伊弉冊尊の死

 伊弉冊尊の出雲行

 紀伊半島統一したAD18年頃、倭国の範囲は中国・四国地方全域・糸島地方を除く北九州地方、大分・宮崎および錦江湾北部地域、そして紀伊半島南部(和歌山県)領域であった。各地を回っている時金属器特に鉄器は当時貴重品であり、当時の地方の人々は鉄器をほしがっていた。鉄の安定供給が必要であることが分かった。鉄は朝鮮半島から鉄鉱石を輸入して生産していたが、輸送が大変なので、どうしても倭国内で鉄鉱石を採掘できる場所を見つける必要があった。

 鉄の採掘ができそうな場所をさがすことにより、素盞嗚尊の故国出雲こそ鉄が取れる場所と云うことが分かった。素盞嗚尊自身は倭国の分割について取り組む必要があり、宇佐の地で暫らく指示を出す必要があった。伊弉諾尊命は紀伊半島部の安定化に今しばらく取り組まなければならないので、伊弉冊尊を出雲に向かわせて鉄の採掘を行わせた。

製鉄について

製鉄はいつごろからあったのだろうか。出雲での製鉄の可能性について考えてみよう。製鉄の神は島根県広瀬町殿之奥をはじめとして奥出雲地方によく祭られている金屋子神である。

 伊弉冊尊の住んでいた殿之奥のすぐそばに金屋子神社がある。 この神社の祭神は金山彦、金山姫となっているがこれは後にそうなったようで、本来は金屋子神であるようだ。金屋子神は性別が不明であるが、女が嫌いであるなどの性格より女神であるらしい。 金屋子神祭文ではこの神は高天原より播磨国に天降り、そこで鉄鍋を作ったが周囲に住めるところがなかったのでこの地に来て鉄造りを伝えたとある。 このとき、この神は「我は西方を主とする神である」と言っている。高天原(日向)から来たということと西方を主とすることから、九州方面の神であることが推定される。 神話によると伊弉冊尊の吐瀉物から生まれたのが金山彦・金山姫でその子が金屋子神である。各地の神社伝承を紐解くと、金山彦は饒速日尊を意味しているようである。金屋子神は饒速日尊の子ということになる。
 島根県に伝わる伝承によると、金屋子神は播磨→吉備中山→印賀(鳥取県日南町)→西比田の経路をたどっている。どう見ても東からの技術者といった感じである。饒速日尊が東日本地域に鉄器製造技術を伝授しているが、その中の一人が製鉄をするために出雲にやってきたと考えられる。時期としてはAD60年頃ではあるまいか。

 ①製鉄に必要な良質の砂鉄が多く取れること。
 ②砂鉄を融かす木炭が取れること。
 ③炉を作るための良質の粘土が取れること。
 この3点が満たされている土地ということでこの地に金屋子神がやってきたと伝えられている。 伊弉冊尊が以前住んでいて未熟ながら製鉄を行っていたため、後の時代に金屋子神が訪れ本格的な製鉄を行う素地があったものと考える。
 出雲にとってこの当時最も大切なものは、外国の先進技術であった。鉄は硬い上に銅よりも比重が小さいので武器に農具に工具に最適の金属である。 北九州での鉄器の出土が多いことから、北九州の豪族たちは鉄の加工技術を持っていたと思われる。素盞嗚尊は鉄の加工技術・製鉄技術はのどから手が出るほどほしかったに違いない。しかし、この豪族たちはこの時点でまだ倭国に加入していないのである。素盞嗚尊は朝鮮半島からさまざまな技術を取り入れたのであるが、 製鉄技術に関してはまだ不十分なものがあったのではないだろうか。素盞嗚尊は鉄の製鉄・加工技術の必要性を北九州統一のときに北九州の豪族たちにいやと言うほど思い知らされた。 素盞嗚尊は朝鮮半島から製鉄技術を学び、それを伊弉冊尊に伝えた。紀伊国統一のあと宇佐で素盞嗚尊が倭国を統治している時、伊弉冊尊が各地を回り、製鉄ができる場所を探していたのではあるまいか。その結果、素盞嗚尊の生誕地である出雲こそ最適の製鉄のできる場所であることとの報告を受け、素盞嗚尊は日向津姫の元、宇佐から出雲に帰ったものと考えられる。
 中国山地の山奥であること、後の世にこの地方はたたら製鉄の盛んな地になっていること、金屋子神社から考えて、伊弉冊尊が出雲に持ち込んだ技術はこの製鉄技術ではないかと考えられる。 この頃まだ出雲で製鉄が行われたという事実は確認されていないが、奈良時代以降出雲は全国一の鉄の生産地となっている。その走りのようなものがあったかもしれない。

