瓊々杵尊薩摩半島へ

 南九州統一へ

 AD65年頃より、倭国と日本国との合併協議が始まった。互いの後継者を結婚させることにより、日本列島を一つの統一国家の元で統治するという構想である。素盞嗚尊以来の最終目標であり、当時の人々はこの目的達成のために努力をしていた。
 合併協議を進めるにあたって、南九州南端部(大隅半島、薩摩半島、狗奴国)が未統一であるのが、一つの生涯であった。日向津姫は三皇子が成長するのを待って統一をする予定であった。AD65年頃になり、三皇子は地方巡回も済ませ、経験を積んできたので、三皇子二南九州南端部の統一をさせようと計画した。 瓊々杵尊は薩摩半島部、日子穂々出見尊は日南地方、鵜茅草葺不合尊は大隅半島部と統一予定地域が決定し、それぞれの地域に三皇子を下すこととなった。

 北九州からの帰還

 大御神社 日向市大字日知屋1 祭神 天照大神
当社に伝わる「神明記」その他の古文書によれば、往古・皇大御神・日向の国高千穂に皇孫瓊々杵尊を天降(あまくだ)し給うた節、尊は当地を御通過遊ばされ、千畳敷の盤石にて、これより絶景の大海原を眺望され、皇祖天照大御神を奉祀して平安を祈念されたと伝えられ、後世、此の御殿の霊石の在りし所に一字を建て、皇大御神を勧請し村中の鎮守と崇敬し奉ると言う。<平成祭データ>

 瓊々杵尊、磐長姫と離別

 飛騨国王との協定により、三皇子はいずれも飛騨王家の娘と結婚することになっていた。日子穂々出見尊、鵜茅草葺不合尊に関しては、すでに結婚済みである。しかしながら、瓊々杵尊に関しては、話が決まった時すでに磐長姫と結婚していたということと、北九州を統治する予定だった天忍穂耳尊が急死したこともあり、北九州統治のために急遽北九州に赴いてしまい、瓊々杵尊と飛騨国の娘との結婚はのびのびとなっていた。


瓊々杵尊関連地図

 飛騨国の娘と結婚するためには結婚20年ほどとなる磐長姫と離別させなければならなかった。瓊々杵尊は北九州から戻ってくると同時に、妻の磐長姫を奈古に返すことになった。奈古の磐長姫の父は瓊々杵尊を恨んだ。米良神社の伝承によると磐長姫は慙愧に堪えず家を去り一ノ瀬川を遡って米良神社(西米良村小川)の地にたどり着き、御池の淵に身を投じて逝去した。と言い伝えられている。磐長姫が奈古神社の位置から北に出たとすると、この伝承の通りになるのである。

米良神社の伝承
「伝説によれば天孫降臨の際、瓊々杵尊が美女を見そめ父大山祇命に請われたところ父大山祇命は磐長姫と妹の木花開耶姫の二人を奉ると申し出られた。然るに瓊々杵尊は木花開耶姫を留め、姉磐長姫は醜いため返し給えることになった。磐長姫は棺の底より櫃の底より鏡を取り出し、わが顔を見られ、はじめてわが顔の醜きを知られ、家を去られこの五十川(今の一ッ瀬川)を伝い上られ米良の小川の里に住まわれていたが、ついに悲観のあまり御池の淵に身を投じ薨ぜられた。村人これを憐れみ一宇を建立し祀ったという。
 以後、髪長姫は隠れ神として人をいみ給うことになり、本殿のある神山には神宮の外の者の入ることをきらい、殊に女人は絶対に立ち入ることを禁じられて今日に至った。また、当神社には神宝として、髪長姫のものという毛髪があったが、元禄十六年五月七日洪水が起こり山は崩れ、、川は氾濫し、社も川上へ漂上した。
 川水が引くにつれて社も静かに川下に下り、留まったので、この地に拝殿を建立したという。これがすなわち現在の拝殿である。」

 銀鏡神社 西都市銀鏡
磐長姫が鏡に映った自分の醜い容姿を嘆くあまり、遠くに投げたと伝えられる鏡をご神体として祀っている。磐長姫に投げられた鏡は竜房山の頂上の大木に引っかかり、麓の村を明るく照らしたのでそこを白見村と言うようになり、その鏡が銀の鏡だったことから後に「銀鏡」の名が付いたといわれている。

