継体天皇即位前

 継体天皇関連地図

 蘇我韓子が武烈天皇は都合が悪いと、後継者のことを考えず武烈天皇を暗殺してしまった。これを知った大伴金村はあわてたことであろう。武烈天皇に皇太子がいないために、皇統が耐えてしまう危険性があったのである。皇統が絶えてしまえば、日本列島統治者を巡って豪族たちの争いが始まる可能性がある。何としても豪族たちが納得できる後継者を探し出さなければならない。

 継体天皇は今までの皇統とは全く別の新王朝であると説く説があるが、これはあり得ないと判断する。その最大の理由は豪族団に変化がないことである。王朝を支えているのは周辺の豪族であり、もし、前王朝を倒して新しい王朝が成立するならば、それを支える豪族団に大きな変化があるはずであり、また、新王朝成立のためには旧王朝の残存勢力を倒すために戦乱が起こるはずである。また、それを実現するためには新王朝がそれなりの巨大な勢力を拡大する必要がある。日本書紀を見る限りにおいてこのような傾向が全く見られず、平和裏に継体王朝に移行しているのである。これは、武烈天皇を支えた勢力がそのまま継体王朝を支えているのであって、前王朝を倒して新王朝を立てたということなどあり得ない話となる。

 武烈天皇が亡くなった後、後継者がいないので、大伴金村は地方に使者を送り、後継者を探した。そして、越前国にいた男大迹王に白羽の矢があたり、第26代継体天皇として即位した。

 男大迹王の生誕

 男大迹王は日本書紀では即位時58歳、崩御時82歳と記録されているが、一方古事記では43歳と記録されている。後継者が高齢な場合、在位期間も短くなるために、その子安閑天皇がそのまま即位した方が、朝廷の安定には良いように思える。また、崩御時の82歳というのは当時としては長寿であり、また、その子の安閑(70)・宣化天皇(73)も合わせて長寿となる。

 このような状況なので古事記の43歳の方が自然である。継体天皇崩御時の534年に43歳であるとすれば、その生誕は492年で、即位した510年には19歳となる。武烈天皇と同じ年に生誕したことになる。

 日本書紀の年代に従うと継体天皇崩御時安閑天皇は69歳、宣化天皇は68歳となる。継体天皇が82歳なので、安閑天皇は継体天皇13歳、宣化天皇は14歳のときに誕生したことになる。皇子生誕時の継体天皇の年齢が若すぎるのである。ここで、「真清探當證」をもとに考えてみると、継体天皇生誕はAD477年(雄略15年)である。そうすると、安閑天皇は28歳の時、宣化天皇は29歳のときに生誕したことになる。

 安閑天皇は504年、宣化天皇は505年に生誕したことになる。しかし、尾張目子姫との結婚が尾張を出てからかなり年数が経つことになり不自然さを感じる。 

 「真清探當證」による男大迹王の生誕

 「真清探當證」では弘計王と彦主人王の娘豊姫との間に、後の継体天皇となる男大迹王が雄略15年(AD477年)に生誕したことになっている。しかし、古代史の復元では継体天皇は即位後仁賢天皇の娘手白香皇女と結婚しその皇子を欽明天皇として即位させている。以降欽明天皇の系統が元皇室までつながっているのである。継体天皇の子である安閑・宣化両天皇は欽明天皇への繋ぎの天皇として位置づけられている。これは顕宗・仁賢の系統を受け継ぐ意志の表れであり、継体天皇が弘計王(顕宗天皇)の子であればそのようなことをする必要がない。また、彦主人王は応神天皇4世であり、顕宗・仁賢天皇が応神天皇4世であることから考えると、彦主人王は顕宗・仁賢天皇と同世代と考えられる。継体天皇は彦主人王の子であり、記紀の記録の方が正しいと判断し、これを採用する。