この時期の製鉄の可能性について吟味してみよう。
 弥生時代の鉄の加工は発掘事例から判断して弥生時代中期と考えられる。しかし、しっかりとした鍛冶遺跡は見つかっていない。 鉄滓の調査結果によれば、ほとんどが鉄鉱石を原料とする鍛冶滓と判断されている。その原料は朝鮮半島からの輸入で、この頃製鉄はなかったというのが定説である。 しかし、次のような状況により、製鉄があった可能性も指摘されている。
  ① 弥生時代中期以降石器は姿を消し、鉄器が全国に普及する。
  ② ドイツ、イギリスなど外国では鉄器の使用と製鉄は同時期である。
  ③ 弥生時代にガラス製作技術があり、1400~1500℃の高温度が得られていた。
  ④ 弥生時代後期には大型銅鐸を鋳造する優れた冶金技術をもっていた。
  ⑤ 広島県三原市の小丸遺跡は3世紀の製鉄遺跡ではないか思われる。
  ⑥ 国内から出土する鉄器の分析により国内で生産されたものである可能性が高い。
弥生時代の鉄器の普及と、その供給源の間の時間的ギャップを説明するため、当時すべての鉄原料は朝鮮半島に依存していたと考えられたのである。 しかし、成分分析によると国内の鉄原料を使っている可能性が高いことが分かった。弥生時代に製鉄があった可能性は十分高い。実際中期末に当たるこの頃、出雲地方に農具としての鉄器の出土が始まる。 この頃より、出雲で鉄器が使われるようになったのは間違いのない事実である。 

