4世紀東アジア情勢

 倭国はこの頃東アジアの流れにのみこまれていく。その流れを年表にした。中国関係黒字、朝鮮関係赤字、日本関係青字で表している。 

303 第13代新羅王未鄒即位

304 8月、漢の後継者劉淵は離石(現在の山西省呂梁市離石区)で大単于を称して自立した。10月には漢王を自称し、独自の元号を建てて事実上独立し、漢(前趙)を建国した。
   熊襲反乱(景行12年、景行27年)、景行天皇襲国平定(景行13年)

306 西晋が八王の乱で衰退。晋第4代皇帝、懐帝即位。八王の乱終結。
   景行天皇日向訪問(景行17年)

307 鮮卑族慕容部の慕容カイは鮮卑大単于を自称した。
    九州西側諸国巡回(景行18年)、景行天皇都に帰還(景行19年)
    百済新羅を攻撃す(百済本紀)

308 10月、蒲子において劉淵は前趙皇帝に即位した。

309 1月、前趙劉淵、平陽に遷都、西晋を滅ぼすべく洛陽に何度も攻め入った。
   12月、西晋の遼東太守の内紛につけこんで慕容カイは自ら遼東の治安秩序の維持に成功した。

310 6月、前趙劉淵が病死し、7月に弟の楚王劉聡が謀反を起こし前趙を継いだ。 劉聡は西晋を滅ぼすべく、現在の河北省・山東省方面の経略に力を注いだ。

311 6月、前趙(漢)の侵入により洛陽が陥落して西晋が事実上滅亡する。慕容カイは流民を受け入れ、勢力を拡大した。慕容カイは西晋・東晋を尊重して東晋には臣下の礼をとり、これと連携することで遼東と遼西を統治した。
   高句麗美川王、遼東西安平を占領。(高句麗本紀)
   
蝦夷反乱、日本武尊東国平定出発(景行40年)
   百済新羅を攻撃、槐谷城を囲む(百済本紀)

312 高句麗は遼東半島への進出を目指し、西晋の八王の乱・五胡の進入などの混乱に乗じて楽浪郡を占拠し、この地にいた漢人を登用する事で技術的、制度的な発展を遂げた。

313 西晋の懐帝が前趙に処刑されたことにより、長安にいた懐帝の甥が愍帝に即位して前趙に抵抗した。

314 高句麗、帯方郡を攻略、帯方郡滅亡(高句麗本紀)
    百済、新羅の辺境を侵す(百済本紀)
    第14代新羅王儒礼即位

315 百済、新羅に和を乞うた(百済本紀)
    帯方郡、百済に救援要請、帯方を救援することにより、高句麗の恨みを買う。(百済本紀)
    第9代百済王責稽即位(百済本紀)
    美川王、玄菟城を攻める。(高句麗本紀)

316 長安が陥落して愍帝は漢に降伏し西晋は滅亡した。
    夏四月に倭人が一礼部を襲う。(新羅本紀)

317 3月、江南にあった司馬睿は愍帝が降伏すると晋王を称して建武と改元
   夏五月に、倭兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。(新羅本紀)

318 3月、司馬睿は皇帝に即位して建康に都して東晋を建国し、元帝となった。
   7月、劉聡が死去し、息子の隠帝劉粲が跡を継ぐが、少数民族羯の石勒に劉氏は虐殺されて前趙は一度滅亡した。
   12月、石勒は劉淵の族子の劉曜と共に混乱を鎮圧し、劉曜は皇帝に即位して趙と国号を改めて前趙を再興した。
   慕容カイは鮮卑・高句麗連合軍を撃破、遼東の覇権を獲得した。
   夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。(新羅本紀

319 11月、石勒は、劉曜が長安に遷都して西を拠点にしたのを見ると、前趙から自立し後趙を建国。華北は西の前趙、東の後趙に分裂して対立状態となった。
   夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。(新羅本紀)

320 春 王は倭人を討とうとしたが臣の忠告によってやめた。(新羅本紀)
     高句麗美川王、遼東に侵略を試みるも、慕容仁に撃ち破られる。(高句麗本紀)

321 後趙石勒は河南方面を支配下に置いた。
   漢(後趙)、百済侵攻、百済王責稽戦死。第10代百済王汾西即位(百済本紀)
   第15代新羅王基臨即位
   景行天皇東国巡幸(景行53年)

