高皇産霊神の降臨 

 高皇産霊神と神皇産霊神との関係

 神皇産霊神

 縄文時代は飛騨王朝が縄文連絡網によって、日本列島全体をまとめていた。しかし、弥生時代になって稲作が始まり渡来人が多数渡来するようになり、人々が財産を持つようになった。その結果、貧富の差が生じ、争いが多発するようになり、小国家が乱立する状態になった。

 その中でも急成長を遂げたのがBC100年ごろ建国された出雲王国(出雲王朝誕生)であった。衛氏朝鮮の王族が、国の滅亡から逃れて日本列島で建国した国のようで、国の経営にはかなり優れていて、国がよくまとまっていた。

 それまで日本列島全体をまとめていた飛騨王朝としては、列島が分裂することを避けたいと思って、稲作や、農具に関する、新技術を広めたり、拠点集落の強化等を行っていたが、有効ではなく、次第に西日本を中心として日本列島が混乱してきている状況であった。

 そこで、窮余の策として飛騨王朝単独では日本列島をまとめるのは不可能と判断し、飛騨王朝は出雲王朝と同盟関係を築き、出雲王朝の力を借りて日本列島をまとめようと考えた。その第一の策として、飛騨王朝における第66代ウガヤ王豊柏木幸手男彦天皇(飛騨口碑における第34代上方様=伊弉諾尊)は出雲王朝第三代深淵之水夜禮花(ウガヤ系図の豊葦原大彦)に娘(伊弉冉尊)を皇后として迎え入れた。これによって、飛騨王朝と出雲王朝は協調関係(飛騨国と出雲国の接近)になったのである。その結果出雲側では能登半島の珠洲地方が国引きの対象(技術導入)となり、飛騨川としてはヤマタノオロチの派遣ということになったと推定している。

 飛騨王豊柏木幸手男彦(伊弉諾尊)と出雲王朝の娘(伊弉冉尊)の間に天神玉命、天久米命、天御鳥命、天背尾命が生まれた。他に神大市姫もこの両者の子と思われる。この中の天神玉命(神魂命)が記紀では神皇産霊神とされている人物であり、次代のウガヤ王第67代春建日媛で、天照大神と呼ばれている人物でもある。

                      ウエツフミ・竹内古文書によるウガヤ王朝系図

                      ┏65代勝勝雄之男天皇
                      ┃
                      ┣・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・豊建日稚媛┓
                      ┃                             ┣69代神足別豊鋤天皇
           ┏64代豊日豊足彦天皇━╋・・・・・・天浮船乗知━━━━高天原建彦┓┏68代宗像彦天皇┛
           ┃          ┃                    ┃┃
           ┃          ┗66代豊柏木幸手男彦天皇┓        ┣╋・・矢野姫
           ┃                      ┃        ┃┃
63代事代国守高彦天皇━┫                      ┣67代春建日媛天皇┛┣・・真鳥風━早草綿守━━━━玉依姫━神武天皇
           ┃                      ┃         ┃
           ┗・・・・・豊葦原大彦━━━━━━天津豊日足媛┛         ┗・・事代大主━春日建櫛甕玉━━多々良五十依姫
                                        
