小国家乱立

 弥生時代中期の様相

 弥生時代前期の様相

 渡来人が日本列島に上陸するようになったBC700年ごろからBC300年ごろまでは、戦乱もなく、平和な時代だったようである。弥生文化はほぼ北九州に限られ、そこから外部への伝搬はほとんどなかったようである。

 遺跡は弥生時代になって増加傾向にあるが、それらの遺跡は、渡来系の人々と在地系の人々の共同生活の跡が見られ、純粋に渡来系の人々のみの遺跡は見当たらない。共同生活の中でも縄文系の生活様式の方が優勢である。これは、渡来系の人々の集落に積極的に縄文系の人々が入り込み、共同生活をしていたことを意味している。渡来系の人々と縄文系の人々は協力し合ってうまくやっていたと思われる。

 渡来系の人々が農耕に必要なさまざまな技術を持ち込み、縄文人と共同生活する中で、水田がポツポツと広がっていったと考えられる。

 弥生時代中期の始まり

 BC200年ごろになると、中国大陸で秦の始皇帝が周辺諸国を滅ぼして中国大陸を統一した。この時に滅ぼされた国に住んでいた人々が多量に日本列島に押し寄せてきた。

 上陸地点は、そのほとんどが北九州の玄海灘沿岸地域である。数多くの人々が玄海灘沿岸地域に上陸したのである。マレビトが押し寄せて共同生活を送ってはいたが、マレビトも対応しきれなくなっていったことが類推される。そのうちに収量の多い地域と少ない地域に差が表れるようになって、収量の少ない地域の人々が収量の多い地域の人々に食糧の融通をしてくれるように要請したが、断られることもあり、生活の苦しさから、収量の多かった地域から食糧を強奪するという事件が起こるようになった。

 このようになると、強奪されないように各集落が防備を固めるようになり、環濠集落が発達してきた。防備をするようになると、指導力のあるリーダーが必要となり、次第に国が形成されるようになってきた。

 このようになってくると、そういった状況を嫌って、玄海灘沿岸地域から外へ出ることを考える人々が出現してきた。その人々が一挙に近畿地方まで広がっていった。移動した人々も移動先で水田稲作を推進したために、弥生文化が一挙に広がることになったと考えられる。

