飛騨王朝の功績

 BC2000年頃飛騨王朝が成立したと推定した。それまでになかった王朝が成立したということは、日本列島にそれに対応する変化が起こっているはずである。飛騨王朝の成立が原因で起こったのではないかと推定できる変化を追ってみよう。

 ペトログリフの拡散

 BC2000年頃日本列島にやってきたシュメール人によってシュメール文字がもたらされた。その直後より、日本列島各地にペトログリフが散在するようになった。日本列島内でペトログリフと思えるものは3000か所ほど見つかっている。この事実は飛騨王朝の成立の結果だと推定される。どのような理由によりペトログリフが地方に散在するようになったのであろうか。

 シュメール人は飛騨口碑における神と思われ、縄文人から神として認識されていたようである。その結果シュメール文字は神の示す記号と認識されていたと思われる。縄文人の一部はこのシュメール文字を学んだと思われる。ペトログリフの一部は解読されており、神に関する意味を持つものが多い。このことから、ペトログリフを彫り込んだ人々はその意味を知ったうえで彫り込んでいることになる。

 飛騨王朝の成立目的は海外の国々とは違い征服浴によるものではなく、将来の外敵に備えるものであった。その結果、地方からの情報をいち早くつかむことが最も重要なことであったと思われる。日本列島の住む済みまでいきわたる縄文連絡網の構築が最重要課題である。

 飛騨王朝が成立したとしても、それまでそのような組織はなかったわけであるから、その中央組織(政府・協力者)は、規模の小さいものであったと思われる。それが、いきなり地方にまで影響を与えなければならないのである。最小の労力で最大の効果を生むには、それまで存在した縄文人の風習をそのまま継承するしか方法はない。それが、縄文人の行動力である。

 縄文時代中期は温暖で食糧が豊富であったために、一日当たりの労働時間が4時間程度と思われ、余暇が多かったと思われる。その余暇を楽しむために、装飾に走り、物見遊山が行われていたようである。そういった人々が集まる拠点集落が地方に存在していた。拠点集落には近くに住んでいる人々が定期的に集まって祭りを行ったり、情報交換・物々交換をしていた。この拠点集落には遠くからの訪問者も歓迎されていた。

 飛騨王朝はこの風習を利用することを考えたと思われる。中央政府から地方巡回するべき人物を選抜し、その人物に定期的に地方の拠点集落を巡回させる。地方からの情報を集め、その情報を整理し、地方に拡散させるというシステムである。これなら、最小の労力で、縄文連絡網を構築できる。

 しかし、縄文後期に至り、気候が寒冷化し、縄文中期のように食糧が豊富な状況ではなくなってきており、余裕が少なくなってきていた。そこで、地方をまとめるシンボルのようなものが必要になった。それが、神の意志を伝えるペトログリフではないだろうか。岩にシュメール文字を書き込むことによって、人々は神の降臨と思い込み、次第に崇拝するようになったと考えるのである。そのため、ペトログリフは現在でも聖地と思われる場所に存在することが多い。

 ペトログリフに書き込まれている文字は神の信仰にかかわるものが多いが、統一されているわけではない。内容はそれぞればらばらである。地方巡回した縄文人が書き込んだのであれば、ある程度統一されたものになると思われる。そのため、ペトログリフを書き込んだ人物は地方の代表者ではないかと推定する。地方の代表者は巡回してきた人物からシュメール文字を学び、その地方の人々の意向を汲み取った内容を考えて、その代表者が書き込んだものではないか。

 そうなれば、シュメール文字は地方に浸透していたことになる。

 環太平洋地域への広がり

 ペトログリフは環太平洋地域に広がっている。縄文人は海外渡航を行っていたために、海外に移動し、上陸した地にペトログリフを書き込んだことが考えられる。これも、シュメール文字が多くの縄文人に浸透していた証であろう。

 環太平洋地域のペトログリフは人里離れたところに多く、発見するのが難しい。日本列島と異なり、聖地に存在してるわけではないのである。これは、日本列島内ではペトログリフを書き込んだ人々の信仰が現在まで継続していることを意味しているが、海外では断絶していることを意味している。その地を訪れた縄文人は絶滅してしまったか、別の地に移動したかどちらかである。

