南九州伝説地の考察

 宮崎・鹿児島両県には日向三代関連の伝承地が集中している。その地域を調べてみると何箇所かに集中していることがわかる。地域ごとに真実性を考察してみよう。

①延岡周辺                  瓊々杵尊関連伝承地
②西臼杵郡高千穂町周辺        日向三代すべての伝承地が集中している
③西都市周辺               日向三代すべての伝承地が集中している
④佐土原町周辺              神武天皇関連伝承・ヒコホホデミ関連伝承
⑤宮崎市周辺                日向三代すべての伝承地が集中
⑥清武町周辺                天照大神・瓊々杵尊関連伝承
⑦都城周辺                 日向三代すべての伝承地が集中
⑧日南海岸沿い              日向三代すべての伝承地が集中
⑨日南周辺                 ヒコホホデミ関連・吾平津姫関連伝承・神武天皇関連伝承
⑩串間周辺                 ヒコホホデミ関連
⑪鹿屋市周辺               鵜茅草葺不合尊・神武天皇関連伝承
⑫国分市周辺                ヒコホホデミ関連伝承・神武天皇関連伝承
⑬指宿市周辺               ヒコホホデミ関連伝承
⑭加世田市周辺             瓊々杵尊関連伝承
⑮川内市周辺               瓊々杵尊関連伝承

 伝承というものは真実がそのまま伝えられていることもあれば、形を変えられて伝えられていることもある。また、まったくのでたらめであることもある。この区別をしなければ真実は見えてこない。宮崎鹿児島両県にまたがる様々な伝承の真実性を地域ごとに判定してみよう。

 

 古代日向国(日向津姫統治領域)は素盞嗚尊が統一してから出雲国譲り(50年ごろ)までは日南周辺を除く宮崎県の領域であった。その後宮崎県、鹿児島県全領域に広がっている。日向三代の宮居伝承地もこれに準ずると考えられる。つまり、日向三代が若い頃20代以前は宮居跡は宮崎県のみのはずで、その領域の外に出るのは壮年期から老年期にかけてと思われる。宮居伝承地はこれを基に判断していくことにする。
 
真実性の高い伝承は、他地域の伝承とつながっているはずであり、他地域の伝承によって裏付けられる伝承は真実性が高いと判断する。それに対して他地域とまったくつながらない伝承は真実性が低いと判断する。伝承の中には大変具体的なものもあれば、そこにいたというだけの伝承地もある。具体性の高い伝承を真実性が高いと判断することにするが、中には創作されたものもあると考えられるので、他地域の伝承との整合性を基に判断することにする。
 御陵伝承地に関しては、日向三代の最後の宮跡近くのはずであるから、鹿児島県内にあるものが真実と思われる。また、日向三代の活躍時期は弥生時代後期初頭と思われるので、考古学的にもその時期のものが必要である。古墳時代の遺跡は伝承とは関係がないのである。


① 延岡周辺

 延岡市均衡には瓊々杵尊関連伝承地がある。笠狭宮跡、瓊々杵尊御陵などである。瓊々杵尊御陵は北川町俵野にあるが、古墳時代の円墳と思われる。また、周辺から古墳時代の須恵器が出土している。弥生時代のものとは思われない。 おそらく、瓊々杵尊が一時期滞在しており、その由来を元に伝承地が造られたものと推定する。 53年ごろ瓊々杵尊は北九州から日向に戻ってきているがその途中で一時期滞在したのではあるまいか。



②西臼杵郡高千穂町周辺

 瓊々杵尊天孫降臨伝承地である。瓊々杵尊を始め、ヒコホホデミ、鵜茅草葺不合尊すべての御陵が存在している。 それだけではなく、高天原の天岩戸まで存在している。神話関連伝承の勢ぞろいといった感じである。 何か核になる事実が存在してそれに関連して他の伝承地が作られたものと推察する。 天孫降臨伝承が核になると思われる。
 二上山が瓊々杵尊誕生伝承地であることから、 日向津姫が宇佐から日向に戻る途中に高千穂に立ち寄りそのときに瓊々杵尊が誕生したと考えている。25年ごろのことであろう。
  山奥であるために国の重要機関が長期にわたって存在したということは考えられない。 他の伝承は付け加えではあるまいか。日向津姫がこの地にいたのも数年程度と考える。 立ち寄りの理由は位置から考えて球磨国の情報収集あるいは球磨国との交渉ではあるまいか。


