墳丘墓から方墳へ継続的に変化している。
③松江周辺では5世紀まで大型古墳は造られていない。5世紀以後では円形墳と方形墳が混在する形になっている。
これを伝承と繋ぎあわせて考えてみると、次のようになる。
倭の大乱の直前、出雲国の政治の中心域は斐伊川下流域であった。しかし、倭の大乱において若建吉備津彦の侵入を許し、打撃を受けた。この地域は戦後、朝廷の占領地域となった。しかし、戦後交渉のこともあり、素盞嗚尊祭祀は強化され、吉備からの技術導入で巨大な西谷墳墓群が築造された。朝廷の監視の元で素盞嗚尊祭祀が執り行われていた。出雲地域では、素盞嗚尊信仰に配慮し、大和系(円形墳)の古墳の築造は、差し控えていた。その後、素盞嗚尊祭祀の場所(西谷墳墓群周辺)から離れたところに、朝廷系の古墳を造ることとなったのである。
倭の大乱においても、素盞嗚尊の聖地である出雲中心域には出雲軍のすさまじい抵抗のため、朝廷軍は侵入できなかった。出雲中心域では、熊野山周辺で祭礼が行われていたため、四隅突出型墳丘墓は築造されず、古墳築造は大幅に遅れ、5世紀になってからである。この地域が前方後円墳を受け入れたのは神功皇后の行動(後出)との関係が考えられる。
吉備国は古墳時代中期になると造山古墳のように全国指折り規模の大古墳を築造するなど、かなり力を持っていたらしい。その繁栄は弥生時代後期後葉に始まるようである。この頃始まる考古学上の変化をあげると。
1. 吉備系土器が薄くなり、技術的に高度なものへと変わる。
2. 土器に畿内系の文様(鋸歯紋)が入ってくる。
3. 墳墓に版築の技法が使われ巨大墳墓が登場する。
4. 方墳・前方後方墳は全国に先駆けて吉備国で出現する。
5. 吉備系の土器が出雲と大和に進出するようになる。吉備系の特殊器台は、出雲および大和の発生期の古墳での祭礼に用いられている。
6. 吉備には楯築遺跡における双方中円墳がある。双方中円墳は古墳時代のごく初期にしか見られず、階級がピラミッド構造化する中での祭礼の方法としての試行錯誤が伺われる。また、2つある方形部の片方を取り去ると、大和の纒向石塚とまったく同じになるようである。また、ほぼ同時期に黒宮大塚と呼ばれる前方後方墳が築造されている。いずれも2世紀末と思われる。
7. 全国的に広まっている方形周溝墓が吉備にはまったく見られない。中国地方自体方形周溝墓が少ないのであるが出雲地方では、倭の大乱後あたりになって出現するが吉備地方だけは、まったく出現しない。
8. 弥生時代後期後葉から古墳時代初期に吉備に九州・出雲・東海・北陸・近畿・讃岐地方の土器が見られるようになる(上東遺跡)。
9. 東日本での初期の古墳はそのほとんどの地域で、前方後方墳である。しばらくして前方後円墳が登場するようになってから、前方後方墳は衰退している。
10.
特殊器台・特殊壺という大型の祭祀系土器が吉備国を中心に分布する。
11.
後期中頃までは吉備国は小集落が広い地域に分散していたが、後期後葉になると平野部の特定地域に集中し、大規模集落が生まれる(上東遺跡など)。集落が都市構造を有してくる。
かなりの技術変革があることがわかる。なぜこのような繁栄をするようになったのだろうか。
魏志倭人伝の畿内説ではそのほとんどが吉備国を「投馬国」と比定している。「投馬国」は5万戸と「邪馬台国」に次ぐ人口を擁する国で、北九州の「不彌国」から海上水行20日で行き着くと記録されている。一日の水行距離を23km程とすると、460kmとなる。現在の岡山―福岡間は450km程でほぼ一致している。吉備国は黍がよく取れるところから付けられたようであり、呼び方としては「キビ」だと推定する。3世紀の吉備国の中心地は吉備中山の北西部の上東遺跡周辺(吉備津)と思われる。この南側地域一帯は現在では「玉島」、「玉野」などの地名に代表されるように「玉」と呼ばれていたようである。魏の使者はこの頃の吉備国の中心地である上東遺跡には行かず、児島半島南端の現在の宇野港がある周辺(玉野市玉)に上陸し休憩を取ったものと考える。この魏の使者が立ち寄った港が「玉」(岡山県玉野市)であるところから「投馬国」となったのであろう。魏の使者張政一行がこの玉に着いたのは崇神11年(251年)のことと思われる。大和朝廷から四道将軍が派遣されたのはちょうどこの前年である。吉備国にもその中の五十狭芹彦(大吉備津彦)が派遣されている。このことから、吉備国の中心地上東遺跡周辺に不穏な動きがあり、朝廷側の案内役は中心地に導かずに児島半島南端部に導いたものと考える。
