素盞嗚尊の最期

素盞嗚尊関連地図

素盞嗚尊最期関連地図

出雲帰還

 AD25年頃、出雲に帰還した素盞嗚尊は最初の2年間ほどは、佐田町の須佐神社の地で第二代倭国王大己貴命の仕事ぶりを見ており、陰で彼を支えていた。大己貴命が地方開拓のために出発したAD27年頃以降、製鉄技術の開発に力を注ぐことになった。

出雲の製鉄技術開発 

 島根県平田市に韓竈神社がある。この神社には奥深い山の急斜面に存在している。通常人の来るところではない。この神社には次のように伝えられている。
  由緒
 出雲国風土記には韓かま(金至)社、延喜式神名帳には韓竈神社と記されており、創立は不詳であるが非常に古い由緒を持つ神社である。
 社名のカラカマは朝鮮から渡来した釜を意味するとされている。すなわち祭神の素盞嗚尊が御子たちとともに、新羅に渡られ「植林法」を伝えられるとともに「鉄器文化」を開拓したと伝えられていることと関連があろう。また当社より奥部の北山山系が古くからの産銅地帯といわれ、金堀り地区の地名や自然銅、野たたら跡、などが見られることと鉄器文化の開拓と深い関係があるといわれている。
 「雲陽誌」によると、当社は素盞嗚尊を祀るとして、古老伝に「素盞嗚尊が乗給いし船なりとて、二間四方ほどの平石あり、これを「岩船」という。この岩は本社の上へ西方より屋根の如くさしかざしたる故に雨露も当たらず世俗に「屋方石」という。又、岩船の続きに周二丈余、高さ六間ほどの丸き立岩有り、これを「帆柱石」という。社の入口は横一尺五寸ばかり、高さ八尺ほどの岩穴となっており、奥の方まで二間ばかり、これが社までの通路となっている」と記されている。

この神社に伝わる由緒から判断して出雲に帰還した素盞嗚尊はこのあたりで金属器の生産をしていたようである。

 佐田町から神戸川に沿って下ると、出雲市近辺に出る。この当時この周辺は海であり、この東側が海岸(稲佐の浜)であったと思われる。この海岸線に沿って北へ行くと鼻高山がある。この山は古来より熊成峰と呼ばれており、素盞嗚尊の聖地である。この山の中腹に来坂神社があり、素盞嗚尊の腰掛岩が存在している。素盞嗚尊は暫らくこの周辺に滞在していたようである。この鼻高山を超えて北側に降りると素盞嗚尊の遺骨を祀っているという鰐渕寺がある。そこから、西側の丘陵に登ると唐川町がある。その丘陵を西に下る途中に素盞嗚尊の墓と呼ばれているところがあり、さらに下ると唐川川がある。その川の合流点付近の道路わきの田のあるところに素盞嗚尊の住居跡と伝えられているところがある。そこから500m程川を遡った処に韓竃神社がある。

 このすぐ近くの鰐渕寺境内にある摩陀羅神社に素盞嗚命の遺骨(大腿骨)を祀っている。これは昔素盞嗚尊の墓と伝えられる場所があり、そこを掘ると人の骨が出てきた。その骨を祀っていると伝えられているのである。
 これが事実だとすると、素盞嗚尊はこの周辺で亡くなったことになる。素盞嗚尊は生誕地に近いこの周辺で製鉄技術の開発に力を注いでおり、その最中に亡くなったということが想像される。素盞嗚尊の住居跡と伝えられている平坦地も非常に狭いところで、とても倭国の創始者素盞嗚尊が普通に生活するところではない。韓竃神社周辺で製鉄をするためにこの地にやってきたとしか思えないのである。
 素盞嗚尊はAD28年頃より伊弉冊尊の業績を引き継ぎ、自らの力で製鉄事業を始めたようである。