 このような時代を弥生時代中期としている。

中期の北九州主要部の状況

 北九州地方の主要王墓と言えば吉武高木遺跡(早良国)、須玖岡本遺跡(奴国)、三雲南小路遺跡(伊都国)、井原鑓溝遺跡(伊都国)が挙げられる。各王墓の年代を推定してみよう。
吉武高木遺跡
 吉武遺跡は、東西600m、南北1300mの範囲に及び、樋渡墳丘墓もその一部である。吉武遺跡のある早良平野は、須久岡本遺跡群のある東の奴国と三雲南小路遺跡などがある西の伊都国の間に位置している。地形上は飯倉丘陵により他地域とはっきり別れており、弥生時代はここに一つの“クニ”があったと見られている。早良平野で最初に米作りが始まったのは前4世紀で、その拠点はもっと海岸よりの有田遺跡である。この村は、長径300m、短径200mの環濠集落であったが、東の飯倉遺跡、西の野方遺跡などの村もつくられ、村同士の抗争が起こったようである。そして、長年の抗争を経て、前一世紀ごろには吉武遺跡を残した村が優位に立ったことを樋渡墳丘墓が示している。早良平野の“クニ”は後一世紀まで繁栄を続けたようであるが、その後は、東の奴国か西の伊都国に滅ぼされ従属的な位置にあったのであろうと考えられている。
 この遺跡は武器を副葬された人物の数や武器の副葬が行なわれた期間などからすると、同時期に複数の指導者的立場の人物がいたことが推定され、武力を背景に権力が一人に集中するような状況ではなかったと考えられる。つまり、“王”と呼べるような人物はおらず、武器とともに埋葬された人物は、その村の戦闘指揮官であろうと推定されている。この遺跡はBC200年頃から発達したようである。これが最初の王墓と言われている
須玖岡本遺跡
 この甕棺墓がある福岡県春日市の春日丘陵一帯は、弥生時代の遺跡が非常に密集している場所で、弥生銀座の異名を取っている。特に、青銅器や鉄器・ガラスの製作に関する遺跡・遺物が多数出土しており、つい先ごろも、大量生産可能な銅鏃の鋳型が出土して関心を集めた。
 この甕棺墓の発見は明治32年である。。この場所には、古くより大きい平石が地上に露出していたが、土地所有者が家屋新築のためにこの石を動かしたところ、その下から合わせ口甕棺が出土し、そこに大量の遺物が副葬されていた。この甕棺墓があった場所は、須久岡本遺跡のD地点と呼ばれている。確認された出土品は、銅鏡多数・細型銅矛4・中細型銅矛1・中細銅戈1・銅剣2以上・ガラス壁片2・ガラス勾玉1・ガラス管玉12であった。このような豊富な副葬品の数々から、この墓は、奴国の首長墓であろうと考えられている。古い漢鏡2期の草葉文鏡も含まれるが、ほとんどが漢鏡3期の鏡であることから、この甕棺墓の年代としては、漢鏡3期を上限とする前一世紀中頃と推定される。
 青銅器生産センターがあったようで、祭祀系の青銅器(広型銅鉾・銅鐸)の鋳型が見つかっており、倭国に平和的に所属するようになったとみられる。
三雲南小路遺跡
 この遺跡の発見は、江戸時代に遡る。文政五年、土塀用の土取りをしているときに発見された。このときの出土品は、銅剣一本と銅鏡一面を除いて全て散逸したが、幸いなことに、福岡藩士で国学者でもあった青柳種信によって、出土品の詳細な記録が残されている。これによると、銅剣1・銅戈1・朱入小壷1が地下三尺ほどで出土し、さらにその下に合わせ口甕棺があり、その中から、銅鏡35面・銅矛2・勾玉1・管玉1、そして、璧が鏡と鏡の間ごとにはさまった状態で出土したそうである。この甕棺墓が一号甕棺墓である。その後、1974、1975年の圃場整備事業の事前調査に伴う発掘で、破壊された一号墓と、その北に隣接して二号墓が発見された。このときの出土品と青柳種信の記録を合わせて、この甕棺墓の埋葬年代を漢鏡3期を上限とする前一世紀中頃と推定している。この年代は、須久岡本のD地点甕棺墓の年代とほぼ同じである。
井原鑓溝遺跡
 井原鑓溝遺跡は、三雲南小路遺跡の南150mほどに位置している。この遺跡は、天明年間(1781~1788)に水田に水を引く作業中に発見された。このときの出土品も全て散逸したが、記録が残っており、その全貌を知ることが出来る。これによると、出土したのは甕棺墓一基で、その中に、破砕された後漢鏡21面以上、日本製の巴形銅器3個の他、『鎧の板の如きもの』、『刀剣の類』などが副葬されていた。巴形銅器は、その鋳型が吉野ヶ里から出土して注目を集めた。
 その後、記録を整理し、27の漢鏡片から18面の鏡を復元された。それによると、これらは全て方格規矩四神鏡で、面径は12.3cmから17.6cmの中型鏡であった。漢鏡四期に分類され、後漢代の鏡が含まれないこと、形式がまとまっていることなどから、岡村氏は、王莽代に一括して入手された鏡群であるとみており、暦年代としてはAD30年頃と推定。この年代は三雲の王墓とは、数世代の差があると思われる。

 中期後半になるとそれまで散在した居住地が中心部に集中して、大規模な集落となる。三雲南小路王墓と集落域の間にも区画が存在した可能性が高い。これは、この時期の拠点環壕集落に、首長層のための区画が明確な形で出現した。これは本格的な国の誕生を意味している。弥生時代中期末にあたるこの時は、北九州でまさに国が誕生しようとしていた時なのである。

 紀元前2世紀には早良国が中心として栄えていたが、早良国は紀元前1世紀には奴国か伊都国に(おそらく伊都国)に支配された。伊都国と奴国は互いに並立するように勢力を持っていたと思われる。

 戦闘遺跡の増加

 BC200年頃、一挙に伊勢湾岸地方まで、弥生文化が広がった。この地域には、もともと水田稲作を行っている地域があったので、新しくやってきた人々は水田の灌漑施設を作りやすかったのであろう。この段階までは飛騨王朝は水田稲作の伝搬を推進していたと思われる。

 しかし、ここで、大きな事件が起こった。

新方遺跡

 明石川流域には弥生時代以降の遺跡が数多く発見されている。その中、新方遺跡は明石川の流域の弥生遺跡として最古の吉田遺跡から分村により成立したとされている。新方遺跡では合計13体の人骨が発見されたが、石鏃が刺さった状態で発見されたのが1~3号、12号、13号の計5体である。以下、17個の石鏃が腕や胴部を中心とした上半身に刺さった状態で発見された人骨(3号)である。すでに取り上げた3号人骨を含め、いずれも縄文人にみられる下肢を支える腓骨に大きな凹みが目立つ。1号と12号では、縄文人に特異に観察される前歯での嚙み合わせのほか、弥生人に顕著な特徴として上の前歯の裏の窪みが見られる。

 この遺跡では、縄文人と弥生人の双方の特徴がみられる人骨が出土している。これは、縄文人と渡来人との間の混血が進んでいることを意味している。混血しながら、共同生活を送っていたことが推察される。

 ところが、戦死したと思われる人骨が5体も埋葬されていたのである。BC200年ごろに該当する。縄文時代は戦争がなく平和な時代であった。弥生時代になっても、この時期までは戦いがなかったようであるが、この時期から、戦いが行われていたことが分かる。外部からの侵入者による戦いであろう。