古事記には吉備津彦と呼ばれる人物がふたり記録されている。大吉備津彦と若建吉備津彦である。古事記および吉備津神社に伝わる伝承ではこの二人は異母兄弟で大吉備津彦が兄であり、二人で吉備国を平定したとなっている。この人物は日本書紀の大吉備津彦とは異なり孝霊天皇の兄である大吉備諸進命の子である稚武彦・弟稚武彦兄弟であると推定した。古事記では若健吉備津彦と記録されている人物である。
弟稚武彦は160年ごろ誕生し179年ごろに孝霊天皇の命により讃岐・吉備国を平定し出雲国中央政府に攻め込み出雲振根を倒した武勇優れた人物である。180年ごろ吉備国を平定のとき鬼の温羅を倒し、これが桃太郎伝説として語り継がれている。桃太郎は吉備団子を配る事によって猿・雉・犬を家来にしたとあるが、吉備団子は鏡か何か当時の人々が欲するもので、彼はこれを配る事で協力者を募り、彼らの協力で鬼退治をしたのではあるまいか。実際、崇神天皇の時代に四道将軍(古事記では三道将軍)が活躍したとなっているがそのコースにある前期古墳から方格規区四神鏡がよく出土する。将軍が銅鏡を配って協力者を募ったものと考えられる。
弟稚武彦が若健吉備津彦として岡山県の各神社で祭られている事から判断して弟稚武彦は吉備の人々に人気が高かったようである。この当時吉備国に出没していた鬼(略奪集団)を退治したためと思われる。弟稚武彦は吉備国平定後四国地方を巡回し、吉備国にとどまり、岡山県北房町の郡神社の地で没し同地に葬られたと「上房郡誌」に記録されている。弟稚武彦は武勇に優れているため、倭の大乱が終結した後も生活の苦しさによって各地に出没する鬼を退治していたのではあるまいか。そのために、地方巡回をしているのであろう。おそらく名前が売れていたであろうから、稚武彦が来たというだけで鬼は降参したのではあるまいか。その巡回の最中北房町の地で亡くなったと考えられる。
大乱後の出雲と大和は何かとしっくりこない関係になってしまったであろう。このときに双方の仲立ちをする存在はぜひとも必要で、それが、稚武彦であると想像する。弟稚武彦の兄である。古事記では大吉備津彦として記録されている人物である。倭の大乱においては各地で神を祀ることにより人々の不安を取り除く役目をした。弟稚武彦は出雲を攻めたため出雲の弟稚武彦に対する感情は複雑なものがあったと思われる。出雲と大和をつなぐには出雲が納得できるような祭祀を始める必要がある。そのための最適者は兄の稚武彦であろう。倭の大乱終結後吉備国に残り新しい祭礼方法を研究したと考えている。倭の大乱後吉備国下道を中心として祭礼形態が以前に対して極端なる変化をしているのは稚武彦の業績であろう。出雲を監視すると同時に出雲と大和に共通する祭礼を行うには、その場所も中間に位置する吉備国が都合よかったものと考えられる。
倭人伝には卑弥呼には男弟がいて政治を補佐したと記録されているが、この人物は誰であろうか。卑弥呼は考霊天皇の皇女である倭迹迹日百襲姫であるから、その弟も考霊天皇の皇子となる。日本書紀の記録からしてその人物は大吉備津彦しかいない。大吉備津彦は卑弥呼の時代に戦闘したり各地を訪問したりしていることから高齢者とは考えにくい。武埴安彦の乱(250年)で活躍していることから推察すると、その誕生は200年~210年頃以降と推定される。卑弥呼との年の差はかなりあると予想される。大吉備津彦の墓と伝えられている中山茶臼山古墳はほぼ同年代の崇神天皇陵と極めて良く似た大きさ1/2の相似形をしており、同古墳の被葬者は崇神天皇とほぼ同時代でしかもかなり関係の深い人物であると思われる。崇神天皇没の4年前に没した大吉備津彦の墓と思われる。大吉備津彦が270年頃没したのも間違いがないようである。考霊天皇の世代から推定された没年(210年頃)と、日本書紀の記録から推定された没年(187年)がずれていることから、考霊天皇は187年に没したのではなく、倭の大乱の和平交渉により退位し、考元天皇に皇位を譲ったが、210年(62歳)頃まで生存した。そして、その末期に大吉備津彦が生まれたと考えている。
