素盞嗚尊出雲帰還

 AD25年頃、素盞嗚尊は,日向津姫との北九州の生活をやめて出雲に帰っていった。そして,AD30年頃出雲で世を去ったのである。

 AD25年頃出雲で伊弉冊尊が亡くなった。伊弉冊尊は伊弉諾尊と並んで有力な協力者であり、伊弉冊尊を失ったことは素盞嗚尊にとって大変ショッキングなことであった。此の伊弉冊尊は出雲で鉄資源の探索と製鉄事業を実施していた。その伊弉冊尊の代わりに素盞嗚尊自身が鉄資源開発をするために出雲に戻る決心をしたのであろう。自らが指揮して倭国全体を 統治するには60歳を過ぎて年をとりすぎており、日本列島統一事業は若くて信頼のおける饒速日尊・日向津姫・高皇産霊神等に任せて出雲に戻ったのであろう。素盞嗚尊は自らの隠棲地を出雲の中心から外れた島根県佐田町須佐神社の地に決めた。留守番していた神大市姫と共にこの地に住んだ。素盞嗚尊がこの地にいたのはAD25~28年頃と思われる。この時期に大己貴命は三屋神社の地にいたのであろう。

 出雲に戻った素盞嗚尊は最初に比婆山に登り伊弉冊尊を弔った。

 素盞嗚尊の正式な後継者は2代目倭国王の大己貴命となった。AD20年頃のことである。第二代倭国王に就任してすぐに越国統一に行ったが、AD25年頃、越国から戻ってきた。彼に倭国全体に目を向けさせ自らは佐田町の須佐神社の地に隠棲をした。隠棲をしながら大きくまとまった倭国全体に目を通し後継者の育成に力を注いだのであろう。そのため、再び北九州の地を訪れることはなかった。須佐神社周辺には素盞嗚尊に会うために天照大神が滞在したと伝えられている姉山がある。素盞嗚尊が出雲へ戻ってきて亡くなるまでは5年程と推定している。この間北九州に残って九州をまとめていた日向津姫が 何度か出雲を訪問しているようである。出雲にやってきた日向津姫が滞在していたところが姉山ではないだろうか。日向津姫は宇佐の地より日本海経由で島根半島西端の日御崎を目印に出雲を訪問した。そのため、日御崎神社日沈宮として天照大神が祀られているのであろう。出雲にやってきた日向津姫は現在の出雲市周辺から神戸川に沿って遡ると、 姉山がある。そこからさらに10kmほど遡ったところに須佐神社がある。須佐神社の隣には天照社があり、素盞嗚尊との関係が考えられる。同じ出雲でも松江市周辺の伝承には 天照大神が存在しないので、同じ妻である稲田姫との関係を意識して姉山で日向津姫と会っていたのであろう。素盞嗚尊は須佐神社の地に隠棲をしながら、 時々やってきた日向津姫に対し九州方面の統治の指示を出していたのではないかと考えられる。   

須佐神社由緒
 出雲風土記に見える須佐之男命の御終焉の地として、御鎮魂の霊地、又御名代としての霊跡地であり須佐之男命の御本営として古より須佐大宮、天文年間には十三所大明神という。出雲の大宮と称え、朝廷をはじめ累代国守、藩主、武将の崇敬は及ばず、世人の尊敬厚く社殿の造営は武将、藩主によって行うのを例としてきた。
 (中略)
 その昔、須佐の郷を唯茂れる山であり、僅かに川沿いに猫額の耕地を持った寒村に過ぎなかった。須佐之男命が諸国を開拓し須佐の地に来られ、最後の国土経営をされ「この国は小さいけれども良い国なり、我が名を石木にはつけず土地につける。」と仰せられ、大須佐田、小須佐田を定められたので須佐という、と古書に見えている。命がこの地に一生を終えられてから二千有余年、その神徳は今日まで及び村は栄え、子孫は生業を得て繁栄している。
 (後略)
                     須佐神社社務所発行 「須佐神社の由来」より


須佐神社 姉山

 須佐神社は古くは、北の宮尾山に鎮座していたといい、天長年間(824~834)に現在地に遷座したと伝えられる。また、配祀の稲田姫命・手摩槌命・足摩槌命は、もとは須佐川の対岸に祀られており、古社地跡が残っている。その地には剣が埋められていると伝えられている。

 出雲に帰還した素盞嗚尊がこの地に住んでいたのは、第二代倭国王として任命した大国主命を見守るためではなかっただろうか。この時大国主命の政庁は20km程離れた三刀屋の三屋神社の地であった。

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