卑弥呼祭祀体制の強化

 卑弥呼就任直後の情勢

 海外技術・情報の入手

  就任直後の卑弥呼としては、人心の安定のため中国の先進技術が必要不可欠であったと思われる。また、海外との交流を重視するならば海外の最新情報も常に確保しておかなければならないはずである。非常に聡明であった卑弥呼はそれらの必要性を感じ取り、有効策を立てていったと思われる。諸外国の政情・国内の考古学的変化をもとに卑弥呼の実績を探ってみよう。

184年
(中平元年)
宗教結社の太平道による「黄巾党の乱」が勃発。百万余の反乱軍を指揮した首領の張角が 病死したことで反乱軍は一時的に瓦解したが、後漢政権も壊滅状態となった。乱の勃発地青州は朝鮮半島の対岸の山東省であり、戦乱を嫌った大量の黄巾党が海を越えて朝鮮半島に逃げ込んだ。この人々を従えて百済と高句麗が勢力を強めることになった。
185年 倭の大乱終結、卑弥呼共立、第8代孝元天皇即位
186年 第8代孝元天皇即位
188年 「中平」銘鉄刀
戸隠神社(信濃)創建
鷲峰神社(因幡)に大己貴命を祀る
思兼命阿智に降臨
189年
(中平6年)
後漢・霊帝崩御
西涼の董卓により後漢少帝を保護し、朝廷の実権を手中にし、献帝を擁立公孫度は後漢の実力者董卓の命により遼東太守となった。彼は遼東で勢力を拡大し、自立を強め、後漢が放棄した楽浪郡を支配下に置いた。このころ勢力を強めた高句麗第8代の伯固は遼東へ数度寇掠を行った。それにより公孫氏の不興を買った。
天照大神を内原王子神社(紀伊)に祭る
190年
(初平元年)
董卓は洛陽に火をかけて焦土とした上で、西の長安へと引き揚げ、長安に都を移した。
遼東郡太守の公孫度は中原の大混乱に乗じて、遼東地方に独立政権を立て、 朝鮮半島の西北部をもその支配下に入れた。
192年
(初平3年)
夏4月、董卓が呂布に暗殺された。後漢の将軍曹操は後漢より黄巾討伐の詔勅を受け、黄巾軍を討伐し、黄巾軍の兵30万人、非戦闘員100万人を降伏させ、その中から精鋭を選んで自軍に編入し、「青州兵」と名付けた。これにより、曹操は勢力を一気に増強した。

 百襲姫が卑弥呼に就任したころ中国は黄巾党の乱による戦乱時代の幕開けの時代であった。倭国も倭の大乱が終結したばかりの時である。卑弥呼は二度とこのような大乱を起こさないためにも、倭国内の改革を行う必要を感じたことであろう。

 奈良県天理市の4世紀後半頃に築造された前方後円墳である東大寺山古墳の副葬品の中に、24文字を金象嵌で表し、「中平」の紀年銘を持つ鉄刀があった。
 刀身の棟の部分に24文字を金象嵌で表した長さ110センチメートルの鉄刀で、鉄刀の刀身の銘文は 「吉祥句」を用い、

「中平□□(年)五月丙午造作文(支)刀百練清剛上応星宿□□□□(下避不祥)」

と記されていた。内容は「中平□年五月丙午の日、銘文を入れた刀を造った。よく鍛えられた刀であるから、 天上では神の御意に叶い、下界では禍を避けることができる」という意味である。

 また、倭の大乱直後からさまざまな技術革新が起こっており、これは、卑弥呼が就任直後後漢との交流を持っていたことを意味している。しかしながら、当時の先進国であった中国は大戦乱の真っただ中である。このような時の後漢に朝貢しても得るものはほとんどなく、敵対勢力の反感を買う可能性もあるわけである。卑弥呼はこのような時にどのようにして、先進技術を手に入れたのであろうか。

 卑弥呼はその戦乱を逆に利用したのではあるまいか。戦乱が起こるとその戦乱を避けて、その戦乱地から脱出する人々がいるのは世の常である。それらの人々を倭国に呼び寄せれば、中国の情勢、先進技術共に手に入れられるのである。

