大山祇命倭国降臨

 厳島を出発した饒速日尊一行は、饒速日尊と大山祇命は九州にたどり着いた。上陸地は素戔嗚尊が倭国の首都建設をしていた安心院に近い宇佐神宮の地と考えられる。大山祇命は飛騨国王家の皇太子であり、ここで初めて素戔嗚尊と高皇産霊神と初めて顔合わせをしたものと考えられる。

 彼らは早速日本列島統一実現のための会議を開き、今後の手順について話し合ったことが想像される。この中で話し合われた決定事項で最も重要だったのは、倭国・飛騨国双方の地を受け継いでいる饒速日尊が大和に天孫降臨をしヒノモト国を建国し東日本地域を統一する。その後倭国との大合併を行い、日本列島を統一するという大まかなスケジュールの構築だったと思われる。

 天孫降臨の決定

 倭国主導で日本列島が統一されることは歴史と伝統を持っている飛騨国としては認められるはずがない。飛騨国としても巨大な組織となった倭国無視で統一事業は実行できないことが分かっていた。双方の立場を尊重するには東日本地域に別の国を作り、倭国との大合併しか方法がなかったのである。

 そこで、飛騨国の王位を継承するには血筋が重要だった。東日本地域にも弥生人が数多く移住しており、飛騨国自身が東日本地域を統一することはできなかったと思われる。東日本地域は縄文人が数多くいたが、弥生人も数多くおり、両者をまとめるには、飛騨国の血を受け継いだ弥生の先進技術を持った人物がその統治者となる必要があった。その最適の人物が饒速日尊だったのである。

 饒速日尊の父は素戔嗚尊で弥生系の人物であるが、母は飛騨国ウガヤ朝67代春建日姫の妹である神大市姫である。また、饒速日尊の妻は飛騨国皇太子大山祇命の娘天知迦流美豆比売である。饒速日尊は縄文系飛騨国王家との関係が極めて深く、さらに倭国創始者素戔嗚尊の子として倭国建国に深くかかわっている人物である。東日本地域統一の先導者になるにはこれ以上の人物はいなかった。

 東日本地域を統一するには高度な先進技術を持った人物が多量に必要であり、また、それらの人たちを統率して動かなければならなかった、そのためには倭国創始者の子であるという饒速日尊の存在は大きかったといえる。素戔嗚尊としては饒速日尊を倭国の後継者として考えていたと思われるが、日本列島統一事業を実現するにはやむを得なかったのであろう。

 大阪湾岸地域は東日本地域でもかなりの先進地域であり、これらの人々をの国々を統一するには、先進技術を持った若者が必要であった。この頃の人々は小集団内のみで子孫を作っていくと、組織としての生命力が次第に低下することを本能的に知っており、ふらりとやってきた若い有能な人物と小集団内の娘と結婚させ、新しい血を小集団内に入れるということをやっていた。このふらりとやってくる有能な人物を当時の人々はマレビトと呼んでおり、マレビトはそれ程多くなく、貴重な存在であった。

 大阪湾岸統一にこの風習を利用しようということになった。饒速日尊が有能なマレビトを倭国内からかき集め、それらの人物を統率して東日本地域に送り込み、マレビト同士の連携網を維持して、統一国家の必要性を訴えていき、東日本地域の統一を実現することが考え出された。

 ここで、饒速日尊の天孫降臨が決定し、饒速日尊は先進技術を持った若者(マレビト)をかき集めることにした。

 将来の日本列島統一者に縄文男系の血を入れるには

 そこで、大山祇命がこだわったのが、統一王朝ができた時の統治者に飛騨国王家の男系の血が入れられるかどうかである。饒速日尊は弥生系の素戔嗚尊の子なので、男系では弥生系である。饒速日尊が東日本統治者となり、倭国との合併後の王家につながるのであれば、飛騨国の血は女系となってしまう。

 倭国の統治者も素戔嗚尊の血筋の後継者となれば、倭国の方も女系としてしか継承できなくなる。男系として継承させるには自らの子をヒノモトか倭国の後継者にしなければならないが、饒速日尊の方は動かしがたい事実となるので、倭国の後継者に自らの血を入れるしかなかった。

 倭国の統治者は素戔嗚尊であるが、先進技術を持って倭国統率をしているのは徐福系の高皇産霊尊であった。順当に行けば素戔嗚尊の子が倭国の後継者になるが、その候補者が出雲と九州にいた。出雲では須佐神社の地に住んでいる須世理姫、九州では天忍穂耳尊・天穂日命が考えられた。

