安芸国の謎

 安芸国の謎

  安芸国(広島県西部地方)は古代史上の謎が多い。以下のようなものである。

① 安芸国一宮の謎
 厳島神社と速谷神社があるが、市杵島姫の滞在伝承を持つ厳島神社よりも、伝承のはっきりしない速谷神社の格式の方が高い。さらに速谷神社は中四国・九州地方唯一の官幣大社である。なぜこんなに格式が高いのか。

② 神武天皇東遷時の謎
 神武天皇東遷時、安芸国埃宮に長期滞在している。これはなぜか?

③ 市杵島姫の終焉地の謎
 市杵島姫が九州からこの地に移動して終焉地となっているが、なぜ、わざわざ安芸国に移動したのか?

 安芸国にはこのように謎が多いのであるが、伝承ですら、何も伝わっていない。これはどうしたことか?安芸国に関して重要な何かが隠されているように思われるので、伝わっている伝承をもとに推定してみた。

 国譲り事件

 AD45年ごろ、第二代倭国王大己貴命が、鹿児島で急死した。その結果、倭国は出雲を中心とする東倭と、日向を中心とする西倭に分裂した。安芸国は東倭・西倭のどちらに所属したのであろうか。

 安芸国は地域的には出雲の東倭に所属している。このことは、神武天皇が安芸埃宮に滞在中出雲の事代主命に安芸国を譲るように交渉していることからわかる。

 安芸津彦の正体

  「ふるさと やまもと」/H13,12,1 山本史を作る会
 『むかし、むかし、まだ日本の国が、きちんと治まっていないころ、第一代の天皇である神武天皇は、九州におられました。天皇はなんとかして、日本を平和な国にしたいと考えておられました。 「日本の国を治めるには、九州ではあまりに西にかたよりすぎている。国の中心である大和へ行き、そこでよい政治を行いたい」と考えられました。
  そこで、部下をつれて九州の高千穂を出発されました。船出された港は日向といわれています。船は東へ東へと進み、瀬戸内海へ乗り入れ、広島に入られました。
 そのころの山本には、安芸津彦命という、安芸の国の首長がいました。 安芸津彦命が「神武天皇の軍が来られた」という知らせを受けると、急いで五日市の倉重までお迎えに行きました。
 神武天皇は「ああ、安芸津彦命が来た」と喜ばれて、地御前にお着き になりました。
 そして、安芸津彦命の案内で、火山の頂上に登られ、大きな石を四方から集め、その中へたくさんの木を積んで火をたかれました。その煙はもうもうと立ちのぼりました。これは、四方の人たちに、「天皇は、元気でここに 登っているぞ」と、知らせるノロシだったのです。
  これが終わると、天皇は山を下って「休山」で休まれて、山を下りられました。 そして、山本の「出口」から船に乗られ、祇園の「帆立」に出ると、帆をは って進まれ、対岸の戸坂に上陸されました。そこから中山峠をこえて、今の 安芸郡府中町の埃宮(えのみや)に入られたと、いわれています。
 山頂には、これを記念する「神武天皇烽火伝説地」の石碑があります。 「休山」「出口」「帆立」は、今も地名として残っています。』
   

 安芸津彦神社由緒
 当社は、安芸津彦命並びに安芸津姫命を祀り、当初は青原に鎮座していたという。こちらの主祭神は安芸国の前身となる阿岐国の初代国造である飽速玉命(あきはやたまのみこと)の祖先とされ、厳島神社の兼帯七社の一つとされる。明治5年(1772年)に、社号を安芸津彦神社と改名するまでは官幣社といって、当国の厳島神社の2月11日の初申の神事の祭祀において紙布等を当社において清祓してから厳島神社へ仕出し、旧幣を当社に納める慣例があったという。これにより、「官幣社と称す」と古書に記されていたという。それだけ、当社は厳島神社と非常に深い関係にあったとも言える。

 ここでいう安芸津彦とは何者であろうか。AD25年ごろ天湯津彦が安芸国統治を始めて60年ほどたっている。1世30年として天湯津彦の子(あるいは孫)である可能性が高い。