 殷甲骨文字への影響

 中国の殷では甲骨文字が使われていた。漢字以前の文字は天字と言い、天字の前が卜字で卜字とは殷字のこと。すなわち象形文字であるとされている。この最初の象形文字である甲骨文字が殷字とされている。中国の『契丹古伝』と呼ばれる書物に『殷、もとこれ倭国』と明記されている。これは、殷字の元は倭国の文字、すなわち日本の文字であると記されていることになる。これはどういうことであろうか。

 飯島紀氏の「楔形文字の初歩 歴史と文法」(泰流社)によると、シュメールの楔形文字は象形文字から表音文字に変化しており、その元は漢字の祖先の甲骨文字と類似している。と指摘している。飯島氏は「手足、魚、牛、山などはよく似ている。甲骨文字は紀元前1350~1100年ごろで、メソポタミアでは中期バビロニアのころにあたる。楔形文字の影響が全くなかったとはいえない」と書いている。 楔形文字は横倒しになって、変化しているが、甲骨文字は縦のままが多い。実物を写し取った象形文字が似ているのは当たり前ともいえるが、省略の仕方には共通点がある。

 殷が成立したのはBC1558年とされている。飛騨王朝が成立してしばらくたったころである。縄文人が海外渡航を頻繁にしており、当然ながら中国大陸にも移動していると思われる。中国大陸に行った縄文人がシュメール文字を当時の中国人に紹介すれば、それが甲骨文字のヒントになったということは考えられなくもない。

 新種作物の輸入 

 岡山大学農業生物研究所 笠原安夫氏「日本における作物と雑草の系譜」によると、以下のようなことが書かれている。

 史前帰化種として、抜麦(ユ ーマイ)系のエンバクが発祥地(地中海地方)から東まわりでチベ ッ ト、中国雲南省、モ ンゴル、中国東北、朝鮮半島を経て、縄文晩期に焼畑作物のオオムギやコムギとともに、西南日本のムギ畑の擬態雑草または栽培品種として渡来 した。
 水田雑草のコナギ、キカシグサ、ミズキカシグサ、ホシクサ、アゼムシロ、タカサブロウ、アブノメ、キクモ、アゼ トウガラシ、アゼナ、セ リ、ミズオオオバコ、タマガヤツリ、ミズガヤツリ、タイヌビエ、ミズワラビなどがある。 また、アワやウリなどの夏畑作物の遣構からの出土状況から見て、イネと同時または前後して渡来した夏畑作や住居付近の雑草、人里植物と考えられるものに、ザクロソウ、イ ヌタデ、オニタビラコ、キ ツネノマゴ、アゼ ガヤ、カナムグラ、アカザ、ハナイバナなどがある。
 地中海や西・中央アジアの原産であるコムギ、オオムギ、エン ドウ、ソラマメ、カラシナ、チシャなどの冬作物と同期に生育する越年生雑草のノゲシ、ヤエムグラ、ホ トケノザ、カラスノエンドウ、カスマグサ、ノミノフスマ、ハコベ、ナ ズナ、タネツケバ ナ、スズメノテッポウ、スズメノカタビラ、カラスムギなどはユー ラシアの原産であって、史前または歴史の初期にシルクロー ドなどを通って、中国・朝鮮またはシベリア・日本海のルー トを経由して渡来したものであろう。
 西日本の照葉樹林帯では、つい最近までソバ、アワ、ヒエ、ダイズ、アズキを主作物とする焼畑農耕が重要な生業であった。 その栽培方法は伝統的なもので、東南アジアの焼畑と特色が共通であり、稲作以前の縄文後・晩期に始められたという。また、それとは別に、東北および中部日本の落葉広葉樹林帯にもカブラ、タカナ、ダイコン、ゴボウ、アサな どの焼畑農耕があった。 これは西南日本在来のものとはちがった種類で、縄文時代に東北アジアから日本海を通って到着したという。
 アワ、キビ、ヒエは籾、コムギ、オオ ムギに比べ て粒が小さいので発掘時に見逃しやすく、また土器の圧跡からの鑑定も困難であるが、住居跡のいろりの灰 などを灰像法で検出し、種類を同定することができる。この方法で数ヵ所の遺跡からイネ、ヒエなどの灰像を検出した。うち、福岡県の飯塚市立岩遺跡(弥生前期末)からキビと見られた小粒が出土したが、この遺跡の灰を灰像法で分析した結果、アワ特有の灰像が得られた。 なお、この灰像分析によれば、アワやヒエなどが弥生前期から、いな縄文晩期にも栽培されていた公算が大きいという。
 岡山県北部の宮尾遺跡でまだイネの栽培のない弥生期以前の層からは、野生イチゴ、ヤマブ ドウ、マタタビなど各種の食用種子が多く出土 し、雑草は見られ なかった。 また、谷尻・宮前の縄文晩期の遺跡では、食用植物のマタタビ、サルナシ、ヤマグワ、カジノキ、6種の野生イチゴ、ノブ ドゥ類および繊維用と考え られるカラムシ、カジノキ、ヤマグワなどの出土が多い。 これらの大部分は、集められて、使用後に残余が落ち込んだものと思われ る。そのほか木本のアオツヅラフジ、カラスザンショウ、ニワ トコな ども多く出土した。山野草的な人里植物と畑雑草のカナムグラ、ヤブガラシ、ヤブタビラコ、ザクロソウ、イヌタデ、ノミノフスマ、カタバミな ど、水中、湿生のホタルイ、ヤナギタデ、アゼスゲ類などもかなり多く出土 した。

