瀬戸内海沿岸地方統一

 山陽地方への進出

 朝鮮半島から各種技術を導入した素盞嗚尊は、中国山地を超え山陽地方に進出したようである。

 山陽地方統一の伝承  

清神社 安芸高田市吉田町 「須佐之男命」がこの地に居つかれて、「吾が心清清し」と言われたためつけられた。「日本書紀」の一書に、 「須佐之男命、安芸国の可愛の川上に到ります」と記録されており、その至った地であり、須佐之男命が八岐大蛇を退治されたところを安芸国の可愛川(江の川)の 上流としている。八面荒神という八岐大蛇を封祭した小祠があり、吉田町の入江で江の川に合流する川を簸の川と呼び、大蛇ケ淵という深い淵もあります。 いずれも須佐之男命の大蛇退治にちなむ名前で、この神社は神代からの鎮座と伝えられている。
御神山 素盞嗚尊命は母イザナミ命を訪ねて幾山河。ついに此の御神山山頂の三郡岩までたどり着き母神が比婆山におわすことを知ったという。昔は山頂に素盞嗚尊命を祀った社があったそうだが、今は朽ち果てている。命は比婆山に母神をたづねた後鳥髪山より出雲に下った。
沼名前神社 広島県鞆町後地  延喜式神名帳に、『備後国沼隈郡 沼名前神社(ヌナクマ)』とある式内社だが、式内社の後継と称する「渡守神社」(ワタシ)と「鞆祇園宮」を合祀したもので、今、「鞆祇園社 沼名前神社」と称している。俗称:祇園宮。
崇神天皇5年全国に疫病がはやったとき、此処に勅使を派遣して祈願した所、疫病が下火になり、吉備津彦にお礼代参させ、神号を「疫隅ノ国社」と命名した。
素盞鳴神社 福山市新市町戸毛
素盞嗚尊命がやってきて疫病を退散させたと伝える。出雲国への往来の途次、素盞嗚尊命が数年間滞在したという。
素盞鳴神社 福山市木之庄町 素盞嗚尊命の遺跡に建立したと伝える。
素盞鳴神社 福山市駅家町 八岐大蛇退治の酒瓶を御神体とする。
王子神社 福山市東深津町 「備後国風土記によれば、スサノヲ命が朝鮮より八王子と共に帰朝し、吾等を信仰すれば、その子孫を疫病から守ると申されたので、深津郡の人々はこの深津島山に王子神社を建てたとされる。
矢野 上下町矢野 素盞嗚尊がこの地で暫らく休息し、傍らの泉の水でのどを潤し、多くの里人に送られて隣の甲奴町小童に入ったと伝える。
須佐神社 広島県三次市甲奴町小童 素盞嗚尊命がやってきて疫病を退散させたと伝える。

広島県下素盞嗚尊伝承地

 広島県下には素盞嗚尊関連伝承を持つ神社が多い。これら神社は芦田川沿いに集中している。同時に同じ地域に弥生中期末から後期初頭にかけて出雲系土器の出土が見られる。この経路は素盞嗚尊を代表とする出雲勢力が往復したものと思われる。この経路の行きつく先は福山市の鞆地方である。

