阿知使主の謎

 阿知使主に関して穴織宮伊居神社(大阪府池田市綾羽町2丁目4-5)伝承が詳しい。この神社伝承と日本書紀の記述をまとめると次のようになる。

倭国渡来前
 中国の昔、漢より魏へと政治の実権が移り、漢(中国)の霊帝四代目の曾孫である阿知使主及びその子都加使主、父阿知使主は追われて、帯方と言われていた北中国から北鮮の辺りまで神牛と云う占いによって、たどりつき、部下と共にここに宮城をつくり住むことにした。ところが魏の圧力がここでも次第に強くなり危険になってきた。

応神20年(丙戌)九月
 そこで阿知使主は一族の者に、『若しこのままこの国にいたならばおそらく一族部下は滅ぼされるであろう。しかし聞くところによれば東国(日本)に聖主(立派な天皇のこと)があるということである。私はこの天皇に仕えるのが最も良いことであると思う』と伝えて自分の子都加使主、その妹の迂興徳(うこうとく)と、部下七姓(七つの色々の姓の人)の十七県の部下たちをつれて渡来した。阿知使主は倭漢直の祖である。

 応神天皇は、この一族に大和の高市郡檜前(ひのくま)村を領地として与え、ここに住ましめられた。
 阿知使主は当時の日本の文化程度が非常に低いのを見て『帯方という国には男女共に才芸の優れたものが多く、最近では高麗、百済(北朝鮮)の辺りを流浪し、不安な毎日を送っています。これらのものたちを使いを出して日本に呼び寄せていただきたい。』と天皇に懇願したので天皇は早速八腹氏に命じてこれを迎えにやられ連れ帰って日本の国民にされた。

 応神37年春2月
 阿知使主、都加使主を呉に遣わして、縫工女を求めさせた。二月勅命を奉じて部下百二十六人を連れ、まず高麗の国へ至り、これより先、呉への道、不明なるため高麗王に案内者の人選を依頼し、久礼波(くれは)、久礼之(くれし)の両名を得、漸く呉国へ到着した。

 呉王は日本よりの勅使の到着をいたく喜び饗応し、のぞみの趣を了とし、早速数多の優れたる工女の中より撰びに撰び人選を重ねて裁縫の師として兄媛(えひめ)弟媛(いろとひめ)を、機織の師として穴織・呉織の四媛を贈られた。かくて阿知使主等一行は山海万里の長途をつつがなく終え帰国した。

 応神41年春2月
 裁縫師兄媛、弟媛、及び穴織(あやは)、呉服(くれは)の機織の師四女を伴い帰国した。時筑紫の領主、胸形大神(宗像神社の祭神)のねんごろなる乞いにより断るを得ず兄媛を置き(筑紫御使君の祖先)三媛を伴い同年二月摂津国武庫浦に着船。応神天皇崩御の報に接した。
 阿知使主は驚きかつ悲しみ、急遽船を猪名の海に乗り入れ、猪名の港より上陸し、馬にて都へ走った。子、都加使主は船に三媛を護って留まり、父の帰船を待つこと三日、時に如月の海波浪荒く、風激しく危険なるを思い、猪名の港に船を着岸(当神社の下なり)せしめ、三媛を上陸、仮の宿舎を作り、ここに守護することとした(今渋谷の地なり)。阿知使主、都より帰り、別途沙汰あるを伝え、暫時この地にて滞在した。