稚武彦が210年ごろ、弟稚武彦も230年ごろ共に吉備国で亡くなった。倭の大乱後の吉備を支えていた人物が相次いで亡くなることにより、繁栄してきた吉備国に陰りが見え始め、吉備国が再び不穏になってきた。そこで、大和朝廷は卑弥呼の死後崇神11年(251年)五十狭芹彦を吉備に赴任させた。彼は大吉備津彦と名乗った。大吉備津彦は吉備上道(備前南部)を中心に活動した。大和から最新の技術者や祭祀者を招き、吉備下道の祭祀方法も取り入れ当時最新形式である浦間茶臼山古墳や網浜茶臼山古墳などを築造していった。大吉備津彦は吉備上道に繁栄をもたらし、吉備上道臣の祖となった。彼は晩年吉備中山の麓に住み、崇神60年(275年)そこで亡くなり中山茶臼山古墳に葬られた。大吉備津彦は寿命が281歳だったと記録されているが半年一年暦でも長すぎる。おそらく稚武彦が誕生してからの年数あるいは大吉備諸進命の誕生からの年数のために長くなったと考えられる。
吉備津彦の系図の謎
吉備津彦の系図にはいろいろな謎がある。
吉備津彦系図 孝元天皇---開化天皇---崇神天皇---垂仁天皇---景行天皇---成務天皇---仲哀天皇---応神天皇 孝霊天皇---倭迹迹日百襲姫 | -----------大吉備津彦 | -若建吉備津彦-------------------御鋤友耳建彦---吉備武彦 |
上の系図は一般にいわれている吉備津彦の系図に、古代史の復元で使っている天皇系図を重ねたものである。御鋤友耳建彦は姉が景行天皇の妻になっているため、御鋤友耳建彦自身も景行天皇と同世代でなければならない。また吉備武彦は日本武尊の東国征伐に副将として参加しているので、成務天皇と同世代と考えられる。しかし、御鋤友耳建彦の父は若建吉備津彦といわれており、若建吉備津彦は孝霊天皇の皇子(古代史の復元では兄である大吉備諸進命の子)で開化天皇と大体同世代と考えられる。その間2世ほど空いているのである。この謎を解くのに大分苦労した。かなり系図の作為があるのか。あるいは、吉備津彦が普通名詞なのか。と、さまざまな案が出ては消えた。
よく調べてみると、若建吉備津彦の別名がかなり多いことに気づかされる。
稚武彦、弟稚武彦、吉備津武彦、吉備津稚武彦、吉備津稚彦、彦狭島命、吉備津彦狭島命、歯黒皇子、若武彦、吉備稚武彦、伊豫皇子、吉備武彦、吉備彦などである。これらが同一人物であるのか否かは定かではない。いずれにしてもかなり複雑なのである。この謎を少しずつ解いていこうと思っているが、現在の仮説を紹介しておく。
備前一ノ宮吉備津彦神社社務所発行の「吉備津彦神社要覧」によると、大吉備津彦の御子が吉備津彦でこの吉備津彦は稚武吉備津彦ともいうが、孝霊天皇の皇子である若建吉備津彦とは別人であると伝えられている。これが事実だとすれば孝霊天皇の皇子の若建吉備津彦と大吉備津彦の御子である稚武吉備津彦との間に混乱が起こることは充分に予想できる。系図にある若建吉備津彦が稚武吉備津彦であるとすれば、系図の謎は解けるのである。
つまり、下の系図のようになる。
四道将軍の系図 ┏神八井耳━━武宇都彦━━武速前━━━孝元天皇━━━開化天皇━━崇神天皇━━垂仁天皇━━━景行天皇━┳━成務天皇 ┃ ┃ ┃ ┗━日本武尊━仲哀天皇━応神天皇━仁徳天皇 神武天皇┫ ┃ ┏彦狭島命・・・越智氏 ┃ ┏大吉備諸進命┫ ┃ ┃ ┗稚武彦命 ┃ ┃ ┗綏靖天皇━━孝昭天皇━孝安天皇━━┫ ┏倭迹迹日百襲媛命 ┏兄媛(応神妃) ┗━孝霊天皇━┫ (卑弥呼) ┃ ┗━━━━━━五十狭芹彦━稚武吉備津彦━御鋤友耳建彦━吉備武彦┻御友別命━稲速別命━饒別彦・・・吉備氏 |
考古学的に見てもこの方が自然となる。大吉備諸進命の子である稚武彦は主に吉備下道で活躍していたために、彼が生きていた頃は吉備下道が発展しており、さまざまな遺跡が残されている。しかし、古墳時代になってからは吉備上道がむしろ発達していて吉備下道は衰退している。大吉備津彦(五十狭芹彦)が吉備に派遣されてきたのが250年ごろでその後吉備上道が発展しているのである。大吉備津彦の功績と考えられる。大吉備津彦が吉備国に250年ごろ赴任してきた理由も稚武彦の系統が絶えたため、あるいは稚武彦の系統に任せて置けない理由があったためと考えられる。吉備武彦につながる系図が、稚武彦の系統であるならば吉備下道が継続して発展してもよさそうである。吉備上道が継続して発展していることから考えると、大吉備津彦の系統が残ったと考えてもよいのではないだろうか。若建吉備津彦と稚武吉備津彦が極めて良く似た名であるために、神社伝承でも混乱が生じているのではあるまいか。