 就任直後の卑弥呼はそのことに気づき、朝廷の有力者に大陸の諸国を訪問させ、戦乱から逃げている技術を持った人々を探し出し、倭国へ導いたのではあるまいか。それらの人々によって、持ち込まれたのが中平銘の鉄刀であり、それらの人々の持っている技術で古墳築造技術や土器製作技術の革新が起こったのではあるまいか。

 人心が荒廃している状況では生活の安定策を諮るとともに、人々の心が一つになるような巨大な祭祀施設と祭祀を考え出す必要があった。倭の大乱における和平条件により、これらの技術者を吉備国に派遣し、吉備国で祭祀施設の巨大化や祭器の研究などが行われたと考える。この研究成果が、楯築遺跡・矢藤治山古墳・宮山古墳・特殊器台などであろう。

 卑弥呼はそれと同時に国内外の情報の入手にも努力したと思われる。情報がなければ如何に大天才といっても有効策を討つことはできないためである。国内においては各国に国造を派遣して数年で戻し、国外においては戦乱を利用して多くの人々を国内に呼び込んで、それらの人々から住んでいた地域の情勢を聞き出したのではあるまいか。

 国内の祭祀強化

 この時代の神社伝承には神話時代がそのまま遷されたのではないかと思われるものがある。

阿智神社 長野県下伊那郡阿智村智里489
 社伝によれば人皇第8代孝元天皇5年春正月天八意思兼命御児神を従えて信濃国に天降り、阿智の祝(はふり)の祖となり給うたと伝えらる。

 思兼命は高皇産霊神の子である。AD50年頃活躍していると思われ、饒速日尊の信濃国統一事業の一環と考えられる事象が孝元天皇5年と記録されているのである。真実は孝元天皇5年に思兼命降臨地にそれを所以とした祭祀を始めたと判断する。

諭鶴羽神社 兵庫県三原郡南淡町灘黒岩472
 社伝によると、およそ2千年の昔第九代開化天皇の御代にいざなぎ、いざなみ二柱の神さまが鶴の羽に乗り給い、高天原に遊び給うた。狩人が鶴の舞い遊ぶのを見て、矢を放つ。羽に矢を負った鶴は、そのまま東の方の峰に飛んでかくれた。狩人、その跡を追って頂上に至ると榧の大樹があり、その梢にかたじけなくも日光月光と示現し給い「われはいざなぎ、いざなみである。国家安全、五穀成就を守るため、この山に留るなり、これよりは諭鶴羽権現と号す」と唱え給うた。狩人涙を流し前非を悔い、その罪を謝し奉り、長く弓矢を捨てその地を清め大工を招き一社を建て神体を勧請し奉る。

 淡路島は伊弉諾尊の終焉の地であり、伊弉諾尊・伊弉冉尊にゆかりが強い。AD20年頃、伊弉諾尊・伊弉冉尊が紀伊国統一に向かう途中の出来事と思われる事象が開化天皇の時代に諭鶴羽神社として祭祀されているのである

鷲峯神社 鳥取県気高郡鹿野町大字鷲峯1061
 孝元5年八千矛神(またの名を大己貴命)が天羽車大鷲にのってこの山に降りられた。そこで、この山の名を鷲峯と名づけ、八千矛神をまつって神社とした。

 大己貴命がこの地にやってきたのはAD10年頃の因幡国統一時かAD20年頃の越八口平定時と思われるが、それが孝元5年の出来事として記録されている。

 この時代の神社の創始はこのように神話時代の出来事が由緒となっているものが多い。孝元天皇が神話時代の人物であると考えることも不可能なわけではないが、他の伝承とは合わない。このことから、この時期、神話時代にゆかりを持つ地にそれを理由として神社を創始したと考えた方がよいであろう。
 人々の心を一つにしやすいのは歴史である。国内の先人(饒速日尊・素盞嗚尊)ゆかりの地に、それを元とした祭祀を始めたとおもわれる。実際にはこれら神社以外にも各地に相当数の神社が同じような理由によって創始されたと思われるが、現在まで伝えられていないのであろう。

 孝元天皇5年は、卑弥呼就任直後である。卑弥呼は就任後、全国の神話時代ゆかりの地を調べさせて、土地の人々がそのゆかりを誇りにしているが、祭祀がなされていない地域を探し出し、その地に神社を創始したのではあるまいか。卑弥呼はこのような神社を創始することによって、人々の心を安定化しようと図ったと思われる。

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