③西都市周辺

 この周辺も日向三代すべての伝承がそろっている。高千穂と同じく何か核になるものがあり、 他の伝承はつけくわえと考えられる。その核になる伝承地が西都原古墳群であり、 そのなかでも男狭穂塚で瓊々杵尊御陵と伝えられている。これは古墳であり、 時代が明らかに異なる。他の御陵と伝えられているものもことごとく古墳である。
  西都原は斎殿原から来たもので、古墳時代に南九州の中心地として栄えている。 当時の支配者が伝承地をこの地に集めたものではないだろうか?そうだとすると、西都周辺の伝承には真実性がまったくないということになる。


④佐土原周辺

 佐土原は佐野原が語源で神武天皇が誕生した地と意味であるという。 現王島に日吉神社があるがここに神武天皇の胞衣を埋めたと伝えられている場所がある。 神武天皇誕生に関しては最も具体的な伝承である。河口付近に鵜戸神社があり鵜茅草葺不合尊の上陸地と伝えている。 この2点は真実性が高いと考える。他に御陵伝承地がいくつかあるがことごとく古墳なので、真実性はないであろう。


⑤ 宮崎市周辺 

 宮崎市周辺は皇宮屋、金崎、宮崎神宮などの神武天皇関連伝承、高屋神社のヒコホホデミ関連伝承、江田神社の阿波岐原伝承がある。いずれも他地域の伝承とのつながりがあり、真実性が高いと判断する。北方の奈古神社の瓊々杵尊御陵伝説地は古墳であるために真実ではないと考えるが、阿多長屋は正しいのではないかと思う。
 瓊々杵尊は加世田に移った後に結婚しているが、かなり高齢になっているので、若いころに一度結婚しているのではないかと判断する。それが、磐長姫ではないのだろうか?米良村に磐長姫の終焉の地があり、ここからは近いが、加世田からはあまりに遠い。
  神武天皇関連伝承はかなり具体的である。また、他地域の伝承ともつながっている。それによると都城周辺から宮崎に来ているようである。 日南地方の伝承とのかかわりにより、宮崎にいるときに吾平津姫と結婚し日南地方との間を往復していたことがわかる。
  阿波岐原に関連する伝承は周辺地域から弥生時代の祭祀系土器の集中出土がある地域なので、弥生時代この周辺地が聖地であったことの裏づけは取れる。また、彦火火出見尊、神武天皇の誕生伝説地(鵜茅草葺不合尊もそうではないかと推察)が近くにあり、当時の重要人物はこの周辺で産まれたと推定される。

 
⑥ 清武町周辺

 木花神社を始め、加江田神社久牟鉢山、霊山嶽などの伝承地があり、瓊々杵尊の宮居伝承地、天照大神誕生伝承地などがある。 瓊々杵尊の若い頃の宮居跡と判断する。40年ごろであろう。妻は木花神社ではあるが木花咲耶姫は加世田に移った後の後妻と判断するので奈古の磐長姫ではないかと考えている。
 久牟鉢山、霊山嶽にヒコホホデミ、瓊々杵尊の御陵があると伝えられている。山頂部にそれらしき盛土があるが、ヒコホホデミ、瓊々杵尊のものではなく、 その子孫のものではあるまいか。また、近くの青島にもヒコホホデミ関連伝承があるが、 これは地理的に考えてヒコホホデミが鹿児島方面と往復するときに立ち寄った地ではあるまいか。
 

⑦都城周辺 

 この地域は高千穂峰の麓にあたり、天孫降臨の地として日向三代すべての伝承地が広い範囲に散在している。 中でも東霧島神社が皇都であるという伝承がある。日向津姫はこの地に宮を造ったと考えている。日向三代すべて幼い頃はここで育ったのではあるまいか。27年ごろから49年ごろであろう。
  高原町に神武天皇の誕生伝承地(皇子原)、成長伝承地がある。誕生伝承に関しては佐土原の方が具体的であるために佐土原で生まれてすぐに皇子原に移ったと考えた。58年のことである。 母の玉依姫は神武天皇を生むためにわざわざ佐土原に行ったのではないかと考えている。近くに宮の宇都があり、鵜茅草葺不合尊の宮跡と伝える。 また、皇子原と宮の宇都をつなぐ道には神武天皇が通ったという伝承もある。 神武天皇の成長伝承はかなり具体的であるので真実性が高いと判断している。
 都城市都島にもヒコホホデミ、神武天皇の宮があったとの伝承がある。この伝承も宇都から移ったのは高千穂山の噴火が原因であるとか、 ここから宮崎に転居したなどという他地域の伝承とのつながりがあり、真実性が高いと判断している。