                      系図上の・・・部分は改ざんされていると推定される所

                                  ウガヤ王朝・各豪族関連系図

            八島士奴美━━━母遅久奴須奴━━━深淵之水夜禮花━┳淤美豆神━━━━天之冬衣神━━大国主命━━鳥鳴海命━━━━━━━━┓    
                                     ┃                                 ┣国忍富・・出雲王朝
                                     ┃                           ┏伊許知邇━┛
                                     ┃             ┏━━━━━┓       ┃
                                     ┃             ┃     ┣━天穂日命━━┻武日名照命・・・・・・出雲国造家 
                                     ┗天津豊日足媛┓67     ┃ 日向津姫┫              72
                                     66      ┣春建日媛━┓┃     ┣━━━━鵜茅草葺不合尊━━━神武天皇┓
                                   ┏━豊柏木幸手男彦┛     ┃┃ 68   ┃ 69                ┣綏靖天皇
60   61       62       63        64     ┃              ┣━━宗像彦━┫┏神足別豊鋤━┳活玉依姫┓     ┃
櫛豊姫━豊足日明媛━┳━豊足別彦━━━━事代国守高彦━━━豊日豊足彦━╋━天浮船乗知━━━高天原建彦┛┃大山祇命 ┗┫賀茂健角身 ┃    ┃┏五十鈴姫┛
    安牟須比命 ┃                        ┃               ┃      ┗━市杵島姫┓┃    ┣┫71
    神魂霊神  ┃                        ┃ 65             ┃            ┣━事代主命┛┗賀茂別雷
          ┃                        ┗━勝勝雄之男         ┃      ┏━━━━━┛┃70
          ┃                                        ┃      ┃      ┗玉依彦・・・・・・・・賀茂氏
          ┃                          布都御魂━━━━素盞嗚尊━━┻━饒速日尊━┫                   
          ┃                                               ┣━━天香語山命・・・・・・・・・・海部氏
          ┃                                        ┏━天道日女━┛
          ┃                                        ┃
          ┃       ┏━多久豆魂命━━━━天御食持命━━━彦狭知命━━━━手置帆負命━┻━天御鳥命━━━━比古麻命━━━━━天道根命・・・紀氏
          ┃       ┃                                 (天越根命)
          ┣━香都知命━━┻━天雷命━━━━━━安国玉主命━━━天押日命━━━━天押人命━━━━天日咋命━━━━刺田比古命━━━━道臣命・・・大伴氏
          ┃       
          ┃
          ┃                        ┏━天津久米命━━━天多祁箇命━━━大久米命━━━━布理禰命━━━━━佐久刀禰命━━味耳命・・久米氏
          ┃                        ┃     
          ┗━麻戸明主命━━━角凝魂命━━━━━伊佐布魂命━┻━天底立命━━┳━天背尾命━━┳━天日鷲翔矢命━━大麻比古命━━━━由布津主命・・・斎部氏
                                           ┃       ┃
                                           ┃       ┗━櫛明玉命・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・玉祖氏
                                           ┃
                                           ┗━天嗣杵命━━━━天鈴杵命━━━━天御雲命━━━━━天牟良雲命・・・度会氏
                                      

 高皇産霊神

 春建日媛の夫とされているのが高天原建彦である。高天原建彦の父は天浮舟乗知という変わった名である。ウエツフミ・竹内古文書のウガヤ王朝の人物名は明らかに後世的であり、本当の名ではないと判断している。行動実績をもとに名が後でつけられたのではないかと推定している。天浮舟乗知という名がつけられるということから、この人物は外洋航海をしているのではないかと推定される。外洋航海することによって、海外の状況を学んで戻ってきたのではないかと思われる。高天原建彦はその子であるから、父から海外事情を聞いていたのではないかと考えられ、そういった事情に詳しい人物ではないだろうか。この高天原建彦が春建日媛の夫となったのはBC20年ごろと推定される。この人物が記紀では高皇産霊神として記録されている。

 66代豊柏木幸手男彦には他に男子がいたが、67代を継承したのは女性である春建日姫である。出雲王朝との協力関係から特に能力の高かった春建日姫が選ばれたものか。あるいは、66代豊柏木幸手男彦が亡くなった時、成人していたのが春建日姫のみだったか、その真相は不明であるが、おそらく両方であろう。同様にして春建日姫と高天原建彦が夫婦関係になった理由も不明であるが、高天原建彦の父が天浮舟乗知というあまりにも変わった名であることから、高天原建彦の系統が外洋航海や縄文連絡網を統括していた飛騨王朝の豪族だったのではないかと推定する。そのために、高天原建彦は日本列島や海外の状況を詳しく知っており、これから、日本列島を統一していかなければならない飛騨王朝としては欠かせない人物であったのではないだろうか。

 この高天原建彦の系統が男系で現皇室につながっている。この系統がY染色体ハプログループのD1a2a(日本列島の人々)で縄文系である。父である天浮舟乗知は66代豊柏木幸手男彦の兄弟となっているが、実際はもっと先に飛騨王朝直系から分かれているのではないかと推定している。