 これらを見ると、縄文時代後期・晩期に中国・東南アジア・朝鮮半島等から多種の作物・栽培方法などが導入されていることが分かる。縄文後期から晩期にかけて気候が寒冷化し、食糧不足が生じたため、飛騨王朝が海外に人々を派遣しこれらの作物を導入したことが推定される。当時の縄文人はこれらの作物を栽培することによって食糧を得ていたと思われる。この頃は、まだ、海外からの人々の流入はほとんどなく、これらの作物は海外から流れてくるのを待っていたのでは手に入りにくいので、縄文人の方から取りに行ったと考えられる。

 当時の縄文人は手に入ったこれらの作物を縄文連絡網を通じて、幅広く広めたと思われる。これらの功績は飛騨王朝が存在したために、より効率的に行われたと考えている。

 縄文鉄生産に関して

 日本の鉄製品は弥生時代になってから出土し、製鉄は5世紀になるとされている。ところが、伝承を探ると神武天皇の時代にすでに製鉄技術はあったようで、伊弉冉尊も製鉄伝承とつながっている。これは、古墳時代以降の伝承が紛れ込んだものと考えることもできるが、岩手県の明神平で3600年前のカキの殻が付着した鉄宰が見つかっている。これは縄文時代に製鉄があったことを意味している。

 古代の刀ほど錆に強い

 「鉄一塊の鉄が語る歴史の謎」(立川昭二)によると、慶長の関が原の戦いのあたりを境に、それ以前の刀は古刀、江戸時代のものは新刀、江戸末期のものは新々刀、明治以後のものは現代刀とよばれており、時代が下がれば下がるほど、刀の質は悪いものが多くなってくる。しかも、さらに上代刀となると一段と優れている。それは素人が見ても一目瞭然だというのである。吉川英治の「宮本武蔵」の空の巻の「かたな談義」の中にも、古刀のさびは薄い膜にしかなっていないのでとることができるが、近世の新刀となると地金の芯まで腐りこんでいるのでダメだということが書かれてある。

 そこで、思い出すのが草薙剣(天叢雲剣)である。ヤマタノオロチ伝承によると、素盞嗚尊の十束剣とぶつかり十束剣が刃こぼれしたとされているので、草薙剣は鉄製と考えられるが、熱田神宮に現存しているとされている。これが事実だとすると、草薙剣は古代の鉄でできていることになる。古代の鉄について考えてみたい。

 餅鉄を材料とする「縄文式冶金法」

  飯田賢一東工大教授を中心に、日本に土着の鉄文化があったことを主張する動きが強くある。その根拠とされるのが奈良の正倉院の中に納められている舞草の銘のある無装刀で、この刀は都に呼びせられた刀工が朝廷の命をうけて作ったものとされている。この刀工の故郷である舞草は現在の岩田県一関市の舞川の近くである。舞草神社というのがあり、近くには「舞草の鍛冶跡」という立札がある。地元の金属学者で郷土史家の新沼鉄夫氏の「岩手の製鉄歴史」によると、舞草の白山獄を調査したところ、磁鉄鉱石がみつかり、これが舞草刀の原料になったことは間違いないだろうという。