⑧日南海岸沿い

 日南海岸沿いにも日向三代すべての伝承地がある。瓊々杵尊関連の伊比井神社、彦火火出見尊関連の鵜戸神宮、神武天皇関連の吹毛井、 鵜茅草葺不合尊関連の吾平山陵、宮浦神社玉依姫御陵などである。日南海岸は鬼の洗濯岩で有名で海路の難所である。 このようなところに長期にわたって住むとは考えられず、これらの伝承地は宮崎、日南間を海路往復するときの休憩所として立ち寄ったものであろう。 その立ち寄った地にいろいろな関連伝承が出来上がったと考える。よって、この地域の伝承の真実性は低いと判断する。


⑨日南周辺

 日南周辺は、海幸彦関連の伝承が中心である。海幸彦が山幸彦とのいさかいの後、北川町の潮嶽神社の地に住み、 その子孫の吾平津姫と神武天皇が結婚している。吾平姫の宮跡や御陵、神武天皇と吾平津姫との子である、手研耳命の御陵伝承地もある。 また、吾平津姫と神武天皇にかかわる伝承も豊富である。
 吾田神社の背後にある手研耳命の御陵についてであるが、手研耳命は神武天皇と共に大和に行っている。 弟の岐須耳命は伝承がほとんど残されてなく、大和には行っていない。ウエツフミによれば早世したとのことである。おそらく弟の岐須耳命の御陵ではあるまいか。
 これらの伝承から判断して、この地域は当初日向津姫の統治領域に入っていなかったものと判断される。伝承では海幸彦が外部からやってきたことになっているが、 海幸彦はこの地域の土着の人物ではないかと判断する。 そうすると、海幸彦・山幸彦のいさかいは山幸彦(彦火火出見尊)がこの地方を倭国に加盟させるために引き起こした出来事と考えることもできる。 また、その子孫である吾平津姫が神武天皇と結婚したのも倭国加盟のための政略結婚ということになる。
  彦火火出見尊は海神国(対馬・後漢・伊都国)に長期間滞在していたので、その前後ということになる。海神国へいく前であれば 53年ごろ、後であれば65年ごろとなる。
 豊玉姫が風田神社周辺の海岸で鵜茅草葺不合尊を出産したと伝えているが、 このとき、彦火火出見尊が豊玉姫との約束を守らなかったために豊玉姫は彦火火出見尊と別れて暮らすようになった。 豊玉姫の宮居が風田神社の川をさかのぼったところにある川上神社であるという。この豊玉姫は薩摩半島南端部の豊玉姫と思われ、 この妹と鵜茅草葺不合尊が神武天皇を生んでいるわけであるから、海神国へいく前のことと判断する。 よって、海幸彦と山幸彦のいさかいは53年ごろの出来事であろう。彦火火出見尊はこの直後海神国(対馬)に行ったことになる。


⑩串間周辺

 串間神社勿体が森に彦火火出見尊関連の伝承地がある。 彦火火出見尊は海神国から帰ってさらに南下してここに来たと伝えられているので、海神国から帰った後に串間にきたことになる。65年ごろのことであろう。
  串間周辺に彦火火出見尊が来た目的であるが、このころ曽於国(鹿児島県曽於郡)がまだ倭国に加盟していなかった。 曽於国は日向国の拠点であった都島のすぐ近くにありながら日向国と対立関係にあるわけであるから、日向国にとって積年の課題だったはずである。 都島、国分、大隅と三方はすでに倭国に加盟しているので、串間は曽於国の東に位置する重要拠点である。この地域は53年ごろ倭国に加盟していたと思われるが、 曽於国を加盟させるために彦火火出見尊がこの地にやってきたものと考えている。
 串間には王の山がある。王の山は玉璧が出土しているのであるがその位置は不明である。玉璧が出土したことからこの墓の被葬者は日向津姫以外には考えられない。 このことは日向津姫が串間で死んだということを意味している。
  日向津姫は国分に拠点を置いていたと思われるが、曽於国の統一のために彦火火出見尊と共に串間に来ていたと判断する。串間の宮居伝承地は二つ存在している。串間神社と勿体が森である。串間神社は穂穂宮ともいい、彦火火出見尊の宮跡のようであるが、 勿体が森のほうは彦火火出見尊が頻繁に通ってきていたという伝承である。そのようなわけで、日向津姫がいたのは勿体が森ではないかと判断した。
 神武天皇東遷のときに天皇がここに上陸している。王の山の日向津姫に挨拶(参拝)するためだったのではないかと思う。


