伊都国統一

 伊都国の実態

 AD50年頃までに有力豪族が集中していた北九州地方は徐々に統一され、AD25年頃の奴国が倭国に加盟して以降、残っていたのは伊都国のみであった。この当時の伊都国王は井原鑓溝遺跡の王墓の被葬者であろう。彼は最後の伊都国王である。伊都国は海外交易の最重要拠点であり、伊都国王はその交易の実権を握っており、裕福な生活から簡単に倭国加盟しないのである。日向三代といわれる瓊々杵尊、日子穂々出見尊、鵜茅草葺不合尊を祀った神社は糸島地方に集中している。これは、残された伊都国統一のために三皇子が次々とやってきたことを意味している。

 紀元前後の王墓と考えられるのが三雲南小路遺跡の王墓で、すぐそばに細石神社が存在している。祭神は磐長姫、木花咲耶姫である。そこから南に30m程離れたところが井原鑓溝遺跡と呼ばれているところである。おそらく同一の遺跡であろう。井原鑓溝遺跡の王墓は江戸時代に発掘されているが、その正確な位置は現在不明となっている。記録によると、この王墓から出土した鏡は新から後漢初期にかけてのもので1世紀前半に活躍した人物が伊都国王だったと考えられる。この王墓より新しい王墓とみられる甕棺墓は見つかっていない。これが、彼が、最後の伊都国王といわれる理由である。

 上の地図は糸島地方の日向三皇子関連人物を祀る神社の配置である。赤が瓊々杵尊、緑が日子穂々出見尊、青が鵜茅草葺不合尊関連神社である。これをみると、瓊々杵尊関連神社が西側に偏り、中心域近くに鵜茅草葺不合尊関連神社が存在し、日子穂々出見尊関連神社は中心域を囲むように存在していることが分かる。他地域に比べて糸島地方はこの三皇子を祀る神社の比率が非常に高く、三皇子と糸島地方は深い関連があったことが分かる。

糸島地方の伝承

 これらの神社の中で統一と関連があると思われるものを上げてみると

・高祖神社(祭神彦火々出見命他)

 高祖山山麓に存在し、神代から鎮座しているようである。糸島地方全体の眺望がよく、この地方の中心的存在の神社である。日子穂々出見尊が滞在していたのではないかと思われるが、具体的伝承は存在していない。

・志登神社(祭神豊玉姫・彦火々出見命他)

 「彦火々出見命が海人の国(対馬)から先に上陸してきたので,豊玉姫が後を追ってこの地に上陸した」との伝承あり。

・細石神社(祭神木花開耶姫・磐長姫)

 近くに井原鑓溝遺跡。三雲南小路遺跡あり。天孫降臨関連伝承・彦火々出見命生誕地の伝承あり。神殿は高祖神社の方向を向く。神社の東200mのところに「八竜の森」がある。「八竜の森」は日子穂々出見尊の生誕地といわれている。昔は9月26日に高祖神社の神輿が細石神社に渡ったという。また、「漢委奴國王」の金印が宝物として伝わっていたが江戸時代に外部に流出したとの伝承がある。

 瓊々杵尊はAD47年頃より、北九州地方を猿田彦から引き継いでいる。瓊々杵尊は奈古の磐長姫と共に、北九州地方に赴任してきている。瓊々杵尊を祀った神社が糸島地方の西側に多い。瓊々杵尊は伊都国を倭国に加盟させようと努力をしていたようであるが、伊都国王は首を縦に振らなかったようである。

 AD55年頃鵜茅草葺不合尊がこの地を訪れている。神社の分布から判断して伊都国の中心域にかなり深く入り込んでいる。

 伊都国王との関係

 さらに重要なことは,伊都国最後の王墓といわれている井原鑓溝遺跡が,細石神社のすぐ近くにあるということである。そして,この王墓の造られた時期(出土した流雲文縁方格規矩鏡は紀元50年頃のもの)と,日向が実権を持っていた時期(紀元50から80年)とが,ほぼ一致していることである。井原鑓溝遺跡の被葬者は墓制などから,日向出身とは考えられない。また,高祖神社の細石神社に対する優位性から判断して見ると次のようになる。

 素盞嗚尊の倭国に参加しなかったと考えられる井原鑓溝遺跡の被葬者は,それまでは倭国とは別の交易ルートによって,宝物を手に入れ,かろうじて独立を保っていた。ところが,対馬からやってきたヒコホホデミが,日向国王の金印を携えて外国人と交渉をするようになった。その結果,外国人がヒコホホデミを信用し,被葬者の方は外国人に全く見向きもされなくなり,独自の交易ルートも絶たれてしまった。ヒコホホデミの働きかけもあり,ついに倭国に加入したのではないだろうか。これにより北九州での権力型の王墓は消滅するのである。

 北九州の中心域は,銅剣・銅矛祭祀が盛んでないが、これは、この地域の豪族が元々の裕福さから素盞嗚尊の倭国に参加せず,その後は,このように北九州以外の勢力により直接支配されたためではないかと判断する。

