綏靖天皇

 古代史の復元では、神沼名河耳命は神武天皇第二皇子としてAD85年前半生誕、AD101年33歳の時、第二代綏靖天皇として即位。107年安寧天皇に譲位した。

 日本書紀の記録

 綏靖天皇生誕

 神沼名河耳命は九州に生誕伝承を持っている。福岡県前原市大字池田752に鎮座する産宮神社である。神沼名河耳命の母は奈留多姫命であり、祖母が玉依姫・おば豊玉姫と伝えられている。この神社には鵜茅草葺不合尊・玉依姫も合祀されている。

 この神社の伝承は、記紀伝承とまったく違う伝承である。他の神社伝承とも大きく異なっている。実際はどうなのであろうか。この神社の伝承の柱は「神沼名河耳命生誕」である。これが事実であれば、神武天皇及び五十鈴姫が九州巡幸中に神沼名河耳命が誕生したことになる。

綏靖天皇誕生伝承地
産宮神社 糸島郡前原町大字池田752 御祭神奈留多姫命は御懐妊に当たり大いに胎教を重んじられ、母玉依姫・おば豊玉姫の三育の瑞祥あるを尊重され、両神の前に「月満ちて生まれん子端正なれば永く以て万世産婦の守護神とならん」と誓われました。果たしてお産に臨んで心忘れたように何の苦しみもなく皇子神渟名川耳命(第二代綏靖天皇)を安産されました。

 この神社の鎮座地は後の伊都国と呼ばれている地であり、海外交易の玄関口である。この周辺地域は大和朝廷成立後畿内系土器が集中出土を始める地域であり、畿内から派遣された魏志倭人伝でいうところの一大卒が統治している。大和朝廷の九州統治の拠点となっているところなので、神武天皇自身が巡幸に訪れても不思議はない場所である。神武天皇が懐妊中の五十鈴姫を連れて九州巡幸し、その途中で神沼名河耳命が誕生したと推定する。AD85年(神武5年)と推定。

 その時に神武天皇の母である玉依姫は北九州に滞在しており、この当時存命中だったと思われ、綏靖天皇生誕にかかわっていたのであろう。御祭神奈留多姫命は五十鈴姫の別名ではあるまいか。

 AD85年(神武5年)は神武天皇即位後初めての九州遠征だったと思われる。神武4年に大和周辺の巡回を行い、鳥見山霊峙を行ったと記録されている。九州遠征はその次の年となる。

 西倭国の時代、伊都国には一大卒(伊都国王)が西倭王日向津姫より派遣されていた。一大卒は海外交易の実権を握っていたが、大和朝廷成立後は大和から派遣された一大卒が九州一帯を統治することになった。この一大卒の赴任に伴って神武天皇が直接伊都国を訪問したものと推定する。

 初めての九州遠征に妻である五十鈴姫を同行させていた。九州遠征の最大の目的は伊都国の統治体制を固めるのことだったのであるが、そのほかに母である玉依姫に妻を紹介するという目的もあったのであろう。臨月になっていた五十鈴姫は産宮神社の地で神沼名河耳命(後の綏靖天皇)を生んだのであろう。

 この当時日向国は自治領として日子穂々出見尊に統治をまかせていた。日子穂々出見尊は鹿児島神社の地で日向国を統治していた。

 神武天皇は北九州巡幸後、誕生直後の神沼名河耳命と共に日向国に至り、高屋宮(鹿児島神宮の地)の彦穂穂出見尊を訪ねた。そこで、彦穂穂出見尊の子である向山土木毘古王に出会い、向山土木毘古王を神沼名河耳命の養育係としたのであろう。その後大和に帰還した。

 手研耳命の変

 神武天皇はAD86年頃九州遠征から帰還後すぐに関東地方の巡幸を実施したと思われる。関東地方は饒速日尊に導かれて多くの物部氏が入植しており、開拓を行っていたのである。その入植した人々の様子を見て回ったのであろう。

 神武天皇は関東地方を中心とした地方開拓に力を入れており、技術者を派遣するとともに、神武天皇自身も地方巡幸を繰り返しており、大和国内に神武天皇が滞在していることは少なかったようである。神沼名河耳命は幼少でありながらも父の留守を護っていたのである。

 AD90年頃、神沼名河耳命の異母兄で神武天皇と共に日向からやってきた手研耳命が皇位を狙う算段をしていた。大和朝廷の天皇は神武天皇と五十鈴姫との間の子のみが即位できるのであって、それ以外の人物は倭国・ヒノモト大合併の精神からしてあり得ないのである。しかし、第二代天皇として即位したかった手研耳命は、五十鈴姫と同族の関係者(日本書紀では五十鈴姫)を妻にして、皇位を狙ったのである。

