縄文王朝の存在について

 大和朝廷について

 縄文時代、日本列島には縄文人が住んでいた。弥生時代が始まる直前の縄文晩期には縄文人の人口は全国で8万人ほどと言われており、それまでの寒冷化により人口が減少していた。生活が苦しい状況だったようである。

 このような時に、弥生時代が始まり、海外から多くの渡来人が上陸してくるようになった。渡来人は先進技術を持っており、縄文人を圧倒していった。弥生時代中期人骨を判別分析した結果によると、その中に含まれる縄文系弥生人の比率は10∼20%に留 まり、殆どが渡来系弥生人に置き換わっているのである。多数の渡来人の渡来があったうえに先進技術があるために、人口増加率が高く、このようなことになるのである。明らかに渡来人の方に圧倒的な勢いがある。

 北九州地方を中心として国が成立し、次第に巨大化していった。そして、渡来人の先進技術が次第に東に伝わり、多くの国々が連合を組み、その中から、最も勢力のあった近畿地方に大和朝廷が成立するのである。

 そのために、大和朝廷成立に関する様々な説は、そのことごとくが、「渡来人が建てた王朝である。」ということである。これは、常識と言えるであろう。どう考えても圧倒的に劣勢である縄文系の人物が大和朝廷を成立させるとは思えないのである。

 ところが、ここで、驚くべき情報が入ってきた。東山天皇の直系の子孫のY染色体ハプログループ(日本列島への人類の流入)が判明したのである。その結果、D1a2aであることが分かった。D1a2aは日本列島にしか存在しない縄文系のハプログループである。天皇家は万世一系の男系継承がされているので、それが正しければ、神武天皇は縄文人となる。すなわち、大和朝廷は縄文人が建てた王朝となるのである。

 圧倒的に劣勢であった縄文人が、圧倒的に優勢であり先進技術も持っている渡来人を差し置いて縄文人が、どのようにして大和朝廷を成立させたのであろうか。ふつうあり得ないと思えるような状況であるが、これは事実であるので、その背景を考えてみよう。

 日本の危機

 歴史時代になってから、圧倒的に不利になった状況から日本を守り抜いた事例を考えてみよう。その共通点から、大和朝廷の成立環境を考えてみることにする。その危機とは、
① 元寇 文永の役、弘安の役
② 鉄砲伝来
③ 明治維新
④ 日清・日露戦争
⑤ 太平洋戦争・大災害
上記の出来事は、いずれも、一歩間違えれば日本が滅亡するような危機であったといえる。しかし、いずれも、それを乗り切っている。その過程を分析してみよう。 

 ① 元寇

 元寇とは、中国大陸を征圧したモンゴル帝国(元)の皇帝クビライによる日本侵攻のことで、1274年(文永11年)の「文永の役」と、1281年(弘安4年)の「弘安の役」のことである。「蒙古襲来」ともいわれている。神風に救われたともいわれているが、実際は鎌倉武士団の奮戦で防御できたのが事実のようである。

 元軍は文永の役は4万、弘安の役は14万の兵力と言われており、相当な大兵力である。それを撃退できた最大の理由は、鎌倉武士の勇猛さにあった。元軍の記録では「日本兵は誰一人として死を怖れてはいない」と記録され、一隊の将が首でも取られようものなら、家来が命がけでその首を奪い返しにきたという。また、鎧を着用したまま平然と海を泳いで船に迫ってくる無尽蔵の体力にも驚かされたと記録にある。元軍の兵士たちはそうした鎌倉武士の勇猛さ剽悍さにすっかり恐怖心を覚えたのである。 

 鎌倉武士団の特徴は「勇猛」「団結」のようである。

 ② 鉄砲伝来

 1543年の鉄砲伝来そのものは外国との戦いではないが、この時、スペインが日本を植民地にしようと狙っていたのである。ポルトガルが種子島で鉄砲という兵器を伝えたが、ポルトガル人の目的は鉄砲で商売をしようと考えてのことである。ところが、当時の日本人は鉄砲をたちまち複製してしまい、さらにはさらに高性能なものに改造してしまったのである。当時戦国時代であったために、一挙に全国に広がってしまった。その兵力はスペインの兵力を超えてしまい、スペインは日本を植民地にすることをあきらめたのである。