 飛騨王朝はこの高皇産霊神・神皇産霊神の時代より急激に日本列島統一に動き始めていることが、飛騨口碑・神社伝承等で伝えられている。急激な変化が起こるとすれば、何かそのきっかけがあったと思われる。それが、素戔嗚尊との出会いにあるのではないかと考えられる。

 素盞嗚尊と飛騨王朝の出会い

 素盞嗚尊は朝鮮半島から上陸した布都御魂(素盞嗚尊の父布都御魂渡来)の子と思われ、大陸系の人物である。ところが、記紀をはじめとする伝承では、天照大神・月読命と共に三貴子とされており、天照大神の弟とされている。飛騨王朝の系統でないにもかかわらず日本列島統一に深くかかわった人物であることを意味していると思われる。おそらく、飛騨王朝が統一時事業を強力に推し進めるきっかけを作ったのが素盞嗚尊だったのであろう。

 飛騨王朝と素盞嗚尊との最初の接触と考えられるのは、ヤマタノオロチ退治(ヤマタノオロチ事件)後天叢雲剣を天照大神に献上した時であろう。ヤマタノオロチは飛騨王朝から派遣された人物で、出雲王朝と飛騨王朝をつなぐ重要人物であったと推定される。ところが、自分の立場におぼれて権力を傘にした行動をとってしまい素盞嗚尊に退治されてしまったのである。そのヤマタノオロチが所持していた剣が天叢雲剣で草薙剣とも呼ばれ、皇位継承にかかわる三種の神器の一つである。

 この天叢雲剣はヤマタノオロチの身分の証となっていたもので、これを戦利品とした素盞嗚尊は飛騨王朝の敵として扱われることを恐れ、協力者の出雲王朝第5代天冬衣命とともに飛騨王朝の天照大神に献上したと思われる。この時、素盞嗚尊と飛騨王朝が初めてであったものであろう。ヤマタノオロチ退治の数年後のBC15年頃ぐらいではないだろうか。春建日媛も王位について間もなくの頃だったと思われる。

 春建日媛・高天原建彦と素盞嗚尊との面会

 飛騨王春建日媛は素盞嗚尊より、ヤマタノオロチ殺害の詳細を聞いたと思われる。春建日媛は心の広い人物だったようでヤマタノオロチの行動からやむを得ずと判断し素盞嗚尊の行動を認めたものと思われる。飛騨国から派遣された人物の中にも心がけの良くない人物がいることを知り、これでは、人々の心をとらえることができず、小国家同士の争いを沈めるどころか激化させてしまい、日本列島統一が難しいことを思い知ったことであろう。

 素盞嗚尊は、ヤマタノオロチ退治後の経験談をする中で、周辺の人々を集めて会議(出雲国建国)を行うと、色々と名案が提案され、その案を実行すると、周辺の人物が自らを慕い、自然に自らを中心とする出雲国が出来上がったこと。父の布都御魂から聞いた生活に関する新しい方法を人々に伝えると、人々は喜び生活が楽になっていったことなどを話したと思われる。

 春建日媛はこの話の中から、日本列島統一のカギを見つけ、素盞嗚尊と日本列島統一について話し合ったのではないだろうか。素盞嗚尊は春建日媛との話の中で、自分が日本列島統一に協力したいという提案をしたのではないだろうか。春建日媛は素盞嗚尊の性格を見抜き、この人物なら日本列島平和統一を任せることができると確信したのであろう。そこに高天原建彦も同席していたと思われる。

 しかし、1回の出会いだけで完全に信頼するのは無理と思われる。何回かの出会いがあったと思われる。最初はヤマタノオロチ退治の1年後ぐらいで、朝鮮半島に技術導入に出発する前にも直接会っているのではないだろうか。素戔嗚尊が海外に行くとき、宗像から壱岐・対馬を統一(対馬統一)して朝鮮半島(朝鮮半島統一)に移動しているとともに、その後の統一状況も含めて、当時の日本列島の地域の状況をあまりによく知っていたと驚かされる。一小国家の王である素盞嗚尊が、これほど地方の状況を知るはずがないと思えるのである。