 倭国に縄文男系の血を入れるのもかなり厳しいと言わざるを得ない。素戔嗚尊や高皇産霊尊に直接訴えても、受け入れてもらえるとは思えない。下手をすると、女系として入れることすら難しくなる可能性があった。

 このとき、大山祇命は縄文連絡網により、倭国には出雲と九州に確執があることを見抜いていた。出雲、九州それぞれに後継者候補がいるのである。末子相続の原則によれば、九州の天穂日命であるが、この当時生まれたばかりである。素戔嗚尊はその当時(AD20年ごろ)すでに高齢(60歳前後)であり、後継者が成長するまでにそれを補佐する人物が必要になるはずである。その人物は高皇産霊尊以外にはいない。その高皇産霊尊も高齢(50歳前後)なので、高皇産霊尊の後継者として自らが行動できれば、倭国に飛騨国王家男系の血を入れることも可能になるのではないかと思われた。

 弥生系の人々は緊急避難で海外からやってきた人々なので、そこまで血筋を重視していない。飛騨国王男系の血を入れることができるのは倭国の方であろうと考えた。素戔嗚尊自体後継者は饒速日尊と決めていたであろうが、天孫降臨することになったので、次の候補者がいない状況である。補佐役になるであろう高皇産霊尊の養子となることができれば、倭国に男系の血を入れることができると考えたのではないだろうか。

 縄文人は弥生人の小国にマレビトとして入り込んでいた

 青谷上寺地遺跡で発掘された32体のうち母系を調べると、31体が弥生系で、1体が縄文系であった。そのほとんどが弥生系であることを示していたが、後に父系を調べると驚くべきことが起こっていた。保存状態の良い4体の父系Y染色体を調べたところ、そのうち3体が縄文系で弥生系は1体であった。青谷上寺地遺跡の謎を推理する

 この遺跡以外を調べても、現代人の遺伝子を調べると88%が弥生系と言われているが、Y染色体の縄文系D1a2型を持っている現代人は3割を超えている。当時の弥生時代の古代人は父系が縄文系、母系が弥生系(渡来人系)であることが一般的だったようである。どうしてこのようなことが起こったのであろうか。

 一般的に考えられるのが、侵略集団によって、男は殺され、女のみが生き延びたという場合であるが、縄文人集団によって、渡来人の男たちが殺されたとは考えにくい。この理由として考えられるのが、縄文連絡網を利用した縄文人たちの防衛策である。

 飛騨国としては、九州地方に数多く上陸し始めた渡来人たちは警戒対象であった。渡来人たちの高度な技術には太刀打ちできるものではなく、そのうち縄文人たちは駆逐されてしまう危険性が考えられた。縄文人たちは、縄文連絡網を使い、上陸してきた新しい集団にマレビトを送り込み、縄文集団の一員として取り込んでいったのではないかということである。

 飛騨国としては渡来人対策は死活問題だったので、必死に対策を考えたと思われる。それが、マレビト作戦ではないだろうか。新しく上陸してきた渡来人集団も慣れない土地で不安だったと思われる。そう言った時に縄文人たちが、マレビトとしてやってきて、色々と手助けしてくれれば、集団内の娘と結婚し、組織の一員として受け入れることは十分に可能である。

 縄文系遺物の分布は、縄文人たちは日本列島内の交流が活発であることを意味しており、縄文連絡網も十分機能していたと考えられる。縄文連絡網を使って新しい上陸集団がいるという情報をつかむと、近くにいた縄文人たちからマレビトが選ばれ、その上陸集団に入り込むということを積極的に行っていたのではないだろうか。中には失敗することもあったであろうが、かなりの縄文人が渡来集団内に入り込むことに成功したと推定する。その結果、母系が弥生系で父系が縄文系であるという奇怪な現象が起こったと考えれば説明ができる。しかし、弥生時代中期以降多量の上陸集団がいた場合、この方法は通用せず、マレビトが入り込めなかった集団も多かったのであろう。大山祇命はそのことを知っていたため、高皇産霊尊の先進技術を用いて大阪湾岸地方にマレビトを送り込むことを考え付くことができたと思われる。