 「真清探當證」によると、生誕後の男大迹王はその直後子供を亡くした草平夫婦に預けられ、根尾谷(岐阜県本巣市)にて成長した。男大迹王はこの周辺地を転々としたようで、弓矢が上達した頃住んでいた地を「神所」(根尾村)、次に移った地を「神有」(美山町)、日々乗馬に励んだ稽古地を「馬場」(美山町)。他に「奥峠」(美山町)、「八月」(美山町)等もゆかりの地とされている。

 AD494年仁賢天皇が即位した。この年の11月大嘗祭も共に施行することが発表され、この祭典の挙行にあたって、雄略天皇の迫害を恐れ、諸国に散在潜伏している宮宅があれば、旧位に復し大嘗祭参列を許可するという勅旨を6月に国主を通じ発布した。根尾谷に隠れ住んでいた男大迹王が世に出るチャンスが訪れたのである。

 AD494年10月大嘗祭を間近に控えたあわただしい中に、仁賢天皇の母と三男の橘王が参内した。仁賢天皇が勅使を二人の住む播磨へ派遣し呼び寄せたのである。この二人は雄略天皇から逃避行した時、丹波田疾久方にかくまわれ、その後播磨に住んでいたのである。記紀において弘計王、億計王が播磨で見つかったとされたのは、この母子の所在地に差し替えられたものと考えられる。

 仁賢天皇は美濃の男大迹王にも参内を促した。美濃を出発することになった男大迹王に現地の人々は何か居住の記念物を残してほしいと懇願した。住居の跡地に桜を自ら植えた。これが現在まで存在している本巣市のうすずみ桜である。このとき、男大迹王は桜に添えて、1首の歌を詠んだ。

 身の代と遺す桜は薄住よ 千代に其名を栄盛へ止むる

 この詠歌をいただいた村人は歓喜にあふれ男大迹王の出発を見送った。男大迹王は琵琶湖畔を経由して大和に向かった。

 その後、男大迹王は丹波に向かいそこで生活することになった。

 神社伝承による生誕伝承

日本書紀によると
 父・彦主人王は母・振媛が顔きらきらして、大変美しい人であることを聞いて三国の坂中井(福井県坂井市)へ使いを送り、近江国高島郡三尾(滋賀県高島市)の別業に召し入れてお妃とした。
 男大迹王が生まれて間もなく、彦主人王は亡くなってしまう。そこで振媛は「私は今遠く故郷を離れてしまいました。ここには親類縁者もなく、私一人では養育することができません。越前国高向に帰って親の面倒を見ながらお育てしたい。」と言い、幼い男大迹王を連れて高向に帰った。

 振媛が継体大王ほか2児を無事に出産したときにもたれた石と伝えられる「もたれ石」は、安曇川町田中の馬場区と陵区が接するあたり、現在三尾神社旧跡とされる場所にあります。

 また、継体大王誕生のときの胞衣(えな/胎盤)を埋めたと伝えられる胞衣塚が、安曇川町三尾里区の南端に位置しています。これは直径約11.5メートル、高さ約2.5メートルの円墳で、古墳の上に生えている松は「ごんでんの松」と呼ばれています。

 また、拝戸の水尾(みお)神社も、その拝殿が振媛の産所となったと伝えられる神社で、さらにその北本殿は、彦主人王が振媛の安産を祈った仮社跡に建てられた社であるともいわれています。

出典:高島市役所発行「広報たかしま」

安産持たれ石 高島市安曇川町田中

 三尾神社旧跡は、彦主人王に天成神道を教授した山崎命の創祀と言われ、ここに彦主人王の后振姫が産屋を構えたその折、振姫がもたれたと伝えられるのが「もたれ石」である。この石を撫でて自分の腹をさすり、安産を願うという素朴な習わしが今も残っている。

 男大迹王は三重生神社に5歳になるまで滞在していたという伝承がある。伝承通りならば、496年に越前の高向に移ったことになる。

 「真清探當證」の伝承とは食い違うのであるが、大和で仁賢天皇の大嘗祭を行った後の男大迹王は丹波国に移り住んだと伝えられており、その時の滞在地の1つが高島市であることが考えられる。