 神武天皇はそのことに気づき、手研耳命を諭したと思われるが彼は聞き入れなかったのであろう。このままでは皇位継承争いが起こると思った神武天皇は、AD91年14歳になった神沼名河耳命を皇太子として決定したのである。

 これを知った手研耳命は反逆を起こそうとしたために、AD92年、神武天皇によって誅殺されたと思われる。日本書紀では神沼名河耳命が誅殺したことになっているが、この当時15歳(現年齢8歳)程度の神沼名河耳命には無理であろう。神武天皇自身わが子を殺害するのはつらかったであろうが、折角統一できた国が分裂するのを避けるためにはやむを得なかったのである。

 神沼名河耳命皇后の決定

 神武天皇は地方開拓を最優先課題としており、天皇でありながら大和を留守にすることが多かった。神武天皇自身「これはまずい」と思っていたらしく、神沼名河耳命を第二代天皇として早く即位させたかったに違いない。しかし、成人する前に即位させるわけにもいかず、神沼名河耳命が成人するのを待っていた。

 神沼名河耳命が即位するとすれば、皇后はどこから迎えるか。宮はどこにするか。大臣の人材は誰にするかなど多くの問題が山積みであった。神沼名河耳命が成人するまでにこれらを解決しておかなければならなかった。

 第二代天皇は当然ながら大和朝廷の安定継承を義務付けられているので、皇后は誰でもよいというわけにはいかない。

 饒速日尊に派遣された物部氏が各地で開拓事業を行っていた。神武天皇はその様子を見て回ったのである。彼らは饒速日尊を崇拝しており、その信仰の強さに神武天皇は驚いていたことであろう。

 神武天皇は物部氏の饒速日尊信仰が非常に強いのを目の当たりにして、神沼名河耳命の皇后は物部宗家の娘にしなければならないと思ったのである。物部宗家は饒速日尊の大和での長子である宇摩志麻治が当主であった。宇摩志麻治は饒速日尊と共に関東地方の開拓に参加しており、宇摩志麻治の血を引く娘を皇后にすると、地方がまとまりやすくなるのである。

 そこで、宇摩志麻治の子である彦湯支命(弟磯城と思われる)の娘川俣媛を皇后とすることに決定した。

 宮地の選定

 磯城県主の娘を皇后とすると、大和国内の有力豪族である葛城一族(賀茂氏)が黙っていない。賀茂氏は飛騨王家の系統であり、AD50年頃葛城山麓に滞在していた。味耜高彦根命(賀茂建角身)の本拠地であり、地方開拓の指示を出していた地である。綏靖天皇の宮跡はこの近く(御所市森脇)にある。綏靖天皇の宮地選定は賀茂氏を意識したものであることが考えられる。

 宮跡は弥生時代の農耕遺跡である鴨都波遺跡から2km程離れた高台である。この時期は大和盆地内の湖(大和湖)が次第に干上がっていたころで、その跡地の農地開発を行っていたようである。

 神武天皇は九州の日向を出発し、東へ進んで大和に入ると、長髄彦・兄猾・弟猾・土蜘蛛などを平定し、橿原宮で天皇の位に即いたと伝承されている。これら伝承地は『日本書紀』や『古事記』などに三三カ所ほど挙げられている。これらの地名を大和の土地にあてはめると、すべて標高60m線以上に存在しているのである。しかも、その土地ほ、大和湖のまわりの小高い所で、縄文式土器の出土する遺跡とぴったり一致しているのである。

 このことは神武天皇時代においては大和湖の湖岸線は標高60m線付近にあったことを意味している。そして、AD200年頃には標高50m線付近まで後退しているいるのである。宮跡はこの頃の湖岸線と推定される位置より7km程南にあり、賀茂氏の本拠に近く大和盆地の農地開発を一望できる位置である。

 神武天皇橿原遷都

 神沼名河耳命の皇后、宮地の選定が終わり、AD98年(神武31年)に神武天皇はそれまでの宮地である柏原の地から、畝傍山の橿原に遷都することとなった。神武天皇自身は地方巡回することが多く、大和の地を安定して統治することができないために神沼名河耳命に第二代天皇の位を譲位するのである。譲位後は自らは上皇(元天皇)として活躍することになるが、譲位後の宮跡として橿原の地を選定したのである。

 畝傍山は標高198mで大和盆地内の独立峰であり、大和盆地を一望するのに最適の地と思われる。周辺の外の山はその多くが饒速日尊の聖地となっているので、残った眺望の素晴らしい山として畝傍山が選ばれたのであろう。神武天皇は橿原宮で政務をとる傍ら、畝傍山に登って大和盆地の様子を眺めていたと思われる。以降畝傍山は初期大和政権の聖地となっていくのである。

