卑弥呼の邸宅跡発見

 

 3月20日、桜井市教育委員会は第162次調査として纒向遺跡の中枢部の再調査を行い、3世紀前半の建物跡を検出したとマスコミに発表した。 調査地一帯は大規模に整地され、柵で複雑に区画されていた上に、建物の柱筋は東西方向にそろい、四棟の建物が計画的に配置されていた

● 柱材はすべて抜き取られ他に転用されていたが、その柱跡から推定して直径約30cm前後の柱が南北方向に4.8m間隔で、また東西方向に3.1m間隔で建てられていた。 
● 屋根を支える主柱の間隔が非常に広いため、南北方向の柱の間には床を支える細い束柱(つかばしら)の穴があった。そのため、ここに存在したのは高さ10m前後の 掘立柱式高床建物だったと推定された。 
● 実際に発掘された建物跡は南北幅が19・2m、東西幅が6・2mだが、後世に柱穴が削られた西側も含め、 東西幅は倍の12.4mだったと推定された。この場合、床面積は約238平米となる。 
● この大型の建物は、今までに確認されている3棟の建物や柵列と共に、東西方向の同一直線上で南北対称となるよう計画的に配置されていた。しかし、方位はいずれも真北に対して西に5度ほどふれている。 
●大型建物跡の東端が方形周溝墓のものと思われるL字形の溝で壊されており、その溝から3世紀中ごろの庄内3式土器(240~270年ころ)が出土した。土器の年代から大型建物は3世紀前半に建てられ、3世紀中頃まで存続したと思われる。

 卑弥呼の邸宅跡と断定はできないが、少なくとも卑弥呼の時代纒向は政権の中枢があったことは間違いないであろう。その纒向の中枢の巨大な建物跡なので、卑弥呼の邸宅跡でなくとも関連の施設ではあろう。

2・3世紀の降水量変化が判明

 

2世紀から3世紀にかけ、日本では、干ばつと大雨の時期を数十年ごとに繰り返すなど降水量が大きく変動していたことが明らかになった。  名古屋大学の中塚武教授(地球化学)らが木の年輪を分析して突き止めたもので、列島はかつてない豪雨にも襲われていた。邪馬台国の卑弥呼は、その直後に台頭しており、中塚教授は、降水量の変動による社会の不安定化が背景にあったと指摘している。  中塚教授らは、長野県で発掘され、紀元前1世紀から紀元3世紀のものと判明している木曽ヒノキについて、年輪一つ一つに含まれる酸素を詳しく調べた。  酸素には、軽い酸素と少し重い酸素があり、軽い酸素を含む水の方が葉から蒸散しやすい。重い酸素が年輪に含まれる割合は、降水量が少なく、乾燥していた年ほど多くなる。 これを利用し、1年単位で降水量の変化を再現した。観測記録のない時代の細かい降水量変化がわかったのは初めて。

 このグラフによると、AD140から170年ごろにかけて降水量が少ない時期が続いている。これが、倭の大乱のきっかけになったものであろう。降水量が低い時期が続くことは干ばつが続くことを意味し、長期間にわたって作物が取れないこととなり、人々の生活が苦しくなるものである。人々の生活困窮が地方に略奪集団(鬼)の出現を許し、倭の大乱につながったものであろう。

前方後方墳を発見、三角縁神獣鏡など出土…大阪(05.08.31)

 大阪府羽曳野市で古墳時代前期(4世紀中ごろ~後半)の前方後方墳が見つかり、三角縁神獣鏡1面をはじめ多数の副葬品が出土したと、同市教委が31日、発表した。

 旧地名から庭鳥塚(にわとりづか)古墳と命名された。約2キロ北には、4世紀末以降の大王墓(天皇陵)が集中する古市古墳群があり、同古墳群が成立する背景を解明するうえで重要な資料となる。
 古墳は6月、民有地の竹林の整地工事の際に確認された。全長約50メートル。後方部にある被葬者を納めた箱形木棺から中国製とみられる三角縁神獣鏡(直径21・5センチ)が出土。棺の外側には、権威を示す杖に取りつけられた筒形銅器(長さ約15センチ、直径約3センチ)2点のほか、鉄製の矢や槍(やり)、刀などが置かれていた。
 大王墓とされる巨大古墳は3世紀後半、奈良盆地に出現、4世紀末に大阪平野の古市古墳群、百舌鳥(もず)古墳群へと移ったが、その理由は不明。別の王権が成立したとする河内王朝説や墓だけが移ったとする墓域移動説など諸説あり、論争が続いている。
 同市教委では副葬品などから、「大和の政権を軍事面で支え、古市古墳群の成立に何らかの役割を果たした有力な首長の墓ではないか」と推測している。