特殊器台の形式を基に吉備国の祭祀の変化を探ってみることにする。ギスギスした関係を修復するには生活の向上が一番よいと思われる。考古学的変化の①③を見てわかるとおり、吉備国にかなりの技術力向上があったようである。そのうち③の版築は、この当時まだ国内には存在しないもので大陸から輸入したものと考えられる。魏志倭人伝にも投馬国(吉備国)は使役を通ずる30国の一つとなっているように、稚武彦は外国から技術者を招き、各種技術を学ばせ、それを大和や出雲に紹介したようである。出雲では西谷墳丘墓、大和では纒向石塚に使われている。
出雲の反発心を和らげるには、まず、素盞嗚尊祭祀の強化にある。祭礼を強化するためには、
① 巨大な祭礼場を作る。
② 巨大な祭器を作る。
ことが必要であると思われる。
①については、今までの四隅突出型墳丘墓は墳丘上で祭礼を行い、祭祀者の死後その場所に葬っていたように祭礼場がそのまま墳墓になっているのである。そのために墳墓の巨大化を考えたと思われる。それまで素盞嗚尊祭祀者の墳墓は四隅突出型墳丘墓であり、この墳墓は版築が不十分なために崩れやすい欠点があった。それを外国から技術導入を図る事により、安定した墳墓ができあがった。また、大和と出雲の双方の反応を和らげるために、祭礼に使う土器(器台)に饒速日尊の紋章である鋸歯紋と素盞嗚尊の御魂である巴を透かしとして入れた。出雲の西谷墳丘墓では、巨大化された四隅突出型墳丘墓が築造され、祭礼には、吉備系の特殊器台が使われている。また大和の発生期の古墳にも吉備系の特殊器台が使われている。箸墓古墳の周辺からもこの特殊器台が見つかっている。
吉備系の大型特殊器台は三角と巴形の透かし穴が開いている。それ相当の意味があると思われる。三角は饒速日尊のシンボルで畿内系の祭祀を意味する。巴形は勾玉につながり、素盞嗚尊のシンボルと考えられ、出雲系の祭祀を意味していると思われる。この特殊器台が出雲と大和それぞれでの墳墓に使われているということから、双方の祭祀を尊重し吉備国の指導の下出雲と大和の祭祀の共通化が謀られていることが伺われる。吉備国を中心として新しい祭祀が始まったことを意味している。
このようにして稚武彦は大和と出雲を繋ぐのに苦心したと思われる。その結果、吉備系の土器が大和や出雲で見られるようになり、その中心としての吉備国は繁栄をするのである。
この遺跡は180年ごろのものと考えられ、まさに倭の大乱直後である。あるいは倭の大乱の最中に弟稚武彦が出雲を攻撃中に吉備に残った稚武彦が最初に築造したかもしれない。中国から版築の技術を導入し、中国の道教の思想を交えて、当時神聖だった吉備中山が真東に見渡せる位置に双方中円形の祭礼場(楯築遺跡)を作った。遺跡上に
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楯築遺跡 |
は一つの岩を中心として東西南北の方向に岩を配置してある。これは道教の思想につながるものであり、神武天皇が始めたピラミッドによる巨石祭祀の流れがある。埋葬施設はその中心から少しずれたところにあり、5つの立石のうちひとつを動かしてその祭祀者が死後その祭礼場に葬られたといった状況である。この墳丘の片方の突出部を取り去れば、大和の纒向石塚とそっくりの墳丘となる。纒向石塚は楯築遺跡の影響を受けていると思われる。ここから出土した特殊器台は最古の立坂型である。この形式の特殊器台は備中南部に集中しており、まだ周辺に広まる様子を見せない。吉備国の巨大祭祀施設の最古のものであろう。この特殊器台は円丘部におかれ、方丘部には壺が多く見つかっている。この墳丘墓は当初祭礼施設として作られ、そこに祭祀者(稚武彦)が葬られたものと判断している。この墳丘墓は双方中円形で今までの方形の墳墓から円形の墳墓に変わるというものである。このとき以前の全国の墳墓はほとんどが方形を元としたもので、円形の墳墓はほとんど存在しなかった。楯築は円形であることを重視した初めての墳墓である。円形部はおそらく饒速日尊のシンボルの鏡(太陽)を意味するものと思われる。この祭祀を始めたのは大和から来た人物でなければならない。おそらく稚武彦であろう。