 スペインやポルトガルの植民地にされた国の人々は鉄砲を複製するということはできなかった。なぜ、日本では鉄砲の複製ができたのであろうか。この答えは1549年のフランシスコ・ザビエルの記録にある。その記録によると、当時の日本人は好奇心が強く、日本人の印象について、「この国の人びとは今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます。」とある。キリスト教の布教に関しても、ただ受け入れるのではなく、質問の嵐を受け、回答に窮したことが記録されている。

 西洋諸国が他の国々を植民地にする手法は、土地の人々にキリスト教を伝え、その教えによって、その国内に内乱を起こさせ、それを援助するという目的で、兵力を導入し、その国を占領するというものである。この時、日本が植民地にされなかった理由として考えられるのは、キリスト教布教が進まなかったことが考えられる。
 フランシスコ。ザビエルが、キリスト教信仰により救われることををこの国の人々に伝えると、「そのような素晴らしい信仰を知らされなかったわが先祖は救われるのか」と問われ、「キリスト教を信仰していないので地獄に落ちている。」と回答すると、「キリスト教を信仰する機会を与えられなかったのに地獄に落とすような無慈悲な神は受け入れない」といわれた。その他にも信仰の細かいところまで、「なぜか」という質問を受け回答に窮したと記録されている。当時の日本人は好奇心が強く、先祖に対する信仰が強かったことが分かる。 

 ③ 明治維新

 1854年ペリーが浦賀に来航したとき、当時の日本人は船に乗り込んできて、好奇心で船内の装備に関して色々と観察し、色々と質問してきたそうである。他の国ではただ恐れ慄いたのであるが、鉄砲伝来時のフランシスコ・ザビエルの記録とまさに同じであり、日本人の特質は変化していないのである。

 その後来日した西洋人によると、清潔・好奇心の強さ・識字率の高さ・勇猛等が記録されている。明治維新では知的好奇心によって、西洋の先進技術を瞬く間に吸収し、それを応用していったといえる。

 幕末は西洋は植民地主義の時代であり、日本も植民地にされる危険性があった。西洋諸国が他の国々を植民地にする手法は、内乱に便乗して、その国を占領するというものである。この時、新政府軍と旧幕府軍との間で内乱が起こっており、植民地にされる危険があった。ところが、新政府軍が江戸に侵攻したとき、江戸城無血開城が起こり、内乱は治まったのである。これは、当時の人々がこのままでは植民地になってしまうことを理解しており、内乱を治めたためである。

 これは、日本人の「協調性」が強く表れた事例であろう。

 ④ 日清・日露戦争

 当時の清国・ロシア共に当時の日本よりもはるかに国力を持っていた国である。しかし、日本はこの両国に勝っているのである。この原因として考えられるのが、「西洋の先進技術を積極的に取り入れ、それに改良を加えること」「日本軍の勇猛果敢さ及び団結力」にあると思われる。

 ⑤ 太平洋戦争

 太平洋戦争初期は好調に戦争を進めていたが、次第に戦況は悪化し、敗戦した。ここでの日本人の特徴は、当時の日本軍は数倍・数十倍の敵軍と戦っても臆することなく戦い、勝利することも度々あったようである。連合軍はその戦いぶりに恐怖を感じていたという。また、戦後の復興には目を見張るものがあり、数十年で、世界の先進国に復帰することができた。

 この理由は何であろうか、ここまでの流れと同じく、「勤勉」「協調性」にあるとされている。

 日本は、このほかにも火山噴火・大地震・台風等と自然災害によく遭遇する国である。そこで、海外からよく指摘されるのが、災害が起こっても秩序を保ち協力し合っていることである。協調性があり、災害からの復興が速いのである。

