日野川流域伝承

 ここにあげた伝承は立花書院発行「大山の民話」及び「日野川の伝説」の内容を要約したものです。

鬼住山鬼退治

 孝霊天皇は鬼住山に鬼がいて村人を困らせているのを聞き、鶯王を総大将に、臣下の大連を副将に命じて早速鬼住山の鬼退治に行かせることにした。早速鶯王は鬼住山よりもさらに高い山に布陣して作戦を練り、攻撃を開始することにした。

 ところが布陣した山があまりにも高い山なので、食料を補給するのも難しく、苦戦の日々が続いた。村人たちは自分たちも手伝うことを考え、団子を造り笹づとにして鶯王たちのもとに送り続けた。

 笹苞団子に元気をつけた鶯王たちは、あらゆる作戦を使って鬼を退治した。しかし、鶯王はこの戦いで戦死してしまった。村人たちは悲しみ、鶯王を楽楽福大明神として祀り、鶯王が戦死した場所に楽楽福神社を建てたという。鬼たちが住んでいた山を鬼住山、鶯王が布陣して笹苞団子を召し上がられた山を笹苞山、日野川にかかる橋を鬼守橋と呼び、鬼退治の伝説を伝えている。

 孝霊天皇は鶯王の死がよほど哀しかったのであろう。楽楽福神社の境内を自らの御陵地と定められた。

菅福の里

 孝霊天皇は大倉山・鬼林山に鬼が出没するうわさを聞き、皇后細姫、歯黒王子を伴い鬼退治に出発した。丁度上菅の里に着いたとき、皇后細姫の陣痛が始まった。戦いに向かう途中なので何の準備もなく、日野川の河瀬の大岩の平坦なところに菅の葉を敷き、しばらく休んでもらうことになった。これにより、この周辺を下菅、中菅、上菅と呼ぶようになった。

 やがて、細姫はかわいい姫を産まれ、福姫命と名づけられた。そのとき産湯を使われた産盥という場所も残っている。

 福姫命は13歳までこの地で過ごされたといい。そのときの行宮が高宮神社の小高い丘である。福姫命はこの地から4キロほど離れた井原の温泉場に出かけられることがしばしばあり、この地の対岸の福長という地名は福姫命が井原までの長い道のりを歩かれたことに由来するという。

 菅の里というのは、菅を刈って敷物を作り小屋掛けをされたところから名づけられ、「鏡石」は細姫命が肌身離さず持っておられた鏡を石の上に置かれたところ、鏡のあとがくっきりと残ったところから名づけられた。また、孝霊天皇と細姫命、福姫命がしばらく過ごされた頃、このあたりは仮の都となり、地名も「都郷(都合)」と呼ばれるようになったという。

 孝霊天皇は鬼たちとの戦いになかなか勝つことができなかった。福姫命が13歳になったとき、印賀にも鬼が現れ、孝霊天皇は細姫命、福姫命を印賀の里に連れて行った。

大倉山の伝説

 昔、大倉山には牛鬼というとても恐ろしい鬼が住んでいた。里に下りては村人に危害を加えていた。上菅に住んでいた孝霊天皇は、早速歯黒王子を総大将として鬼退治をされることになった。まず、歯黒王子がこの山に登り総攻撃を仕掛け、孝霊天皇は麓で待機して攻撃した。

 牛鬼一族は歯黒王子の総攻撃にたまりかね、転げ落ちるようにして日野川に方へ逃げてきた。孝霊天皇は待ってましたとばかりに鬼たちに攻撃を始めたので、さすがの牛鬼の大将も降参した。

 このときに鬼が転げ落ちた滝を獅子ヶ滝とよび、孝霊天皇は合戦のあとこの滝で身を洗い、そぐ側の滝壺で刀を洗ったと伝える。

大宮の楽楽福神社

 生山八幡宮の山上に柴滝というところがあって、ここで皇女福姫命が生まれ生山の地名となった。

 福姫命は13歳まで菅福で過ごされた。この頃、印賀にも鬼が現れ、福姫命は孝霊天皇に連れられて、印賀の里に移り住んだ。のどかな山里で楽しい毎日を過ごされるうち、15歳になったある日、孝霊天皇が印賀の鬼退治をして留守をしていたとき、福姫命は畑にたくさん育ったえんどう豆を採りに行かれた。ところがえんどう豆の蔦が竹に絡み付いて思うように採ることができず、力いっぱい蔦を引っ張ったところ竹の端が目に突き刺さってしまった。

 福姫命の目が大きく腫れ上がって様態は次第に悪くなっていった。その内、高熱を発してうなされる日々が続き、孝霊天皇や細姫命の看護もむなしく、ついにこの地で薨去されてしまった。

 村人たちは悲しみ、村の小高い丘(貴宮山)に福姫命を埋葬すると、その麓に楽楽福神社を造り、福姫命を祭神として祀ることになった。

鬼林山

 孝霊天皇が大倉山と印賀の鬼退治を終えて菅福の地でしばらく休んでいると、鬼林山の鬼退治をしてほしいと人々が駆けつけてきた。孝霊天皇は再び歯黒皇子を連れて出かけることにした。

 孝霊天皇は宮内に居を移し、鬼退治をすることになった。鬼林山には赤鬼・青鬼の獰猛な鬼がいて簡単に倒せる相手ではなかった。この合戦のとき、急な病で最愛の皇后細姫が崩御された。孝霊天皇は悲しみの中で住居の裏山(崩御山)に細姫を埋葬した。