 素盞嗚尊は春建日姫・高天原建彦と面会する中で、現在日本列島がどういった状況にあるか、海外がどういった状況にあるかの情報を得たのであろう。高天原建彦は素盞嗚尊が日本列島の統一をしてくれるのではないかと期待し、縄文連絡網を通して得た情報を素盞嗚尊に提供したと思われる。

 春建日姫は素盞嗚尊との関係をさらに深めるために、自らの妹である神大市姫と素盞嗚尊が結婚(素盞嗚尊、神大市姫との結婚)することを進めた。

 新技術の必要性

 縄文人ははるか昔より海外渡航をして海外の技術を取り入れていた。BC2000年頃飛騨王朝が成立(飛騨国の誕生)した後も、縄文連絡網を通して様々な新情報を提供(飛騨王朝の功績 )していた。しかし、弥生時代になり、渡来人が大量に上陸(縄文人と渡来人との遭遇)するようになり、渡来人から新しい情報がかなり入り込むようになった。この頃の縄文連絡網は渡来人からの情報を伝達することが多くなっており、飛騨王朝独自の新情報開拓は、ほとんど行われなくなっていた。天浮舟乗知の子である高天原建彦もそのことは気になっていたことであろう。

 しかし、素盞嗚尊からの情報により、このような時でも、新情報は人々の心をひきつけるものであることが再認識された。素盞嗚尊が朝鮮半島に出向き、楽浪郡からの新技術導入を提案したのを受けて、素盞嗚尊に協力するとともに、自らも新技術を集める決断をしたと思われる。

 この当時、新技術を導入する方法は3つあった。一つが渡来人からの情報提供を受けること、二つ目が楽浪郡からの新技術導入。もう一つが、秦徐福がもたらせた新技術の導入である。秦徐福(秦徐福到来)が日本列島の数々の最新技術を持って日本列島に上陸してからこの時で200年ほどたっていた。しかし、徐福は戦乱を恐れて自らのもたらせた新技術を門外不出とし、丹後地方(丹波王国誕生)に一部が伝えられた以外、その技術はほとんど知られていなかった。徐福の技術をそのまま受け継いでいる集団が吉野ケ里遺跡に住んでいる人々であった。

 高天原建彦はその技術を日本列島統一のために使わせてもらおうと決断したと思われる。

 高天原建彦高良山に降臨

 高良大社との関係

 吉野ヶ里遺跡から直線で16km程離れた位置に筑後国一宮の高良大社がある。現在でも高良大社は吉野ヶ里遺跡付近に住む人々の信仰対象となっているのである。高良大社の背後にある高良山は筑紫平野一帯を一望できる山である。吉野ヶ里遺跡に住んでいる人たちは、その持っている先進技術のためか、周辺の集落から襲撃をよく受けていたのではないだろうか、出土状況はそれを裏付けている。

 徐福一行は童男童女3000人が主体である。成人集団より人口増加率は高かったと思われる。西暦紀元前後には数万人規模になっていたのではないだろうか。佐賀平野だけでは収まらず、筑後平野にも進出していったと思われる。この一族の墓制は中国長江流域と同じく甕棺墓であると思われる。甕棺墓こそ佐賀平野・筑後平野一帯に広がっており、徐福の子孫が筑後平野にも進出していったことがうかがわれる。

 高良大社(福岡県久留米市御井町1番地)は式内社・名神大社で筑後国一宮である。福岡県久留米市の高良山にある。古くは高良玉垂命神社、高良玉垂宮などとも呼ばれた。主祭神の高良玉垂命は、武内宿禰説や藤大臣説、月神説など諸説あるが、誰なのであろう。
 高良玉垂命は古えより筑紫の国魂と仰がれている。筑紫の国魂は筑紫神社では白日別命のこととされており、白日別命は筑紫神社の五十猛命と共に祭られており、九州で五十猛命と行動を共にしたのは素盞嗚尊であること、また、玉垂命とは潮干玉、潮満玉を扱う神で海神を意味している。海神とは素盞嗚尊である。このことから高良玉垂命は素盞嗚尊であると思われる。
 筑後一円はもとより、肥前にも有明海に近い地域を中心に信仰圏を持つ。高良山にはもともと高皇産霊神(高牟礼神)が鎮座しており、高牟礼山と呼ばれていたが、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って鎮座したとの伝説がある。高牟礼から音が転じ、「高良」山と呼ばれるようになったという説もある。現在もともとの氏神だった高木神は麓の二の鳥居の手前の高樹神社に鎮座する。