 団結心の強さも協調性からくるものと考えられ、ここまでの日本史上の出来事から危機を乗り切った秘訣を考えてみると、「知的好奇心」「協調性」の2点が共通要因としてあげられる。聖徳太子の十七条憲法の第一条で「和を以て貴しとなす」とされていることから、この「協調性」は古来からの日本人の特質と言える。

 日本人の特質はどのようにして形成されたか

 次にこの日本人の特質がどのようにして形成されたかを考えてみよう。大和朝廷成立もこの特質がかかわっていると思われるので、これが、形成されたのは縄文時代だと考えられる。

 縄文時代の世界にない特質は、1万年以上にわたる安定的・平和的状況だったことにある。縄文時代前期から中期にあたる時期、温暖で食糧豊富であった。このため、食糧確保に苦労しないために余暇が増え、人々は生活を楽しんでいたと推定される。人は生活に余裕があると知的好奇心が沸き起こり、「知ること」の喜びを感じる。このために、遠くの地域との交流が盛んになり、旅が流行ってくる。これは、縄文時代の遺跡の特徴を表している。

 日本列島は昔から災害が多い地域であり、縄文時代にも大災害は頻発していたことであろう。災害に関しては、人々が協調し助け合わなければ乗り越えることができず、ここから助け合う「協調性」、災害に立ち向かう「勇猛さ」、そして、災害を最小限にするために「創意工夫」が育って来たと考えられる。

 それに対して海外では、食糧不足から略奪が横行し、攻撃と防御の必要性が生じ、戦いが頻発するようになる。人々は生活を守るために、文明が発達し先進技術を持つようになる。また、強い指導者を求めるようになり、王朝が成立しやすい状況となる。防御のための都市構造が形成されてくるのである。これに対して日本列島では防御が必要ないので、自然に溶け込んだ生活となるために、先進性がある割に海外のような先進的遺跡が存在しない状況となるのである。そのために世界4大文明には加えられないのである。

 縄文王朝の実在性

 「知的好奇心」「協調性」「勇猛さ」「創意工夫」と言った特質を持った縄文人と言えど、ばらばらの状態では、弥生時代になってからの先進技術を持った多量の渡来人に対抗することはできないであろう。

 縄文王朝が存在しなかったら

 もし、縄文王朝が存在しなかったら、どのような弥生時代になっていたであろうか、考えてみよう。九州地方に先進技術を持った渡来人がやってくるようになると、その技術を学ぼうと、縄文人が訪問してくるようになる。しかし、渡来人は警戒心からその技術を簡単には教えないと思われる。そのうち、何か所も複数の集団が日本列島に上陸するようになり、大陸同様に渡来人同士の争いが始まるようになる。縄文人はそれら勢力からほとんど相手にされず、次第に駆逐されていく。そして、渡来人同士の戦いの中で最も勢力を持った集団が、戦争の中で大和朝廷を成立させることになるであろう。そして、その勢力が弱体化したとき、他の勢力にとってかわるようになり、万世一系はありえず、宮城には堅固な防御がされるはずである。国家統一の方法

 縄文人が団結して渡来人に臨まない限り、縄文人の大和朝廷成立はありえないのである。縄文人が団結するためには、その指令を出す存在すなわち縄文王朝が必要となる。

 縄文人の大和朝廷が成立したことから、全国の縄文人が団結して、一つの目的のために動く体制ができていたことがわかる。すなわち、渡来人が上陸する前に日本列島全体を統治していた縄文王朝が存在したことが推定されるのである。

 縄文王朝の特質

 多量の渡来人から王朝の体質を守りぬ抜き、大和朝廷を成立させるためには、縄文王朝はどのような特質を持っている必要があるのだろうか。よく考えられる戦闘的体質を持っていたとすれば、先進技術を持っている渡来人には対抗できないはずであり、縄文時代の遺跡を見ても王朝があったとはっきりわかるような遺跡は存在しない。このようなことから、世界の一般的体質を持った王朝とは異なる体質を持った王朝であったと考えられる。

