日子穂々出見尊帰還と日向津姫死去

 日子穂々出見尊は対馬を基点として、後漢に朝貢し、後漢光武帝から賜った金印を使って伊都国を統一し、その後、後漢の新技術を用いて若狭国、越国、三河国等を開拓した。

 AD65年頃になって、日向津姫から日南地方を拠点として曽於国の統一のため、日向国に帰還することを命じられた。

 青島神社

 日向国に帰還して最初に滞在したのは青島神社の地であろう。

 青島神社  宮崎県宮崎市青島2丁目13番1号
 彦火火出見命が海宮から帰った時の住居の跡として「彦火火出見命・豊玉姫命・塩筒大神」の三神を祀っています。(案内板から)

 この時までは豊玉姫と一緒だったようである。

 豊玉姫との別離

 神話伝承では日子穂々出見尊と豊玉姫は別離したことになっている。神社伝承でも後半と思われる伝承に豊玉姫が出てこない。どこかで別離したものと考えられるが、どこで別れたのであろうか。その別離した後の伝承を伝えているのが、風田神社である。

 風田神社 日南市大字風田3964 祭神 豊玉姫
 豊玉姫は夫と別れて亀に乗ってこの風田川を登り居住された。後にその跡に姫を偲んで地元民は川上神社を建立し祭神として祭られ、信奉厚く現在も宮と尊ばれている。明治の世になり野中神社と合祀されてこの奥風田川沿いに新たに社殿を建立し鎮座された。当時の社殿は海のほうを向いていたと伝えられている。地元ではこの伝説を尊んで亀は神の使いと信じられて食さないと古老は伝えている。この地方には鵜戸神宮の祭神と縁深い神社が点在し当社は往古を偲ぶ神社の一社である。

 別れた場所は日南のようである。時期はいつのことであろうか、糸島の志登神社の伝承では、伊都国に後から日子穂々出見尊を追って豊玉姫が上陸しているのでこの時は別離していないようである。また、その後の若狭の若狭彦姫神社では共に祭られていることから、倭国巡回の時も行動を共にしている。日子穂々出見尊が豊玉姫と別離したのは日向国に戻ってからのようである。

 別離の理由は何であろうか。神話伝承では鵜茅草葺不合尊の生誕時、約束を破ったことが理由とされているが、明らかにこれは理由ではないが、約束を破ったということ自体は真実であろうと思われる。日子穂々出見尊は飛騨王家に婿養子に入ったのである。それが、日向津姫の指示の元で統一事業に参加するということは、飛騨国に対する裏切りにも等しいことである。豊玉姫が日子穂々出見尊と別れた理由は、日子穂々出見尊が飛騨国のために動かず、倭国のために行動したことにあるのではないだろうか。そのために、倭国巡回の時までは中睦まじかったが、日向に戻ってから別離する羽目になったのではあるまいか。

 豊玉姫は日子穂々出見尊と風田神社の地で別れた後、暫らくはこの川の上流地域に住んでいたようである。豊玉姫の墓の伝承地は知覧町の田園の中と対馬の和多都美神社の磐座である。どちらが真実であるかというのは、伝承上に置いて決め手に欠けるが、知覧町の豊玉姫御陵は盛り土もなく、コンクリートで平坦地を仕切ってあるだけである。墓というのには不自然な構造をしている。これに対して対馬の方は父である豊玉彦が住んでおり、父の元に帰ることは十分に考えられる。一応対馬の豊玉姫御陵の方を本物としておきたい。

 串間

伊都国から戻ってきた彦火火出見尊は串間に派遣された。串間神社には
「海神国から帰った後、南へ降り串間にやってきた。」
「猪、雉などの雁ものの多いこの地を狩場として笠沙の宮から通われた仮宮所で、穂?宮と称しその宮跡を斎きまつった」
と言い伝えられている。串間神社の地に穂穂宮を建て、そこを基点として曽於国との交渉を行った。このとき、宮崎平野と日南を何回も往復し日南海岸の特定の地に立ち寄ることになり、日南海岸に彦火火出見尊の伝承地が多くなった。薩摩・大隈半島部が瓊々杵尊・鵜茅草葺不合尊の活躍により順調に倭国に加盟してくるのに対して、曽於国は球磨国同様難物でなかなか倭国に加盟しない。ついには日向津姫自身が串間にやってきた。68 年ごろと思われる。串間の勿体が森に宮を構えていたのではないかと考えている。

