猿田彦命の九州上陸

 サルタヒコの九州上陸

 AD20年頃、猿田彦は佐太大社の地を拠点として今の松江市一帯を統治していた。そこへ、伊弉冉尊が製鉄・青銅技術を携えてやってきた。猿田彦は佐太大社の地で伊弉冉尊の世話をしながら新技術を学んでいった。伊弉冉尊は奥出雲で製鉄事業を始めた。猿田彦もその協力をしていたと思われる。ところが、AD25年頃伊弉冉尊が奥出雲で亡くなった。

 住吉神

 福岡市に住吉神社がある。この神社は神代から存在している非常に古い神社である。イザナミ亡き後、イザナギ命が禊祓いをした地で、最初に生まれた神が住吉神なので、住吉神社と呼ばれている。イザナミが出雲で亡くなったのがAD25年頃なので、その直後辺りイザナギがやってきたと考えられる。この地は古代において那珂川の河口であり、其の近くの丘陵地に当たる。海上交通の中継地になるべき地である。イザナギ命の九州への上陸地と考えられる。又この周辺は現在の福岡市であるとともに古代においては魏志倭人伝における奴国に該当している。この当時も人口集中地帯であり、スサノオの倭国にはまだ加盟していなかったと思われる。スサノオにとっても北九州で倭国に未加盟であった奴国と伊都国を加盟させるのは最重要事項だったはずである。この奴国を倭国に加盟させるために派遣されたのがイザナギであろう。イザナギ一人で人を産むことができるはずがなくイザナギが住吉神を連れて上陸したと考えられる。

 住吉神とは誰であろうか?住吉神とは海の神として知られており、神功皇后が三韓征伐の時に祀ったのが始まりとされている。三大住吉が大阪府の住吉大社、下関の長門一宮住吉神社、福岡市の筑前国一宮の住吉神社である。この中でも福岡市の住吉神社が始原であるとされている。周辺神社にサルタヒコが集中して祀られていることから住吉神=サルタヒコと推定している。サルタヒコは出雲で大歳命とキサカイヒメとの間にAD1年頃生まれている。北九州に上陸したと思われるときは25歳ごろであったと推定する。イザナミが出雲に来た時最初に住んでいたのが佐太大社の地で、この地はサルタヒコの住居地だったようで、サルタヒコが宮前で会議を開いていたと伝えられている。サルタヒコは出雲で人々にかなり慕われていたと思われる。スサノオは其の人望を活用して北九州主要部の統一事業にサルタヒコを抜擢したものであろう。

福岡市近辺はイザナミを伴わずイザナギを祀っている神社が多い。若杉の太祖神社は神代からイザナギ命が祀られており、 鷲尾愛宕神社はイザナギ命・天忍穂耳命が景行天皇の時代に祀られ、後でイザナミが祀られた。また、直方市の多賀神社では「伊邪那岐尊、国土万物を生成し給ひ天に復命申し給ふと参登り座す時に寄来給ひぬる」とある。これは、イザナギ命がイザナミ命を伴わず北九州一帯を統一し最後の場所(淡路島)へ移動するまで、ここに滞在したことを意味している。イザナミ命を失った後のイザナギが奴国周辺の未統一地域を倭国に加盟させたと思われる。イザナギは暫らくして淡路島に移動したと思われ、その跡を引き継いだのがサルタヒコであろう。サルタヒコは五十猛命が紀伊半島に旅立った後の佐賀・長崎一帯及び北九州西半分を一手に引き受けて統治することになった。サルタヒコは大山咋命とも呼ばれて日吉神としても祀られている。この頃最盛期だったと思われる吉野ヶ里も氏神は日吉神である。