 大山祇命が高皇産霊神となる。 

 徐福の子孫である高皇産霊尊の子と思われるのが、思兼命、天太玉命、天忍日命である。いずれも天孫降臨に随伴した人物である。他に栲幡千千姫命と三穂津姫が伝えられているが、栲幡千千姫命はAD20年ごろに誕生した天忍穂耳尊の妻となり、三穂津姫はAD50年ごろ饒速日尊と結婚しているので、AD20年~30年ごろの生誕と思われ、高皇産霊尊の娘とするには年が離れすぎているのである。

 高皇産霊尊の子はすべて天孫降臨しており、高天原(九州)に後継者が残っていないのである。記紀神話では天岩戸以降、天照大御神とともに登場してくる高皇産霊神に該当する人物がいなくなるのである。この高皇産霊神とは何者かが重要である。

 天照大神(日向津姫)はAD30年ごろ以降、日向国西都に拠点を置いていたと考えられるが、記紀神話で共に登場する高皇産霊神に関する神社伝承が全く見つからないのである。ともに登場するということは共に住んでいると思われ、西都周辺に高皇産霊神に関する伝承がなければならないはずである。抹殺されたにしてもそれをにおわせる痕跡が残っているものではあるが、それすら全くない。

 このような原因として、高皇産霊神は別の人物の影であるということが考えられる。日向地方で高皇産霊神と同じような立場にある人物が大山祇命である。日向二宮である西都市の都万神社の祭神が木花咲夜姫でその父が大山祇命となっている。西都市は日向津姫が拠点としていた土地であり、その中心神社に祭られているのは日向津姫のはずである。そこで、木花咲夜姫=日向津姫という図式ができる。とすると大山祇命は姫と関係が深い高皇産霊神となるのである。

 徐福系の高皇産霊尊は日向津姫が西都にいたAD50年ごろには80歳を超える年齢となっていたはずで、すでに亡くなっていたと考えたほうが自然である。高皇産霊神は高皇産霊尊の後継者と考えられる。飛騨系の大山祇命は徐福系の高皇産霊尊の養子になったのではないだろうか。

 倭国王に男系の縄文の血を入れようとしている大山祇命は、倭国の補佐役をしている高皇産霊尊の娘と結婚し、高皇産霊神の称号を得たのではないだろうか。高皇産霊尊の方も飛騨国の皇太子がマレビトとして入り込むのはこの上ない名誉なことであるとして快諾し、高皇産霊尊の後継者として認知したのではないだろうか。

 高皇産霊神とこの娘との間にできたのが、天忍穂耳尊の妻となった栲幡千千姫命であろう。天忍穂耳尊は素戔嗚尊と日向津姫との間の子であるため、縄文の血が入っていないので、高皇産霊神は自らの娘と結婚させたのであろう。

 その後の大山祇命

 高皇産霊神となった大山祇命は、AD25年ごろの饒速日尊の天孫降臨を主導し、その後、出雲に去った素戔嗚尊の代わりに日向津姫と結婚し、その子孫から大和朝廷始祖となる神武天皇が誕生し、統一王朝に男系の縄文の血を入れることに成功したのである。

 高皇産霊神は国譲りが完了するまで九州に拠点を置き、AD50年ごろ、大和に降臨し、葛城山高天彦神社の地に拠点を構え、後継者である賀茂健角身命に飛騨王位を譲った後、飛騨国に戻り亡くなったと考えられる。

 九州に拠点を置いているときも、饒速日尊とともに東日本統一事業に参加していたと思われる。

  会議後の人物の役割

 饒速日尊

 東日本地域の大和に天孫降臨するための先進技術を持っているマレビトを倭国各地からかき集め、天孫降臨団を編成する。

 天知迦流美豆比売

 厳島に戻り、安芸国安定統治に尽力する。

 素戔嗚尊

 倭国を巡回するとともに、首都建設に力を入れる。

 日向津姫

 妻垣神社の地で素戔嗚尊との間にできた、市杵島姫・天忍穂耳尊・天穂日尊を育てる。

 高皇産霊尊

 秦徐福から引き継いだ先進技術を倭国内に広める。

 伊弉諾尊

 統一直後の紀伊国を安定統治させ、近江国の統一を図り、饒速日尊が天孫降臨を成功させるための下準備をしておく。

 伊弉冉尊

 素戔嗚尊母国の出雲に赴き、製鉄技術を広め、製鉄事業を起こす。

 大山祇命

 倭国内を巡回し、倭国の重要人物と血縁関係を作り、将来の大合併に備える。

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