米良神社 銀鏡神社
髪長姫終焉地 髪長姫の鏡を神宝としている神社

 髪長姫は国の統一のためやむなく瓊々杵尊と別れはしたが、相当つらいものであったらしく、山奥に引きこもってしまわれたようである。

 天孫降臨

 天孫降臨とは何であろうか。北の高千穂町の方は瓊々杵尊の生誕を天孫降臨と解釈した。霧島連峰の1つである高千穂峰も天孫降臨伝承をもっている。高千穂峰は山頂には、瓊々杵尊が降臨したときに峰に突き立てたとされる、青銅製の天逆鉾が立っており、山岳信仰の舞台となった。かつて、山中には霧島峯神社が鎮座したが、噴火により社殿が焼失した。このため、山麓の鹿児島県側に霧島神宮、宮崎県側に霧島東神社、狭野神社などに分社したとされる。これは古代から高千穂峰に相当強い執着があったことを意味しており、単なる伝承では済まされない強い歴史的事実が存在するのは間違いないであろう。
 高千穂峰は標高1574mで霧島連峰第二の高峰で東端にある。山頂より宮崎平野一帯、鹿児島の錦江湾一帯を一望でき、国見には最高の山であろう。地図のない古代の南九州一帯を統治するには周辺の地理的状態を把握しなければならないがそのために、国を一望するには最高の条件を備えた山には違いない。おそらく、当時の支配者たちは国見のために頻繁に高千穂峰山頂に登り、そこで祭祀をしたのであろう。霧島峯神社には日向三代すべての人物が祀られており、都の跡だと言い伝えられている。これも、ここからきているものではないだろうか。
 瓊々杵尊が国分のムカツヒメのところにあいさつに行く途中、高千穂峰に登って今後の統一事業の成功を祈って山頂に天逆鉾を立てて祭祀を行ったと推定される。これが高千穂峰の天孫降臨ではないだろうか。

胸副坂 霧島神宮駅裏 古代より国分から霧島神宮に参拝する旧道である。瓊々杵尊はこの旧道を通ったと伝える。
春山牧 霧島市国分重久春山原 天孫降臨の時、天斑駒の遺裔である良馬を携え給ひ霧島山中の原野に放牧せられた駒が繁殖して良質の馬族となり、神武天皇の御馬料となし給ふた原で御牧と申し伝える
天孫牧 鹿児島空港周辺 八重山部落(溝辺町麓の東北)は神代瓊々杵尊の牧場であった。ここは神馬の産地として知られていた。この馬は立髪が長く、尾は地まで着き、脚が強くてどんな登り坂でも登ることができたという。

 磐長姫と別れた瓊々杵尊は奈古から大淀川沿いに都城を抜け、高千穂峰で天の逆鉾を立てて祭礼をした後、鹿児島県霧島町胸副坂(霧島神宮駅の近く・瓊々杵尊通過伝承あり)をとおり、国分で日向津姫に挨拶した。このとき、馬を育てるため天孫牧、春山牧を作ったものであろう。
このとき日向津姫から後に天壌無窮の神勅と言われる命を受けたと考えられる。
「豊葦原の千五百秋の瑞穂の國は、これ吾が子孫の王たるべき地なり。
 爾皇孫、就きて治らせ。行矣。
 寶祚の隆えまさむこと、當に天壤と窮まりなかるべし」
(日本書紀巻二)
 この神勅は当然そのままではなく日本書紀編纂時に書き換えられていると思われるが、おそらく、「大隅・薩摩半島部の諸国を統一せよ。」というような意味があったものではあるまいか。

 鵜茅草葺不合尊と会合

 瓊々杵尊が国分を通過後古江港を出港するまでの行動を示すと思われる伝承は下のとおりである。

仰谷御崎殿 鹿屋市百引 瓊々杵尊天孫牧より出で、仰谷御崎殿を御通過ありて鹿屋市祓川に出で、古江浦に至らせ給うと伝える。京田、御納戸、キリシマクワンジョも又由緒の地と伝えらる。
高千穂神社 鹿屋市花岡町 瓊々杵尊霧島山に降臨の後滞在した所と伝える。神社の西に小池あり、瓊々杵尊がこの水を使用したと伝える。神社の南境内に霧島松がある。ここが瓊々杵尊の宮跡と伝える。
 東に小丘あり、柴立という。この地に瓊々杵尊が降臨したと伝える。
年貫神社 鹿屋市南町436 神代、瓊瓊杵尊御巡行の砌、土窟(社有地内)に於いて年を迎えられたので年貫と称すという。
神石 鹿屋市古江港 古江港の浜辺にある。高さ三尺の岩石にて、此処より笠沙の御崎に行幸遊ばされたと伝える。