 仁徳元年
 阿知使主は仁徳天皇にお仕えすることになり天皇はその功を賞して新たに猪名の津(現在兵庫県川辺郡及び伊居太、豊中一円)を領地として与え、ここに穴織、呉織の機殿、縫殿を建て、全国の婦女子を集めて技術を教育し又この地の治安、行政の任に当らしめられた。この地名にちなみ、猪名津彦の神と申し上げる。六月十日阿知使主一族並びに三媛ともに同天皇に仕えることとなった。
 天皇厚く阿知使主の労をねぎらい給い、領地として猪名の都の地一帯を賜った(現池田市を中心とする付近の地なり)。阿知使主はこの地に織殿・縫殿を建て(平尾なりといわれる)、盛んに機織・裁縫の業を興すこととなった。呉国へ随伴せる百二十六名中四十二名は、阿知使主の一族で、みな漢氏を名乗る人たちで、六名は奴玖部(ぬくべ)、比良部(ひらべ)を頭として六役を定め、年遇収納と、湊の奉行職を掌り、十二名は巨勢林(こせばやし)、久米比手(くめひで)を頭として呉織の織殿を守護し、他十二名は涯ろう(羊偏に良)佐々和志(かいろうささわし)、犬かい(羊偏に良)物部(いぬかいもののべ)を頭として穴織の織殿、縫殿を守護、残る十二名は知代保奴気臣(ちよほぬきのおみ)、牟手我孫宇奴比古(むこあびこうぬひこ)を頭として阿知使主の家臣とし、職責を分担し、能利布弥(のりうね)、宇気船(うきふね)等、八十四名の水手達は、阿知使主に属して、地内全般の治安、行政に任じ、一族挙げて我国の機織、裁縫の業発展に専念することになった。
 そこで、仁徳天皇は全国に養蚕を奨励し、採取した繭を全部この織殿に納めしめられ、糸につむぎ、染色、加工され、上は宮中の服飾より、国民の男女、四季、階級に応ずる服制を定められて全国に配布されると同時に、各地より婦女子を集めて穴織の織殿にて綾羅(りよらお)を織る業をはじめ裁縫の道を教授せしめられた。
 ここに於いて穴織の織殿、縫殿は日に日に教えを乞う者多くなり弟媛をはじめ阿知使主の家臣十二名其の他もあげて穴織の織殿を援助し、生産、教育に励んだため、この道いよいよ盛んになり、全国所々に精巧なる織物を産するに至った。したがって、猪名の湊は夜に日に殷賑を究め、ここに難波猪名の津(津は大きな町のことなり)が開かれることとなった。
 都加使主、仁徳天皇三十一年四月十一日逝去
 穴織媛は仁徳天皇七十六年九月十七日長逝され遺骸を梅室に、呉織媛は翌十八日に逝去され、遺骸を姫室におさめられた。天皇は両媛の功を多とせられ、翌七十七年己丑十一月十三日、勅定により神社を建て、御鎮座式を執り行われた。これより呉織の里と呼ばれたるこの地を伊居太と改め、当神社を秦上社伊居太神社(はたかみのやしろいけだじんじゃ)と称し奉ることとなった。

 履中天皇
 仁徳天皇崩御の折、住吉皇子が反乱を起こし、皇太子を殺いたてまつろうとしていることを知り、阿知使主は平群木莵とともに難を皇太子に告げ、馬にて逃れ禍をさけたので、後、皇太子が皇位につかれた時、その功により蔵の官をさずけられ、新たに領地を賜った。

 反正天皇
 阿知使主は、反正天皇三年四月八日に長逝され、同年二神の功を賞し、更正まで祀らしめんとして社を建立され猪名津彦神社と命名された。(漢・秦・大蔵・丹波・田村・坂上等の姓の人はみなこの二神の子孫である)

 応神天皇20年は386年、反正天皇3年は435年である。倭国で50年ほど活躍したことになっているが、阿知使主は倭国にやってきた時、すでに成人した子都加使主がいた。この子が応神20年に20ぐらいだったとすると、阿知使主は40ぐらいの年齢になり、反正3年には90歳前後となっているはずである。都加使主が仁徳31年(411年)に亡くなっているので、長寿だったことは確かなようであるが不自然である。

 また、382年(応神16年)に弓月君が一族郎党を率いて来朝している。機織りを職とし、秦氏の先祖である。阿知使主はその4年後に来朝し同じく機織りを職とし、秦氏の先祖といわれている。大変よく似ているのである。阿知使主が日本へやってきた時はまさに朝鮮半島が戦乱の真っ最中である。

 渡来の時期

 魏の圧力が強くなったために倭に移ろうとしたとあるが、386年には魏は既に存在しない。また、中国の呉の滅亡は280年である。さらに阿知使主が後漢霊帝のひ孫であるなら、その活躍時期は3世紀中ごろとなるはずである。

穴織宮伊居神社では漢の霊帝のひ孫とされている阿知使主は丹波氏系図によると、

『続日本紀』 「後漢霊帝之曾孫阿智王・・・」
『日本後紀』 「阿智使主後漢霊帝之曾孫・・・」
『続日本後紀』 「後漢霊帝曾孫阿智王・・・」
『続日本後紀』 「後漢霊帝曾孫阿知王・・・」
『三代実録』   「後漢孝霊皇帝四代孫阿智使主・・・」
『坂上系図』  漢高祖皇帝―石秋王―康王―阿智王
『坂上系図別本』 霊帝―献帝延王―考徳王―石秋王―阿智王
古代氏族系譜集成・坂上氏系図では、霊帝─南海王─石秋王(封東呉石秋県、至帯方郡)─昕(帯方大守。弟楯は百済上柱国)─昉(帯方大守)─昇曻(沂州司馬)─阿知使主─都賀使主─阿多倍(高貴王)→東漢氏・坂上