 伊弉册尊の出雲行き

 伊弉冊尊御陵伝承地は出雲を中心として分布している。出雲での伊弉冊尊伝承地を検討してみよう。

 伊弉冊尊御陵伝説地 

伝説地 場所 伝承
岩坂陵墓参考地 島根県松江市八雲町日吉 『雲陽誌』によると、「神納山は剱山から500メートルほど離れており、男神伊弉諾尊を追った女神伊弉冊尊が、みずから魂をこの地に納めたところであるので神納という」と記されている。地元の人の間では、岩坂陵墓の中に墓石となるようなものは置かれていないと囁かれている。岩坂陵墓参考地はもっとも有力な候補地とされている。神納峠(かんなとうげ)。この峠の近くに、うっそうとした鎮守の森がある。はっきりとはしないが10メートル程の古墳と思われる。
比婆山 安来市伯太町 比婆山山頂に久米神社がある。その背後に4m位の高さで10m四方の古墳があり、比婆山神社古墳と呼ばれている。この境内にのみ群生するといわれる陰陽竹は、男竹に女性的なササがついている珍しい竹で、伊弉冉尊が比婆山に登ったときの杖が根付いたものと伝えられています。
比婆山 広島県比婆郡  比婆山は古事記所載の「故神避りましし伊邪那美神(いざなぎのみこと)は出雲国(いずものくに)と伯伎国(ははきのくに)の境。比婆山に葬(かく)しまつりき」とある比婆山で一名美古登山(みことやま)とも言い、山上にある墳墓は伊邪那美神の鎮まります神陵として、古くから崇敬されてきた陵墓であると言われている。
この陵墓は三町歩にわらる平坦地の中央を南北にやや長い経六十四米、周囲約二百米の大円墳が築かれ、即ち比婆山大神の神陵とされている。(説明板より)
御墓山 島根県安来市広瀬町梶福留梶奥 島根県遺跡データベースに御墓山古墳として記録されている。 頂上には本陵と副陵があって本陵の上部は赤土をもって盛り土をした形跡があるほか、 峰づたいに降りた「沢田が廻」には古墳もあり、古来より神聖な霊峰と言い伝えられており、古老たちは、今でもこの山を「お墓」「みことさん」などと呼んでいる。
佐太大社裏山 島根県松江市鹿島町佐陀宮内 佐太神社は伊弉冉尊の大元の社で、その背後の山に陵墓を祀っていると伝えていました。
伊弉冉尊(いざなみのみこと)の陵墓である比婆山(ひばやま)の神陵を遷し祀った社と伝え旧暦十月は母神である伊弉冉尊を偲んで八百万の神々が当社にお集まりになり、この祭りに関わる様々な神事が執り行われることから当社を「神在の社」(かみありのやしろ)とも云い広く信仰を集めています。(佐太神社由緒)
伊弉冊 島根県仁多郡奥出雲町上阿井伊弉冊 鯛ノ巣山の中腹にある籠り岩で伊弉冊尊の尊が七日七夜この岩穴に籠られお産をされた、めでたい、ということで鯛の巣となる。上阿井地区には伊弉冊という地名の小さな集落があり、阿井川の支流として伊弉冊川がある。ここには岩柵があり、広さは十畳敷ほどで、伊邪耶美命(伊弉冊尊ノミコト)が住んでいたと伝えられている。猿政山の山麓に尊原と呼ばれているところがある。ここに伊弉冊を祀っている。ここが御陵であろう。(島根県口碑伝説集)
母塚山 鳥取県米子市 母塚山は伊弉冊尊御陵のある山で比婆山とも呼ばれている。鳥取県と島根県との県境にある山で、昔、伊弉冊尊を祭った神社が山頂にあったそうである。古事記には伊弉冊尊御陵は出雲と伯耆の境にあると記されているが、伊弉冊尊御陵伝承地で出雲と伯耆の境にあるのはこの母塚山と御墓山の二つである
花の窟 三重県熊野市 花窟神社は古来社殿なく、石巌壁立高さ45米。南に面し其の正面に壇を作り、玉垣で周う拝所を設く。此の窟の南に岩あり、軻遇突智神の神霊を祀る。この窟は伊弉冊尊の御葬所であり、季節の花を供え飾って尊を祀ったが、故に花窟との社号が付けられたと考えられる。 古来、花窟神社には神殿がなく、熊野灘に面した巨巌が伊弉冊尊の御神体とし、その下に玉砂利を敷きつめた祭場そして、王子の岩と呼ばれる高さ12メートル程の岩がある。この神が伊弉冊尊の御子であることから王子の窟の名の由来とされている。一説によるとここは軻遇突智神の墓とのこと。
比婆山 鳥取県南部町金田 麓に熊野神社あり、伊弉冊命御陵地なりと伝える。「天宮さん(南部町指定文化財)」という巨岩があり、昔からこの地域の方たちは、この積み重なった岩のことを‘天宮さん’と呼び、天地を開き給う祖神の遺跡として大切に守り続けている。これは巨石崇拝遺跡であり、安産の神様として、大正から昭和の始め頃までは参拝者が多かったが、戦後になると登る人も少なくなった。地区の人が年に二回、草刈をして登山道を確保している。
 麓から歩くと約一時間で、樹齢数百年の大樹が茂る山腹に、巨大な石が多く目に飛び込んでくる。その一角にある巨石が、伊弉冊尊ノミコトのお墓ではと古くから云われ崇拝された「天宮さん」である。<なんぶSANチャンネルより>