 この地に滞在後、大隅半島を南下して鹿屋市花岡の高千穂神社の地に滞在した。このときの経路は海上ではなく陸路である。福山辺りからほぼ現在の国道504号線に沿って鹿屋市の祓川まで移動している。海路のほうが楽なのに、陸路を通っているのは周辺住民の視察のためであろう。この当時大隅半島はまだ完全には倭国に加盟しておらず、この経路の国々はこの瓊々杵尊の巡幸にて加盟したのかもしれない。高千穂神社滞在後、東に向かい年貫神社の地を通過した。この地は肝属川の上流にあたり、北東に5km程川を下ると、鵜茅草葺不合尊のこの当時の宮である西州宮(桜迫神社)があるところとなる。瓊々杵尊のこの巡幸は鵜茅草葺不合尊に会うことにあったのではないかと考えられる。鵜茅草葺不合尊と連絡し合う何かがあったのであろう。この後、高千穂神社の位置に戻り、、古江港から薩摩半島めがけて出港した。67年ごろのことである。

 木花咲耶姫との出会い

山川町の神話
 神代の昔、高千穂の宮にいた瓊々杵尊は、大隅の古江から舟に乗って無瀬浜に着いた。供には道案内の猿田彦たちを連れ、かめ割り坂を経て別れ浜の橋(桜井神社近く)に差し掛かった。この橋の上で、瓊々杵尊は美しい乙女に出会った。尊が名前を尋ねると、「私は大山祗神の娘で、木花咲耶姫と申します」と答えた。木花咲耶姫は、気品のある花の精のような乙女であった。尊と姫は互いに強く心をひかれ、むつまじい仲になっていったが、尊は旅を急がなければならなかったのである。吾田の笠狭宮への大事な使命をもっていた。別れの目、二人は再会を誓い名残りを惜しんだ。

 桜井神社 鹿児島県指宿市山川大山3339
瓊々杵尊が薩摩にお降りの際、山川の無瀬浜に御上陸になった。そのとき大山に二人の姉妹があった。姉は醜く妹は美しかった。妹をこの国の案内役として望み、仲睦まじく暮した。命は再び東方に御還り遊ばすことになった。姉妹は大山に止まり涙をもって御見送り申し上げた。現在別れの浜といい、間もなく姉はこの地で亡くなられたので、桜井神社に祀られ、妹のほうは開聞の地に移動しその地で亡くなった。開聞神社に祀られている。

 これらの伝承をもとにして、瓊々杵尊の経路を推定してみると、大隅の古江港を出港後、一度船を大山崎に附けた。海岸に沿って南下し長崎鼻を通って無頼浜に上陸した。瓊々杵尊と木花咲耶姫がであったといわれる桜井神社の地は無頼浜から北北東に4.5km程のところである。豊玉彦の本拠地だった枚聞神社の方向とは逆方向である。たまたま出会ったというよりは合うのを目的に桜井神社の方に行ったという感じである。

 桜井神社の地に住んでいた大山祇命と木花咲耶姫は飛騨国から瓊々杵尊と結婚することを目的としてこの地にやってきていたものと推定している。豊玉彦一行と同時にやってきたのか、後からやってきたのか定かではないが、豊玉彦の娘が結婚してから15年ほどたっていることから推察して後からやってきたものと考えられる。

 瓊々杵尊の赴任地は加世田方面で、薩摩半島西側の諸地域の統一が目的である。瓊々杵尊と木花咲耶姫はここで、結婚の意思確認をして、瓊々杵尊はこの地を出発した。大山祇命と木花咲耶姫は加世田で結婚するために、先回りして加世田方面に出発したのであろう。

 大山の地にしばらく滞在し、その間に開聞、頴娃郷を巡幸しているようである。この地は15年ほど前日子穂穂出見尊や鵜茅草葺不合尊が滞在していたところである。

 前後の神話伝承と照合すると以上のようになる。

大山崎 指宿市大山崎 瓊々杵尊古江より出港され、御船をこの地に寄せ給いし所、これより周辺を揖宿と云う。
その後、山川に渡ったので、その間を大渡と云うようになった。
桜井神社 指宿市大山  瓊々杵尊は巡狩なし給わんと国見しつつ頴娃郷に行去り坐して平に来りき。是処美国の好哉。可愛の郷と見へたり。然れば開聞は平処来りきの約言なるべし。