 綏靖天皇即位

 以上のような経過を経て、神武天皇は神沼名河耳命に皇位を継承させる準備が整った。AD101年(神武37年)に神武天皇は神沼名河耳命(当時の年齢で33歳・現年齢17歳)に皇位を譲った。第二代綏靖天皇である。譲位後の神武天皇を神武上皇と称することにする。

 皇位継承にあたって飛騨国位山で儀式を行った後、橿原宮で即位式が行われたことが推定される。綏靖天皇は即位後御所市森脇の地で政務をとったと思われる。

 綏靖天皇の業績

綏靖天皇関連伝承を持つ神社(平成祭りデータより)

飽富神社 袖ケ浦市飯富2863 綏靖天皇元年、皇兄神八井耳命が創始したと伝える。
甲斐奈神社 甲府市中央3-7-11 当社は、人皇第二代綏靖天皇の御代、甲斐国開拓に際し甲斐奈山(現・愛宕山)の頂きに白山大神を祀ることに始まり、以来、延喜式神名帳に載る如く甲斐国鎮守の神として尊崇された。
葛城一言主神社 御所市森脇432 御鎮座のこの高宮丘は、第二代綏靖天皇の宮址のあったところで、本社から少し北の丘辺に宮址の碑が立っています
熊野神社 甲府市朝気1-11-1 人皇第2代綏靖天皇の御宇皇子土本昆古王、甲斐国御開拓の砌、此地に村邑を設けその守護神として創祀さる。
佐久神社 山梨県東八代郡中道町下向山892 祭神向山土木毘古王(むこうやまとほひこおう)は、彦火々出見命の後裔にして、日向の国高屋御殿にて御誕生せられ日向土木毘古王と号せられた。長じて第二代綏靖天皇の大臣となる。後に甲斐の国造に任命され臣佐々直武長田足円後辨尼その他衆多の臣、及び1000人の人夫を引き連れ甲斐に御入国せられる(BC561)。その頃甲斐の国の中央部は一面の湖であり、この湖水を疏導する為土地の豪族苗敷に住める六度仙人(去来王子)姥口山に住める山じ右左辨羅などの協力を得て南方山麓鍬沢禹の瀬の開削により水を今の富士川に落とし多くの平土を得、住民安住の地を確保した。その功績は偉大であり甲斐の大開祖として崇められた(工事着手BC554年3ヶ年後完成)。

 綏靖天皇の業績にかかわる伝承を持つ神社は山梨県に集中している。日本書紀では佐久神社のBC561年は綏靖21年(癸卯)、BC554年は綏靖28年(庚戌)である。干支が同じと仮定すれば、BC561年はAD104年(綏靖7年)、BC554年はAD107年(安寧天皇2年)となる。

 当時の甲斐盆地も大和盆地と同じように中央部に湖のある盆地であった。盆地の水が引けば広大で肥沃な土地が出現し、農作物生産量が飛躍的に増大するのである。綏靖天皇は神武上皇からの報告を受け甲斐国の開拓に力を注ぐことになったのであろう。

 綏靖天皇は即位直後、神八井耳命に地方巡回を命じた。神八井耳命は綏靖4年(癸未)に崩じたと記録されているが、神八井耳命の子孫の多さ、業績によれば、もっと長く生存したように思える。同じ干支の年AD124年まで生存していたのではあるまいか。

東北の反乱

 神皇紀には

 綏靖6年、国賊の残党が東北の国で反乱を起こした。天皇は自ら元帥になり中国の兵を率いて七年間も親征された。

 と記録されている。古代史の復元ではAD103年後半である。神武天皇大和侵入し長髄彦の兄安日彦(おそらく子であろう)が、東北津軽に逃げて、東北に大和朝廷の支配に従わない独立国を作っていた。大和朝廷はその独立を認めるわけにいかず、使者を派遣して朝廷に従うように交渉していたのであろう。それに対して、朝廷に恨みを持っている安日彦(その子孫)がそれに従うはずもなく、AD103年に朝廷の使者を追い返し、反乱を起こしたのであろう。

 大和朝廷成立後、安日彦は津軽地方を体制固めをしていた上、大和から遠方にあり、大和朝廷の長期遠征も難しかったのであろう。神皇紀には天皇自ら元帥となって兵を率いたとあるが、綏靖天皇自身は大和にいて、皇位を譲った神武天皇が元帥となって兵を率いて東北親征をしたのではあるまいか。

 大和朝廷は7年間戦っても勝利を得ることができずに、北東北一帯の独立を認めざるを得ない状態になったと推定する。これにより、饒速日尊が統一した領域の内で倭国に所属する領域が朝廷の支配から外れたのである。