⑪鹿屋市周辺(大隅半島)

 大隅半島は鵜茅草葺不合尊関連伝承が中心である。吾平山陵があることから、鵜茅草葺不合尊の終焉の地である。 古事記では鵜茅草葺不合尊は西州宮で崩御したことになっている。西州宮は東串良町宮下の桜迫神社の地である。 鵜茅草葺不合尊がこの地を中心として大隅半島の統一に向けて活躍していたのは間違いがない事実であろう。
 神武天皇が皇子原から都島に移ったのはこの当時の年齢で 15歳(現年齢7歳)のときで、65年に宮下の桜迫神社の地に来たものと思われる。神武天皇東征伝承に鵜茅草葺不合尊は出てこないので、 75年ごろ西州宮で亡くなったものと考えられる。

 考慮を要するのは、神武天皇関連伝承である。桜迫神社の南1km程の所にイヤの前という場所がある。 ここで、神武天皇が誕生したというのである。現在石碑が立っている。この伝承はかなり具体的である。 しかし、誕生伝承はあるが成長伝承はない。また、ここからどこかに移動したという伝承もない。 また、他地域にもここからやってきたという伝承がないので、イヤの前が神武天皇誕生地というのは真実ではないと判断する。
  しかし、イヤの前の場所が肝属川の河畔のあたり船着場のあとがある場所である。当時肝属川を使って物資の交流を行なっていたようで、 その船着場がイヤの前ではなかったかと思われる。
 神武天皇がこの地に来たのは吾平津姫と結婚した後で、 日南の駒宮神社にこことの間を馬で通ったという伝承もあり、神武天皇が宮崎にいるときここに何回か来ていたようである。 時期としては70年ごろであろう。イヤの前は神武天皇関連の誰かの誕生地のように思える。神武天皇の子である手研耳命か岐須耳命の誕生地ではあるまいか。
 肝属川河口付近に神武天皇発港の地の伝承地がある。近くの山野(さんの)に神武天皇の宮居があった伝承地があり、 この柏原の地から東遷に出発したとのことである。東遷出港地は宮崎説とこの柏原説があるが、柏原説は周辺に関連伝承を伴っているので、真実性が高いと判断する。 宮崎のほうは以前宮があったので立ち寄ったのではないかと思われる。
 神武天皇はなぜここから出港したのであろうか。山野の宮跡などから考えると鵜茅草葺不合尊亡き後大隅半島の統一事業を受け継いだのではないかと判断する。 鵜茅草葺不合尊が亡くなった75年ごろのことであろう。 ヒノモトとの合併の話が進む中で、神武天皇はここを基点として各地の知り合いに挨拶や相談に行ったのではないかと推察する。 実際にここを基点として方々を訪問したという伝承が残っている。大根占の河上神社、鹿児島市谷山の柏原神社、宮浦宮などである。
  山野宮で出港準備をしていたものと考える。ここを出港したのは79年のことである。鹿屋市花岡に高千穂神社がある。この神社は瓊々杵尊が笠狭宮におもむくとき、胸副坂(霧島神宮駅周辺)よりこの地にやってきて、 近くの古江港から笠狭宮に旅立ったと伝えている。瓊々杵尊はこの直前まで北九州を統治しており、 北九州から戻ると同時に笠狭宮に派遣されている。瓊々杵尊伝承地をつなぐと、次のような経路になる。

  北九州→木花→都城→胸副坂→国分→花岡→古江→黒瀬海岸(野間半島)→笠狭宮

 瓊々杵尊は北九州から戻ったときに昔住んでいた木花に立ち寄ったのであろう。 このとき磐長姫を離別し、都城・胸副坂を経由して国分の日向津姫に挨拶をした。そして、花岡を経由して黒瀬海岸に向かったことになる。 なぜ、わざわざここに立ち寄ったのであろうか。国分から鹿児島市経由で黒瀬海岸行くほうがよいと思われる。 理由として宮下の鵜茅草葺不合尊に会うためというのが考えられる。笠狭宮に行ってしまえばおそらく二度と会うことはできないであろうから、 弟と最後の別れをするのは当然であろう。このことから瓊々杵尊が笠狭宮に行ったのは鵜茅草葺不合尊が宮下に移ってから少し後ということになる。 日向津姫が生きている必要があるので、65年から70年の間となる。67年ごろであろう。
  笠狭宮で瓊々杵尊が阿多津姫(木花咲耶姫)と結婚したのはかなり高齢(40歳)になり、 政略結婚であることは明らかで、瓊々杵尊はこれ以前に一度結婚していたと思われる。 その相手が奈古の磐長姫であろう。