 縄文王朝が大和朝廷に引き継がれているとすれば、その体質も大和朝廷に引き継がれているはずである。大和朝廷の特質を外国の王朝との違いについて考えてみよう。中国大陸の王朝を例として考えてみると、中国大陸の王と庶民との関係は搾取する者と搾取される者との関係である。王朝の臣は庶民から搾取し、そこから財産を築き上げている。臣はその地位を守るために王に服従しているのである。ここに、庶民の不満が爆発し、勢力を持つと王朝を倒し、新しい王朝が庶民を搾取するということが繰り返される。ここに、存在しているのは強者と弱者の関係である。強者が弱者を支配するという関係である。中国大陸で王朝交替がよく起こる理由である。

 このような中国大陸から渡来した人々は、同じような考え方をしていたと考えられ、日本列島でも同じようになりがちである。ところが、大和朝廷はこのような特質を持っていない。

 記録が少ないので大和朝廷の体質の詳細はわからないので、後の時代で考えると、国民はすべて「天皇の赤子」であり、「大御宝」であるとされている。これは明治になって戦争追行のために作られたという人もいるが、人民のために君があるというは仁徳天皇の言葉の中にあるので、古代から存在していた考え方であることは間違いないことである。

 これによると、天皇と庶民との関係は「父と子」の関係と同じとされている。父はこの幸福を願い、子は父の健康を願うという関係である。朝廷の臣は中国の臣と異なり、庶民からの搾取はできず、庶民が幸せに生きることができるように面倒を見るということになる。そして、庶民は天皇のために働くのである。実際の日本史上では中々この通りになっていないところもあるが、これが理想とされていたことは間違いないことであろう。

 このように天皇と庶民との関係は、中国王朝の皇帝と庶民との関係と真逆である。この特質こそ、縄文王朝からの特質であろう。

 縄文王朝の特質の形成理由

 これは、現日本人の特質=縄文人の特質がそのまま、縄文王朝の特質となっている。飛騨口碑にある通り、縄文連絡網の存在が、この特質を形成したと考えられる。縄文王朝(飛騨王朝)の成立は縄文時代後期中頃と推定しているが、縄文時代前期から中期にかけて、縄文人の特質が形成されてきており、拠点集落を拠点として人々の行来が活発であった。縄文王朝はこれをそのまま活用したと考えられる。縄文人の知的好奇心を活用し、拠点集落に他の地方の情報を提供する体制を作れば、縄文王朝は簡単に全国を統一することができる。一般の縄文人にしてみれば、拠点集落に行きさえすれば、新しい情報が手に入り、知的好奇心が満たされる。地域で何か困ったことがあっても、拠点集落でアドバイスを聞くこともできれば、助けてもらうこともできる。この中で、助け合い精神も形成されてくるのである。そういった中、一般的縄文人は王を父と慕うようになり。王は庶民の幸せを願うようになるのである。このように、飛騨口碑にある縄文連絡網こそが縄文王朝の特質であり、後の大和朝廷の特質と重なる。

 このような縄文王朝が存在しなければ、先進技術を持った渡来人が多量の押し寄せる中、縄文人が大和朝廷を成立させることなど不可能であろう。 

 古代史の復元における縄文王朝に対する対応の変化(つぶやき)

 HPの開設まで

 古代史の復元は、当初、大和朝廷の成立過程を追っていた。そのため、日本列島統一形跡が見え出した弥生時代中期末以降が対象であった。中国文献や考古学的事実だけでは、詳細が分からず、具体的な大和朝廷の成立過程がわからなかった。そこで、原田常治氏の「古代日本正史」「上代日本正史」に影響され、中国文献や考古学的事実と照合しながら、神社伝承を解釈することによって、古代史を解明する方針を選んだ。その中で、思っていた以上に伝承同士のつながりが見つかり、伝承が具体化することに驚かされた。しかし、「古代日本正史」では、神武天皇即位がAD241年となっており、このことが、原因で考古学的事実と大きく異なることが分かった。

 「神武天皇による大和朝廷の成立がいつのことなのか」。この時期がずれることによって、古代史の流れが大きく変わることが分かり、大和朝廷成立時期の特定が大きな課題となっていった。日本書紀の年代論が解明のカギであったが、諸説入り乱れており、その実態は中々つかめなかった。その解くカギを与えてくれたのが、栗原薫氏の「日本上代の実年代」(半年一年暦の干支)であった。