 北九州沿岸諸国との関係

 玄界灘沿岸地方の伊都国・奴国は朝鮮半島との関係が非常に深いようである。BC108年漢武帝が朝鮮を滅ぼして帯方郡を設置しているが、その頃より、発達してきている。 朝鮮半島からの移民団によって建国されたものとも考えられるが、発掘された遺骨の分析では頭示指数・ABO式血液型分析による結果が、朝鮮半島のものとは大きく異なっている。 この地域も中国の江南地方の影響が強いようである。日本列島で朝鮮半島の血筋に近い人々が多いのが近畿地方である。大阪湾岸に来た人々が朝鮮半島からの大量移民団と思われる。 それ以外の地方の弥生人は、中国からの大量移民団が主流と考えられる。おそらく朝鮮半島からBC108年頃多量の移民団が北九州に上陸しようとしたが、先に上陸していた江南地方からの移民団によって 阻まれたのではあるまいか。この集団はやむなく、瀬戸内海を東進し大阪湾岸に上陸したのであろう。この集団は戦闘的性格が強かったようで、大阪湾岸の縄文人との間で戦闘が行われたようである。 この集団は方形周溝墓の墓制を持っており、拡張意識が強く、100年ほどの間に近畿地方一帯はもとより、北陸地方・東海地方まで進出していった。

 弥生時代前期から中期の初め頃まで、伊都国に朝鮮半島系の支石墓が出現するが、埋葬されている人々が縄文人なので、この頃には朝鮮半島からの文化の導入はあっても人の大量移民はなかった ものと考えられる。

 BC210年頃秦徐福が一挙に3000人を連れてきて佐賀平野から筑後平野一帯に進出した。 この時点で遠賀川流域には甕棺墓がほとんど見られず、遠賀川流域までは進出していなかったのであろう。このようにこの当時の渡来人の大半は中国の山東半島から江南地方にかけての地域からと 思われる。

 北部九州の戦闘遺跡を分析すると、弥生人同士の戦いのようで、縄文人との戦いの形跡はほとんど見当たらない。最古の王墓と考えられているのが福岡市早良区にある吉武高木遺跡で中期初頭 (紀元前2世紀)頃のものと思われる。この周辺の遺跡には朝鮮半島系の青銅武器が多量出土していると同時に戦死者と思われる人骨も多量に見つかっている。この遺跡の衰退と入れ替わるようにして 伊都国の中心遺跡である三雲遺跡が発達している。これらの王墓には副葬品が多く、権力集中型の王墓と考えられる。

 戦闘遺跡が最も多いのがBC2世紀から1世紀にかけての筑紫野近辺である。その南北において勢力の拮抗があったものと考えられる。伊都国王は周辺の小国を従えた連合国を形成していたのではないかと考えている。武力により周辺を併合して行った様で、権力集中型の王だったと思われる。

 戦いが頻発に起こる状態では、能力の高い人物の指導力が必要とされる。その結果、この地方一帯に権力集中型の王が率いる小国家が乱立することになるのである。

 久留米市周辺遺跡

 久留米市周辺は縄文から弥生の遺跡が多い。野口遺跡・安国寺遺跡・良積遺跡・正福寺遺跡・東櫛原今寺遺跡などがあり、甕棺墓の集中出土地帯である。その中心に筑後一宮である高良大社が存在している。縄文時代前期から中期にかけては野口遺跡が九州一帯では最大規模の遺跡であり、その流れから、飛騨王朝が成立した後の拠点集落がこの周辺地域に作られたのであろうと考える。