四隅突出型墳丘墓を原型として墓域に入る四隅の突出部を2つにして方形化しそれを祭壇として利用した。突出部は方形でなく撥型に開いたものである。これは、饒速日尊のシンボルである鋸歯紋(三輪山の形)を意味していると思われる。出雲と大和をつなぐ墳丘墓であったが、これ以降同じ形式のものは作られていない。また、埋葬施設は最初の位置にあったであろう岩をひとつ動かして埋葬しているようである。このことは被葬者の死後その祭礼施設は使われなかったということを意味している。神武天皇が始めたピラミッドによる巨石祭祀の名残も含めた楯築遺跡であるが以後の祭祀形態に墳丘の形は参考になったものの、この祭礼形式は受け入れられなかったのではあるまいか。
ほぼ同じ頃の前方後方形の黒宮大塚にも立坂型の特殊器台が使われていた。他の土器の形式からも楯築遺跡とほぼ同じ頃(少し後では?)作られたものと判断される。黒宮大塚のすぐ近くに熊野神社があり素盞嗚尊との関連が考えられる。最古の前方後方形の墳丘墓である。楯築が饒速日尊系の祭祀施設と考えられるために、素盞嗚尊系の祭祀施設も必要であった。吉備国は元来出雲倭国に所属し素盞嗚尊祭祀の強い領域である。今までの素盞嗚尊祭祀者の祭礼施設である四隅突出型墳丘墓に改良を加える必要があった。四隅突出型墳丘墓は王以外みな平等といった発想で作られた墳丘墓であるために新しい時代の墳丘墓としては不向きであった。祭礼方向をひとつにするため突出部はひとつとなり、また、祭祀者をますます神聖なものとするために祭礼場は高い位置にすることが必要であった。そのために墳丘高も高くなっていった。この形式になったものであろう。黒宮大塚のすぐ後に築造されたと思われる出雲の西谷三号墳はまだ四隅突出型であるために、肝心の出雲にはすぐには受け入れられなかった。しかし、前方後方墳がこの後全国に広まっていることから出雲を意識した素盞嗚尊祭祀者の墓として最終的に多く受け入れられた祭礼形式であろう。
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三輪山墳墓群 |
立坂型の次の形式は向木見型であるが、この形式が広まっている最中に宮山型の特殊器台が作られた。向木見型が出雲のほうに受け入れられたために、いよいよ大和に受け入れられる形式の祭礼を考えるようになった。饒速日尊のシンボルは鏡であるので墳丘を円形にすることは決まった。楯築の形式は受け入れられなかったためにそれを反省し、黒宮大塚のように突出部をひとつにするようにして、前方後円形の墳丘墓を考え出した。大和で受け入れられる特殊器台は出雲のものとは少し異なり饒速日尊のシンボルである三角形の透かしをより明確にした宮山型を考え出した。しかし、吉備国周辺は素盞嗚尊祭祀の強い領域であるため、饒速日尊系の祭祀はなかなか広まらなかった。そのため、この形式は吉備国ではあまり見つかっていないが、大和の初期古墳からよく出土する。おそらく、吉備国が出雲方面に広めることに成功した祭礼を大和での饒速日尊祭礼のために改良した形式なのであろう。
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宮山墳丘墓 |
吉備で宮山型が見つかった場所は総社市三輪であり、宮山型特殊器台が見つかった宮山墳墓群は前方後円型をしており、また、この一帯は三輪山と呼ばれている。その麓には百射山神社がある。この神社は大物主神を祀っており、三輪神社と御崎神社が一緒となったものであった。明らかに大和の三輪山とのかかわりがあると思われる。おそらく、稚武彦が大和に新形式の祭礼を広めるためには大和と同じ環境を作らなければならないと考え、この地に大和から大物主神(饒速日尊)を勧請し、この山を三輪山と命名しこの地も三輪としたのであろう。大和の三輪山山頂から冬至の日に上る太陽を見ることのできる位置に、唐古鍵遺跡の中心祭祀遺構がある。ここからは鳥型木製品が出土しており、三輪山山頂から昇る太陽の姿を当時の人々があがめている姿が浮かび上がってくる。これと同様にして、吉備国の三輪山もその方向から冬至の日に太陽が昇ってくる位置に正木山があり、その山頂付近に麻佐岐神社がある。この神社の磐座は三輪山のほうを向いており、ここで祭礼が行なわれていたようである。大和では立春の日に三輪山山頂から太陽が昇ってくるのが見える位置に纒向石塚があるが、吉備国の三輪山には今のところそれに対応する遺跡は見つかっていない。一年で最も大切な祭礼が行なわれる日が冬至の日から立春の日に変わったのが纒向石塚ができた230年ごろと思われる。そのために、吉備国の三輪山祭礼は200年ごろのものと推定できる。