 内之浦にも日向三代の伝承がある。彦火火出見尊と鵜茅草葺不合尊である。 内之浦港に彦火火出見尊が海神国から戻ってここに上陸したと伝えられている。地理的に考えて、ここでいう海神国は指宿周辺と思われる。 彦火火出見尊は指宿周辺で豊玉姫と結婚ししばらく滞在したあと、この内之浦にやってきたものと考えられる。 彦火火出見尊が姉の豊玉姫、鵜茅草葺不合尊が妹の玉依姫とそれぞれ結婚していること、ここに鵜茅草葺不合尊と彦火火出見尊の伝承があることから、 この二人が一緒に行動していたのではないかと考える。二人とも最初の結婚と考えられ、二人とも20歳前後であろう。国譲りの後でなければならないので、53年ごろと思われる。
 鵜茅草葺不合尊はこの直前に種子島に行っているようで、二人とも国譲りの直後広い範囲を短期間で訪問している。未統一地域の情報収集のために日向津姫から巡回を命じられたのではないかと考えている。鵜茅草葺不合尊はここを拠点としたとき大隅半島の情報を得たのではないかと考える。このことが後に大隅半島に派遣される理由となったのではあるまいか。
 宮崎県高鍋町蚊口浦の鵜戸神社に鵜茅草葺不合尊上陸伝承があるが、ここを出発した鵜茅草葺不合尊が蚊口浦に上陸したと考えられる。ここは二人とも短期間の滞在であろう。彦火火出見尊はここを出港してから日南におもむいて海幸彦を倭国に加盟させたと考えている。


⑫国分市周辺

  国分市の鹿児島神宮の地が古代日向国の中心地と考えている。本来の宮地は鹿児島神宮横の石体宮の位置で、ここに彦火火出見尊が住んでいたといわれている。 彦火火出見尊はこの地で日向国を治め、この地で亡くなり、少し北にある高屋山陵に葬られたようである。 彦火火出見尊は長寿を保ち神武天皇が大和に旅立った後この地で日向国をまとめていたようである。100年ごろ彦火火出見尊はここで亡くなっている。
 神武天皇が大和に旅立つ前、大隅からここに頻繁に通ってきているようである。 その途中にあたる宮浦宮、若尊鼻に通過伝承が残っている。彦火火出見尊は串間に住んでいたが70年ごろ日向津姫が串間で亡くなった後、 この地で日向国全体をまとめていたのではないだろうか。そのために、神武天皇が何回もここに来ているのであろう。
 また、国分市の南西に子落という地があるがここは神武天皇が都城と国分の間を往復していたという伝承を持つ、神武天皇が都城にいたのは65 年ごろなので、その頃も国分は重要地点だったことになる。
 また、瓊々杵尊は胸副坂(霧島神宮駅周辺)から鹿屋の高千穂神社の地におもむいているが、 国分はその途中に通らなければならないところである。
 石体宮に高千穂宮跡があるが、ここは瓊々杵尊の高千穂旗揚げ伝承地で、国譲りの戦端が開かれたところである。 素盞嗚尊が南九州を統一してから出雲の役人がここを中心として滞在していたと思われる。瓊々杵尊が国譲りに際してここを急襲したものと思われる 。
 日向神話関係の人物が高千穂山から降りてきているような伝承が多く存在しているが、都城と国分を人々が往復しているとすれば説明がつく。
 日向津姫に関する伝承は伝わっていないが、日向三代はここを中心として動いているように伝承が伝わっている。日向津姫は50 年ごろから70年ごろまで20年ほどこの地にいたと推定している。 止上神社が近くにあり彦火火出見尊の宮跡と伝わっている。 日向津姫が生きているとき、彦火火出見尊はここを宮として活躍していたのではあるまいか。 ここを宮としていたのは日向津姫がここに移ってきた直後で指宿方面に行くまでの間であろう。50 年ごろと思われる。 また、南九州巡回から戻ってきた後海神国に立つまでの間住んでいたとも考えられる。いずれにしても短期間であろう。
 鹿児島神宮の近くに蛭子神社がある。蛭子はイザナギの長子で足腰が立たなかったので、葦の船に乗せて流したところ。ここに着いたと言い伝えられている。 この神話と鹿児島神宮に伝わる「震旦国の陳大王の娘?大比留女が7歳で懐妊した。理由を聞くと「夢で日光が胸にさすとみて妊娠した。」と答えた。 そのうちに皇子が本当に誕生したので、大王は畏れて空船に乗せて流した。それがついたのが日本の大隅半島であり、 皇子は八幡を名乗って大隅半島に留まり、正八幡と祝われた」というのがある。 この伝承と関係があるらしい。 ここでいう八幡神=蛭子=素盞嗚尊と考えれば、どうであろうか。 神話上で出雲から大陸経由で技術を伝えにきたのが素盞嗚尊であり、ヒルコの名とヒルメの名は対応している。 夫婦と考えてよいのではあるまいか。 日向津姫の夫は素盞嗚尊である。素盞嗚尊が宮崎を統一後国分に上陸し蛭子神社の地に最初住んでいた。 その後石体宮に移動したのではあるまいか。神話ではイザナギがヒルコ(素盞嗚尊)を流したとあるが、事実は素盞嗚尊がイザナギを淡路島へ流したと推定している。