 弥生時代になってからの拠点集落と思われるものが東櫛原今寺遺跡である。この遺跡の位置から高良山山頂から冬至の日の日の出を見ることができる位置にある。また、近くの櫛原天満宮周辺の石丸遺跡は、今寺遺跡に住んでいた弥生時代の人々の墓地と見られる遺跡で、多数の甕棺墓が調査され、銅矛や管玉なども出土しているので、かなり大規模な遺跡だったのではないかと思われる。縄文後期から晩期にかけての拠点集落はまだ特定できていないが、高良山の冬至の日の日の出線上にあるのではないかと思われる。この時期の中心遺跡は正福寺遺跡である。BC1000年ごろのドングリを入れた植物のつるで編んだ籠が見つかっているので、拠点集落の近くにあったと考えられる。

 安国寺遺跡

 高天原建彦は、日本列島で最も混乱している北九州領域をまとめる必然性を考え、この地に降臨することを考えたと思われる。高天原建彦が降臨したと思われるBC10年ごろに栄えていた遺跡は安国寺遺跡と思われる。久留米市都市計画事業の最中に偶然発見された貴重なもので、数多くの甕棺には副葬品などが見あたらないことから、埋葬された人々に身分の差はないとされ、共同体の一集団だったと考えられている。そのほか、祭りごとで使用された道具などを埋めた祭祀土坑なども合わせて見つかっていることから、筑後地方の精神文化や生活様式を知る上で重要な遺跡として、現在は国指定の史跡になっている。

 周辺地域では権力集中型の王が統治する小国家が乱立している状態なのに、この遺跡は身分差が存在していないのである。この遺跡は高良山の北麓で、筑後川南岸であり、交通の便の良い位置である。このように理想の立地条件であれば、他の小国家から狙われやすいと思われる。その結果防衛のために、有能な有力者が必要となり、必然的に身分差が生じるはずである。

 その原因として考えられるのが、この地域は特別な存在だということである。飛騨王朝は権力のもとに君臨しているわけではなく、小国家が乱立する以前から存在していた縄文連絡網の拠点地域だと考えればこの状態は説明できる。戦国時代の京都のようなもので、周辺が戦乱地域であっても、京都を襲撃する戦国大名はいなかった。周辺地域の人々にとっては聖地のようなもので、小国家の人々もこの周辺を襲うことはしなかったのであろう。

 高天原建彦が降臨したと思われる遺跡の特徴を推定すると、高天原建彦の飛騨王朝の立場から判断し祭祀が中心と思われる。また、縄文連絡網の拠点地域と思われるので統治している人物がいるとは思えず、地方からやってきた人々の共同体が成立しているはずである。

 その点から判断するとこの安国寺遺跡周辺に高天原建彦が降臨したのではないだろうか。時期としてはBC10年頃であろう。背後の高良山は筑後川沿岸や佐賀平野を一望することができ、降臨した高天原建彦はこの山に登り周辺の地理を確認したことが推定される。また、徐福の子孫が居住していると思われる吉野ケ里遺跡も望むことができる。

 吉野ケ里遺跡の住人との交渉

 高天原建彦(高皇産霊神の正体)がこの地に降臨した目的は、秦徐福がもたらした当時の最先端技術を、日本列島統一のために使わせてもらうということにある。秦徐福自身はこの地から去っているが、徐福が引き連れてきた童男童女3000年のうち、多くがこの地に残り、吉野ケ里遺跡(秦徐福到来)を経営していたと思われる。

 高皇産霊神と大伴氏の関係を示す系図は以下の2種存在している。

 記紀
 高皇産霊尊━━━天忍日命━━━天津彦日中咋命━━━━道臣命

 『古屋家家譜』
 高皇産霊神━━安牟須比命━━香都知命━━天雷命━━天石門別安国玉主命━━天押日命━━天押人命━━天日咋命━━刺田比古命━━道臣命

 道臣命が神武天皇とほぼ同世代と考えられるので、高天原建彦=高皇産霊神とすれば、1世30年として天忍日命が西暦起源頃誕生となるので、記紀伝承の方が正しいことになる。では、『古屋家家譜』の系図は何なのであろうか。