吉備津彦は饒速日尊祭祀用の新祭礼形式を吉備国に広めようとしたのではあるまいか。しかしこの段階では墳墓群であり、特定の祭祀者の墓というわけではない。おそらく饒速日尊祭祀者が吉備にはいなかったために一般の人がこの祭礼場(墳丘墓)に葬られるようになったのではないか。その後、この形式が大和に広まり、大和ではこれを基に纒向石塚を築造し、その後の墳丘墓に使われたものと考える。
立坂型の次の特殊器台の形式が向木見型である。この形式から三角と巴形の透かしがはっきりと入っている。巴形透かしは勾玉につながり素盞嗚尊のシンボルである。吉備国は素盞嗚尊祭祀の強い地域で、それまでの青銅器祭祀に代わるものとして特殊器台を用いた墳丘墓祭祀を考えていた稚武彦は巴形の透かしを入れることで出雲地域への拡張を図った。その結果同形式のものが出雲の西谷四隅突出型墳丘墓に見られることになる。またこの形式は吉備国全域に広がっており、素盞嗚尊祭祀の強い地域に広がっている様である。素盞嗚尊を意識した祭礼に用いられたものと考える。吉備では矢藤治山弥生墳丘墓に見られる。この墳丘墓は吉備中山丘陵の南端部に築かれている纒向型の墳丘墓であるが後期の形であり、これはおそらく大和で纒向石塚が作られた後の前方後円形の墳丘墓であると思われる。時期としては260年ごろであろう。黒宮大塚で祭礼方向をひとつにするという祭礼形式が受け入れられたことにより、楯築墳丘墓で使われた円形墳にも祭礼方向をひとつにすることを導入した。この形式が最も受け入れられた形式である。被葬者は2代目の吉備津彦(氏名不詳・魏志倭人伝の投馬国の官彌彌か?)が考えられる。
吉備の上東遺跡は港湾の遺跡でこの遺跡を始めその周辺の遺跡で九州・出雲・北陸・東海系の土器が集中的に見つかっている。上東遺跡周辺にはいろいろな地方からの人々との交流があったことが分かる。ちょうど吉備津彦が活躍した弥生後期後葉から古墳時代にかけて大きく発展している。この時代はこのあたりまで海が広がっており、吉備中山は島であった。吉備津彦の伝承地も海だったと思われる地域には存在せず、その周辺の海岸だったと思われる場所にある。これも伝承が何かの歴史的事実を反映している証であろう。吉備津とは吉備の港という意味であるから、吉備津彦は大和から派遣されてきてこの上東遺跡に住んでいたのかもしれない。九州・出雲・北陸・東海系の土器が見つかっていることから、大型墳丘墓をはじめとする祭祀を全国に広めるために、地方から有力者をかき集めて、技術を伝授したものと考えられる。また、稚武彦(吉備津彦)が吉備国に派遣されたのを裏付けるようにこの周辺から畿内系土器の集中出土もこの頃である。倭の大乱の和平の条件に素盞嗚尊祭祀を全国に広めるというのがあった。祭礼そのものは出雲から素盞嗚尊祭主が地方へ派遣されれば良いのであるが、そのシンボルとしての大型墳丘墓の技術的な面は出雲国では不可能である。その技術面での協力を吉備国が行ったものと考える。そのため、それまで、素盞嗚尊信仰の弱かった東日本地域に、出雲系土器が出回るようになってしばらくして、素盞嗚尊祭祀者の墳墓である前方後方墳が広まることになるのである。
前方後方墳は関東地方や東北地方南部までも広がっているが、吉備国でその方面の土器は出土していない。その代わり、これらの地方の前方後方墳周辺から東海系土器が出土している。このことから推察すると、東海地方の人々が、出雲国の変わりに関東や南東北方面に素盞嗚尊信仰を広めたと考えられる。また、九州・四国地域には前方後方墳が普及していないが、これは、元々素盞嗚尊信仰の強い地域であるから、あえて、広めなかったものと考えられる。大和ではその後、吉備とは別に中国から大型墳丘墓築造技術を学び、大型墳墓を造るようになった。これが前方後円墳である。
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浦間茶臼山古墳 |
