製鉄の重要性

 近江国統一関連伝承地

 大阪湾岸地方は統一するのがかなり難しそうである。紀伊半島を統一した後、いよいよ大阪湾岸地域に手を出す計画ではあるが、是が非でも成功させなければならない。伝承は存在していないが、そのために、紀伊半島からの帰途、大阪湾岸地方を巡回していることであろう。その結果わかったことが、大阪湾岸地方には鉄器がないということである。鉄は農機具としても、武器としても優れている金属であるが、その入手がかなり難しいものである。すでに統一したところも鉄器を配布するのはかなり難しい状況にある。紀伊半島統一後伊弉諾尊と伊弉冊尊は別行動をとっているが、ともに鉄にかかわる事業に手を出しているようである。素盞嗚尊はその重要性を再確認したのではないだろうか。

 朝鮮半島の倭人による鉄採取の実態

 最近の釜山大学の調査で、韓国の洛東江流域で2世紀頃の製鉄遺跡が発見された。この地域の墓からは弥生時代の倭国製の土器のみが発掘されたそうである。このことから、倭人がこの地域に定住し、製鉄に従事していたことは確かなようである。鉄を調達して日本に持ち込んだということも十分に考えられる。また、後漢書・東夷伝によると、辰韓について『倭、馬韓並從市之。凡諸貿易、皆以鐵爲貨』という記述が見られる。倭人は、朝鮮半島南部が三韓に分立していた時代から、朝鮮半島に行っており、鉄を貨幣のように用いて交易していたと推定されている。

 このことは、朝鮮半島の技術者から鉄を分けてもらうのではなく、倭人が自ら朝鮮半島に赴き、自ら、鉄を採取していたことになる。鉄は重いので、鉄鉱石の形で輸入するより、現地で、鉄を延べ棒に加工して輸入していたと思われる。国内では鉄器に加工して使っていたのである。国内には、鉄鉱石から延べ棒にする製鉄技術はなかったものと考えられているが、上の状況より、製鉄技術がなかったのではなく、国内で、質の良い鉄鉱石を見つけることができなかったと解釈すべきであろう。

 素盞嗚尊もこの点を気にしていたのではあるまいか。朝鮮半島まで行って鉄を手に入れることはできるが、運び込むのが大変であり、国内で製鉄ができればこれほど都合がよいことはないであろう。となれば、国内で良質の鉄鉱石がとれる場所を探す必要が出てくる。素盞嗚尊はこの後、統一事業は若い饒速日尊に任せ、自らは鉄鉱石がとれる場所探しをすることになったのである。

 紀伊半島統一の項で、伊弉諾尊の生誕はBC20年頃と推定しているので、淡路島で伊弉諾尊が亡くなったのはAD30年~40年頃と考えられる。この直後にあたるAD50年頃から200年頃にかけて五斗長垣内遺跡が盛行しているのである。しかも、伊弉諾尊の住居跡にあたる伊弉諾神宮の位置と遺跡の位置は直線で4km程である。両者は全くの無関係とは考えにくい。おそらく、伊弉諾尊の主導のもとで鉄器工房が作られたとみるべきではないか。

 淡路島に大規模な鉄器工房を作った目的はなんであろうか。淡路島は当時の倭国の領域で最も東に位置しており、重い鉄の延べ棒を朝鮮半島から運ぶには不向きである。大阪湾岸地域の統一を意識してのこととしか考えられない。大阪湾岸地域は鉄器はおそらく、全くと言ってもよいほど存在しなかったであろう。そこへ、鉄器を持ち込めば統一しやすいのではないかと考えるのである。大阪湾岸地域に鉄器工房を作らなかったのは製造技術は渡したくなかったと解釈できる。 大阪湾岸地域から鉄器の注文を受け、ここで生産し、配布するのが目的だったのではないだろうか。そうすれば、大阪湾岸地域の人々に対して常に主導権を持って臨めることになる。

 その鉄器工房を作りそれを管理するために、伊弉諾尊は紀伊半島からの帰りに淡路島に残ったものと考える。伊弉冊尊は素盞嗚尊とともに鉄鉱石の産地探しを行うことになったのであろう。ここで、伊弉諾尊と伊弉冊尊は別行動をとることになるのである。

  近江国統一

 近江国の多賀にも、多賀大社があり伊弉諾尊の滞在伝承がある。記紀時代より、淡路と近江で本家争いをしている。遺跡の状況から判断して伊弉諾尊終焉の地は淡路島であろう。近江国に伝わっている伝承は伊弉諾尊単独のものなので、伊弉諾尊は伊弉冊尊と別行動をとるようになって淡路島にいるとき、近江国の一部を統一したと判断する。