『古屋家家譜』は 『甲斐国一之宮 浅間神社誌』に収録されており、道臣命の父を刺田比古命とし、道臣命については「生紀伊国名草郡片岡之地」と伝え、信憑性の評価が高いとされている。ところが高皇産霊神の子とされている饒速日尊に伴って天孫降臨した天忍日命に該当する人物は天押日命であり、道臣命を基準として考えると、2世代前の人物となるのである。

 これを2段階の降臨があったためではないかと考えている。『古屋家家譜』の安牟須比命は香都知命の親であるが、紀国造直系譜(神皇産霊神の正体)と照合すると、この人物は神魂霊神であり、神皇産霊神と考えられる。そして、ウガヤ系図と照合すると、世代から考えてウガヤ朝第61代豊足日明媛命となる。この系図から考えて天押日命の活躍時期は高皇産霊神の一世代前であり、BC40年ごろとなるのである。大伴氏はこの系図により飛騨王朝から分離しているので、いつか、九州に降臨しているはずである。この九州に降臨した人物が、天押日命ではないのだろうか。そして、饒速日尊とともに天孫降臨したのが天日咋命(天忍日命)であろう。天押日命と天忍日命は共に降臨した人物なので、両者に混乱が生じたのであろう。

 天押日命が九州に降臨した目的こそ、吉野ケ里遺跡の人々との交流ではないのだろうか。秦が中国大陸を統一したBC200年ごろから、その戦乱から逃げた人々が多数日本列島に上陸してくるようになった。上陸する人数が多くなりすぎ、マレビトを送り込むことによって、上陸した人々を取り込む作戦も通用しなくなってきて、渡来人は小国家を形成し、相争うようになってきた。この傾向はBC100年ごろには顕著になってきて、飛騨王朝としてもこの状態を何とかしなければ日本列島内が戦乱状態になってしまうと危機感を持ってきた。

 マレビトを受け入れようとしない人々が、マレビトを受け入れてくれるようにするためには先進技術が必要であるということが飛騨王朝はわかっていた。吉野ケ里遺跡の人々は秦徐福がもたらせた最新技術を継承している人々であり、この技術は渡来してきた人々も持っていなかったと思われる。飛騨王朝は吉野ケ里遺跡の人々に日本列島の安定化のためにその先進技術を使わせてもらおうと考えたのであろう。飛騨王朝は吉野ケ里遺跡にマレビトを送り込もうとした。吉野ケ里遺跡の人々はその先進技術を門外不出としており、それまで、マレビトを受け入れてはいなかったと思われる。

 吉野ケ里遺跡の人々が受け入れられるように飛騨王朝中枢の人物がマレビトとして派遣されることになったのではないだろうか、その人物こそ、天押日命であったと思われる。BC40年ごろのことである。吉野ケ里遺跡の人々も日本列島を取りまとめている飛騨王朝の存在は知っており、その中枢にいた人物がマレビトとしてやってくるとなれば、無視もできず天押日命を受け入れることができたのであろう。吉野ケ里遺跡も周辺の小国家から頻繁に襲撃されており、苦しい状況にあったことは確かである。争いながらも人々は平和な生活を望んでおり、それが実現するとなればと判断し、協力することになったのであろう。吉野ケ里遺跡の人々も飛騨王朝に協力することで、統一後の王朝(大和朝廷)において平和的に重要な地位を得ることができ、子孫繁栄が約束されるのである。

 天押日命が吉野ケ里遺跡の人々に受け入れられると、一族の娘と結婚し、天押人命が生まれたと思われる。天押日命は吉野ケ里遺跡の人々に、持っている先進技術を日本列島再統一のため、人々の生活のために使わせてもらえるように交渉した。30年ほどたってその道筋が確立し、吉野ケ里遺跡の人々の協力が得られることになった。しかし、この先進技術を全国にばらまくには飛騨王朝のより中枢の人物の協力が必要であった。そこで、BC10年頃、ウガヤ王朝第67代春建日姫の夫である高天原建彦の降臨が決まったと考える。