甲斐国開拓

 この当時東日本一帯は人口密度が低く、開拓すべき土地が広がっていた。その土地を開拓し食糧生産を増大させれば人々の生活が潤うのである。関東平野一帯は饒速日尊によって開拓がすすめられ、安房国一帯は神武天皇即位直後阿波から派遣された人々によって開拓されている。この中で、甲斐国は開拓が遅れていたのである。当時の甲斐国中央部には一面湖であり、この湖を開けば、その跡地に肥沃な土地が広がることになり、食糧生産量が大幅に増大することが分かり、綏靖天皇は甲斐国開拓を決意した。

 綏靖天皇の大臣であった向山土木毘古王は日子穂々出見尊の子孫(おそらく孫)であり、神武天皇が神武6年の日向巡幸の時、誕生直後の神沼河耳命の配下として採用し、大和に引き連れたものであろう。甲斐国の開拓を提案したのも向山土木毘古王自身ではないだろうか。

倭国王帥升等 

 綏靖天皇は地方開拓に大臣の向山土木毘古王や兄の神八井耳命を派遣するなど、かなり身近な人物を派遣している。このことは同時に、地方に派遣する技術者が不足していることを意味している。綏靖天皇は新しい技術者の養成の必要があると感じており、技術者を養成するために後漢に多くの人々を派遣することになった。これが後漢書にある次の記述である。

 『後漢書』孝安帝紀東夷伝
 安帝の永初元年(107年)、倭国王帥升等が生口160人を献じ、謁見を請うてきた。

 この記事に書かれている生口160人が新技術を学ぶ技術者と思われる。倭国王帥升等であるが、後の卑弥呼時代も倭五王時代も天皇の直接名は伝えられていない。各時代において天皇は1人のみなので、固有名を中国に伝えることはほとんどなかったと解釈できる。倭五王時代は王の入れ替わりが激しかったために、区別するために漢字一字で表しているのである。「等」は複数を意味しているので、次のように解釈できる。

 安帝の永初元年(107年)、倭国王は帥升等生口160人を派遣し、謁見を請うてきた。

 帥升は派遣されてきた生口160人の代表者の名ではあるまいか。数年後戻ってきた技術者が地方開拓に派遣されたのである。

 綏靖天皇退位

 第二代綏靖天皇(45歳)は任期を終えAD107年に第三代安寧天皇に譲位した。安寧天皇は38歳(現年齢19歳)であった。三天皇の中では最も即位年齢が高く、実際はもっと早く即位する計画であったのかもしれないが、綏靖天皇が推し進めていた中国への技術者派遣が終わるまでは綏靖天皇の任期を延ばしたのかもしれない。

 退位後の綏靖天皇

 綏靖天皇退位後の行動については全く伝わっていない。崩御によって退位することになったと記録されている関係上、退位後の伝承が残らなかったのであろう。しかし、全国の綏靖天皇を祀る神社を調べてみると、下の表のようになる。

神社名 鎮座地 県名
軍ケ浦十五柱神社 天草郡天草町大江1317 熊本県
今富十五社宮 天草郡河浦町今富3002 熊本県
今村神宮 玉名郡南関町今542 熊本県
下河内神社 本渡市本町下河内2214 熊本県
津森神宮 上益城郡益城町寺中706 熊本県
福連木神社 天草郡天草町福連木3407 熊本県
本泉神社 本渡市本渡町本泉511 熊本県
本村神社 本渡市本町本693 熊本県
金凝神社 鹿本郡鹿北町芋生3463 熊本県
八天宮社 塩山市中萩原3601 山梨県
朝日山神社 東浅井郡湖北町山本1089 滋賀県
金凝神社 日田郡天瀬町大字五馬市1914番地 大分県
高丘神社 直入郡久住町大字有氏1243番地 大分県
有礒正八幡宮 高岡市横田町3-1-1 富山県
十王神社 三池郡高田町大字下楠田2478 福岡県

 この表を見てわかる通り九州地方が圧倒的に多い。退位後の綏靖天皇はこれらの地を訪問したのであろう。最も数多く祭られているのは熊本県である。熊本県は神武天皇を祀る神社が最も多い県である。この当時球磨国が大和朝廷の支配を受けていなかったために、神武天皇自身が訪問することもあれば、有力者が訪問することもあったようである。退位後の綏靖天皇も熊本の地を長期にわたって訪れていたのではあるまいか。

 その中の金凝神社は綏靖天皇を祭神とし、中九州最大の弥生後期から古墳時代前期の集落遺跡である方保田東原遺跡のすぐそばにある。この遺跡は山陰地方や近畿地方など西日本各地から持ち込まれた土器なども多数出土しており、西日本一帯の活発な交流が窺え、この当時の球磨国本拠地と思われる遺跡である。

 このことは、退位後の綏靖天皇自身がこの地を訪れ、土地の人々と交流しながら、球磨国を大和朝廷の支配に組み入れる工作を行っていたことがうかがわれる。

 

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