弥生時代中期後半の近江国考古学的状況

 近江盆地の野洲川流域の中期後葉にはおよそ2km四方の空間に下之郷遺跡、播磨田遺跡、二の畦・横枕遺跡、山田町遺跡の4つの環濠集落が次々と形成される。 近畿地方の主な弥生遺跡は前期末ころから後期にかけて同一場所に環濠集落を継続して 展開しているのが一般的であるが、野洲川流域の上記の4つの環濠遺跡は少しずつ地点を移動している。 すなわち、巨大環濠集落である下之郷遺跡が衰退した後、その後裔集落として、その近辺に残りの三つの集落が順 に営まれたと思われる。弥生時代後期になると、下之郷遺跡、播磨田遺跡、二の畦・横枕遺跡、山田町遺跡の4つの環濠集落は 解体し、巨大集落は消滅する。こうした現象は西日本一帯に一般的に見られるが、野洲川流域では、 これら4つの遺跡の南に、伊勢遺跡という巨大な集落が新たに誕生する。

多賀大社周辺の伝承

 多賀大社

 伊邪那岐大神が、多賀宮に鎮まり坐そうとして杉坂の急坂にさしかかった時、土地の老人が、栗の飯を柏葉に包んでさし上げた。大神は、その志を愛でて、食後に箸を地に挿した。後に、この箸が大杉となって杉坂となった。また、山路の途中に疲れて「くるしい」と言った場所が、栗栖という地。そこには現在、御旅所の調宮がある。

 調宮神社

 神代の昔伊邪那岐大神は杉坂山にご降臨なされ次いでこの栗栖の里にて暫くお休みになられたことが當社の創祀とされる 

 杉坂山

 昔、伊邪那岐(いざなぎ)の神様がこの地に降り立ち、この峠を下って、芹川の上流、栗栖の里に鎮まられました。道中、村人に柏の葉に盛られた栗飯を出されたいそう喜んで召し上がられたそうです。その時に地面にさされたお箸がやがて芽吹き、現在の御神木になったといわれています。<峠案内板>

 伊弉諾尊がやってきたころの近江国野洲川流域は巨大環濠集落が乱立し、互いに争いあっている状況だったのであろう。すぐに統一するのは難しい状況であった。その地は避けてさらに奥に行き、多賀の地に拠点を作ったのではあるまいか。杉坂山に登り周辺の地勢を確かめてから、多賀の地に落ち着いたのであろう。この地は、野洲川流域程の戦乱地帯ではないので、この地の人々に日本列島の統一の必要性について話し、協力者を募ったものと考える。しかしながら、この周辺の統一はすぐにはできないと判断し、淡路島に戻ったと推定する。近江国開拓に詳細

 近江国統一関連伝承地

 今後の統一計画

 宇佐に戻った素盞嗚尊は有力者を集めて今後の列島統一の方針について話し合った。集まったメンバーは、素盞嗚尊・饒速日尊・高皇産霊神・日向津姫・伊弉諾尊・伊弉冊尊あたりであろうか。

 大阪湾岸地域が統一地域の代表であるが、この地域の統一はかなり困難を要する。そこで、高皇産霊神が提案したのが、マレビト作戦である。

大阪湾岸地方の統一戦略 

 大阪湾岸地域の国々には池上曾根遺跡など大型の建物を持つなど、かなり先進技術を持っている。弥生中期の始めごろ(紀元前100年ごろ)朝鮮半島北部から、直接大集団で移ってきたものと考えられる。そのために大陸の先進技術を失わずに維持しているものと推察する。そのために倭国の先進技術はそれほど真新しいものとは移らないのである。そのために新技術の伝授を持ってこの地域を統一することは不可能である。

 高皇産霊神は素盞嗚尊が南九州において日向津姫と結婚することによって伊弉諾尊・伊弉冊尊の協力を得ることができ、女性である日向津姫も国内をまとめるのに絶大なる貢献をしていることを知っている。これをヒントとして、大阪湾岸諸国に有能な男子をマレビトとして送り込み、そこの娘と結婚することによって、その地域を統一できないかと考えた。

 一般に生物は近親交配を続けていると繁殖能力が低下しその種は滅びることになる。当時の人々もこのことを本能的に知っており、小さな集落の人々は外部からやってきた有能な男と、集落内の娘を結婚させて外部の血を入れることを行なっていた。外部からやってくる人間はそのほとんどが男であるために、外部の男と、集落内の女の結婚となることがほとんどであったと思われる。この男たちをマレビトと呼んでいた。