322 東国蝦夷降伏(景行56年)
   春正月に、倭国と使者を派遣し合った。(新羅本紀)

323 景行天皇近江国高穴穂宮に遷る。(景行58年)

324 後趙に前趙の勢力が迫り、衝突が激しくなった。

325 第13代成務天皇即位

327 第16代新羅王訖解即位

328 前趙劉曜が親征して洛陽に迫ったため、後趙石勒も自ら親征して激戦を繰り広げ、石勒の従子石虎の活躍で劉曜を捕縛して処刑し、石勒は勝利した。
   第13代成務天皇崩御

329 9月、後趙石勒は前趙劉曜の跡を継いだ劉煕を石虎に命じて殺害させ、前趙を滅ぼして山東から甘粛省東部などにまで及ぶ華北の一帯をほぼ支配した。
   第14代仲哀天皇即位

330 2月、後趙石勒は皇帝に即位した。 この勢力の前に、高句麗や鮮卑宇文部、前涼などは朝貢して臣従を誓い、後趙は華北の覇者として君臨した。
   敦賀に笥飯宮を立てる。南海道巡幸。熊襲が叛く。穴門に移動。豊浦津に泊る(仲哀2年)

331 第16代高句麗王故国原即位(高句麗本紀)

332 新羅・熊襲豊浦津を攻める(仲哀7年・忌宮神社)

333 5月、慕容カイは死去し、息子の慕容コウが跡を継いだ。
   7月、後趙石勒死去。皇位は次男で太子の石弘が継いで即位したが、石勒の下で華北平定に貢献した石虎が実権を奪った。
   筑紫行幸、9月熊襲を攻撃するも勝てないで帰還(仲哀8年)
   2月第14代仲哀天皇崩御(仲哀9年)

335 9月、後趙石勒ギョウに遷都 

337 慕容コウ皇帝に即位し、前燕を建国。

338 12月、後趙石勒は前燕に対して攻撃したが、慕容恪の奇襲を受けて敗北した。

339 9月、前燕慕容コウは高句麗を侵略

340 10月、前燕慕容コウは後趙領の高陽まで侵略し、後趙は段部の旧領から中原の一部までを失う。

341 前燕慕容コウは東晋から王位を授与され、正式に前燕を建国した。

342年 前燕は高句麗の首都国内城(現在の吉林省集安市)を破壊して故国原王の母と妻を捕縛する大戦果を挙げた。前燕は龍城(遼寧省朝陽市)に遷都した。
    慕容翰に丸都城を落とされ、高句麗王は世子を派遣して、燕王慕容コウに朝貢した。(高句麗本紀)

343 高句麗は前燕に服属した。前燕は中国の東北方面に確固たる地盤を築いた。

345 春二月、倭王が国交断絶の国書を送ってきた。(新羅本紀)
   燕王慕容コウが攻めてきて南蘇を落とされた。(高句麗本紀)

346 倭軍が突然襲来し、辺境地帯を侵した。さらに金城までを包囲して攻撃したが、城を閉じて持久戦に持ち込んだところ、倭軍は退散した。新羅本紀
   第13代百済王近肖古即位。(百済本紀)

347 後趙は南方で東晋と対峙した。しかしこの遠征はあまり成果は挙げられず、国力を消耗しただけであった。

349 1月、後趙石虎は皇帝に即位したが、前年からの病が悪化して4月に死去し、皇位をめぐる内紛が激化した。

340 10月、前燕の慕容コウは後趙領の高陽まで侵略し、342年に龍城(遼寧省朝陽市)に遷都した。

347 東晋は四川の成漢を滅ぼし、江南と蜀を合わせた一大国家となる。

348 9月、前燕慕容コウ死去し、息子の慕容儁が継いだ。

350 1月、前燕は20万の大軍を動かし後趙を攻めた。後趙は迎え撃つどころか内乱が起こり、後趙滅亡した。
   3月、テイの族長苻健は一時東晋に服属していたが、当時長安で東晋の雍州刺史杜洪を破って西進した。

351 1月、苻健は東晋から独立し、長安を首都と定めて前秦を建国した。

352 1月、苻健は前秦皇帝に即位

352 4月 前燕は後趙滅亡後の冉魏に侵攻して冉魏を滅ぼし、後趙領の東部を占領下に置いた。
   11月、前燕慕容儁は中山で皇帝を称し、東晋からの事実上の独立を宣言した。 その後、前燕は後趙の残党を平定した。