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 4世紀末といえば前期古墳から中期古墳への変化の時期である。古代史の復元においては、この時期、神功皇后が大和の香坂王、忍熊王を破って新大和朝廷を立てた時期(340年ごろ)と重なる。
 神功皇后は、大和を攻略するに当たって饒速日尊の神を崇拝している豪族たちを味方に引き入れるため、スサノオの神を担ぎ出している。大和制圧の後、スサノオの神を崇拝するために、スサノオ祭祀者を大切にしその関係で祭祀者の墓(前方後方墳)が登場したのであろう。大和朝廷の本拠地が大和盆地から大阪平野に出たのも、この戦いが影響しているものと判断する。
 戦乱の後には、後遺症がつき物で多くの人々の間にギクシャクしたものが残ったと推定される。それを和らげるために、スサノオ祭祀者が率先して饒速日尊系の祭器(三角縁神獣鏡)を使ったものであろう。この三角縁神獣鏡はただの鏡ではない。形式から判断して3世紀中ごろに鋳造されたもので日本にやってきた中国人が作ったものと考えられる。その後どこかの施設において大切に保管されていたものと思われる。神功皇后がスサノオ・饒速日尊の祭祀を特に重要視していた証であろう。


滋賀で前漢鏡の破片(05.07.12)

滋賀県栗東市の下鈎(しもまがり)遺跡で、弥生時代後期末(3世紀前半)の溝跡から、紀元前1世紀の前漢時代に中国で製造された青銅鏡の破片が出土し、同市教育委員会が12日発表した。

 日本で見つかる前漢鏡の大半は福岡県の王墓の副葬品。近畿地方では大阪市、神戸市、奈良県に次いで4例目で、いずれも破片。発見地点としては今回が最も東という。

 製作年代と溝跡の年代に200数十年の差があるため、市教委は「(近畿地方にあったとみられる)初期の邪馬台国(やまたいこく)が、貴重な鏡を割って周辺の有力な首長に分け与えた可能性がある」と推測。「下鈎遺跡の重要性を示す発見」としている。

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古代史の復元の立場から推定してみると次のようになる。
 鏡は1世紀後半に該当する漢式4期以降が全国に分布するようになる。そして鏡は共同体の持ち物になっており古墳時代になってから出土することもある。大和朝廷が成立した1世紀後半以降、地方に各種技術を広めるために朝廷の技術者が地方に派遣されている。その技術者が鏡や鉄剣を地方に配布したようである。前漢鏡は漢式3期までであり、九州の特定王墓からの出土である。滋賀県の野洲川流域は大和朝廷成立後日向勢力が集団移住してきた形跡がある。ヒコホホデミが伊都国に派遣されているときに手に入った前漢鏡が、野洲川流域に移動した人々によって持ち込まれ、その人々が周辺に破片にして配ったものではないだろうか。

 

最古級の前方後円墳(05.05.18)

 宮崎・西都原 古墳文化成立史に一石

 九州最大の古墳群で、特別史跡の「西都原古墳群」(宮崎県西都市)から、国内最古級とみられる前方後円墳が確認された。宮崎大学などの発掘調査でわかった。出土した土器から、築造は3世紀中ごろと考えられ、南九州では最古。大和政権があった畿内でも、この頃古墳が作られ始めており、本土の南端でも同じ動きがあったことになる。これまで、大和政権が主導とされてきた古墳文化成立に再考を迫ることになりそうだ。
 確認されたのは西都原81号墳。長さ52mで卵形の後円部と短いバチ状の前方部を持つ「纏向型前方後円墳」と呼ばれるタイプだ。本格的な巨大古墳の登場に先立つもので3世紀中ごろまでに造られたとされる桜井市の纏向石塚などと同じ形。後円部からは、弥生時代と古墳時代の過渡期に当たる土器が出土した。このため、4世紀とされてきた西都原古墳群の築造開始も半世紀前後さかのぼることになる。
 纏向型は全国で30例を超えるといわれるが、南九州での発掘は初めて。

徳島文理大の石野博信教授(考古学)の話
 南九州の古墳がここまで古くなるとすれば予想外のことで、古墳成立問題を考える上で衝撃的だ。前方後円墳は大和から拡散する考えがある一方、全国で多元的に発生し、その後統合されていくという考え方があり、その可能性を示すひとつの鍵となる成果だろう。 

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 古代史の復元では南九州は弥生時代後期中頃(2世紀)までは大和政権から自治を認められていたが、倭の大乱の後、出雲と共に大和政権の直接支配を受けることになったと考えている。その根拠は方形周溝墓がこの2地域のみ弥生後期後葉にならないと出現しないためである。倭の大乱が終わって2世紀末より吉備国で新しい祭祀が研究され、3世紀前半よりその結果の前方後円墳が築造されるようになった。
 日向国の都は鹿児島神宮の地でヒコホホデミの子孫が治めていたが、倭の大乱後、大和からの役人(国造)に政権移譲をし、その役人は西都原を中心とする政治体系を作っていったと考えている。その過程から考えると、西都原に最古級の前方後円墳が出現するのは当然といえよう。