神武天皇東遷 

 AD80年ごろの神武天皇東遷時、安芸国を含む瀬戸内海沿岸地方はすべて出雲国を盟主とする東倭に所属していた。大和朝廷成立後に東倭領域は大和朝廷の支配下に入らないことになっていた。このことは、大和と九州や海外との重要な交易路である瀬戸内海沿岸地方がすべて朝廷の支配が及ばない地域となるので極めて不都合である。そこで、佐野命(後の神武天皇)は、もともと、出雲との関係の薄い安芸国を東倭から譲り受け、交易の拠点を作ることを考えた。出雲との交渉と、大和朝廷と安芸国の仲立ちをするために、生存していた唯一の素戔嗚尊の娘である市杵島姫(この時はおそらく別の名を持っていたと思われる)を東遷団に同行させ、出雲と交渉させた。出雲の統治者事代主命は、素戔嗚尊の娘の要求に逆らうことができず、安芸国を大和朝廷の支配下にすることを承諾した。

 市杵島姫の安芸国への移動経路

① 宗像大社 宗像か ら湍津姫命が宇佐へ、市杵島姫命が厳島に遷座したと伝える。
② 厳島神社 防府市三田尻1103 祭神 市杵島姫命 田心姫命 瑞津姫命
 「この松原は磯の神厳島明神此処に天降りまして、今の厳島に迂らせ給ひければ・・・」と伝えている。
③ 国津姫神社 防府市富海 祭神 市杵島姫命 田心姫命 瑞津姫命
 三女神宇佐島よりの御船着地の地と伝える。
④ 野島神社 熊毛郡平生町平生131 祭神 市杵島姫命 多伎理姫命 多岐都姫命
 市杵島姫命厳島に降臨の時、この島に暫時御休止あり。
⑤ 装束神社 岩国市装束232 祭神 市杵島姫命
⑥ 旧山陽道の苦ノ坂
「市杵島姫が九州筑紫の国から安芸国へ移動の途中、木野坂へさしかかったところ長旅の疲れも出て苦 しかったので、手に持っていた「ちきり」(機織具)を傍の池に投げてしまわれた。村人は哀れんで池の畔に小さな祠を建ててお祀りしたと伝えられている。それ以来、木野坂を「苦の坂」、池を「ちきり池」と呼ぶようになった。」時、神衣を改められた。

 栗原基氏著「新説日本の始まり」によると広島県高田郡向原町の大土山に住んでいた市杵島姫の子供が行方不明になったのをきっかけとして,向原町実重→福富町久芳鳥越妙見→東広島市志和町奥屋→広島市瀬野川町→東広島市八本松町→東広島市西条町寺家→生口島→大崎上島矢弓→大崎上島木ノ江→江田島町伊関廿日市市宮内→大竹市→宮島町と転々と移動している。この滞在の地にはいずれも厳島神社が存在している。そして,この転々としている領域と同時期の大分系土器の出土する領域が一致している。市杵島姫がその一族と共に大分から広島へ移住してきたものと考えられる。大分県地方から瀬戸内海を渡って,広島県地方に上陸するコースを考えてみると,崖が迫っているところは上陸しにくいので,広島湾に入り込み,そこから三篠川に沿って上流に移動することが考えられる。川をさかのぼっていくと,その先に大土山がある。大土山のある向原町には,水田の跡と考えられる伝承地が点在している。この伝承地は神武天皇の滞在地と重なっているところが多く、神武天皇の行動と内容がよく似ている伝承もある。また、厳島神社は神武天皇を祀ったものと思われえるが、市杵島姫を祀っているのも事実である。この二人に深い関連性を見ることができ、市杵島姫と神武天皇は同時に広島へやってきたのではないかと考えている。

 市杵島姫の出発点は宗像神社と宇佐神宮が考えられる。伝承では宗像大社ですが、広島県下にこの時期のみ大分系土器が出土する。この土器の出土は継続することなく一時期のみなので、交流ではなく集団移動と考えられる。このことから、市杵島姫の出発点は宇佐と考えている。神武天皇の訪問を宇佐で迎えた市杵島姫は、神武天皇が宇佐を出港したとき、神武天皇は北九州地方の巡回をしているが、これとは別行動をして、直接宗像に赴いて宗像から神武天皇に同行したのではないかと考えている。

 市杵島姫の活躍

 安芸国を東倭から譲り受けた後、佐野命(後の神武天皇)は、安芸国を出港した。残された市杵島姫は瀬戸内海航路の拠点づくりをしたと思われる。

⑫ 広島県南西部にのみ大分系土器が弥生時代後期中頃(1世紀後半から2世紀初頭)に出土する。

⑬ 大分系土器出土地域に厳島神社があり、この地域には素戔嗚尊統一伝承がない。

 この時期のみ大分県地方からの人々の流入があったことを意味する。一方的で一時期のみであるから計画的な移動と思われる。移動の目的は市杵島姫に協力して拠点づくりをするためであろう。大分系土器が出土する地域は素戔嗚統一伝承のない地域で、且つ、出雲系土器の出土しない地域の海岸線である。