 氏によると、日本書紀の紀年は半年一年暦で考えると複数の事件がつながるようになるというものであった。「日本上代の実年代」では崇神天皇以降はよく照合していたが、それ以前は日本書紀の記念をただ半分にしているだけで、考古学的事実と合わなかった。

 そこで、大和朝廷の成立により、全国の出土物に変化が起こっていると考え、畿内系土器の出土状況や漢式鏡の分布状況から弥生時代後期中頃に大和朝廷が成立したと考えれば、最もスムーズに考古学的事実を説明できることが分かった。「日本上代の実年代」を参考にして、干支から大和朝廷成立(大和朝廷成立)をAD83年と特定した。これにより、神社伝承・中国文献・考古学的事実がきれいに照合することになった。2003年のことである。このことを多くの人に知っていただきたく、HP「古代史の復元」を解説することに至った。

 その後、新しく見つかる神社伝承や考古学的事実によって、矛盾が見つかれば訂正する覚悟でいたが、新しい事実が見つかるたびに、復元した古代史ときれいに照合でき、一見照合しないと思われたところは、その理由を考えることによって、「古代史の復元」はさらに具体化することになった。

 飛騨口碑の取り込み

 「古代史の復元」は次々と具体化していき、大和朝廷成立過程に関して自らが納得できるものとなっていった。そのなかで、不自然と思われるところが次第に目立ってきたのである。

 ① 饒速日尊が東日本をあまりに簡単に統一できたのはなぜか?
 ② 当初大山祇命と饒速日尊が同一人物だと考えていたが、時期がずれるものもあり、別人ではないか?
 ③ 高皇産霊神は何者か?九州が本拠地と思われる高皇産霊神がなぜ大和の高天原にいるのか?
 ④ 神皇産霊神とは何者か?
 ⑤ 「ウエツフミ」「富士古文書」「竹内古文書」など古史古伝にあるウガヤ王朝とは何者か?
 ⑥ 賀茂氏とは何者か?
 ⑦ ヤマタノオロチの正体・天叢雲剣をなぜ天照大神に献上したのか。

 などである。ここまでは伝承を重視すると言いながら飛騨口碑については無視していたのである。その理由は、神社伝承とほとんど照合できず、記紀の内容と大きく異なり、飛騨口碑を重視すれば記紀の内容や神社伝承をかなり無視する必要があったためである。

 ここまで、縄文人の存在はほとんど無視しており、大和朝廷は素盞嗚尊の系統の人物が平和統一して成立したものと考えていた。縄文人はばらばらに生活しており、弥生人によって駆逐され、徐々に同化していったと考えていたのである。

 その考え方を改め、飛騨王朝が存在したのではないかと気づかせてくれたのが、美濃市大矢田の喪山の伝承(味鋤高彦根命大和へ)である。出雲神話に出てくる天稚彦が祭られているのである。記紀では出雲神話なので、喪山は出雲にあるはずなのであるが、美濃にあるのである。美濃には他に下照姫や味鋤高彦根命の伝承もある。今までの「古代史の復元」では、これらの伝承が説明できないのである。そこで、思い出したのが飛騨口碑である。飛騨に王朝があったと考えれば、これらの伝承が説明できるのではないかと考え、飛騨口碑を取り込んでみると、これらの伝承がきれいに説明できたのである。

 また、饒速日尊の東日本地域の統一過程を調査しているときに、相模国の寒川神社(相模国巡回)が饒速日尊の拠点であることが分かったが、その寒川神社が縄文遺跡である大山山頂を意識していることが分かった。これは、饒速日尊の意識の中に縄文人がいることを意味している。そこから、大山祇命と饒速日尊は別人で大山祇命は縄文人ではないかと気づいた。