 調べた範囲では、伊弉冊尊御陵は出雲6か所、伯耆2か所、紀伊1か所、広島1か所である。周辺伝承から判断すると、伊弉冊尊の終焉地は圧倒的に出雲であり、紀伊国の花の窟は別伝の軻遇突智神の墓が相当するであろう。伊弉冊尊が紀伊国開拓している時、産田神社の地で軻遇突智神を生み、この神は若年にて亡くなり、花の窟に葬られたと考えるのが最も自然である。

 出雲の奥地に伊弉冊尊伝承地が多いのであるが、これは不便な地にあり、製鉄との関係が考えられる。安来の比婆山、広島の比婆山、御墓山、仁多の伊弉冊のいずれも周辺に製鉄遺跡が集中している。これは伊弉冊尊がこういった地に滞在していたことを意味し、伊弉冊尊が出雲に来た理由は製鉄にあるということにつながる。

 伊弉冊尊が出雲に来てすぐに山奥に行ったとは考えにくいので、最初に滞在した地が佐太神社の地であろう。ここは、伊弉冉尊の大元の社と言われており、本来は伊弉冉尊が主神であると思われる。それも、伊弉冊尊自身がしばらく滞在していたためであろう。猿田彦命が世話をしていたと思われる。

 安来市伯太町東母里井戸に伊弉冊尊が使った井戸が伝えられている。周辺に製鉄遺跡が多く、そのすぐ近くに比婆山神社があり、背後に伊弉冊尊御陵伝承地がある。佐太神社の地で周辺情報を集め、準備を整えた後、そこから東へ移動し、飯梨川を遡り、この地に到達したものと考えられる。この周辺は日次(ひなみ)と呼ばれており、日向(ひな)がなまったものと伝えられている。また近くに日向山(ひなのやま)がある。この周辺にしばらく滞在したものであろう。この周辺の滞在伝承が後に比婆山御陵伝説が生じるもととなったものであろう。比婆山御陵古墳は古墳であり、だいぶ後の時代に築造されたもののようである。

 伯太からさらに飯梨川を遡ると西比田殿之奥に到達する。比太神社の地に滞在していたと思われる。この周辺は伊弉冊尊関連伝承地が非常に多い。近くに御墓山がある。御墓山は後の時代に第7代孝霊天皇が参拝したと伝えられているため、かなりの祭祀対象になっているようである。しかし、周辺伝承が伊弉冊尊の人としての伝承のようなものが少なく、黄泉国神話にかかわるものが多い。その多くは、おそらく、後の時代に作られた伝承と思われる。当初この御墓山が真実の伊弉冊尊御陵と考えていたが、神武天皇が伊弉冊尊御陵を遙拝したという葦嶽山からこの御墓山が見えないことから御墓山は御陵ではないと考えるに至った。それに対して比婆山連峰は葦嶽山からよく見え、葦嶽山は比婆山を遙拝するには最高の山であった。真実の伊弉冊尊御陵は広島県の比婆山御陵と判断する。しかし、御墓山は孝霊天皇が参拝しているので、別の誰かの墓と考えられる。候補としては金屋子神ではないだろうか。