354 2月、前秦は東晋の征西大将軍桓温の北伐を受けたが6月に撃退し、後趙滅亡後の華北を前燕と東西を二分する勢力へと成長した。

355 前秦の苻健死去、3男の苻生第2代皇帝となる。
   高句麗は前燕から〈征東将軍・営州刺史・楽浪公・高句麗王〉に冊封された。
   高句麗は征東将軍・営州刺史・楽浪公・高句麗王に封じた(高句麗本紀)

356 2月、前秦苻生前涼を服属させる。
   第17代新羅王奈勿即位

357 5月、前秦苻生、羌族を服属させ勢力を拡大。
   前燕慕容儁はギョウ(河南省)に遷都した。しかし南には東晋、西には前秦が迫りつつあった。
   6月、前秦苻生は排除され、苻堅が第3代皇帝として即位した。

364 夏四月、倭兵が大挙して侵入してきた。王は草人形を数千個作らせて衣服・兵器を持たせ、吐含山の麓に並べさせた。さらに勇士千人を伏兵として待ち受けさせ、敵をおびき寄せてから不意打ちを仕掛けさせたところ、首尾よく倭兵を打ち破った。新羅本紀

365 東晋は前燕慕容恪により洛陽が奪われ、前燕や前秦に南侵されるようになった。

366 使臣を新羅に使わして修交した。(百済本紀)
   斯摩宿禰を卓淳國に遣す。(神功46年)

367 5月、前燕慕容恪は病死し、後継者慕容評は前燕を腐敗させた。これを見た東晋の桓温は前燕に侵入した。この桓温の侵攻に弱体化した前燕軍は敗戦し続ける。前秦はこれに乗じて攻勢に出て、前燕の洛陽が陥落した。
   百済と新羅が共に朝貢に来た(神功47年)第15代応神天皇即位

369 荒田別、鹿我別を以て將軍とす。則ち久氏一等と共に兵を勒へて度りて、卓淳國に至りて、新羅を襲撃(神功49年)
   高句麗、兵2万を持って、百済を襲撃するも敗れる。(高句麗本紀)
   高句麗、兵2万で民家を掠奪するも、太子がこれを破った(百済本紀)

370 9月、前秦の苻堅による侵攻を受けて前燕滅亡。高句麗は前秦に臣従。
   秦王の猛が燕を征伐してこれを破った。燕の慕容評が逃げてきたが、秦に送った。(高句麗本紀)
   荒田別、千熊長彦、久氏一等、百濟より戻る。(神功50年)

371 4月、前秦は遼東・中原を獲得した。
   百済王が兵3万を率いて平壌城を攻めた。王は流れ矢にあたって戦死した。(高句麗本紀)
 
  第17代高句麗王小獣林即位(高句麗本紀)
 
  高句麗が兵をあげて攻めてきた。逆襲すると逃げた。太子と共に兵3万を率いて平壌城を攻めた。高句麗王は流れ矢にあたって死んだ(百済本紀)
   百済が朝貢。千熊長彦を百済に派遣(神功51年)

372 百済が倭王へ七支刀を贈る(神功52年
  
 秦王と交流(高句麗本紀)
   使者を晋に使わして朝貢した(百済本紀)

373 百済の禿山城主が新羅に投降。新羅はこれを受け入れる。百済王は抗議した。(新羅本紀)
    使者を晋に使わして朝貢した。禿山城主が新羅に逃げた(百済本紀)

375 7月百済の水谷城を攻めた(高句麗本紀)
   7月高句麗が攻めてきて水谷城を陥落させたので、将兵を派遣してこれを防いだが勝てなかった。(百済本紀)
   第14代百済王近仇首即位(百済本紀)
   
百済肖古王没(神功55年)

376 8月、前秦は周辺国家を滅ぼし五胡十六国時代で唯一となる華北統一を達成した。高句麗・新羅など朝鮮半島の諸王朝は朝貢して服属。
    百済の北辺を侵した(高句麗本紀)
    11月高句麗が北辺を侵した(百済本紀)

    近仇首即位(神功56年)

377 百済が将兵3万で平壌城を侵してきた。11月に百済を南伐した。王は秦に朝貢した(高句麗本紀)
   10月将兵3万を率いて平壌城に侵攻した。11月高句麗が攻めてきた(百済本紀)