 素盞嗚尊の墓

 素盞嗚尊の墓と言い伝えられている場所が平田市在住の持田さんの協力により確認することができた。韓竃神社より800m南の丘陵地の茶畑内にあった。土地の人の話によると、昔ここには素盞嗚尊の墓と伝えられる神社が建っていたが、明治になって、摩陀羅神社に移された。そのとき、神社の本殿下を掘ると人の大腿骨が出てきて、今はそれを摩陀羅神社に祀っているとのことです。その後神社跡は茶畑になったそうだが、骨の出土地だけは今でも大切に保存されていた。この大腿骨は並みのものより太くて長いものであったそうである。葬られた人物は身長2mを越える人物と推定されている。
 周辺は60件ほどの唐川の中心集落であり、墓のある場所はほぼその中心に位置している。江戸時代までは周辺の人々によって大切に祀られてきたことがうかがわれる。その背景から考えて、この墓は本物である可能性が高い。

素盞嗚尊の墓のある茶畑 素盞嗚尊の墓

 素盞嗚尊最高の聖地は熊野山の山頂近くにある磐座である。ここを崇拝する神社が熊野大社であり、昔は壮大な大社だったそうである。熊野山中はこの磐座を崇拝していたと思われる祭祀場址と思われるものが散在している。祭祀の中心は明らかに熊野山である。素盞嗚尊の本当の墓が唐川にあるとすれば熊野山とのかかわりはどうなるのであろうか?
 日本書紀では「熊成峯(熊野山)に居しまして、遂に根国に入りましき」。日御碕神社社伝では、「素戔嗚尊は出雲の国造後、熊成峯に登り、鎮まる地を求め、柏葉を風で占うと、隠ヶ丘に止まった」と記録されている。 熊野山はこの周辺では最も高い山であり、出雲の国見をするため素盞嗚尊は頻繁にこの山に登っていたようである。
 素盞嗚尊が祭祀対象になったのは死後10年ほどした後の出雲国譲りのときである。国譲りをスムーズに進めるために素盞嗚尊祭祀を強化したと推定している。素盞嗚尊の墓は唐川の地であったが、出雲の中心から大きくずれており、祭祀対象にするには地域的に難しかったのではあるまいか。祭祀の対象としては素盞嗚尊が頻繁に登っていた出雲地方で最も高い山(熊野山)がふさわしかったといえよう。素盞嗚尊の遺骨の一部、あるいは遺品を山頂近くの磐座に埋めて熊野山を祭祀対象にしたことも考えられる。

 素盞嗚尊の墓と伝えられている場所は丘陵地の中腹であり、計画的に大々的に葬られたものとは考えにくい。倭国の創始者素盞嗚尊にとってはシンプルな墓といえる。 当時としては人の往来のほとんどない山奥にある小規模な墓、そのような墓となったのは素盞嗚尊が急死したためではあるまいか。 近くの韓竃神社も人の往来のない山の急斜面にある。「なぜこんなところに神社があるのか」と頭をひねるような場所である。社伝にある通り鉄鉱石・銅鉱石の精錬を行っていたと 考えればすっきりとする。神社は鉱石採取の址と思われる。鉱石採取の地に赴き、素盞嗚尊自身が率先して人々に指示をしていたと想像される。その最中に素盞嗚尊が 急死したとすれば、その近くに葬ることは十分に考えられる。その死因は事故死で、事故現場が神社の地ということもありうる。

四隅突出型墳丘墓の出現

 四隅突出型墳丘墓は,弥生中期末の出雲地方に出現した。弥生時代最大規模の墳墓で,祭祀系土器が多く,後の時代になると,吉備系土器も多く出土する。 出現時期と場所から素盞嗚尊に関連した人物の墳墓のようである。祭祀系土器の出土が多いことから,素盞嗚尊祭祀者の墓ではないかと考える。

 四隅突出型墳丘墓が最初に出現したのは,広島県の北部である。この地域は大歳によって統一され,出雲国の支庁があったと推定している。この地方は, 大和朝廷が成立した頃より,出雲系土器が衰退し,四隅突出型墳墓も見られなくなる。この地方で四隅突出型墳丘墓の最古のものが見つかっている。この地は大歳が統一し、 出雲国の直接支配地であり、素盞嗚尊に対する思いも特に強いことが想像される。そのために、素盞嗚尊に対する祭祀を最初にはじめたものと考えられる。 この祭祀が出雲地方に広がっていったものと考えられる。出雲の中心域は素盞嗚尊がいなかった時期の方が多く、地方に比べて素盞嗚尊祭祀に対する気持ちは弱かったと 考えられ、この時点で素盞嗚尊祭祀は行われていなかった。後の世になり、サルタヒコが出雲で素盞嗚尊祭祀を始めたと考えている。