 継体天皇生誕にかかわる伝承の比較

 「真清探當證」によれば、振媛は彦主人王の娘で弘計王の妻である。「真清探當證」と記紀・神社伝承とは男大迹王の生誕地、生誕年、母(名前は同じだが血筋が異なる)のである。真実はどうなのであろうか。

 生誕年は「真清探當證」の方が皇子の生誕年が合理的である。また、男大迹王の妻が記紀でも尾張連草香の娘目子姫であり、尾張との関連性が考えられる。

 男大迹王の生誕伝承自体は共に相譲らずと言ったところであるが、高島市の神社伝承の方は男大迹王他2児の生誕伝承であり、男大迹王には弟か妹がいたことになる。この弟か妹の生誕伝承地が高島市と考えれば両者はつながる。

 男大迹王の母は振姫であるが、神社伝承では福井県坂井市に複数の伝承を持つが、「真清探當證」の方は正式には豊姫であり、弘計天皇と別れる時に振姫と呼ばれるようになったと伝えられている。この両者の伝承は神社伝承の方が優位といえる。

 両伝承の優位なところをつなぐと、彦主人王は尾張にいて、母を越前国から召しだしたことになる。

 男大迹王の母が福井県坂井市出身であるとすれば、尾張にいた彦主人王が福井県から振姫を召しだしたことになる。男大迹王伝承が福井県に数多く残されており、「真清探當證」の伝承とは時期が異なるので生誕伝承以外は両者に矛盾はない。男大迹王が成人後大和に呼ばれるまで福井県にいた理由が母振姫の出身地であるとすれば、説明がつく。彦主人王は何らかの交流で越前国の方を訪問したことがあり、その時、振姫が目にとまり召しだしたのではないだろうか。その両者の間に生まれたのが男大迹王である。

 両者の伝承をつなぐと彦主人王は尾張を拠点とし、近江・越前にも足を運んでいることになる。彦主人王は億計王・弘計王の家臣であり、身の回りの世話をする立場にあった。その人物がなぜ近江や越前を巡回しているのであろうか。

 この当時は雄略天皇が健在な時であり、億計王・弘計王の行方を捜していたと思われる。彦主人王は二皇子の居場所が雄略天皇に見つかった時の逃避先を探していたのかもしれない。あるいは、将来この二皇子を旗頭として雄略天皇の支配する大和朝廷を倒して、新大和朝廷を建てることを計画して、その素地を作るために近江や越前を巡回していたのかもしれない。雄略天皇は暴君として知られており、反感を持つ豪族も多かったのではないかと思われる。その途中で振姫を見つけ、彼女を召しだしたとすれば両伝承はつながるのである。

 彦主人王は男大迹王10歳の時、尾張で亡くなっている。誕生直後、男大迹王は他人に育てられており、振姫は男大迹王を残して越前に帰ったようである。

 男大迹王誕生直後、両親から引き離されて育った事情

 彦主人王は将来の大和朝廷との戦いに備えて、味方作りのため、地方巡回をしており、幼少の男大迹王を連れまわせなかったのと、その巡回が雄略天皇の耳に入った場合一族もろともに殺害されることを恐れて、人目に着かないところに預けたのではないだろうか。それが、子供を亡くした直後の草平夫婦であり、その地が山奥の根尾谷であったのである。

 男大迹王結婚に関する伝承

 「真清探當證」によると、男大迹王は根尾谷の地で同じ地にすむ兼平夫婦の娘目子姫と紀元1144年(顕宗10年)に26歳で結婚したことになっている。顕宗10年は実際には存在しない年であり、何かの条件をもとに逆算して顕宗10年に位置付けたものと考えられる。実際はAD492年(顕宗元年)あたりと考えられる。