 市杵島姫は最初大土山に滞在し、その後、大分系土器が出土する地域を回ったのち、厳島に滞在することになった。AD90年ごろまで活躍し、厳島で亡くなったと考えている。

 市杵島姫の御陵は以前から探してはいるが不明である。神社の聖域は本殿の真後ろにあることが多く、厳島神社の真後ろに四宮神社がありこの周辺に御陵橋と呼ばれる橋がある。この四宮神社周辺かな?と思ったが、そのような伝承はない。また、弥山山頂付近にある御山神社は宮島奥の院で、三女神はこの地に降臨されたともいわれており、宮島最大の聖地のようである。ここも市杵島姫の御陵があると考えられないこともないが、具体的な御陵らしきものは見当たらない。もう一つの候補地として、宮島内ではなく、対岸の野貝原山(のうが高原)山頂付近も候補地として考えている。のうが高原はピラミッド伝承があり、巨石遺構が散在しており「高貴夫人の墓」と言い伝えられているものもある。古代参道が存在し、古代からの聖地であったようである。のうが高原から宮島がよく見える。何回か登山したことがあるが、今は廃墟のようになっている。

市杵島姫の御陵 

 市杵島姫の御陵は宮島の対面の「のうが高原」にあるのではないかと考えたが、あまりに伝承がないので、却下した。鳥取県阿毘縁と島根県との境にある「御墓山」ではないかと考えている。

 御墓山は伊弉冉命の御陵として伝わっているが、古代史の復元では伊弉冉御陵は庄原市西条町の比婆山山頂の御陵と推 定しているので、御墓山の被葬者は伊弉冉命ではないことになる。御墓山御陵には神武天皇の参拝は伝わっていないが比婆山御陵には伝わっている。御墓山御陵には倭の大乱時の孝霊天皇の参拝伝承が伝わっている。孝霊天皇が参拝するということは、初期大和朝廷にとって伊弉冉命ではない重要な人物の墓となるわけであるが、該当人物を伝承上から探すと、市杵島姫しか思い当たらない。中国地方一帯は孝霊天皇がやってくるまでは出雲系の支配地だったので大和朝廷系の人物はほとんどいない状況であった。孝霊天皇がほとんど無名の人物や出雲系の人物の墓に参拝することは考えにくく、市杵島姫が浮き上がってきたわけである。他の候補者としては、麓の殿奥にある金屋子神社の祭神である金屋子 神であることも考えらる。この周辺は製鉄の盛んなところで、製鉄の神の祖とされる金屋子神(女性と思われる)がこの地で活躍後亡くなり、御墓山に葬られたと考えることも可能である。この周辺が比田とよばれており、また、金屋子神は東から来た西方を主とする神ということで飛騨系の人物で、飛騨国から製鉄を学ぶために倭国に派遣され、その技術を比田地方で開花させたと推定している。

 島根県側の殿奥に比太神社(祭神吉備津彦)があり、その本殿真後ろはちょうど御墓山の方向を向いてはいるが、御墓山は直接見ることはできない。御墓山の北西方向にそれより高い峰があり、その峰の方向を向いているのである。もし金屋子神が葬られているのであれば、比田周辺がよく見える山に葬る のではないだろうか?御墓山からは比田地方を全く見ることができないのである。むしろ反対側(鳥取県側)が正面のように思える。実際孝霊天皇も阿毘縁側から参拝している。そう考えると伝承上から該当する人物は伝わっていない人物を除けば市杵島姫しかないことになる。

 なぜ、市杵島姫がこのようなところに葬られたのであろうか?市杵島姫が安芸国に派遣されたのは大和朝廷と出雲をつなぐ役割をするためである。そのために市杵島姫は神武天皇が去った後も安芸国から出雲国にかけて巡回していたのではないだろうか?AD18年頃生誕したと推定している市杵島姫は神武天皇が即位したAD83年には現年齢計算で65歳ほどになっており、かなり高齢だったと思われる。高齢でありながらも地方巡回 していたと考えられる。伝承では御墓山の東隣の猿隠山で伊弉冉命が亡くなり、御墓山に葬られたとある。市杵島姫がこの周辺を巡回中、比田地方を眺めようと猿隠山に登山したとき、不慮の事故か何かで亡くなり、その近くに葬られたということが考えられる。その後遺髪か何かを厳島に持ち帰り、弥山山頂の巨石の下あたりに埋納し祭祀が始まったということは考えられる。