宮の山

 しばらく滞在後加世田の方へ向けて海岸沿いに舟を進めていると、嵐にあったためか黒瀬海岸の少し西に打ち上げられた。神渡の塩焚の翁に助けられ、この近くの宮の山にしばらく滞在することになった。

 瓊々杵尊の宮跡と伝えられている宮の山は宮の山遺跡として知られている場所であり、その傾斜地上下4か所に巨岩で覆われた岩窟がある。窟内は数十畳の広さがあり幾分人工的加工が加えられた跡がある。また、この付近には割り石と思われる石を積み上げた小丘がある。この付近一帯は現在では疎林であるが、往古は相当の森林であったと推定されている。宮の山・堂の峰・宮の床付近には石器や弥生式土器の出土品が多く、この時代に人が住んでいたことは間違いがないことである。周辺の最高峰である野間岳に瓊々杵尊が登り周辺の国見をしたと伝えられている。ここは急傾斜地であり、長期滞在には不向きであり、周辺の状況を探るためにしばらく滞在していたと考えられる。

立瀬と舞瀬 神渡の西方 神渡の西方磯辺にある立瀬は天孫御巡幸の際お立ちの処、舞瀬は同じく舞をみそなはされた処と伝える。
神渡 笠沙黒瀬海岸 瓊々杵尊初め舟に乗り給ひ神渡の少し西方磯辺に打ち寄せられしを、塩焚の翁かしつき奉り己れか塩屋に入れ参らせ塩俵の上に鹿の皮を敷き御座させ奉る。
誌の石 黒瀬海岸 黒瀬海岸上方水田中にある。これは天孫を導き奉った塩焚の翁が塩浜の舊跡であると云い伝えている。
宮の山 宮の山遺跡 天孫瓊々杵尊、御巡幸最初の宮居である。笠沙宮の古祉と伝えられる。古老の伝承「あな尊き貴方よ。此処に暫く憩ひ遊ばせ」とて、一大岩窟の中に己の抜いた茅を敷いて休ませ申した」
 近くの門山は宮門の跡、池平及池と呼ぶ地はよく清水の湧き出た処で、この水を神々がご使用になったと伝える。
船ヶ崎 宮の山西方 宮山の西方海岸で神代のころ舟の発着所であった。魚の形のある巨岩は神々が魚釣りをなされた時、釣り上げた魚を投げつけなされた跡である。
瀬戸山 宮山の西方 宮山の西方瀬戸山には天孫御遷幸の際、命の御杖より生じたという鈴?(しのたけ)という竹がある。
宮之床 野間岳 野間岳堂峰の足下祓川の上流にあって、日受けやすく厳冬寒さを知らぬ処で、付近には熱帯植物「へご」が自生している。ここは天孫が宮居されたところで、吾田津姫が皇子を御降誕遊ばされたと伝える。
神憩場 赤生木 昔、諸神が野間岳と宮山との間を往復の途次御休憩遊ばされた処と言い伝える。
股覗石 赤生木 野間岳と宮山の中間小高き所にあって、昔神々がここを通過の際大洋を股下より覗かれた処と言い伝えている。
池の田 片浦 小浦より突出した半島にあって、往古野間岳の神がこの田の水を御使用になったという。そして、この田には肥料を使用してはならぬと伝え、現在まで使用しないという。
宮園 大浦 大浦にあって、元九玉神社を祀っていた。宮園は往古宮殿、上の門は宮門の遺蹟と伝えられている。天孫の此処より久志地を経て津貫を越えて行かれたとも云う。津貫は神々が御通りになった処で、大浦の海が奥深く入りこんでいた際、海より同所を越えられたから津貫という。
花立の腰掛岩 赤生木 赤生木の花立にある巨石で、この巨石は天孫が御腰掛になったと伝えられている。
会合 内布 瓊々杵尊、この地にて木花開耶姫と御会いなされしと伝承す。また相川とも書けり。

 