串間の宮居伝承地は二つ存在している。串間神社と勿体が森である。串間神社は穂穂宮ともいい、彦火火出見尊の宮跡のようであるが、 勿体が森のほうは彦火火出見尊が頻繁に通ってきていたという伝承である。こちらの方には日向津姫がいたのではないかと推定している。

 日向津姫の最後

 日向津姫に対する伝承はほとんど失われている。神話伝承上天上にあげられてしまったためと思われる。日向津姫の御陵と思われる墓がこの串間に存在する。王の山である。

 ここは,江戸時代に発掘されて,現在,その位置が不明になっているのであるが,記録によると,鉄器30点と共に,中国王侯の印とされている璧が出土している。璧は現在国内で四点しか見つかっていないが,いずれも一世紀の王墓と考えられる墳墓から出土している。璧は中国において銅鏡を遥かにしのぐ貴重なものである。しかも王の山の璧は,そのうち最大で国宝になっている。この璧は径33cmと超大型で,中国にもこれほどの大きさのものはいくらもないといわれるほどのものである。中国で見つかった漢武帝の兄である中山王劉勝の墓から出土した壁のうちで最大のものが径23cmであるから王の山の璧が如何に大きいかわかる。

 璧の出土状況が定かでないので,井原鑓溝遺跡から出土した璧を調べてみると,鏡の間に納められていたようである。これより,璧は鏡と同様にステイタスシンボルと考えられる。このような璧の,しかも,最大の物が鉄器30点と共に南九州の墳墓から出土することは,尋常では考えられない。このようなものが副葬されている墓の被葬者は並大抵の地位にある人物とは考えられない。倭国の小国の王にこのようなものを漢の皇帝が渡すとはとても考えられず,この人物こそ倭国王日向津姫のものと考えられる。漢の皇帝は金印を与えるだけでなく、このような璧まで与えており、倭国王日向津姫を破格の扱いで、大変重要視していた。この交流が中国に記録されていないというのも不自然で,これが57年の記事であろう。

串間市に九州倭国最期の都があったとするには、あまりにも中心域から外れている。おそらく、このあたりを巡回していた日向津姫がこの地でなくなったのではないかと考えられる。この付近は弥生遺跡が大変多く,このような墓が存在すること自体が,日向国が存在した証となる。でなければなぜこのようなものが南九州にあるのか説明できない。

 この墓のことは、まったく伝承されていないが、古事記・日本書紀を編集するとき,日向津姫を天上に上げてしまった関係上,御陵の伝承が消えてしまったものと考える。

西倭国(九州地方)を長年にわたって治めてきた日向津姫も年老いてきて、70年ごろこの勿体が森で息を引き取った。享年70歳ほどである。日向津姫の遺体は付近の王の山に後漢から手に入れた玉璧を副葬品として葬った

 第4代倭国王継承

日向津姫が最も信頼していたのは彦火火出見尊である。日向津姫は鵜茅草葺不合尊は嫡子であるが、ヒノモトとの合併のために大和に行くことを予想しており、この日向国の正式な後継者に彦火火出見尊がなることを遺言して亡くなったのではあるまいか。日向津姫の死後、彦火火出見尊はすぐにも国分に宮を移した。これにより九州での未統一地域が球磨国と曽於国になり、あわせて熊襲という。熊襲の統一が残された課題となった。

 止上神社 国分市重久1896 祭神 日子穂々出見尊
 日子穂々出見尊を奉祀する古社、高千穂宮跡伝説地。火蘭降命御陵伝説地あり。
 <聖地古日向>

 鹿児島神宮 姶良郡隼人町内2496-ロ 祭神 天津日高彦穂穂出見尊,豊玉比売命
 御祭神彦穂穂出見尊は筑紫の国開拓の祖神に坐しましこの地に高千穂宮(皇居)を営み給い、580歳の長寿に亘らせらるる間農耕畜産漁猟の道を指導し民政安定の基礎をつくり給うたのである。<平成祭データ>