広瀬町の梶福富周辺は南側に山脈があるが,この中の御墓山が伊弉冊尊の御陵だと伝えられている。 ここは古事記にあるとおり,まさに出雲と伯耆の境に当たる。明治初年まではこの山の中腹に比婆神社があったといわれている。この辺り一帯は伊弉冊尊に関する伝承が多く, 御墓山(おはかやま)に東接する猿隠山は女神が崩じたところで,御墓山の西北麓の殿之奥は伊弉冊尊の御殿の跡と伝えられている。 さらに後の時代になって孝霊天皇が参拝したという伝承もある。またこの周辺は日向,日向側,日向原、日向山など日向に関する地名も多く, 日向地方から多くの人々がやってきて住んでいたものと思われる。また島根県下の多くの地域に伊弉冊尊御陵伝承地があるが,いずれも出雲と伯耆の国境ではない。 これは,出雲にやってきた日向の人々が作ったものと考える。  伊弉冊尊が実際に住んでいた殿之奥をさらに探ってみた。比太神社が少し小高い丘陵地に存在し、殿之奥はその神社を中心として栄えている集落である。 比太神社の祭神は吉備津彦であり、伊弉冊尊・伊弉諾尊が合祀されている。伊弉冊尊が祭られていることから判断して伊弉冊尊の御殿はこの神社の地に在ったのではあるまいか。 吉備津彦は倭の大乱時にこの地にやってきて、ここから御墓山の祭礼を行なったのではあるまいか。 その証拠に比太神社の真後ろが御墓山になっている。

 ここから北西へ山をひとつ越えると大東町上久野日向(ひな)まで直線10km、南西へ山をひとつ越えると横田町日向側(ひなたがわ)まで直線7kmである。伝承は伴っていないが、名前から伊弉冊尊滞在地であろう。日向側から、南西へ13km程で日向原がある。また、ここから西へ7km程で仁多郡奥出雲町伊弉冊があり、この周辺は伊弉冊尊伝承を伴っている。伊弉冊周辺の伝承は山腹の岩屋が多い。出産ではなく、鉄の採掘中の棲家であろう。おそらく、この周辺を伊弉冊尊は鉄資源を探して転々としていたものであろう。

 伊弉冊尊は奥出雲地方を転々とした後、広島県側に滞在しているようである。経路は日向原→三井野原→油木→比婆郡西城町日南(ひな)と推定される。この周辺も製鉄遺跡の多いところである。