⑬指宿周辺

 指宿周辺は豊玉姫・玉依姫の伝承が柱となっている地域である。豊玉姫伝承は長崎県対馬にもあり、 彦火火出見尊は豊玉姫と結婚したがどちらが真実なのであろうか。鹿児島市谷山の柏原神社に神武天皇が母(玉依姫)の里に通うとき土地寄った所との伝承があり、 これは、75年ごろ東遷の挨拶に通ったときのものであると考える。
 玉依姫伝承はこの伝承が示すとおり指宿の方が優勢である。 このことから、豊玉姫も指宿の方が優勢と考えられる。しかし、日南の風田神社の伝承では、彦火火出見尊はここで豊玉姫と離別しているので、 この後対馬に行ったとき対馬の豪族の娘と再婚したことは充分に考えられる。この娘も豊玉姫と伝えられているのである。 元の名は別であったが伝えられるうちに同じ名になったのではないかと推定する。
  指宿にやってきた彦火火出見尊は玉ノ井の近くで休んでいるとき、井戸の水を汲みに来た豊玉姫に心引かれ、 父の豊玉彦の館に招かれ、彦火火出見尊は豊玉姫と結婚し婿入谷に館を建て、そこで3 年間過ごしたと伝えられている。古事記伝承では玉依姫は豊玉姫が鵜茅草葺不合尊を生んだ後去ってしまったので、 鵜茅草葺不合尊の乳母として残り、後に鵜茅草葺不合尊と結婚したことになっているが、彦火火出見尊と鵜茅草葺不合尊は兄弟であるから、 そのような不自然な結婚ではなく、彦火火出見尊と鵜茅草葺不合尊が二人でここを訪問したと考えれば、説明がつく。
  鵜茅草葺不合尊の伝承は伝えられていないが内之浦では二人いたことになっているので、二人一緒に巡行していたものと考えている。この近く開聞岳の麓一帯は竜宮伝承のあるところで竜宮一族が住んでいて、この当時まだ倭国には加盟していなかった。 日向津姫はこの竜宮一族を倭国に加盟させるために、この二人を派遣することにしたのであろう。50 年ごろと思われる。この二人は豊玉彦の娘と結婚することにより、竜宮一族は倭国に加盟したのであろう。
 彦火火出見尊は伝承どおり3年ほどこの地に滞在していたと思われるが、鵜茅草葺不合尊は種子島に行ったようである。 その出港地が開聞岳麓の海岸と山川町児水浦(ちごみずうら)といわれている。
  種子島の浦田神社に鵜茅草葺不合尊がやってきて稲作を広めたとの伝承がある。 種子島はそれまで赤米であったが、鵜茅草葺不合尊が白米を持ってきたと伝えられている。 鵜茅草葺不合尊は種子島から内之浦に、彦火火出見尊はそのまま内之浦に行ったと考えている。豊玉姫は日南の風田神社の地で彦火火出見尊と別れたあと、近くの川上神社の地に住んでいたが、この地に戻り知覧町の豊玉姫御陵に葬られた。