 鹿児島神宮の地は日向津姫が都していた地で、日向津姫亡き後、この地に居住するということは第4代倭国王を継承したことを意味している。正規には末子である鵜茅草葺不合尊が継承したはずであるが、ヒノモトとの合併に際して大和に行く予定であったために、倭国王を継承しなかったのではあるいまいか。

 隼人の取り込み(海幸山幸神話)

 日子穂々出見尊が第4代倭国王を継承すると、早速、周辺に居住しており、倭国になかなか加盟しない隼人一族を倭国に加盟させる必要が出てきた。隼人一族は出土人骨を分析することにより、縄文人の血を引いていることが分かっている。縄文国家飛騨国の王の娘と結婚することにより、隼人一族との関係は良好なものとなりつつあった。豊玉彦が開聞岳周辺に宮居したのも、豊玉姫・玉依姫が周辺を統治したのもその流れと解釈できる。

 隼人一族の祖といわれている火蘭降命(海幸彦)は、鹿児島神宮近くの止上神社の地に居住していたのではないかと考えている。火蘭降命を取り込むことができれば、隼人一族が倭国に加盟することが十分に考えられる。早速、火蘭降命と交渉したが、最初は受け入れてもらえなかった。そこで、対馬の豊玉彦からもらった呪文と塩満、塩乾という2つの宝玉を火蘭降命に示した。これは、縄文国家飛騨国の印であったのであろう。火蘭降命は日子穂々出見尊が縄文人に対して敵対するものではないということを信じることができ、以降日子穂々出見尊に協力することになったのであると推定している。

 火蘭降命が倭国加盟に承諾しても、隼人自体が一枚岩ではなく、反対勢力が存在していた。その代表格が曽於族である。火蘭降命は曽於族を倭国に取り込むように協力することになった。

 潮嶽神社 南那珂郡北郷町大字北河内8866 祭神 火闌降命
火闌降命海幸山幸の争いの時、巖船(大きい丈夫な)に乗り満潮にのり里の岸に着き上陸し賜う故、その地を潮嶽の里という。宮居をお立てになり国内を治められること年久しく、崩御座て潮嶽河上の上陵に葬る。潮塚(王塚大塚)という。鎮座は神武朝のことなりという。<平成祭データ>

 この地は曽於国のすぐ近くである。日子穂々出見尊より曽於国の取り込みを任された火闌降命がこの地に赴いたのであろう。しかし、その後も曽於国とのごたごたが続いていることからこの調停は上手くいかなかったものと考えられる。

 日向国その後

ヒノモトとの合併の条件により彦火火出見尊の当地範囲は日向国(宮崎鹿児島両県)のみとなり、国分を中心として日向国を束ねた。彦火火出見尊は熊襲を倭国に取り込むよう努力をした。曽於国とは良好な関係を保つことができたが球磨国は相変わらずであった。曽於国は第12代景行天皇が、球磨国は第14代仲哀天皇がそれぞれ武力平定することになる。

かなり長寿を保ち100年ごろ国分の地で亡くなった。彦火火出見尊の遺体はそこより少し北にある高屋山陵に埋葬された。

彦火火出見尊亡き後その後継者が国分を中心として日向国を束ねたが、倭の大乱の後日向国は大和朝廷からの役人を向かいいれ、中心地を西都に移した。西都原古墳群の始まりである。西都原古墳群の中央に古墳がまったくない領域がある。西都原の語源は斎殿原であり、ここで大規模な日向系の祭祀が行なわれていたのではあるまいか。日向国の有力者はその周辺に葬られた。それが西都原古墳群である。

 この祭祀者が、日向三代の伝承地を周辺に造ったものと考えられる。そのため、西都周辺に日向関連伝説地が勢ぞろいしていることになる。

鹿児島神宮横石体社
 高千穂宮跡碑
鹿児島神宮

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