 西城町周辺の伝承

別所 伊弉諾尊ノミコトは、月のさわりのとき、夫である伊弉諾尊ノミコトと別れて暮らしていたと伝えられる。故にその場所を別所(べっそ)という
田鋤 伊弉諾尊ノミコトは、黄泉の国から追いかけてきた八人の鬼神たちをこの地で桃のみを投げて撃退した。そしてそのあと、桃に向かって「おまえはこれから先も日本中の者が誰でも苦しんでいるときは、今の私を助けたようにみんなを助けてやってくれ」と言って、桃に対して「大神実神」という名を授けた。田鋤(たすき)はこの神話にちなんだ地名で「助けて」が転じて田鋤(たすき)となったらしい
別路 伊弉冊尊ノミコトが月のさわりで別所(べっそ)に向かうとき、伊弉諾尊ノミコトはここまで送ってきて、また会う日まで別れをおしんだ場所であると伝えられる。そのため別路(わかりょうじ)という地名が付けられたという。
 月のさわりがあると云うことは、まだ妊娠していないことを意味し、出産の悲劇が起こるだいぶ前のことと思われる。
千引岩 火の神を生んだことがもとで亡くなった伊邪那美命を追って黄泉の国へやって来た伊邪那岐命は、焼けただれた姿になった伊邪那美命の姿に驚き、黄泉の国から逃げ出した。伊邪那美命は怒って八雷神、千五百の黄泉軍を差し向けて追撃した。その時飛び越したのが「飛び越し岩」、軍勢を追っ払ったのが「越原」として、今も地名に残っている。最後に大石をはさんで「あなたの人草を日に千人絞め殺す」「それなら、一日千五百人の産屋を建てる」と二人が問答したことから千引岩と名がついたという。
不寒原 比婆は雪が多く寒い地方であるため、伊邪那美命はその寒い冬の間、比較的暖かいこの地に宮を造り、避寒の地にしたので不寒原(ひえんばら)と言うと伝わっている。今ではなまって「へんばら」という。
 別路・別所の伝承から判断して、此の地に伊弉諾尊も一緒に生活していたのであろう。
伊邪那美命の隠れ穴 立烏帽子の谷間にある岩穴で「火除け穴」とも言われています。伊邪那岐命が伊邪那美命を訪ねてきたが、夜になったので自分の櫛に火を灯し、明かりとして通った所と言われています。また、伊邪那美命がここを通りかかったときに、天から火の雨が降ってきたのでこの穴に入って難を逃れたとも言われています。さらに、火の神を生んだ伊邪那美命がこの穴で亡くなったとの説も残っています
金倉神社 小奴可にある。背後に三段山があり、頂上に古代の祭祀跡と思われる巨石が散在。伊弉諾尊が火具土を三段に斬ったという伝承に関係?
稚子が池(三井野原) 難産の末伊弉冊尊命が崩御せらる惨事となったとき、難産につきものの汚物を洗った池。今は小さな池であるが、太古は底なしの池であった。
稚児ヶ池神社の由来<神社説明板より>
「三井野の地名は御生、御井で比婆山神話に由来し、此処にある稚児ヶ池は古い伝説と信仰を持っている。出雲風土記に出雲と備後の界室原山と言うあり、神の御室などありしが、此の原上に古井あり、今は稚児ヶ池と言う。また、天孫族の長者伊弉諾尊神・伊弉冊尊神二神の本拠が比婆山連峰の高開原、幸(油木)の高天原にあり。女性におわす伊弉冊尊神御妊娠の時幸の高天原より東方一里御井(三井野原)にある方一町位の泉のほとりに産屋を作りお籠りになり三貴神天照大神、月夜見神、須佐之男神がこの地に御誕生になり、この泉を御井と呼ばれていた。その後三井と改字され五尺四方、深さ三・四尺の池なるも近国迄名高く聞こえ、毎年近郷より雨上り、雨乞いに即立願して其の験また多く、如何なる旱魃にても水減ずることなく往古は一町四方の池にて伯耆大山や宍道湖とも底が通じていて、大蛇がこれらの池を通っていたと言い伝えられ、陰陽往還の要所に位置し、水量豊富で過去幾多の人馬ののどを潤したが、この周辺は軟弱を極め、水を飲むために近寄りぬかるみに足を取られ、溺死した者もあったため、今は埋められて一坪ほどの池と化しその上に横たえる材木の上に須佐之男命を祀る祠があり、稚児ヶ池神社と呼ばれ隣国より水の神様として信仰を集めている。」
ジャバミ山 三井野原の西の分水嶺付近にナギハタという地名がある。このナギハタに伊弉冊尊の一杯水という泉がある。そのそばの小高い山をジャバミ山という。伊弉冊尊命が崩御せられたことを悲しんだ泣沢女命が稚児ヶ池で汚物を洗って産屋に帰る途中で毒蛇にあったからつけられたという。
枕返し 難産で病み伏していた伊弉冊尊命に仕えていた泣沢女が、せめて滋養物を差し上げようと魚を取りに行ったところ。彼女が眠っている間に方向が変わっていたのでこの名前がついた。ここには伊弉冊尊命に差し上げる餅をついたという「臼岩」がある。
比婆山御陵周辺の岩 比婆山御陵周辺には烏帽子岩を始めとして巨石が転がっているが、その多くは人工的な切り込みが入っており、そのことごとくが比婆山御陵のほうを向いている。
また、神様が比婆山から投げたという礫岩が八か所に存在している。その岩は比婆山をぐるっと囲んでおり、比婆山御陵が信仰の中心となっている。
比婆山伝説地(御陵) 比婆山(1264m)の山頂は、古事記に云う伊邪那美命を葬った比婆山であるとして、古来より信仰の対象となってきたところである。南麓に遙拝所熊野神社があり、山腹に那智の滝(古名・鳥の尾の滝)がある。神域の巨石およびイチイの老木は神籬盤境として伝承されている。
 古事記に「伊邪那美神は出雲国と伯伎国との境の比婆の山に葬りき」とあり、いわゆる「御陵の峰」が神陵のある山である。此の御陵を奥の院といい、南方約6kmの山麓にある比婆山大神(伊邪那美神)を祀った熊野神社を本宮という。比婆山は別名「美古登山」ともいい、山上には3haにもわたる広大な平坦地がある。
 その中央部付近にある径15mの区域内は昔から神域として伝えられ、雨露に崩れて露出した巨石数個が重畳している。南側正面は一対のイチイ(門栂という)がおのおの巨石を抱いて茂り、伝承にある神域の門戸を形造っているようである。
 この栂(正しくはイチイ)は木の母の字意から神木と解し、東洋における最長寿木であり、古代の神殿の造営林として重用されたもので、「あららぎ」の古語がある。御陵の背後に烏帽子岩という大きな岩があり、叩けば太鼓のような大きな音を発するので太鼓岩とも呼んでいる。そして、その周辺にはそれぞれ巨石を抱くイチイの巨木があり、古来神域の象徴として崇められてきた。幕末以後、神陵参拝が盛んであったが、明治20年頃、比婆山を神陵として称することが禁じられたため、登拝は衰えていく。その後、地元出身の宮田武義、徳富蘇峰らによって、全国に知られるようになった。<案内板より>
長者原 皇居跡と言われているが、誰の皇居があったのかがはっきりしない。神武天皇と推定する。
稚児ヶ池 比婆山御陵