 根尾谷からの脱出

 仁賢天皇が即位したAD494年、仁賢天皇自身が真黒田神社にやってきた。この時神号を現在まで使われている真清田神社とした。そして、根尾谷で隠棲している男大迹王を大和に参内するように召しだしたのである。男大迹王は大和に上京するようになった。村人は一斉に集まり、最期の離別を惜しんだ。王は村人に農耕技術を伝えており、人々から敬愛されていたのである。村人は別れに臨んで、何か居住の記念物を残してほしいと嘆願した。そこで、男大迹王は真黒田神社に参詣した時の桜樹を誕生まもない二男檜隈高田王(宣化天皇)の産殿を破壊して、その跡地に自ら植えた。

 このとき、男大迹王は桜に添えて1首の歌を詠み、村人に残した。

 身の代と遺す桜は薄住よ 千代に其名を栄盛へ止むる

 この桜が現在まで本巣市に残っている推定樹齢1500年の薄墨桜といわれている。男大迹王はこの後大和に上り、仁賢天皇の大嘗祭に参加したといわれている。

 安閑宣化天皇生誕について

 安閑・宣化天皇の生誕伝承地は越前の高向宮及び美濃国の根尾谷である。どちらが正しいのであろうか。根尾谷で生誕しているとすれば、安閑天皇がAD493年、宣化天皇がAD494年となる。男大迹王が17歳と18歳の時となる。目子姫が同じ地に住んでいた兼平夫婦の娘であることを考えると自然につながることになる。継体天皇が亡くなった時、安閑天皇42歳、宣化天皇41歳となる。あり得ない話ではない。

 神社伝承の皇子生誕伝承地が正しいとすると、尾張目子姫が武烈天皇即位年に継体天皇と結婚していることになり、男大迹王が根尾谷を出てから8年経過した後になる。尾張の人物と結婚したのであるから、その結婚は尾張にいる時と考えるのが自然と思われる。よって、皇子生誕地は「真清探當證」の方が正しいといえる。

 仁賢天皇の即位式に参列した男大迹王は、朝廷内の権力争いを感じたことであろう。男大迹王は根尾谷で人々と触れ合いながら成長しているわけであり、権力争いとは無縁の存在であった。その朝廷の雰囲気を嫌い朝廷を去る決心をしたと思われる。皇位継承権があるわけでもなく、気軽に母の里である越前を目指して出発した。

 高向宮

 高向宮伝承地

振媛神社 南越前町東大道26-14 この神社は羽太(はぶた)神社の境内社で、祭神は継体大王の母・振媛と、后妃・茨田連小望関媛の二人です。不思議なことに、この神社の住所が南越前町東大道字高向となっており、古文書にはこの神社のことが「高向宮とも申す」と紹介されています。
高向神社 坂井市丸岡町高田1-7-1 継体大王の母・振媛の故郷がこの周辺の高椋(たかぼこ)村といわれています。振媛は近江国高島郡三尾の彦主人王に嫁ぎますが、継体大王が生まれて間もなく彦主人王が亡くなってしまいます。そこで振媛は、故郷の高向郷に帰り、継体大王を養育したと言われています。高向の宮跡は、昭和49年1月に坂井市指定文化財となっています。
姫王の碑 坂井市春江町姫王12-25 継体大王の母・振媛はこの地で亡くなったとされ、現在は石碑が建っています。
伊伎神社 坂井市三国町池上25-2 祭神のひとつとして継体大王を祀っています。離宮を置いたという伝承があり、付近には、「王屋敷山」「高向」「皇子池」「王馬家畑」などの小字名が残っています。
けいちんの井戸 坂井市三国町御所垣内 『継朕の井戸』とも書く。かつてこの地に振媛が住んでおり、継体大王が使った古井戸といわれています。

 男大迹王は496年頃に高向宮に移ってきた。母の振媛は、故郷の高向郷に帰っている。南越前町にも高向宮伝承地があるが、他の伝承を照合すると、坂井市の高向神社が真実の高向宮址であろう。南越前町は移動途中で滞在した地ではないだろうか。