浦間茶臼山古墳・網浜茶臼山古墳はいずれも吉備上道(備前南部)に存在する。古墳時代直前の大型墳丘墓はいずれも吉備下道に多いのに古墳時代に入ると吉備上道に初期の巨大古墳が多くなる。大吉備津彦が吉備上道に赴任してきたためと思われる。浦間茶臼山古墳は箸墓の二分の一、網浜茶臼山古墳は箸墓の三分の一と共に、箸墓の相似形をしている。箸墓は後で述べるが、日本最初の巨大古墳で魏の技術者の指導の下作られたものである。その技術を最初に畿外に持ち出したのが大吉備津彦であろう。
備前車塚古墳は古墳時代初期の前方後方墳である。三角縁神獣鏡が多量に出土したので有名な古墳である。出土した土器に弥生終末期の様相を示すものがあることから古墳時代と弥生時代の境目の時期に築造されたと見るべきであろう(推定250年ごろ)。備前地域の極初期は前方後方墳が中心である。前方後方墳は素盞嗚尊祭祀者の墳丘墓と推定しているが、三角縁神獣鏡は饒速日尊祭祀を強化するための鏡である。吉備国は素盞嗚尊祭祀の強いところで饒速日尊祭祀はなかなか根付かなかった。倭の大乱の講和条件により素盞嗚尊祭祀を全国に広めるようにした関係上、饒速日尊祭祀も旧倭国地域は受け入れなければならない。素盞嗚尊祭祀者が饒速日尊の鏡を配ることにより吉備国に饒速日尊祭祀を広めようと諮ったものではあるまいか。その結果浦間茶臼山古墳や網浜茶臼山古墳を築造することが可能になったのであろう。被葬者は大吉備津彦と共に大和から派遣されてきて、吉備上道の周辺で饒速日尊祭祀を広めた人物ではあるまいか。
中山茶臼山古墳は当時の聖地であった吉備中山の山頂に築かれた崇神天皇陵の二分の一サイズの古墳である。この位置に築かれること自体が吉備にとって重要な存在の人物であったはずで、その時期も崇神天皇陵が築かれたのとほぼ同じ時期(三世紀後半)と考えられる。伝承どおり大吉備津彦の墓であろう。
東海地方を初めとする東日本地域には前方後方墳が多く存在している。その特徴は
① 西日本の前方後方墳とはさまざまな部分で違いが見られる。
② 東海地方の前方後方墳は古墳時代の初期に存在する。
③ 吉備地方の古墳時代初期に東海地方の土器が出土している。
④ 吉備地方の古墳時代初期に見られる外来系土器は九州・出雲・北陸・東海であり、東海地方以外は明らかに素盞嗚尊祭祀が強い地域である。
⑤ 北陸地方は出雲と海路でつながっている関係上出雲と関係が深い。四隅突出型墳丘墓も存在している。
一地域に多くの地方からの土器が集中するということはその地方が中心となって、何かを伝えたと考えられるが、素盞嗚尊祭祀の地域が多いことから方形墳の築造を伝えたと想像される。吉備地方の呼びかけに応じてこれらの地域の代表者が集まり、吉備はその代表者に新技術を伝えたと考える。
東海地方の土器が南東北や関東地方までも広がっており、素盞嗚尊祭祀を広めるのにかなり積極的に協力をしている。これはどうしてであろうか。
出雲と東海を繋ぐものとしては神社伝承を元にすると次のようなものがある。
① サルタヒコの終焉の地は伊勢である。
② コトシロヌシの終焉の地は伊豆である。
③ タケミナカタの終焉の地は諏訪である。
このように出雲の代表的人物の終焉の地が東海地方になっているものが多い。これらの関係で東海地方は出雲に対する意識が強かったものと考えられる。
おそらく、タケミナカタが出雲国譲り事件で東海地方に追放されたのがきっかけで東海地方に出雲文化が根づいた。それをさらに強化するため、引退後の出雲の祭祀者が終焉の地として東海地方を選んだのではないかと推定する。晩年の彼らが東海地方に素盞嗚尊祭祀を広めたのであろう。また、倭の大乱の講和条件により素盞嗚尊祭祀を積極的に東日本地域に広めた。その結果東海地方に素盞嗚尊祭祀が強くなり、吉備国に赴き、前方後方墳の築造を始め、また東日本一帯に素盞嗚尊祭祀を広めるのに協力したと考えられる。
しかし、古墳時代になってからは大和の影響力がしだいに強化され、出雲も東日本地域での素盞嗚尊祭祀の維持よりも、素盞嗚尊が統一できなかった熊襲の統一のため朝廷に協力するようになった。そのため、出雲から離れている東日本地方での素盞嗚尊祭祀は衰退し、しばらくして、前方後方墳は消滅したと考えられる。
魏志倭人伝に伊都国王に関して,次のような記事がある。
<女王国より以北には特に一大卒を起き,諸国を検察させているので諸国は畏れはばかっている。常に伊都国におかれ,中国の州長官のような役人である。王が洛陽や帯方郡,諸韓国に使者を送ったり,郡から使者を送ってくるとき,すべて港で点検を受け,文書や贈り物を間違いなく女王の元へ届けるようにする。>