 そこから、縄文人の存在が「古代史の復元」の中で一挙に大きくなっていくのである。大山祇命は賀茂氏の祖(賀茂氏の正体)なので、賀茂氏が縄文人となる。京都の上賀茂神社、下賀茂神社共に縄文遺跡の中にあることからこれらは裏付けられた。神武天皇の皇后の出自が賀茂氏なので、大和朝廷は弥生系の倭国と縄文系のヒノモトとの合併ということになった。また、饒速日尊は丹後の籠神社の地で市杵島姫と結婚(丹波国統一)しているが、この市杵島姫は九州の市杵島姫とは別人で縄文人ではないかということになった。

 さらに、素戔嗚尊の妻である、稲田姫・神大市姫(神大市姫との結婚)や饒速日尊の妻(饒速日尊の妻たち)たちは悉く、縄文人となった。また、神皇産霊神(神皇産霊神の正体)を縄文人と考えれば、伝承をうまく説明できることもわかってきた。そうすると、神皇産霊神の子供たちは悉く縄文人になってしまう。ここで、縄文人が日本列島平和統一に深くかかわっている姿が見えてきたのである。ここに至って、飛騨王朝の存在は「古代史の復元」の確信となってきた。

 飛騨王朝が存在すると、その系統が何かの形で伝わっているのではないかと考え、その候補を探すと、「古史古伝」にあるウガヤ王朝がそれに該当するのではないかと気づき、ウガヤ王朝(ウガヤ王朝の正体)の末期を一部改ざんして飛騨口碑・記紀伝承をつないでみると、きれいにつながることが分かった。ここにおいて、ウガヤ王朝こそ飛騨王朝の伝承を引き継いだものであると確信するに至った。

 最初は「古代史の復元」に飛騨口碑を取り込むのには勇気が必要であった。「古代史の復元」読者の方からも、神社伝承と照合したのは納得できるが、飛騨伝承はあまりにも唐突すぎて納得できないというものが結構あった。最初は半信半疑で飛騨口碑を取り込んだが、後から後からそれを裏付ける伝承が見つかり、飛騨王朝の存在は間違いないものと確信するに至った。

 しかし、この段階ではまだ、高皇産霊神(高皇産霊神の正体)は秦徐福系の人物であり、神武天皇はこの系統であると考えていた。

 大和朝廷は縄文系

 「古代史の復元」で縄文人の存在が大きくなってきたので、縄文時代の調査をすることになった。旧石器時代に日本列島にやってきた人々はどこからやってきたのかを明らかにするためにY染色体ハプログループを調べていると、東山天皇の直系子孫がD1a2aであり、縄文系であることが分かった。天皇家は男系で継承されているので、神武天皇が縄文系となり、同時に大和朝廷は縄文系となったのである。これにより、「古代史の復元」は修正を余儀なくされた。

 新発見の事実により、「古代史の復元」の変更を余儀なくされたことは過去何回もあるが、いずれも一部の解釈の変更で対応できている。今回もそうではないかと考え、その修正箇所を探った。

 その結果、修正箇所は「2代目高皇産霊神=大山祇命」という仮説である。記紀神話の中で高皇産霊神は天照大神と常に行動を共にしており、高天原の実質統治者という感じである。「古代史の復元」では瓊々杵尊・日子穂々出見尊・鵜茅草葺不合尊の日向三代は高皇産霊神と天照大神の子であると以前から考えていたが、この高皇産霊神が縄文人と考えれば、大和朝廷は縄文系となるのである。そこで、「2代目高皇産霊神=大山祇命」(大山祇命の正体)という図式が出来上がる。大和朝廷が縄文系という謎はこれで解決したが、高良神の初代高皇産霊神との関係である。

 ここまでは、初代高皇産霊神は秦徐福系と考えていたが、それなら、2代目高皇産霊神との関係が不自然となってしまった。今回、縄文時代を調査することにより、この初代高皇産霊神も縄文人であるということが分かった。そして、この人物こそが飛騨王朝と大和朝廷をつなぐ重要人物であることも判明した。これは、後程別の項で明らかにする予定である。

 縄文王朝と渡来人とのかかわりを解明していくと、縄文人の日本列島を渡来人から守ろうという並々ならない強い意識を感じてきた。今後UPする予定である。

 

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