 皇子生誕伝承地

勾の里 越前市上真柄町 継体大王の第一皇子である勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ、後の第27代安閑大王)が誕生した地と伝えられ、継体大王が月見の際に腰掛けていたと言われる月見石も残されています。
皇子ヶ池 継体大王の2人の皇子、後の第27代安閑大王と第28代宣化大王が誕生した際、産湯に使用したといわれる池があったのがこの場所です。花筐公園の一角にあり、周囲には六角形の玉垣がめぐらされていますが、これは、継体大王1300年祭を記念して再建造営されたものです。
 平成17年には福井県が、皇子ヶ池のほとりにある井戸を、直接飲用可能な湧水として「ふくいのおいしい水」に認定しました。
佐山姫公園 越前市粟田部町 継体大王と照日の前が出会ったとされる場所で、御所跡とも伝えられています。また照日の前は佐山姫と呼ばれていたともいわれています。
花筐公園 越前市粟田部町17-20 継体大王が皇子の頃、暮らしていたと言われるのが越前市粟田部町の花筐公園周辺です。園内には桜やつつじ、紫陽花、紅葉など四季を通じて美しい自然にふれることができます。
 また公園内にある福井県指定天然記念物の薄墨桜(樹齢600年以上)は、継体大王が、愛する照日の前に形見として残したものとも言い伝えられ、その後、次第に色が薄くなっていったため、薄墨桜と呼ばれるようになったといわれています。

HP(継体大王と越の国・福井県より)

 男大迹王の最初の妻は尾張連草香の娘で目子姫といわれている。この姫との間にできた子が、後の安閑天皇と宣化天皇である。しかし、両皇子を引き連れてこの地に達したが、別の女性との伝承が見られるため、目子姫はここには来ず、大和に残ったのではあるまいか。この地で別の女性との間に別の皇子が誕生したのであろう。503年頃、越前市栗田の地に移動してきたのであろう。高向宮には7年ほど滞在していたことになる。

 長田宮(仮称)

長田神社 坂井市春江町西長田34-37 祭神として継体大王を祀っています。継体大王がこの地に5年間滞在したとき、5人の長の一人である道麻呂の娘・琵琶媛を娶り、千鶴姫(ちづるひめ)が生まれました。
千鶴姫は3歳でなくなってしまいますが、この姫の産湯に使ったのが長田池といわれています。

 長田宮に滞在したのは5年間とある。505年まで越前市栗田の地にいたと思われるので、この地に移動してきて、大和から迎えが来るまでここに滞在していたことになる。しかし、ここに常駐していたわけではなく、周辺地域を巡回していたようである。以下はその巡回伝説である。

国神神社 坂井市丸岡町石城戸1-2 継体大王の息子・椀子皇子が生まれた場所とされる現在の丸岡城のある丘に最初はありましたが、丸岡城を築城した柴田勝豊が現在の場所に移したとされています。
祭神として椀子皇子(継体大王の息子)、振媛(継体大王の母)、彦主人王(継体大王の父)を祀っています。
王屋敷 坂井市坂井町大味付近 継体大王の仮宮が大味地区附近にあったといわれています。
腰掛石 坂井市三国町梶41-1 坂井市三国町梶の貴船神社境内にあり、継体大王が御幸の時に休息したと伝えられています。
日野神社 日野山の麓に継体大王を祭神とする日野神社が多くあります。「継体大王が当国に潜龍し給いし時、二人の皇子(後の安閑天皇、宣化天皇)を伴って登山され、朝日を拝まれて、その鮮やかなことに感じ入られ、此処こそ朝日を拝すべき山であると仰せられた」と伝承され、日野山の登山道口に祀られています。
熊野神社 南越前町清水9-5 越前国名蹟考によると、継体大王が熊野神社に参拝して休んでいた際、あたりでウグイスが良い声で鳴いたことから、この神社を「初音の宮」、またこの地を「鶯ノ関」と名付けられたと言われています。
麻氣神社 南越前町牧谷54-19-1 継体大王の后妃・麻績娘女(おみのいらつめ)が病気になった際、薬効がないのを憂い、奇玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと)に平癒を祈念したところ、病が癒えたので社殿を造営したといわれています。
地名の「牧谷」の「麻気」は、麻績娘女の「麻」と病気の「気」から名付けられたと言われています。
水門神社 水門神社は、継体大王在位中に、三国の人々が大王のご恩徳を敬慕し、寿像を彫刻して、御宮所の跡に一社を建て、ひそかに祭祀したのが始まりといわれています。
坂井市 継体大王がたまたま山岸へ来た折りに、キュウリの棚で目を突かれました。村人はもったいないことをしたというおわびのしるしに、キュウリを作らないことにしたそうです。この風習は現在も続いています。