378 2月、前秦苻堅は庶長子苻丕に命じて東晋領の襄陽を攻撃させた。

379 2月、前秦苻丕は襄陽をに落としたが、東晋の謝玄の反撃を受けて建康攻撃には失敗。

381 二月、倭国から来た使者を大いにもてなした。百済(応神天皇14)  

382 百済王が真毛津という女を奉った。(応神14)、弓月君百済からやってくる

383 8月、前秦苻堅は南北統一を目指して、総勢100万の東晋討伐の軍を起こしたが、東晋軍に隙を突かれて大敗
   百済王阿直支を遣わす。(応神15)

384 1月、前燕慕容コウの子、慕容垂が現在の河南省で自立して後燕を建国。
   4月、東晋に敗北した前秦の将軍姚萇が馬牧(現在の陝西省興平市)に逃亡して自立し、後秦を建国した。
   王仁がやってきた。(応神16) 木菟宿禰新羅を打つ。阿花王死去。直支王即位
   第18代高句麗王故国壌即位(高句麗本紀)
   第15代百済王枕流即位(百済本紀)

385 5月、前秦苻堅は慕容沖の西燕の勢力拡大を恐れて長安を脱出し、五将山(現在の陝西省岐山県西北方)に逃れたが、7月に後秦の姚萇により殺害される。
  高句麗、後燕を破り、遼東に進出。
  王は兵4万で遼東を襲った。遼東・玄菟を落とした。(高句麗本紀)
  第16代百済王辰斯即位(百済本紀)
(応神3年)

386 1月 鮮卑の拓跋珪、前秦崩壊による諸民族自立の波をうけ、牛川(現在の内蒙古自治区興和県)で魏王を名乗り北魏を建国した。
  10月、前秦苻堅の庶長子苻丕は西燕の慕容永に敗れて東垣(現在の河南省新安県)にて東晋軍の攻撃を受けて殺された。
  11月、苻登は枹罕で第5代前秦皇帝に即位し、後秦と戦い一時的に攻勢に転じた。

391 7月、北魏が西燕に接近した事から後燕との国交は断絶し、抗争状態に入った。
   12月、北魏は周辺国家を滅ぼし、オルドスからモンゴルに至る地域の大半を支配下に置いた。
   19代好太王は後燕と戦って遼東に勢力を伸ばし、南に百済を討って一時は首都漢城(現ソウル特別市)のすぐ傍まで迫り、百済王を臣従させた。そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった(碑文)

392 紀角宿禰辰斯王を攻め、殺害、阿花を立てて王となす。(応神3年)
   高句麗に使者を派遣。実聖を人質として送った。(新羅本紀)
   新羅に使者を派遣し、修好した。新羅王が実聖を派遣して人質とした。(高句麗本紀)
   第19代高句麗王広開土即位(高句麗本紀)
   7月高句麗兵4万を率いて北辺を攻めた。漢水以北の諸部落はほとんど落ちた。10月関弥城を落とされた。(百済本紀)
   第17代百済王阿花即位(百済本紀)

393 倭人が来て金城を包囲したが、打ち破った。(新羅本紀)
   秋8月、百済が南辺を侵したのでこれを防いだ(高句麗本紀)
   8月関弥城奪回を図ったが勝てずに帰る(百済本紀)

394 7月、前秦苻登は後秦に殺された。同年、苻登の子であった苻崇は湟中に逃れて第6代の帝位を継いだが、10月に西秦の乞伏乾帰に討たれ、前秦は滅亡した。
  8月、後燕慕容垂は西燕を滅ぼし、さらに東晋と戦って山東半島を奪回し、西は山西から東は山東・遼東に至る広大な勢力圏を築き上げ、最大版図を形成した
  秋7月に百済が攻めてきたので、逆襲しこれを破った。(高句麗本紀)
  高句麗と水谷城と戦って敗れた(百済本紀)

395 5月、後燕皇太子の慕容宝に北魏を攻撃させたが、北魏軍の奇襲を受け、大敗を喫した。この大敗でそれまで優勢だった後燕と北魏の力関係は完全に逆転した。
  第16代仁徳天皇即位
  
王は百済と貝水(大同江)の上流で戦ってこれを破った。(高句麗本紀)
  8月王は高句麗を征伐しようとしたが破れた。(百済本紀)

396 3月、後燕慕容垂は親征して北魏軍を平城に破り、同地を平定した。しかし4月、慕容垂は急病により陣没した。皇太子の慕容宝が継いだが、北魏は強敵が死んだのを好機とばかりに9月には現在の山西省全土を制圧し、さらに後燕の首都中山に迫る勢いを見せた。