 高皇産霊神は大阪湾岸諸国にマレビトを一斉に送り込み、それによって統一することを考え付いた。これを「マレビト作戦」と呼ぶことにする。そのためには若い有能な男たちが多量に必要である。その統率者として饒速日尊を推薦した。彼にこのことを提案すると、快く了承した。しかし、大阪湾岸地方にマレビトとして入り込んだ場合、その国が主体となるために、それらの小国家を倭国に加盟させるのは難しいことが予想される。そのときは倭国とは別の国を作って、機が熟したなるべく早い時期に、倭国と合併をするという計画も話し合われたことであろう。

 マレビトの条件としては、優れた先進技術を持っていること、運動能力に優れていること、心優しいことが考えられる。これらに優れた若い男が、小国家を訪問すれば、大抵の国ではマレビトとして受け入れてくれるであろう。「マレビト作戦」に重要なことはこの条件を満たすマレビトを探すことである。高皇産霊神は、倭国内から北九州の遠賀川流域、筑後川流域の小国家を訪問し、このような条件を満たす若い男を集めることとした。

 マレビト作戦の根拠

 この「マレビト作戦」には、そうではないかと思われる根拠がある。以下にそれを列挙してみる。
① 大阪湾岸地方がこの時期一斉に平和裏に統一されている。
② 大阪湾岸から大和平野一帯の巨大集落遺跡・拠点のすぐそばには物部系の神社が必ず存在している。池上曾根遺跡の曾根神社、唐古鍵遺跡の鏡作神社、大和川・明日香川・富雄川などの合流点の広瀬神社、当時の大和川下降にある津原神社などいずれも物部系の神社である。これは、大阪湾岸から大和盆地一帯の拠点と思われる地域がことごとく物部一族で占められているということを意味している。
③ 伝承では神武天皇以前に大和にいた豪族はエウカシ、オトウカシ、エシキ、オトシキ、葛城一族、賀茂一族、三輪一族、磯城一族などことごとく物部系の分派と思われ、饒速日尊の子孫であるという伝承を持つ、あるいは、そう思える節がある。
④ 饒速日尊自身ナガスネヒコ一族に対してマレビトである。
⑤ 饒速日尊と共に大和に下ったといわれている天神玉命も賀茂一族の祖となっている。天神玉命もマレビトである。

 以上のような事実をすべて有効に説明できるのは「マレビト作戦」のみではあるまいか。

 丹波王国について

 日本海側にはもう一つ先進技術を持った国があった。徐福の子孫の豊受大神が支配している丹波王国である。ここもなるべく早く統一しておく必要があるが、この国は徐福の子孫が支配しているということで、高皇産霊神と共通の祖先をもっている。しかも、高皇産霊神とは定期的に連絡を取り合っている関係にある。すぐさま饒速日尊にこの地を統一させることが決まった。丹波国統一

 鉄生産に関して

 鉄器生産は人々の生活を豊かにする上において最強の先進技術である。何とか倭国内で製鉄できるようにしなければならないと提案され、鉄鉱石の産地を探すこととなった。その役を割り当てられたのが伊弉冊尊である。素盞嗚尊が出雲にいるころ出雲国内に鉄鉱石を産出するところがいくらかあったので、出雲に鉄鉱石が多いと考えられ、素盞嗚尊が伊弉冊尊を案内して出雲に行くことになった。また、伊弉諾尊は大阪湾岸地域を意識して淡路島に鉄器工房を作る役目を担った。

 都の建設

 倭国の領域が拡大するにつれ、互いに連絡を取る場所として都が必要になってくる。その場所として、多地域と連絡を取りやすい宇佐の地が選ばれた。この地は、当時の倭国領域のほぼ中央にあたり、地方との交流がしやすい場所である。ただ、海岸近くより、盆地の方が農作物の生産性を上げやすいので、すぐ近くの盆地である安心院盆地を都建設予定地とした。倭国の首都建設

 倭国王の後継者

 素盞嗚尊が倭国を建国し、初代倭国王として活躍していた。ところが、AD18年頃には素盞嗚尊も五十代半ばに差し掛かっていた。そろそろ後継者を決める必要があった。饒速日尊が後継者としてはふさわしいと思われたが、彼は、東日本地域の統一事業を実行しなければならず、広い倭国を統治することはできない。最適なのは素盞嗚尊の血筋の人物であるが、この当時、饒速日尊を除けば、五十猛命・岩坂彦・須勢理姫の3人である。国王継承のルールを明確に決めておかなければ、将来王位継承争いが起こることも予想される。この当時の弥生人の間では末子相続の風習があったので、それを厳密に当てはめて、末子である須勢理姫の婿養子に第二代倭国王を継承させるということで話が決まった。そのためにも須勢理姫の夫となる人物はそれなりの条件が課されることとなる。第二代倭国王の誕生

 高皇産霊神の提案に関して全員が納得し、それぞれに役を果たすことになった。

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饒速日尊飛騨国訪問
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