伊弉冉尊関連伝承地

 稚児ヶ池に伝わる伝承の高天原はどこであろうか?地図上で稚児ヶ池より西一里程の場所で油木に所属する人の住める条件を満たしている場所と言えば六の原地区の県民の森周辺しかない。しかし、此の地には調べた限りにおいて高天原伝承はないようである。六の原地区は後の時代にたたら製鉄の拠点があった処で、その人たちが高天原伝承を作った可能性も否定できないが、ここは高開原という地名にぴったりの場所で立地条件からして伊弉諾尊・伊弉冊尊二神が一時期此処に住んでいた可能性はある。また、西城町日南(ひな)も地名から判断して伊弉冊尊が住んでいた可能性がある。これらの伝承から判断すると、伊弉冊尊命は日向原から三井野原を越えて広島県内に移動し、日南辺りに住んで鉄の採掘をしていたようである。出雲では伊弉諾尊の伝承が伴っていないのであるが、広島県側では伊弉諾尊伝承も伴っている。おそらく、伊弉諾尊が紀州から訪問してきて日南(ひな)や高開原で生活していたのであろう。
 伊弉冊尊の出雲行きの理由がなかなか思い当たらなかったのであるが、この伝承を分析することにより、素盞嗚尊・伊弉諾尊・伊弉冊尊が紀州を統一した後、伊弉諾尊は淡路島で鉄の鍛冶工房を作りそれを運営し、素盞嗚尊は宇佐に戻り倭国全体の統治をし、伊弉冊尊が鉄資源を探して先遣隊として出雲を訪れたものと考える。伊弉諾尊も紀州を安定化させた後に出雲に行く予定だったのであろう。伊弉冊尊が鉄資源を探して広島県側に移動したころ、伊弉諾尊が伊弉冊尊のもとにやってきたのであろう。鞆の浦から芦田川沿いに伊弉冊尊の滞在していた日南までやってきたと思われる。
 伊弉冊尊はそこからさらに熊野川に沿って遡り、比婆連峰で鉄の採掘をしていた。夏は山に入り、冬は不寒原で生活していたようである。別路の伝承から判断すると此の地には伊弉諾尊もいたようである。この後高開原に居を移し、六の原周辺での鉄の採掘を行った。伊弉冊尊命が妊娠をし、出産を控えて、きれいな水のあるところとして三井野原の稚児ヶ池を選び、そのすぐそばに産屋を立てて籠った。その出産は難産で、その影響で伊弉冊尊命はこの地で亡くなった。古事記には伊弉冊尊の腐乱遺体の描写があり、もがりをしていたのであろう。此の描写があると云うことから、伊弉冊尊が亡くなった時、伊弉諾尊はこの周辺にいなかった可能性が考えられる。宇佐や紀州に赴いていたのかもしれない。伊弉諾尊命は伊弉冊尊の遺骨とともに直前までともに住んでいた高開原に戻り、その後比婆山御陵に葬った。AD25年ごろのことであろう。
 比婆山の語源は「ひいばば様の山」と言われている。ひいばば様と呼べるのは3世後の世代である。その人物は神武天皇であろう。神武天皇はこの地にやってきて、比婆山を遙拝している。比婆山は神武天皇が命名したと思われる。
 また、比婆山の西隣に吾妻山があるが、これは、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が比婆山に眠る妻の伊邪那美命(いざなみのみこと)を「ああ、吾が妻よ」と山頂に立って生前を偲んだことが山名の由来とされている。
 宇佐にいた素盞嗚尊も伊弉冊尊の死はショックだったようである。素盞嗚尊自身も比婆山を訪れているようで、比婆山御陵周辺の石の1つ「力石」は、素盞嗚尊命が比婆山から戯れに投げたと云われている。おそらく、素盞嗚尊が比婆山御陵を祭祀する目的で、八か所に巨岩を配置したものであろう。烏帽子岩の切り込みも此の時つけられたのではないだろうか。
 広島県の比婆山を真実の伊弉冊尊御陵とすると、このように数多くの伝承がつながるのである。古事記には伊弉冊尊御陵は出雲と伯伎(はくき)の境にあると記されている。伯伎は今の伯耆国で島根県と鳥取県の県境であると一般的に云われているが、三次市十日市町の熊野神社の記録に「昔はこの周辺一帯を伯伎と呼んだ」とある。現在の三次市一帯は伯伎国と呼んでいたようである。