宮の山遺跡入口 黒埼海岸
瓊々杵尊最初の宮跡 瓊々杵尊上陸伝承地

 しばらく滞在後黒瀬から祓川に沿って下り小浦から宮園に移動して宮を作った。宮園で加世田の様子を探りながら、内布に赴いたところ、吾田津姫と再会した。宮園から久志地、津貫を経由して、舞敷野に移動し宮を作った。是が笠沙宮である。ここで、新婚生活をした。加世田一帯を倭国に加盟させることに成功した。

舞敷野

高倉・大倉野 笠沙宮在りし頃の御蔵在りし地とつたえられる。
霧島殿 瓊々杵尊が下山田の霧島殿に御降りになり、大谷川で禊身を遊ばされたとも、此処で、皇子を御産みになられたとも伝えられている。
舞敷野 瓊々杵尊皇居の跡と伝える。周辺に神人の宅地跡あり
立神川 流域に船繋石、長持石、腰掛石、立神などの瓊々杵尊関連伝承地あり

 舞敷野の御座屋敷と呼ぶ地には笠沙宮跡の石碑が建っている。この地が瓊々杵尊の宮跡である。その南方に標高271mの竹屋ヶ尾という山がある。此処が彦火火出見尊の生誕伝承地である。その頂上は北方遥かに金峰山を、西には長屋山を望み、加世田平野は一望の中にある。彦火火出見尊誕生時の無戸室の柱石と称するものが現存している。また、日本書紀の記述の「高千穂の峰に降り立った瓊々杵尊は、吾田の笠狭御崎の、木花咲耶姫を嫁とり山幸彦ほか2尊を生み、竹刀で臍の緒を切り、捨てた竹刀はのちに竹林になった。その場所を竹屋と言う。の元となった竹林がヘラ山と称せられて現存している。往古は山峰に竹屋神社があって鷹屋大明神と云っていた。
 彦火火出見尊は宮崎の高屋神社の地で誕生したと推定しているので、此処は彦火火出見尊の誕生地とはならない。彦火火出見尊は瓊々杵尊の弟であるが、皇子であると変更されたために、この地で誕生した瓊々杵尊の皇子が彦火火出見尊になったものであろう。瓊々杵尊は数年間は此処に滞在したものと考えられる。AD70年ごろであろう。

阿多の長狭(大山祇)

 阿多新山字山角の小山の上に大山祇神社があって、大山祇神を祀っているがこの神社は最古の大山祇神社といわれている。その東方の標高200mの山上にメンヒルと称せられる巨岩が存在し、神代の遺蹟と伝えられている。ここは瓊々杵尊の休息の跡と言い伝えられており、この山麓に大山祇神の宮跡と伝えられているところがある。近くに貝塚があり、弥生式土器・石器・獣骨が出土している。ここに阿多の長狭(大山祇)が住んでいたのであろう。瓊々杵尊の宮跡が宮の山・宮園・舞敷野と周辺を転々としており、なかなか中心地域に入れない状態が伺われる。この地域の豪族との倭国加盟交渉が長引いたためであろう。

後の笠沙宮

頓丘石 大山祇神の霊蹟といわれる山角の岡に登る中程の路傍に巨岩がある。これが頓丘石と呼ばれるもの。瓊々杵尊がここで休息されたとの伝承あり。
京田 肥沃な水田であるが、この地の米を南の笠沙宮へ奉納したので、京田と名付けられたという。
国見岩 亀山の頂にあり、瓊々杵尊笠沙に宮居ました頃、この岩に登り国見しましたと伝えている。
千本楠 宮内楠屋敷の千本楠は、瓊々杵尊お出ましの時、御持ち給うた楠の御杖を地中に挿し給うたものから芽を出したものと言い伝えている。
双子池 万瀬川改修前は不思議な神竹林が密生し、池も残っていて、双子池と呼んでいた。コノハナサクヤヒメがニニギ命の皇后として皇子をお産みになる時、この地に入口のない産屋をお造りになり、炎炎たる火炎の中で無事御分娩なされたので、その神竹林は竹刀で皇子の臍の緒を切られて後捨てられたのが生い茂ったものと言われていた。
伊佐野 南さつま市金峰町の旧阿多駅前辺りである。明治初年までは伊佐野権現があって、付近一帯は昔から神聖な処と畏れられたところであった。同所は神武天皇が日向に坐せられたころ、宮居あらせられた聖跡と伝えられている。