二人の市杵島姫の年表

 市杵島姫に該当する人物は古代史の復元では二神存在している。

市杵島姫=天知迦流美豆比売

AD5年頃  飛騨国女王ヒルメムチ(ウガヤ朝第67代春建日姫)の時代、嫡子であった大山祇命(天活玉命=ウガヤ朝第68代宗像彦)の長女として飛騨国にて生誕。 
AD20年頃 丹波国を統一した饒速日尊が飛騨国を訪問した。ヒルメムチは将来ヒノモトを統治するであろう饒速日尊と自らの孫娘天知迦流美豆比売と結婚させる。
 饒速日尊は天知迦流美豆比売とともに丹波国を統治した。この時、二人の間に長女穂屋姫が誕生する。 
AD22年頃 饒速日尊が天孫降臨のためのマレビト探しのために倭国(九州)に帰還することになった。饒速日尊は天知迦流美豆比売と長女の穂屋姫・父の大山祇命を連れて、倭国に帰還した。この時、大山祇命・天知迦流美豆比売らの働きにより安芸国が倭国に加盟することになった。饒速日尊がマレビトをかき集めているころ、天知迦流美豆比売と穂屋姫は安芸国に滞在した。
AD25年頃  饒速日尊の天孫降臨時、同行者の天湯津彦命(饒速日尊と天道姫の間の子と考えられる)とともに、天知迦流美豆比売はその後しばらく厳島を拠点とする伊都岐島姫として活躍する。穂屋姫は後に饒速日尊天道姫夫婦の間にできた天香語山命と結婚し天村雲命を生み、後の海部氏の祖となる。以降しばらくの間、饒速日尊とは別行動をとる。
AD30年頃 大阪府の三島鴨神社の地に拠点を築いていた大山祇命は厳島から天知迦流美豆比売を呼び寄せ、大和葛城地方の高天彦神社の地に拠点を移した。これを機に大和を統一した饒速日尊と再び生活を共にするようになり、積葉八重事代主命が鴨都波神社の地で誕生、下照姫が長友神社の地で誕生、玉櫛彦(大和の事代主命)が高鴨神社の地で誕生した。
AD40年頃 饒速日尊とともに東日本統一事業に参加する。

墓は不明であるが、おそらく饒速日尊と同じ穴師山ではないだろうか。

市杵島姫=素戔嗚尊・日向津姫との間の娘

 AD18年頃  大分県安心院の三女神社の地にて生誕。素戔嗚尊はこの地を倭国の都にしようと計画。
 AD25年頃  安心院の河川敷で饒速日尊の天孫降臨出発式が行われる。この時、大山祇命・天知迦流美豆比売と出会っているのではないかと思われる。また、この時、後の夫になる天三降命と知り合っていると思われる。
 AD30年頃  出雲で素戔嗚尊が亡くなったのをきっかけとして、母の日向津姫は日向に行くことになった。市杵島姫は天三降命の世話になることになった。天三降命に引き連れられて宇佐の地に移動し、そこにとどまった。
 AD35年頃  伊予の大洲で少彦名命を失った大己貴命が宇佐にやってきて、宗像にいる猿田彦命に引き合わせるために、宇佐から連れ出した。市杵島姫はこの頃猿田彦と結婚し、宗像地方で海上交通の安全祈願をしていた。
 AD40年頃  第二代倭国王大己貴命は倭国の都を出雲に定め、出雲で会議(神在祭)が毎年10月に開かれた。猿田彦・市杵島姫夫妻は会議における各地の諸豪族の案内役をした。
 AD45年頃  第二代倭国王大己貴命が鹿児島でマムシにかまれ急死する。
 AD48年頃  出雲での国譲り会議によって猿田彦が臨時の出雲統治者となる。市杵島姫は猿田彦と離別し宇佐に戻った。
 AD50年頃  宇佐を統治していた天三降命と結婚し、宇佐津彦、宇佐津姫を設ける。
 AD80年頃  神武天皇の東遷時神武天皇の訪問を受け、大和九州交易の拠点づくりのために安芸国へ移動することを許諾する。神武天皇が北九州を巡回後、東遷団に合流し安芸国へ移動。
 安芸国を巡回して厳島に落ち着く。
 AD85年頃  出雲への巡回中猿隠山で亡くなり、御墓山に葬られる。

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