 後漢霊帝の没年(189年)より1世30年として計算すると、南海王(190~220)─石秋王(220~250)─昕(250~280)─昉(280~310)─昇曻(310~340)─阿知使主(340~370)─都賀使主(370~400)─阿多倍(400~430)となる。

 阿知使主は386年に来朝し434年没、都賀使主は386年に来朝し412年没である。阿知使主はかなりの長寿だったので大きくずれているが、都賀使主はほぼ一致しているといえる。また、劉昕は240年頃帯方太守であったと伝えられている。劉昕は坂上系図の昕と同一人物であると思われる。若干ずれているがほぼ一致しているので、坂上氏系図は大体正しいと判断してよいであろう。

霊帝━━━南海王━━石秋王━┳昕━━━━昉━━━━昇━━━━阿知使主━都賀使主━阿多倍(高貴王)→東漢氏・坂上氏
              ┃
              ┗循


孝元天皇━開化天皇━崇神天皇━垂仁天皇━景行天皇┳成務天皇
                        ┃
                        ┗日本武尊━仲哀天皇━応神天皇━仁徳天皇

 この系図であれば、阿知使主は応神天皇とほぼ同世代となる。

 それでは、穴織宮伊居神社伝承の魏に追われて日本列島にやってきた人物は誰であろうか。石秋王は霊帝の孫なので、霊帝のひ孫は石秋王の子となる。系図上の昕は帯方太守なので、上の系図によると、霊帝のひ孫に「循」という人物が存在している。阿知使主と同族である。魏の勢力が朝鮮半島に及んだのは、245年である。「循」が次の246年に倭に渡来したのではあるまいか。崇神天皇即位直後のことである。386年は半年一年暦の干支で丁卯で、246年が中国暦の干支丁卯である。来朝後崇神天皇に仕えたと思われる。

 循は阿知使主と同族であり、同じ干支の年に来朝しているので、循の来朝と阿知使主の来朝が重なって伝わったのではあるまいか。

 阿知使主の来朝は伝承どおり応神20年(386年)であろう。この頃は高句麗が朝鮮半島に勢力を拡大し始めた時であり、阿知使主は高句麗の侵攻を恐れて日本列島にやってきたものと考えられる。

 東晋に訪問 

 穴織宮伊居神社伝承にある呉国を訪問したという記事は年代が合わない。応神天皇の時代に呉は存在しない。この当時呉と同じ江南地方に存在したのは東晋である。阿知使主は東晋を訪問したのであろう。循の来朝との混乱が起こり、さらに日本書紀の編集によって神功皇后の時代が卑弥呼の時代と重なってしまったために東晋が呉と誤って伝えられることになったのであろう。

 訪問時期は応神37年となっているが、古代史の復元には応神37年は存在しない。応神天皇は応神28年(394年)に崩御している。

 応神天皇時代の28年より後の記事はそのまま仁徳天皇時代のものとなっている記事が多い。しかし、応神41年の阿知使主が帰朝した時の記事は応神28年のものと考えられるので、応神37年はそれより前でなければならない。呉に滞在した年数が同じならば、応神37年は応神24年(390年)となる。高句麗は都加使主が呉国(東晋)に訪問するのに協力しているが、倭国と高句麗が対決する前年なので、協力しても不自然なところはない。この年より後であれば、高句麗が倭国に協力することなどあり得ないであろう。都加使主が東晋を訪問したのはAD390年と判断する。

 それぞれの人物の没年

 伝承では阿知使主の没年は反正天皇3年(AD435年)、子の都賀使主は仁徳31年(AD412年)没と伝えられている。来朝(AD386年)した時、阿知使主40歳程度、都賀使主15歳程度とすると、阿知使主の没年齢は90歳程、都賀使主の没年齢は40歳前後となる。阿知使主は当時としては長寿だったことになる。

 穴織媛の没年は仁徳76年である。仁徳天皇は仁徳61年までの在位と推定している。仁徳61年以降は追加年である。仁徳76年とはいつなのであろうか。そのまま延長すると、反正天皇2年(434年)で、換算半年一年干支(新干支)では仁徳76年は戊子である。旧干支との混乱とすれば、旧干支で戊子となるのは仁徳60年(AD426年)となる。翌年仁徳天皇は崩御しているので、おそらく前者AD434年没ではあるまいか。

 AD413年に仁徳天皇(讃)は東晋に朝貢している。この時都賀使主が亡くなった翌年であり、阿知使主は70歳前後と推定される。都賀使主は390年に東晋に訪問しており、東晋の様子を熟知していたであろうから存命であれば、都賀使主が使者となったことであろうが、前年に亡くなっている。阿知使主が朝貢の文書を書いたのではないかと考えられる。使者として派遣されたのは、都賀使主の子である阿多倍ではないだろうか。

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