 これらの伝承は長田宮を本拠とする時の伝承と思われる。

 治水伝説

岩座 坂井市春江町石塚52-17 石塚神社脇にある大きな石は、継体大王が九頭竜川の治水を行った時、この岩の上から指揮をとったといわれているものです。
熊野神社 福井市加茂河原町32-7 弓筈(ゆはづ)社・矢筈(やはず)社を合祀しています。弓筈社は越前平野の治水のため、河川改修に笏谷石を多く使用したのが始まりで、石工達が生計出来るようにされた継体大王をお祀りしたといいます。
 矢筈社は、治水に働く役夫が暑いときに、水を乞うたので、男大迹王が弓矢の筈(矢の末端)で巌を撞くと、冷水を得たところから、王自ら水神を祀られたところといわれています。
笏谷石・立矢 福井市 継体大王が悪竜を退治して治水しようとされ、足羽山に登り海に向かって矢を射たところ、矢はぐるぐると水面を回り、やがて海に飛び込んでいきました。すると、矢とともに一面の水が海に引いていきました。そして、矢は三国まで飛び、また戻ってきては落ちて地上に突き立ちました。この地が立矢町(現在の足羽1丁目付近)で、その時手にしていた笏を捨てたところが笏谷であると言われています。
迹王の餅 越前市 1500年の歴史を持つ神事で、毎年10月13日に岡太(おかふと)神社で行われています。継体大王が526年に大和国磐余(いわれ)玉穂宮(たまほのみや)(奈良県桜井市)に遷宮されたことを祝った行事です。
 継体大王が河川を改修して洪水を治め、農業や養蚕を奨励するなどしたことに人々が感謝し、餅を差し上げたところ、皇子もまた餅を人々に与えられたという故事に拠っています。
 数え年25歳の若者が氏子の家々を回り、餅を集めて神社に奉納します。餅は御煎餅(おせんべい)として、区民に分与されます。
足羽山公園 福井市 足羽山山頂の足羽山公園三段広場には高さ4mを越える継体大王の石像が建っています。この石像は、明治17年(1884年)、内山基四郎を中心とした石工たちが立てたもので、笏谷石でできています。石像は継体大王が治水に際して水門を開かれたと伝えられる北北西の三国港を向いています。

 男大迹王の時代は、現在の福井平野は大きな湖沼であり、そこへ九頭竜川、日野川、足羽川が注いでいた。そこで、男大迹王は三国において河口を切り開き、大湖沼の水を日本海へ流出させ、跡地を一大田園と化すとともに澪筋、を定めて舟運や灌漑の便を図ったと伝えられている。

 男大迹王の大きな事績である。この工事はおそらく508年頃男大迹王32歳前後の時、に始められたものであろう。完成は男大迹王が即位した後のことと思われるが、若き男大迹王は福井平野の開拓の必要性を感じ、開拓の指揮を執ったと思われる。

 大和からのお迎え

てんのう堂 坂井市丸岡町女形谷15-7 男大迹王(継体大王)に即位を要請するため、大伴金村が遣わしたヤマト政権の使者物部麁鹿火大連(もののべのあらかいおおむらじ)と許勢男人大臣
(こせのおひとおおおみ)と男大迹王とが会見した場所と言われています。
足羽神社 福井市足羽上町108 即位のため福井を離れることになった継体大王が、自らの生霊を合祀し娘の馬来田皇女(うまくだのひめみこ)を斎主としたことが始まりです。ご祭神の継体大王がたく
さんの子宝に恵まれたことから、「子授け、安産、子孫繁栄」を御神徳としています。