 四隅突出型墳丘墓の多い地方は,広島県三次地方の江の川沿い,島根県の斐伊川沿い,そして,島根県東部の広瀬川・伯太川沿いである。川沿いに多いのは, 墳墓築造に必要なものを船で運ぶためと考えられる。斐伊川沿いはオオクニヌシの政庁,飯梨・伯太川沿いは能義神社の地と,いずれも近くに政庁があったと考えられる伝承地がある。 このことは,四隅突出型墳丘墓が各支庁の支配者の墓で,それはすなわち素盞嗚尊祭祀者の墓となるのである。

 四隅突出型墳丘墓の特徴を挙げると,

①祭祀系土器が多い。

②複数の埋葬施設がある。

③弥生時代最大規模の墳墓である。

④ほとんど出雲地方に限られている。

⑤四隅突出型墳丘墓の周辺の土が踏み固められている。

 墳丘墓周辺の土が踏み固められていることから,四隅突出型墳丘墓周辺の祭祀は墳丘墓を取り囲むように行われていたことが伺われ,これは,ピラミッド構造の階級はまだでき ていなくて,王以外は平等であったことを意味している。王が権力の上に君臨していたのなら,ピラミッド構造の階級が存在し,墓の副葬品も豪華な者になり,墓の祭礼は, 一方向からの祭礼となるはずである。これは,四隅突出型墳丘墓の被葬者が,信仰上の王すなわち素盞嗚尊祭祀者であることを意味している。

 四隅突出型墳丘墓は,規模が大きく,複数の埋葬施設があり,副葬品が乏しいことから,祭祀の対象が埋葬者個人とは考えにくい。また祭祀系土器の出土が多いことから, 墳墓の周辺で祭礼が行われていたようである。埋葬者個人が祭礼の対象になるのであれば,埋葬施設は一つで,副葬品も多いはずである。被葬者は祭祀者であり, その祭礼対象はやはり素盞嗚尊であろう。

 四隅突出型墳丘墓は墳墓であると同時に,斎場でもあったようである。各支庁の首長は,普段墳丘墓周辺で素盞嗚尊祭祀を行い,彼の死後, 祭祀者をその場所に葬ったものではないだろうか。方形領域が斎場で,突出部がそこへ入る通路と考える。このように考えると四隅突出型墳丘墓の各特徴が説明できるのである。

ところが出雲国の中心地である松江市南部から八雲村・大東町にかけての一帯には,四隅突出型墳丘墓がほとんど見あたらない。これはどうしたことであろうか。 大きな川がないというのも一因かもしれないが,出雲国の中心地域では,素盞嗚尊祭祀の祭礼の場所が決まっていたからと判断する。それは, 素盞嗚尊の霊廟である熊野山である。熊野山の熊野神社本宮は,現在でも本宮祭が行われているように,当時から祭礼の場所となっている。 出雲中心域の祭礼は,熊野山で行われるが,その他の地方ではそのようなものがないので,四隅突出型墳丘墓を造り,そこで祭礼をしたものと考える。

四隅突出型墳丘墓が四国地方や九州地方まで広がらなかったのは、素盞嗚尊が広めた青銅器祭祀があったためと考えている。出雲地方は、統一の出発点であるがゆえに、 素盞嗚尊に対する祭祀がこの時点までなかったのである。

 素盞嗚尊の死は,倭国の人々を悲しませた。素盞嗚尊の遺徳を忍び,後に全国の神社に日本最高の神として祭られるようになるのである。特に,出雲の人々は,その死を惜しみ,素盞嗚尊の祭祀を始めた。素盞嗚尊祭祀は出雲国の各支庁で行われ,その祭祀者の墓が四隅突出型墳丘墓となる。

熊野山(素盞嗚尊御陵) 四隅突出型墳丘墓(妻木晩田遺跡)

 

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