⑭加世田市周辺

 加世田市周辺は瓊々杵尊関連伝承が中心である。伝承によると、瓊々杵尊は鹿屋市の古江港を出港し野間半島の付け根の黒瀬海岸に上陸し近くの宮の山にしばらく住んでいた。 宮の山は日本最初の都の跡といわれており、宮の山遺跡がある。そこからは弥生系土器が出土している。この時期に人が住んでいたのは事実のようである。その後、阿多津姫と結婚し加世田市の舞敷野に笠狭宮を建てて住んだと言い伝えられている。
  加世田市の隣に阿多と呼ばれるところがあり、ここに大山祇神社がある。大山祇神社としては全国最古のものである。阿多津姫の父の住処と伝える。大山祇はこの付近の豪族で、瓊々杵尊が上陸してきた当時まだ倭国には加盟していなかったものと考える。 瓊々杵尊は、日向津姫から倭国に加盟させる命を受けて、この地に乗り込んできたものと推察する。瓊々杵尊の黒瀬海岸への経路から推察してその時期は67 年ごろと考えられる。
 黒瀬海岸に上陸後宮の山に宮居して、大山祇と倭国に加盟する交渉をしていたのではあるまいか。 まもなく、瓊々杵尊が大山祇の娘阿多津姫と結婚することを条件として交渉が成立したのであろう。 瓊々杵尊もこうなることを予想して木花で磐長姫を離別していたのである。交渉成立後、瓊々杵尊は舞敷野の転居し、そこで、 皇子を出産している。誕生したのは伝承では彦火火出見尊兄弟であるが、彦火火出見尊は瓊々杵尊の弟であるので誕生したのは別人であろう。
 加世田の笠狭宮伝承地はもうひとつある。宮原の笠狭宮である。現在この地に竹屋神社がある。 伝承では舞敷野で数年間過ごした後、ここに移住してきたそうである。 最初阿多津姫と結婚した頃は、大山祇がこの地を取り仕切っていたが、数年後に大山祇からこの地を治めるすべての権利を受け継いだのであろう。 あるいは大山祇が亡くなったのかもしれない。その結果、加世田の周辺地から交通の便の良い宮原の地に移ったと思われる。宮原の地は彦火火出見尊成長伝承地である。 70年ごろと思われる。瓊々杵尊がここに移ったということは、物資の交流を握ったということを意味し、この地が倭国に加盟したということになる。
 近くの伊佐野に神武天皇が立ち寄ったという伝承地がある。東遷に際して神武天皇はここまで瓊々杵尊に挨拶に来ているのである。東遷前であるから、 78年ごろではあるまいか。


⑮川内市周辺

 瓊々杵尊は加世田周辺を倭国に加盟させ、しばらくその地に住んでいたが、その次に川内に移動している。川内は可愛山陵があるので瓊々杵尊終焉の地となる。 78年ごろにはまだ加世田にいたので、このときの年齢は 50歳ごろと推定されかなりの高齢である。瓊々杵尊が加世田からここに移った時期はこの直後あたりと考えられ、 80年ごろではあるまいか。このときは日向津姫はすでに亡くなっているので、瓊々杵尊自身が川内の統一の必要性を感じて川内に移ったと考えられる。
  川内川河口の船間神社に瓊々杵尊の舟を漕いでここまで来た船頭を祀っている。 瓊々杵尊は加世田から海路川内にやってきたのである。川内に上陸した瓊々杵尊は、鏡野(現小倉町)で鏡を奉納した。 以後、この地を倭国に加盟させるために努力することになる。
 瓊々杵尊宮の伝承地がこの周辺に散在している。都町の都八幡神社の地、宮ヶ原の地、宮里の地、地頭館跡、神亀山である。 数が多く、かなり短期間で転々と移動した様子が伺われる。 50歳を過ぎている瓊々杵尊である上に、阿多津姫を伴っており、政略結婚での倭国加盟は不可能であったと思われる。 この地は有力な豪族がいなかったのではないだろうか。小国が乱立している状態であったために、それぞれの小国ごとに交渉により、 大陸の先進技術を示しながら倭国に加盟させていったのであろう。そのために宮跡が転々としていると推定する。
 最後の宮跡が神亀山と伝えられている。この地は可愛山陵のあるところである。瓊々杵尊は川内に移っておそらく 10年ほどでこの世を去ったと思われる。

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