397 2月、後燕内部で内紛が発生、この内紛をさらなる好機と見た北魏は10月中山を平定。

398 1月、後燕慕容宝から後燕南部の支配権を任されていた慕容徳が燕王を称して南燕を建国し、後燕分裂。2月、慕容宝中山奪還を敢行して北魏軍に大敗。

399  百済は倭に服属した。倭の攻撃を受けた新羅は高句麗に救援を求めると、好太王は新羅救援軍の派遣を決定。
   新羅を征服。都を陥れた。
   
高句麗を征伐しようとして兵馬を大いに徴発したので、民はこれを嫌がり新羅に逃げた(百済本紀)
   百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平譲に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。(碑文)

400年 高句麗軍が新羅へ軍を進めると新羅の都にいた倭軍は任那・加羅へ退き、高句麗軍はこれを追撃した。これにより新羅は高句麗の朝貢国となった。高句麗、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。(碑文)
   後燕燕王盛は兵三万を率いて高句麗の背後を突き、遼東を奪回。
   2月、王は燕に朝貢した。燕王は礼が高慢であるとして、兵3万を率いて襲ってきた。新城、南蘇城を落とされた。(高句麗本紀)

401 7月、後燕慕容盛が禁軍の反乱により殺害されたため、慕容熙が後継者となった。後燕は北魏の外圧を受け続け、高句麗・契丹遠征を繰り返して国力を消耗した。

402 高句麗、後燕の宿軍城(遼寧省朝陽東北)を陥落させる。
  新羅、倭に奈忽王の子未斯欣を人質に送って倭の属国となった。
   第18代新羅王奈勿即位
   倭国と国交を結び、奈勿王の王子・未斯欣を人質とした。新羅本紀.
   五月、使臣を倭国に遣り、大珠を求めた。百済
   紀角宿禰辰斯王を攻め、殺害、阿花を立てて王となす。
   新羅人朝貢する。難波堀江、茨田堤築造(仁徳11)
   山城に大溝掘る。(仁徳12)

   王は兵を派遣して燕の宿軍城を攻めた(高句麗本紀)
    5月倭国に使いを出して大きな珠を求めた(百済本紀)

403 和爾池、横野堤を築く(仁徳13)
   小橋、大道を作る。石河の水を引く(仁徳14)
   百済単独で高句麗と戦う
   
秋7月、百済が辺境を侵した(新羅本紀)
    2月倭国の使いが来たので慰労した。7月新羅の辺境を侵した(百済本紀)

404 高句麗領帯方界まで攻め込んだ倭軍を高句麗軍が撃退した。(碑文)
   百済救援のため出兵、帯方郡で高句麗と戦う
   11月兵を出して燕を侵した。(高句麗本紀)

405 後燕慕容熙、高句麗の遼東城を攻めるが勝たず。
   倭の人質となっていた百済王子の腆支が、倭の護衛により帰国し百済王に即位した。
   大陸から退散し、新羅、高句麗と通じる。新羅朝貢せず。新羅を責めた(仁徳17年)
   夏4月、倭兵が明活城を攻めたが、これを打ち破った。(新羅本紀)
   正月、燕王は遼東城を攻めてきたが、勝てずに帰った(高句麗本紀)
   第18代百済王腆支即位(百済本紀)

407 7月、後燕慕容熙は漢人の中衛将軍である馮跋に殺害された。これにより、後燕は完全に滅亡した。
   春三月、倭人が東部を、また六月には南部を侵掠した。(新羅本紀)
   百済王子直支を人質とし、倭国と講和
   燕王木底城を襲うも勝てずに帰る。(高句麗本紀)

408 倭人が対馬島に軍営を設けて、新羅を襲撃しようとしていると聞き、先手を討とうとしたがやめた(新羅本紀)

410 東晋北府軍の劉裕、南燕を滅ぼす。
   新羅王、汗禮斯伐・毛麻利叱智・富羅母智等を遣して朝貢る。襲津彦新羅を討つ(神功5年335)

417 東晋北府軍の劉裕、後秦を滅ぼす。

420 劉裕は恭帝から禅譲を受けて宋朝が開かれ、東晋は滅亡した。宋建国

442 北魏、華北を統一。以後中国は南北朝時代となる。