 舞敷野における加世田一帯の統治が軌道に乗ると、外部との交流のために立地条件の良い宮原に宮を移した。現在の竹屋神社の地である。73年ごろと思われる。この宮跡伝承地は万瀬川河口近くの台地にあり、船着場があったと思われる地にかなり近い場所である。また、すぐ近くに大山祇の宮跡伝承地があり、加世田の中心地といえる。此処にもストーンサークル、メンヒルなどの巨石の一団が存在している。この地に宮を移したということは海上交通の要であることから、加世田一帯の実権を握ったことを意味している。
 南さつま市金峰町宮崎字伊佐野に神武天皇滞在伝承地がある。神武天皇が大和に東遷の挨拶に来たものであろう。金峰町宮崎には他に山野、前山野と神武天皇関連伝承地がある。神武天皇がこの地に滞在したのは78年ごろと思われる。これにより78年の時点で瓊々杵尊は加世田にいたことがわかる。

 川内転居

市来湊 瓊々杵尊が笠沙宮を出発して、江の地方(川内)に向かわせ給わんとするや、瓊々杵尊は舟師を率いて、市来湊に寄港し、征船の用意を整え再び海路を取らせ給い、千台川を遡って沿岸の賊徒を退治遊ばされ、江の地方を平定し給うたと云うことである。
船間神社 瓊々杵尊は川内河口から入り給い、先ず此の島に暫し御船を留め、四方の賊を御平定になり民情を御視察遊ばされたと伝えらる。島の中腹に船間神社がある。祭神は瓊々杵尊に伴い、笠沙より御案内申した船頭がこの島で病死したのを葬り給うたと伝えている。
月屋山 瓊々杵尊湯の浦に御上陸になり、月屋山に御登りなされ明月を御覧あそばし感慨に浸り給うたと伝えている。
鏡野 皇孫川内川を遡航あらせられ、小倉に御出になると、賊共の反抗に遭い給い三種の神器も危うくなったので、八咫鏡を此処に埋めて難を避け給うたと伝えている。
京泊 瓊々杵尊が御出で遊ばされて、京都の如く栄える様にとの思し召しから京泊と命名遊ばされたといわれる。
汰宮 高江の近村に宮里と云うなり、里人伝えて天孫瓊々杵尊、高千穂峰に天孫天降し給いし後、此処に坐まし、大己貴命をして神亀山の宮地を観せしめ給いしに、勝れて清浄の地なれば、みづからその所に主張居れり、天孫復命の遅きを疑い、行てその状を見給うに己におのれ住居の地とせし程に、大に怒らせ給えば、命その威厳に懼れ後さまにすべり転べり。即神亀山の麓にして、今その所に大己貴神社あり、ゆえにそこなる流れをも、すべり川と名つく。新田宮の燈下忍穂井川の末流なり。
宮里 瓊々杵尊川内川を遡航し給い、宮里に宮居給うて川内川の北側を経営し給うが、大己貴命の反逆により一時宮里の宮居から都八幡に遷幸し仮宮遊ばされて平定に待ち給うたと伝えている。
 瓊々杵尊が川内に到着後臣民が献上した土地を「宮様が農事をなさる土地」ということから宮里と呼ぶようになったと伝えている。若宮八幡址が宮居の地と云われているが、現在近くの志奈尾神社に合祀されている。
都原 隈之城都原は、青垣山籠る清々しい台地で、瓊々杵尊を祭神と奉祀する宮古八幡が鎮座ましますが、此処は、天孫瓊々杵尊、御宮居の址と伝えられる。
宮ヶ原 瓊々杵尊御降臨あらせらるるや先ず此の地に宮居を御定め給うたと伝えている。
地頭館址 宮ヶ原の地は坂路の多い不便と飲料水に乏しいこととにより、後に此の地に御移り遊ばされたと言い伝えている。
屋形ヶ原 地頭館址の宮居の後、この屋形原に宮居したと伝えられる。現在この地に石碑が建っている。
御手洗池 新田神社に隣て瓊々杵尊の御杖が根付いたものと称せられるタブの木があったが今はその株から若木が出ている。隣に御手洗という池があって尊が御手をお洗いになった処と伝え、その屋敷を御手洗屋敷と称し村人は此処に家屋を建てないことにしている。
神亀山 瓊々杵尊最後の宮跡と伝えている。山頂部は可愛山稜で瓊々杵尊の御陵となっている。
蘭牟田 瓊々杵尊通過伝承地、瓊々杵尊は高千穂と川内を此処を通って往来したと伝える。近くの入来小学校周辺にも瓊々杵尊宮跡伝承地がある。