  古来、日本の製鉄の原料といえば、たたら砂鉄というのが通説のようになっていた。だが岩手を中心とした古代東北の製鉄の原料は砂鉄ではない。それは餅鉄とよばれる天然の鉄鉱石なのである。これはじつに大きなちがいである。砂鉄を原料とする大和朝廷の冶金法を弥生式とよぶな ら、餅鉄を原料とするこちらは縄文式とでもよぶべきものであろう。餅鉄は「べいてつ」あるいは「べんてつ」とも読み、非常に純度が高く磁性にとむ磁鉄鉱石で鉄黒色を呈し金属的な質感をもつ。

 新沼鉄夫氏によると、また、明神平というところには、カキの貝殻のついた鉄滓が散らばって落ちており、別名かなくそ平ともいう。この地点は海抜数百メートルほどの峠で、一日中強い風が吹いている。古代東北の縄文人はそこに浅い盆状の野焼炉をあつらえて火をおこし、その中に餅鉄とカキの貝殻を入れ、数時間かけて還元鉄をつくる。これを鍛いて彼らは釣り針や矢じりを作ったのであるという。この明神平で採取 したスラッグの科学分析を行なった新日本製鉄釜石製鉄所研究所の報告によると、理想的ともいえるかなり高純度の磁鉄鉱石で、イオウやリン、アルミ ニウムなど不純物をほとんど含んでいなかったということである。

 竹内文献とヒヒイロカネ

 ヒヒイロカネとは、古代金属で、絶対にさびることがなく神鏡や宝剣の材料となったといわれるものである。竹内古文書にはヒ ヒイロカネという金属の名前が出てくる。ヒヒとは「日に比べる」ことであり、ヒヒイロカネとは日のように 「赤きこと朱の如し」金属ということになる。伝承によると、このヒヒイロカネの物理的特徴はすこぶる変わっていて、比重は金よりも軽い程度、純粋なものは鉄より軟らか、逆に合金にすると硬くなり、玉を切るような刀にすることができる。また表面を拡大鏡で眺めてみると、あたかも炎がゆらめいているように見え、さらに手をかざすとまるでエネルギーが風のように放射されているのを感じるのである。この放射は、時により冷ややかに、また時により暖かく感じられる。しかし金属自体は常に冷ややかで外気が暑かろうと寒かろうと影響を受けることはないのである。それに、磁気力を拒否する力を持っており、磁石を近ずけると、それを征服してしまうという。このヒヒイロカネが餅鉄とされているのである。餅鉄は磁鉄鉱だから磁気を持っているのは不思議ではない。餅鉄の色は「赤きこと朱の如く」とは反対に、黒っぽい色をしているはずである。ヒヒイロカネには赤い色と黒い色のものと、じつは二種類あると伝えられている。黒い色の実物しか見たことがなかったが、赤色のものも存在しているそうである。

 酒井勝軍によると、ヒヒイロカネの製造はすでに5万年も前に、飛騨の高山ではじめられており、「総合平面ピラミ ッド」のある松森社の玉垣の下の石垣の中に、このヒヒイロカネと花崗岩との混合石を発見したらしい。そしてこの花崗岩は、ヒヒイロカネの放射のため永久に風化されることがないので、そのまま残っていたのだという。酒井は岩手で古代神鏡を発見したと報告している。この神鏡は中国伝来の神鏡とは無関係の、神武天皇以前の我が国のオリジナルなもので、その裏面には、「 フタハシラ ミツノエ ミツノト カムタカラ」と神代文字で刻まれているということである。

 内容の真偽はともかくとして、この伝承は飛騨王朝と関係しているようである。酒井勝軍の主張するヒヒイロカネ伝説の真実性はどうなのであろうか。古越前 (石川県にあたる)でも製鉄遺跡が数多く発見されているのである。金沢大学の吉岡金市学長の発表によると、14C半減期測定(学習院大・木越研による)から、そのうちのいくつかは縄文時代後期のものとみられるという。これは弥生時代に製鉄技術が大陸から導入されたとする定説をくつがえすものとして注目をあびている。