この北九州最後の王の倭国に加入の状況が伝えられたのが海幸・山幸神話ではないだろうか。つまり、海幸彦は井原鑓溝遺跡の被葬者で、山幸彦はヒコホホデミである。海神の宮は対馬である。ヒコホホデミは素盞嗚尊と日向津姫の間に紀元25年ごろ誕生し、日向が実権を握った50年ごろ(25歳)から、日向津姫に外国との交易ルートを確保するように任じられた。まず、対馬に行き、当時出雲と関係の深かった豊玉彦に取り入って、婿入りした。そして、豊玉彦の信頼を得て日向と外国との交易ルートを確かなものにした。次に外国人の倭国訪問の玄関口である伊都国を倭国の直轄にするため、井原鑓溝遺跡の被葬者(海幸彦)に倭国に加入するように交渉に行った。しかし海幸彦は倭国に入る気がなく、ヒコホホデミにいろいろ難題を吹きかけて困らせていた。57年になり、日向津姫の命により、後漢に朝貢した。後漢の皇帝は今までの倭の小国ではなく、倭国の大半を統一した日向国が朝貢に来たので大変喜び、金印や玉壁を与え、その返礼として、後漢の使者を倭国に派遣した。ヒコホホデミはこの使者と共に倭国に戻り、金印を初めとする最新の物品によって、海幸彦を降参させ、伊都国を倭国に加入させることに成功した。ヒコホホデミは伊都国の「一大卒」として、高祖神社の地に宮を造り、外国交易の柱として活躍した。

 

金印の使用目的

 次に,日向国王の持ち物であるはずの金印が、なぜ志賀島から見つかったのか考えてみよう。まず、この金印の使用目的から考えてみることにする。当時,北九州は外国との交易をする玄関口で,人の交流の盛んなところである。政権を安定維持することを考えている日向国王は,当然,この地に役人を配置して交易の実権を握ろうとするであろう。この役人に金印を渡して,身分証明の代わりに用いたのではないかと考える。金印は印として何かに押しつけた跡はほとんどなく,印を押すための紙があったとも思われない。やってきた外国人に示して,「私は,こういうものです。信用してください。」とでも言ったのではなかろうか。あるいは北九州主要部にはまだ倭国に加入しないで頑張っている有力豪族が残っており、それらを倭国に加入させるためにも金印という外国の権威を利用したとも考えられる。

 金印の埋納

この金印は,身分証明に使っていたため、日向国がなくなってしまえば無用のものとなる。つまり、神武天皇が即位して大和朝廷が成立すると必要なくなるのである。大和朝廷が成立したとき、日向国王から派遣されていた伊都国の「一大卒」(ヒコホホデミの後継者)は、大和朝廷により派遣された「一大卒」に政権を移譲し、海路日向に帰ることになったであろう。この金印を持っていると、それを理由に大和朝廷から難癖をつけられたり、せっかくまとまった国が分裂するもととなりかねないので、帰る途中にあたる志賀島に埋めてしまったものと考える。

 

 倭国巡回

日子穂々出見尊は後漢から使者を招いて、朝貢を終えた後、AD58年頃、倭国の巡回をしているようである。

乙劔神社 石川県白山市坂尻町ホ95 往古に神剱が天より降って、この地の妖異をはらって族人の苦悩を救ったといわれる。
大虫神社 福井県越前市大虫町21-28 南越地方を平定・開拓した天津日高彦火火出見命の霊を鬼ヶ嶽の山頂に祀った
若狭彦神社 福井県小浜市龍前28-7 両神は小浜市下根来(ねごり)の白石の里に降臨した。降臨の姿としては、唐人のいでたちで、白馬に乗り、白雲に居て、白石の上への垂迹であった。
犬尾神社 岡崎市下和田町字北浦24 昔この地に彦火火出見尊を勧請し、この辺りの開発の神として崇敬してきました
赤日子神社 愛知県蒲郡市神ノ郷町森58 三河国開発の祖神
知波夜比古神社 広島県三次市高杉町383 日子穂々出見命は廻神泉水の四番に天降り賜い、命のヨボシ(烏帽子)が 脱げ落ちたのでヌケヨボシと云う、次に足留山で一宿され、魚切の鳥帽子掛の岩のところで手を洗い賜われたので、手水池と云う廻神郷布久の家で更に一宿され、翌朝手水の後御神敕あり、『我は向に見ゆる杉の木の元に鎮座す、此に永く久く鎮座す。』 曰い、現在地に鎮座された。
彦島 山口県下関市 日子穂々出見尊が暫らく滞在されたという。

 日子穂々出見尊関連伝承地としては開拓・開発と言った伝承が多いようである。後漢を訪れたことにより、何か新技術を得て戻って来たのではないだろうか。その技術を地方に伝達したものと考えられる。

 日子穂々出見尊は婿入りしているので飛騨国にあいさつに赴いているのではないかと思われる。それをもとに巡回経路を推定すると、
 対馬→若狭→越前→加賀→飛騨→三河→備後→対馬
 と言ったところであろうか。


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