 509年に武烈天皇が後嗣定めずして崩御した。皇位継承者のなくなった大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣巨勢男人らは何とか過去の天皇の血統の人物を探した。雄略天皇が即位する時有力人物をほとんど殺害しており、それ以降皇統の危機が続いていたのである。まず丹波国にいた仲哀天皇の5世の孫である倭彦王を次の天皇に考えたが、迎えの兵士をみて恐れをなして、倭彦王は山の中に隠れて行方不明となってしまった。
 そこで、次に越前にいた応神天皇の5世の孫の男大迹王にお迎えを出した。男大迹王は心の中で疑いを抱き、河内馬飼首荒籠に使いを出し、大連大臣らの本意を確かめて即位の決心をした。翌年510年河内国樟葉宮において即位し、武烈天皇の姉にあたる手白香皇女を皇后とした。

 日本書紀にはこのように描かれているが、男大迹王と顕宗・仁賢天皇とのかかわりにおいて、大伴金村は最初から男大迹王に次の皇位を引き受けてもらおうと考えていたのではないかと思われる。

 継体天皇は数多くの皇后を迎え、数多くの皇子が生まれている。皇統の危機を乗り越えるために行ったものと考える。安閑・宣化天皇は越前で誕生した皇子であるが、次の欽明天皇は手白香皇女の皇子である。

日本書紀系図

         ┏菟道稚郎子              ┏飯豊青皇女
         ┃                   ┃     ┏武烈天皇
仲哀天皇━応神天皇╋大山守皇子 ┏履中天皇━━市辺押磐皇子╋仁賢天皇━┫
         ┃      ┃(隋)         ┃     ┗手白香皇女━┓
         ┣仁徳天皇━━╋反正天皇        ┗顕宗天皇        ┃
         ┃(讃)   ┃(珍)  ┏安康天皇               ┃
         ┃      ┗允恭天皇━┫(興)                ┣━欽明天皇━━━┓
         ┃       (済)  ┗雄略天皇━━━清寧天皇        ┃        ┃
         ┃             (武)                ┃        ┣敏達天皇
         ┗稚野毛二派━━意富本杼━━乎非王━━━━彦主人王━━継体天皇━━┫┏安閑天皇   ┃
                                          ┣┫       ┃
                                   尾張目子姫━━┛┗宣化天皇━石姫┛


「真清探當證」系図(修正)
                  ┏蟻臣━━━┳━伊呂尼━━━━春日姫━━┓
                  ┃     ┃             ┃
武内宿禰B━葛城襲津彦━葦田宿禰━━┫     ┃       ┏飯豊青皇女┃┏武烈天皇
                  ┃     ┗━荑媛━━━┓┃     ┣┫
                  ┗黒媛━━┓ (はえ)  ┣╋仁賢天皇━┛┗手白香皇女━┓
           ┏菟道稚郎子      ┣━市辺押磐皇子┛┃             ┃
           ┃           ┃        ┗顕宗天皇━┓       ┃
仲哀天皇━━応神天皇━╋大山守皇子 ┏履中天皇┛              ┃       ┃
           ┃      ┃(隋)                ┃       ┃
           ┣仁徳天皇━━╋反正天皇               ┃       ┃
           ┃(讃)   ┃(珍)  ┏安康天皇         ┣━女子    ┃
           ┃      ┗允恭天皇━┫(興)          ┃       ┣━欽明天皇━━━┓
           ┃       (済)  ┗雄略天皇━━━━清寧天皇 ┃       ┃        ┃
           ┃             (武)          ┃       ┃        ┣敏達天皇
           ┃                   ┏━━━豊媛━┛       ┃        ┃
           ┗稚野毛二派━━意富本杼━━乎非王━━━┫              ┃        ┃
                               ┗━彦主人王━━━継体天皇━━┫┏安閑天皇   ┃
                                              ┣┫       ┃
                                       尾張目子姫━━┛┗宣化天皇━石姫┛


 

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