これらの伝承をもとに、瓊々杵尊の川内での行動を推定してみると以下のようになる。

80年ごろになり、加世田一帯が軌道に乗った。加世田を中心として周辺の地域を倭国に加盟させていったが、川内地方に強力な豪族がいて倭国に加盟することを拒否していた。川内地方を倭国に加盟させるためには近くに宮を移す必要を感じ宮を移す決心をした。阿多津姫とともに宮原の笠沙宮を出発した。戦闘も予想されるため途中市来湊に寄港し準備万端を整えて、川内川河口にたどり着いた。川内川河口の船間島にしばらく滞在して此の地の豪族で神亀山に本拠を置く大己貴命(出雲のオオクニヌシとは別人であろう)と倭国加盟の交渉をした。
 その時、船頭をしていた十郎大夫と呼ばれている人物が病死したので、船間神社に葬った。瓊々杵尊は船間島から湯の浦に上陸し月屋山から周辺を国見した。そして、川内川北岸に沿ってこ大己貴命の本拠地向けて進撃している時、小倉で大己貴軍に遮られ危機に陥った。ムカツヒメから授かった八咫鏡を一時隠匿して難を逃れた。この八咫鏡は三種の神器とされている鏡ではないと予想している。再び船間島に避難し再び機をうかがうことにした。
 大己貴軍は強敵でありこれを打ち破るのは簡単ではないと思い知った瓊々杵尊は大己貴命に虐げられている周辺住民を取り込むことにした。川内川南岸の神亀山の対岸である宮里の住民が協力を申し出たので、宮里の若宮八幡神社の地に宮を作り農業技術を伝えながらここを拠点として大己貴命と交渉をしたが、大己貴命軍に攻め込まれ、南の都原に避難した。都原に宮居しながら、周辺住民に先進技術を伝えながら味方につけて行った。神亀山の北側の住民も協力を申し出てきたので、宮ヶ原に宮居を移した。此の地は宮居としては不便な地なので、大己貴軍の動静を探りながらより神亀山に近い地頭館址に宮居を移した。
 ある日夜陰に乗じて神亀山のすぐ北にある屋形ヶ原に拠点を移し、神亀山の大己貴命を急襲した。激しい戦いの末大己貴命を神亀山の麓で誅することができた。これにより川内地方は統一され倭国に加盟することになった。瓊々杵尊は屋形ヶ原に宮居を置いていたが、暫く後に神亀山の宮を移し此処を本拠として川内地方一帯を治めた。統一完了したのは85年ごろと思われる。

 瓊々杵尊は川内地方統一後、彦火火出見尊が本拠を置く鹿児島神宮の地を何回か訪問しているようである。鹿児島神宮の地はこの頃の西倭国の都であり、佐野命(神武天皇)東遷後の第6代倭国王彦火火出見尊との連携は必要だったのであろう。伝承をもとにその経路を推定してみる。
 神亀山から川内川を遡り楠元町戸田より川内川の支流樋脇川にはいり、この川を遡って行く。暫く遡ると宮跡伝承のある入来に着く。此処から後川内川を遡と蘭牟田につく。此処が後川内川の最上流部であり、ここで、千貫岳の麓の峠を越えると田平川の最上流部に出る。この川に沿って下ると、別府川に合流し加治木町から鹿児島湾に出る。此処から鹿児島神宮まではすぐである。道のりは60kmほどであり、現在の地形を見ても自然な経路となっている。
 5年ほど此の地を統治した後90年ごろ瓊々杵尊はこの地で世を去った。65歳ほどであろう。彼は最後の宮の址の可愛山陵に葬られた。彼はこの後、さらに北を統一する予定であったろうが、この地で余命がなくなってしまったのである

宮原瓊々杵尊宮跡伝承地 屋形原瓊々杵尊宮跡伝承地 都八幡神社
宮跡伝承地、此処から神亀山に移動す
ニニギ上陸地の碑
  (笠沙町黒瀬神渡海岸)
笠沙宮跡
(加世田市)
可愛山陵
(川内市)

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日子穂々出見尊帰還と日向津姫の死
関連 飛騨国三娘日向に降臨
日向国の成長
南九州統一
日向津姫日向国へ帰還
倭国巡回
第3代倭国王誕生
日子穂々出見尊後漢への朝貢
瓊々杵尊北九州統治