 大型石鏃

 この頃より、遺跡から大型の石鏃が多く見つかるようになる。この石器は対人の戦いに使われるもので、戦いが頻発する状況になったことがうかがわれる。

 高地性集落の増加

 戦争が頻発するときに高地性集落が出現する。弥生中期には中部瀬戸内と大阪湾岸に出現する。しかし、北部九州にはみられない集落である。集落遺跡の多くは平地や海を広く展望できる高い位置にあり西方からの進入に備えたものであり、焼け土を伴うことが多いことから、のろしの跡と推定されている。遺跡の発掘調査からは、高地性集落が一時的というより、かなり整備された定住型の集落であることが判っている。また、狩猟用とは思えない大きさの石鏃(石の矢尻)も高地性集落の多くから発見されている。

 高地性集落は山城のように軍事的性格の強い集落である。しかし、高地性遺跡からも同時期の平地の遺跡とほぼ同じ内容の遺物が見つかっており単なる監視所・のろし台といったものではなく、かなりの期間、住居を構えた場所だったともいえる。集落の分布状況から、弥生中期にかけて、北部九州 - 瀬戸内沿岸 - 畿内の地域間で軍事衝突を伴う政治的紛争が絶えなかったことが推察されている。豊中市勝部遺跡の木棺から石槍が背に刺さった遺体や石鏃を数本打ち込まれたらしい遺体も発見されている。これらの遺体は争乱の犠牲者とみられる。

 このように弥生時代中期(BC200年頃から紀元前後)が戦乱状態にあったことをうかがわせる遺跡が頻出するのである。多量の渡来人が日本列島に上陸し、人口密度が高くなったうえに、各集落が財産を持つようになり、貧富の差が生じた。また、先に住んでいる集落の所に後から、別の人々が上陸してきて、先住の人々との争いが起こったことも考えられる。中部瀬戸内から大阪湾岸地域の高地性集落は先住の集団と、後からやってきた集団との戦いに備えたものであろうことが予想される。

 それぞれの地域で、最も強い集団が他の集団を従えるようになり、小国家が形成されるようになってきた。各小国家には指導力に優れた首長(王)が存在しており、その首長が権力を持つようになってきた。まさに、日本列島が戦乱の時代になってきたのである。

 飛騨王朝の対策

 飛騨王朝はこの状況を黙ってみていることは考えられない。何か対策を打っていると思われる。まず一つは、弥生系集落が伊勢湾岸でストップしており、そこから東へ移動が止まっているのである。この地域は、未だ戦乱状況にはなっていないが、何もしなければ、戦乱地域が東日本に広がっていくことが予想された。そのために、それまで推進してきた東日本地域への弥生文化の伝搬にストップをかけたものであろう。この地域の弥生人は飛騨王朝の縄文連絡網に参加しており、飛騨王朝の指示に従ったものと考えられる。

 「戦乱地域を広げないこと」。これが、第一の対策として実施したものであろう。しかし、これだけでは、戦乱は収まらない。飛騨王朝に圧倒的戦力があれば、警察の役割として戦乱を収めることができるが、戦力的には弱小と言える。飛騨王朝の最大の長所は、縄文連絡網である。日本列島全体のどこで何が起こっているかをほぼ確実に把握していたのである。そのため、戦乱地域に先進遺跡を作ることは可能であったと思われる。その遺跡を中心として、その周辺でのいさかいの仲裁をしていたのではないかと思われる。

 その遺跡の一つとして考えられるのが、唐古・鍵遺跡である。この遺跡はピラミッドとされている三輪山山頂から冬至の日の日の出が見られる位置にあり、飛騨王朝の特質を強く持っている。また、東日本地域との交流が激しく、東日本地域との情報交換が頻繁に行われていたことが推察される。その上に楼閣などの最新鋭と思われる設備を備えており、縄文連絡網を通して最新情報も手に入れていたと思われる。飛騨王朝直轄の遺跡と思われる。

 他の地域では未だ見つけていないが、このような、拠点を作り、周辺地域の平和と安定に尽くしていたと考えられる。しかし、このような手を打っても、戦乱の嵐は避けられず、飛騨王朝は次第に追い込まれていったものと考えられる。

 移動禁止の解除 

 伊勢湾岸地域までは弥生文化が浸透していたが、そこから東は弥生文化の浸透がストップしていた。これは、西日本地域で小国家が乱立し、戦乱状態になったため、この状態が東日本地域に広がるのを防ぐために、飛騨王朝側が東への移動をストップしたためと考えられる。

 しかし、BC150年ごろになると、中国大陸からの渡来人が減少してきて、新しく戦乱地域が広がる懸念が少なくなってきた。水田稲作は食糧の安定確保に重要であることが飛騨王朝側も理解してきたので、関東地方への移動を推進した。その結果、誕生したのが神奈川県の中里遺跡である。

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