糸島地方は中国や朝鮮半島と交流するのに大切な貿易港で,大和朝廷としても無視できず,他の地方にはない権力を持った役人を配置していたことがうかがわれる。糸島地方は1世紀後半あたりから畿内系土器の流入が恒常的に続き,全体の50%ほどが畿内系土器で占められている。九州のその他の地方でも,同時期に畿内系土器の流入が見られるが,特に糸島地方は群を抜いている。大和朝廷は役人をこの地に集中的に配置したようである。
大和朝廷が成立したと考えられる1世紀後半から3世紀ぐらいまでは,中国鏡や,鉄器などは九州を中心とした分布になっている。大和朝廷成立以前はほぼ100%九州に分布しているものが朝廷成立後,3世紀ぐらいまでは,約50%が九州に分布している。このことは,伊都国王が中国から手に入れた宝物の約50%を朝廷に差し出して,残りの50%は自らが九州地方を統治するのに使ったためと考えられる。大分県や熊本県北部の鏡は,1世紀後半以降に分布しており,分布密度は九州以外の地に比べて高い。このことは,この地方の有力者は,朝廷から鏡を受け取ったのではなく,伊都国王から受け取ったことを意味している。伊都国王は大和朝廷から強力な権力を授けられ,九州地方の統治と,外国との交易をまかされていたものと考えられる。
糸島地方は,九州地方で最も初期の古墳が集中していて,その存在密度も九州の中で特に高い。さらに,この地方に存在する初期の古墳には,纒向型古墳が含まれている。纒向型古墳は大和でも極初期に作られており,全国でもこの型の古墳は,千葉県と大和とここしか存在しない。大和朝廷は,纒向の地に全国の人々を寄せ集めて古墳の作り方を指導したと思われている。このことは,纒向の地に全国の土器が出土することからもわかる。しかし,糸島地方の古墳の造築が非常に早いことと,纒向の地に九州系の土器が出土していないことから考えると,伊都国は大和の直轄地で,九州地方の古墳造りの指導はこの地方で行われたものと考えることができる。
ここで吉備国を中心に起こった考古学的変化を考えてみよう。まず方形周溝墓についてであるが、関東以西で岡山県は方形周溝墓が見られないただ一つの県である。隣の広島県でもほとんど見られない。倭の大乱が終結した後、出雲には饒速日尊祭祀をまかされている河内一族がやってくるのであるが、吉備国の場合は、稚武彦がそのまま吉備国に残り、新しい祭祀の試行錯誤をやっていたため河内一族の出る幕がなかったと考えられる。
次に特殊器台であるが、これも稚武彦が外国の技術をもとに考案し、墳墓祭礼に使ったもので、それを当初の目的どおり出雲と大和に広めたため、出雲と大和にも出土すると考えられる。
吉備国によるこの技術革新は次の古墳時代に受け継がれ、その古墳築造技術は、出雲、北陸、九州、東海にも伝えられそのために、これらの地域の土器が出てくるのである。
稚武彦・若建吉備津彦の没後、当時の気候状態もあり、人々の不安がつのり、再び吉備国が落ち着かなくなってきた。吉備国は出雲と大和を繋ぐかなめであるため、ないがしろにできない。そのため、崇神天皇12年(251年)、四道将軍の一人として大吉備津彦が赴任してきた。中山茶臼山古墳と崇神天皇陵の相似性から見て、大吉備津彦は赴任後も大和と深い関係を保っていたことが伺われる。彼も若建吉備津彦の業績を受け継いで吉備国をまとめたので、その子孫はそのまま強烈な祭礼と共に吉備国の首長として君臨し、5世紀の造山古墳の様に巨大古墳を作る力があったのである。
吉備津彦と言うのは普通名詞のようである。古事記、日本書紀に出てくる吉備津彦関連の名前は年代が会わないものが多い。その代表が吉備武彦である。吉備武彦は、大吉備津彦の子として吉備に赴任してきている。吉備津神社の祭神は大吉備津彦ではなくて吉備武彦であるとの伝承もある。吉備武彦は景行天皇の時代にも活躍している。その生存期間が異常に長いのである。天皇系図に狂いがあるのかとも考えたが、他の点が一致しているため、天皇系図の狂いとは考えられず、吉備に赴任して活躍した人物につけられた普通名詞であると判断した。具体的には、今後の研究課題である。
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