 鉄生産は青銅生産に先行したという説

 紀元前4000年ころ、古代オリエントで冶金術が開発された。最初は金のみであったが、その後1000年間に銀、鉛、胴、スズ、それから合金の青銅の冶金術を開発していった。やがて青銅器時代に入り、その後鉄の冶金術が発明されたとされている。

 歴史の専門家からは完全に無視されている鉄冶金学者で製鉄史の研究家であるドイツ 人、ルードウィヒ・ベック説が存在している。1880年代、彼は大著「技術的・分化史的にみた鉄の歴史」第一巻で、青銅器が鉄器に先行するという通説に対する批判を大々的に展開し、また人類が最初に使用した鉄は隕鉄だったとする俗説もしりぞけている。このベック学説は、日本では1964年に科学史家、中沢護人氏によって初めて岩波新書「鋼の時代」にて紹介された。それによると、一般に青銅器が鉄器に先行するとされる理由は二つある。
 一つは、ふるい遺跡から発掘されるのは圧倒的に青銅器が多いということである。しかしながら、青銅はさびにくく、鉄はさびて土にかえりやすい。だから青銅器が多く残っているだけのことである。また、青銅が貴重な金属として王候の宝物庫に大切に保存されたのに対し、鉄は卑しいものとしてそのような配慮がされなかったという傾向があった。
 もう一つは青銅のほうが鉄よりもずっと簡単に溶かせるということである。高い温度をつくりだすというのはなかなか容易なことではない。 だから低い温度で溶ける青銅の方が精練しやすく、先に技術開発されたと考えたくなるのは当然だろう。しかし、青銅という金属があるわけではない。青銅は銅とスズの人工的な合金である。青銅を製造するには、それより先に銅とスズの単独製造が前提となっていなければならない。青銅は700度くらいでも溶ける。けれどもその原料となる銅を酸化鉱からとるためには、約1100度もの高温が必要となる。純粋な鉄の場合、その融点は1539度とされている。また最も融点の低い、炭素を含んだ銑鉄でも1200度くらいで、それでも銅よりは高い。

 低温での鉄の生産技術

 鉄を低温で生産するには、鉄を溶かすのではなく、直接還元するという方法である。それはどのくらいの温度で可能かというと、 約700度、ほぼ青銅の融点と同じである。この温度で鉄は還元される。この還元鉄をたたいたり、焼きもどしをくりかえして鍛えれば、道具として使用できる鉄ができあがるのである。先ほ どあげた岩手の餅鉄などは鉄分の含有量が高く、低温還元には非常に優れた鉄鉱石だという。石でたたいて粒状にし、これを木炭で熱するだけでよいのである。そして、この低温還元の長い伝統によって培われた技術がのちに出雲へ伝えられ、あの有名なたたら製鉄となったと考えられる。この低温還元技術は古代ギリシアでも知られており、アリストテレスの書の中にも、黒海南岸地方で川底から砂鉄をとって鉄を作ると書かれている。またここと近いダマスカスから日本刀とよく似た刀剣が出ているのである。現在ではこの技術は失われており、アフリカ奥地の原住民の間で細々と伝えられているとされている。

 縄文人はこの製鉄技術を使い鉄生産をしていたと考えられる。そして、それを始めたのは飛騨王朝と考えられる。縄文人が独自に発見したものか、外遊した縄文人が伝えたものかははっきりしないが、独自の製鉄技術を持っていたようである。

 青銅器の導入

 三崎山遺跡(山形県飽海郡遊佐町)で約3000年前の青銅刀子が出土していた。最古の青銅器出土例である。しかし、製造技術の移入は見られず、青銅器の現物を持ち込んだものと考えられる。その後、縄文後・晩期に石刀が出土するが、これは大陸からもたらされた青銅製刀子の模倣であるとされている。紀元前8世紀頃福岡県の今川遺跡で遼寧式銅剣の鋒と茎を銅鏃と銅鑿に再加工したものが出土している。また、三沢北中尾遺跡からは紀元前7世紀頃に遡ると思われる銅斧が発掘された。