御墓山(広瀬町西比田) 金屋子神社

 

御墓山の伝承
御墓山は梶奥と日南町大菅との界にあり、標高769m。この山は、古事記に「神去りましし、伊弉冊尊は出雲の国と伯耆の国の界なる比婆山に葬る」 といわれている地点で、山頂には、伊弉冊尊ノミコトの御陵があると伝えられており、頂上には本陵と副陵があって本陵の上部は赤土をもって盛り土をした形跡があるほか、 峰づたいに降りた「沢田が廻」には古墳もあり、古来より神聖な霊峰と言い伝えられており、古老たちは、今でもこの山を「お墓」「みことさん」などと呼んでいます。
 また、西比田地内に現存する地名で、神楽松山、殿之奥、追神、待神、行水谷、桃の木谷は、みな伊弉冊尊ゆかりの地名として古事記にも見られるところであります。
 大正年間に神道伊弉冊尊流伝御陵地として内務省より指定を受け、昭和6年7月29日には、神代史蹟鳥上峯周囲神域四郡神職会により、御墓山宣揚祭が行われ、 当日は、神職80名の他、一般参拝者千数百名の参加があり、盛大な祭典が行われました。
 以来、協会主催にて年々盛大な祭典が挙行されましたが、いつ頃からか途絶えています。
    月山尼子ロマンの里づくり委員会編「ひろせ史跡名勝ガイドブック」より

 伊弉冊尊はAD20年頃より、奥出雲で鉄資源を見つけ製鉄事業を行っていた。当時の製鉄は野たたらと呼ばれている方法で、山の斜面に炉を作りそこに砂鉄なり鉄鉱石なりをいれて、自然の風を利用して鉄を作るという方法である。現在まで弥生時代の製鉄遺跡は確認されていないが、弥生遺跡から出土した鉄器の中に国内の成分であろうと思われるものがあり、どこかで、製鉄がなされていたことは確実であろう。山の斜面を使った製鉄なので、小規模であり、遺跡として残りにくかったのではないであろうか。

 伊弉冊尊はAD25年頃、難産の末、三井野原で亡くなった。そして、広島県比婆山の御陵に葬られた。

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