 「以前は飛騨王朝が日本列島を平和に統治していたが、弥生時代になり多数の渡来人が上陸し、飛騨王朝はマレビト作戦を使って、渡来人を取り込んでいったが、稲作が広まるにつれて人々は財産を持つようになり、それを守るために争いが頻発し、現在のような状況になった。このような状況が続くと、日本列島全域にまで戦乱が拡大し、多くの人々が苦難に合うことになるので、なんとかそれを阻止したい。」
 「吉野ケ里遺跡の人々が持っている新技術を広めて、人々を豊かにすることによって、この戦乱を収めたい。協力してくれ。」
この時に素盞嗚尊と話した日本列島統一計画を吉野ケ里遺跡の首長に示したのではないだろうか。

 この時、天押人命は高天原建彦の娘と結婚し天日咋命(天忍日命)が誕生した。その関係で、天忍日命が高皇産霊神の子として認識され、天孫降臨することになったのであろう。この時にすでに、高皇産霊神の頭の中には、この新技術で九州の人々をまとめ、その技術者を育て、天孫降臨として近畿地方にその技術を拡散する計画ができていたことであろう。

 この時の天忍日命が後の大伴氏となるのである。このように考えると、両系図の不整合がつながる。

 飛騨王朝の要人の九州降臨

 久米氏の祖・天津久米命、紀氏の祖・彦狭知命、忌部氏の祖・天背男命はいずれも九州に降臨しているようである。九州地方をまとめるのに協力させるために、降臨させたと思われる。

 久米氏について

 久米氏は天津久米命が天孫降臨しており、その孫大久米命が神武天皇に仕えたとされているが、大久米命の3世後の味耳命が綏靖天皇の元で活躍しているという伝承と矛盾している。味耳命を起点として遡ると、天孫降臨したのが大久米命ということになる。そうすると、天津久米命は大伴氏と同様に飛騨から九州に降臨した人物ということになる。時期は天押日命とほぼ同じ時期で、おそらく同時に降臨したのではないだろうか。時期としてはBC40年頃であろう。

 久米氏の始源の地は北九州糸島半島(福岡県糸島郡志摩町大字野北字久米)、熊本県人吉地方(肥前国球磨郡久米郷:熊本県球磨郡多良木町久米)、鹿児島県一帯(例:南さつま市野間岳東 加世田遺跡付近と三つの説があるが、位置的に福岡県糸島郡志摩町大字野北字久米であろう。天津久米命がBC40年頃、飛騨地方からこの地に降臨したと考える。この地は海から上陸したという状況である。BC40年ごろの時期は須玖岡本遺跡(奴国)、三雲南小路遺跡(伊都国)の全盛時代で、最も勢力のある小国家が存在していたのがこの地域で、この地域のすぐ近くにある久米の地に天津久米命が降臨したものと思われる。天津久米命は日本列島統一に協力するように要請したと思われるが、重い通りには行かなかったと思われる。人吉地方と、加世田地方は大久米命の時代に巡回し、周辺を安定化させるために子孫が定住した地ではないだろうか。

 そして、BC25年ごろに大久米命は天孫降臨団の一人として近畿地方に降臨している。以降大和朝廷の久米氏として活躍している。

 紀氏について

 紀氏は天狭知命が祖である。天津久米命や天押日命と同世代であることから両者と同時に九州に降臨したと思われるが、その降臨地は不明である。天の岩戸神話での活躍伝承が多いので、天の岩戸における天安河原と推定している安心院地方の駅館川河川敷から遠くない地ではないかと思われる。

 孫の天道日女が饒速日尊の妻となっている。饒速日尊は九州統一に参加したとき、最初は遠賀川流域を統一している。この統一時に知り合ったとすれば、遠賀川流域が天狭知命の降臨地と考えられなくもない。

 忌部氏について

 忌部氏の祖は天背尾命である。この人物は天津久米命・天押日命・天狭知命とは一世代後となる。一世代ぐらいのずれなので、一緒に降臨したのかもしれないが、高天原建彦と同世代なので、高天原建彦に付き添って降臨したのかもしれない。

 

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