 これらは、製造の痕跡を伴っていないので海外に出ていった縄文人が持ち込んだものと考えられる。

 稲作の開始

 従来は水田稲作の開始は弥生時代になったBC300年ごろからとされていたが、古い稲作遺跡が次々と見つかり、稲作の開始は縄文時代晩期とされている。しかし、弥生時代の定義が稲作の開始と考えると、この時期が弥生時代になってしまうのである。

 水田稲作開始

 弥生時代以前にもイネの栽培が行われていたという確かな裏づけが、昭和35年以降、九州地方の縄文遺跡から発見され始め、今から約3000年前の縄文時代後期にはすでに大陸から稲作が伝わっていたことは明らかである。イネが日本にもたらされた最も古い証拠は、縄文時代後期末までさかのぼる。福岡県や熊本県の遺跡の土壌から、この時期のものと推定されるプラントオパール(イネ科植物の葉身にある、ケイ酸を含む細胞)が検出されており、これによってイネの痕跡が確認されている。時期的に飛騨王朝とのかかわりが考えられる。

 水田稲作の確実な証拠が九州各地でみつかった。佐賀県唐津市の菜畑遺跡から、炭化米や土器に付着したモミの圧痕、水田跡、石包丁、石斧といった農具、用水路、田下駄等が発見されている。水流をせき止めて調整する柵(しがらみ)も見つかった。明らかに灌漑による水田稲作の痕跡である。BC900年ごろのものとされている。福岡県の板付遺跡や菜畑遺跡における水田では、非常に整備された形で、水稲耕作が行われていたらしく、しかも同時代の稲作を行った痕跡のない遺跡とは孤立した状態で発見されている。このことから、大陸で稲作を行っていた集団が稲作技術とともに日本に渡来し、稲作をおこなっていたとも考えられるが、発見された土器は縄文土器であり、その他生活品もすべて縄文系である。渡来人ではなく縄文人が水田稲作をやっていたと考えられる。九州では灌漑(かんがい)による水田稲作がおこなわれる一方で、畑では陸稲や雑穀類の栽培がおこなわれていた。水田稲作の痕跡のある土地と、畑作の土地が入り乱れており、実験的に水稲稲作を行ったものと推定できる。すべてをいきなり、水稲稲作にしてしまえば失敗したときに一挙に食糧不足になることが考えられ、導入された新技術を試しに使ってみたという感じがする。

  菜畑遺跡では、水田に大量の杭が打ち込まれて水路が造られていた。鉄器は見つかっていないが、打ち込まれていた杭の先端は鋭く尖らされていた。削り面にのこされた加工痕の検討をおこなった結果、鉄器が使われて尖らせたことがあきらかになった。大量の杭の先端を尖らせるために鉄器が使われたとしたら、大量の鉄器がなくてはらならない。このことから九州北部地域においては少なくとも弥生時代の初めに鉄器がある程度普及していたと考えられる。

 中国では、隕鉄を素材とした鍛造品が前2000年紀後半の殷時代中期に、鉄刃銅鍼などの、製品の一部に鉄を使うという形で中原に出現するが、祭器などの貴重品として使われたため、王侯・貴族の墓の副葬品として10数点弱が見つかっている程度である。人工鉄が使われ始めるのは西周末(前9~8世 紀)ごろになってからである。当時の人工鉄は、冶金学的に塊煉鉄や塊煉鉄脱炭鋼である。貴重品として使われていたようである。

 ではあ、この時期の日本列島の鉄器はどこから手に入れたのであろうか、一般にはそのようなことはありえないとして鉄器があったという事実そのものが否定されているが、縄文鉄が存在したという考え方によれば説明できるのである。しかし、縄文鉄は貴重品なので、ごく一部に限られていたと思われる。

 稲作伝搬経路

 水田稲作の伝搬経路が議論されているが、「古代史の復元」では縄文人が直接導入したと考えて居るので、中国江南地方からの直接導入となる。朝鮮半島南端部を経由したという説もあるが、今のところ、水田稲作の開始は日本列島の方が早い。日本列島から朝鮮半島に移動したものと考えられる。また、南方経由説もあるが、南西諸島にこの時期の稲作の痕跡がないし、そうであれば、南九州で稲作が始まるはずである。

 この頃は、縄文人が海外へ活発に移動していた時代であるので、稲作を江南地方から直接輸入するのは可能なことである。

 BC500年ごろまでに中国地方・近畿地方に広がり、千葉県・山梨県・飛騨地方・青森県でもBC300年ごろには水田稲作の痕跡が見つかっており、そのころには一挙に日本列島全体に広まったと考えられる。

 水田稲作がすぐに広がらなかった理由

 水田稲作は北九州沿岸で400年ほど停滞している。メリットとデメリットから考えてみよう。水田稲作のメリットとしては、何としても収量が多いことである。多くの人口を抱えるには水田稲作ほどの効率的な収量の食糧はないのである。デメリットとしては稲作の労力が多大なことである。灌漑工事を行う必要があり、多くの人材を常時確保する必要がある。また、 完成してもすぐにできるわけではなく、収穫まで少なくとも1年は待たなければならない。洪水などで失敗すれば1からのやり直しである。

 水田稲作はその労力の大きさから、実験的に北九州地方で細々と作られてきたのではないだろうか。水田稲作技術は試行錯誤して徐々に発展していったという形跡はなく、いきなり完成品が登場するのである。しかも、それを実行したのは渡来人ではなく縄文人である。このことから、外遊をした縄文人が中国大陸での灌漑農業を見て、日本列島でもできると思い、その技術を導入した。この時、中国大陸から灌漑工事の技術者を引き連れていたと思われる。北九州に戻ってきた縄文人はその技術者のアドバイスを受けて、水田稲作をやってみたと考えられるのである。

 この指示を出したのが飛騨王朝ではないだろうか。飛騨王朝は食糧の安定確保を考え、中国大陸で盛んにおこなわれている水田稲作の導入を考えて居たが、その労力があまりに大きいために地方の縄文人にはきわめて不評だったに違いない。労働時間ではなく余暇時間を重視していた縄文人としては、今までの採取生活や陸稲などの畑作の方が楽なのである。そこで、やってみたいと申し出た有志を集めて実験耕作したのが北九州の水田稲作遺跡であろう。そのために400年ほど、広がらなかったと思われる。

 それが、BC500年頃より、急激に広がりだしたのは、渡来人の影響があったと考えている。その過程については、次項にゆずる。

 土器の変化

 この頃より、北九州を中心として土器形式に変化が起こってきた。稲作が開始されたとほぼ同時並行で土器に変化が起こっている。その変化は以下のとおりである。

 〇 壺の割合が増加する。稲穂の貯蔵や運搬を目的としたものと考えられる。

 〇 煮炊き用の土器の口縁部が直立する深鉢形から、外に反る形に変化する。その後、壺と甕が主要土器に変化する。

 〇 明るく褐色でうすくてかたいのが特徴であり、色調や厚みの違いは、縄文土器が野焼きなのに対して、弥生土器は土などをかぶせる燃成法を用いたためである。 

 〇 弥生土器は縄文土器に比べて装飾が少ない。

 これらの変化は明らかに稲作に対応している。渡来人によってもたらされたものではないと思われる。水田稲作は労力が大きいので、食糧を入れて運搬するときに軽いほうが良いので薄くなる必要があった。野焼きでは薄くすると壊れやすいので、燃成法によって、薄く固く作る必要が生まれたのである。また、労力が大きいために装飾する余裕がなくなってきたと考えられる。縄文人は装飾された衣装を着ていたが、弥生人はシンプルである。これも労力の大きさから余暇がなくなったためではないだろうか。

 これらの変化も縄文人自身が考え出したものか、外遊した縄文人からもたらされたものかは定かではない。

 飛騨王朝が成立して、飛騨王朝は縄文連絡網を活用し、海外の新技術・作物・新情報を導入し、地方の縄文人の生活を守る工夫をしていたと考えられる。そして、地方の縄文人は飛騨王朝を信頼するようになっていった。このようにして飛騨王朝の地方統治体制はこの時期に固まってきたといえる。定義によって異なるが、この時期は縄文時代晩期である。これより少し経ったBC700年ごろから、渡来人が増加してくるのである。

 

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