 素盞嗚尊の出雲・鞆往復経路を推定してみよう。

 鞆から芦田川沿いに遡り、東深津町、木之庄町、駅家町を通過し、戸手の素盞鳴神社の地に滞在。この距離、川に沿って約28km。
更に芦田川を遡り、府中市篠根町を経由し福塩線に沿って北上し、 世羅町の甲斐村(福塩線びんごみかわ駅周辺)より、矢多田川を遡ると上下町矢野に着く。この距離、川に沿って約35km。
そこから西へ峠を越えて甲奴町小童につく。此処に須佐神社があり、 この地に滞在したと思われる。この間約7kmである。
ここから小童川に沿って下ると本郷郷がある。ここより上下川に沿って下ると三良坂につく。三良坂から馬洗川に沿って下ると、 三次市畠敷町に着く。此処にある熊野神社の地が滞在地ではあるまいか。ここまで川に沿って約40kmである。
 この周辺は馬洗川、西城川、神野瀬川、可愛川、美波羅川が合流して江の川になっている所で、 水上交通の拠点となる最重要地である。素盞嗚尊がこの地に拠点を作ったのは間違いがないであろう。伝承は残っていないが、後世の神武天皇の滞在地が畠敷町の熊野神社の地なので、この地が拠点であったと推定する。ここから西城川に沿って遡れば、比婆山連峰、三井野原(畠敷から川に沿って約64km)があり、三井野原から出雲国の斐伊川沿いに出ることができる。また、 神野瀬川に沿って遡れば高野町南より、王貫峠を越えて出雲国仁多に出る(畠敷から川に沿って約85km)。可愛川を遡れば清神社(畠敷から約30km)がある。これらの川沿いに後世の神武天皇が出雲往復のために滞在した神社が あることから、素盞嗚尊もここを拠点として出雲を往復したものと考えられる。このすぐ近くに後に出雲地方で盛んに築造されるようになる最古の四隅突出型墳丘墓が存在している 陣山墳丘墓群がある。最古の四隅突出型墳丘墓が築造されたのは紀元前1世紀に当たるまさにこの頃である。この三次拠点の支配者の墓であろう。

 三次からは西城川を遡ったと思われる。西城川に沿って遡ると、三井野原に着き、そこから出雲国の室原川に沿って下ると、横田で斐伊川に合流する。 後は斐伊川に沿って下れば、出雲国の中心地である。

 BC5年頃、素盞嗚尊は斐伊川を遡り、三井野原を超えて山陽側に出た。三次盆地に進出し周辺を統一したものと考えられる。その時の拠点が安芸高田市の清神社の地であろう。これは日本書紀一書で江の川水系の可愛川流域に降臨したと記録されている。八岐大蛇退治伝承が伝えられているが、この地の豪族と戦う場面があったのではないだろうか、その伝承が八岐大蛇伝承になったのではあるまいか。

 素盞嗚尊は三次盆地一帯が統一できたので、芦田川に沿って下り、鞆の浦に出た。沼名前神社の地に滞在して、瀬戸内沿岸地方統一の足掛かりとした。

広島県三次地方の土器出土状況

 広島県三次地方には,弥生中期末頃から,出雲系土器が出土するようになる。このころの住居跡の特徴を調べると, 出雲系土器は集落内の特定の住居に集中し,その周辺の住居跡にもちらほらとみられる。山陰地方からやってきた集団が,在地の集落で共同生活をし, 「お近づきの印に」ということで何かを配ったような様子である。山陰系の祭祀器具である分銅型土製品も出土していることから,山陰地方から,集団でやってきたようである。 この土器の出土の仕方は,瀬戸内海沿岸の他の地方と異なるようである。

 神社の祭神を調べてみると,この地方は大歳神社が非常に(兵庫県に次いで二番目)多い。BC5年頃と思われるこの頃、大歳命は5歳程と考えられる。素盞嗚尊は統一事業に大歳命を連れまわしていたのであろう。素盞嗚尊が瀬戸内地方を統一した後も,大歳命は三次地方をたびたび訪問してこの地方の人々の心をつなぎとめていたのではないだろうか。

 この地方の出雲系土器は,後期前葉までみられるが,後期中葉になると姿を消す(大和朝廷の誕生により、政権を引き渡したと考えられる。)。 また,この地に四隅突出型墳丘墓が出現している。これらは,統一後も山陰地方との激しい交流があったことを示している。大歳は,この地方統一後, ここに出雲国支庁を作ったのではあるまいか。

倭国という国名

 中国史書では,紀元前後から,日本のことを倭国と呼んでいたようである。最初に記録されているのは「山海経」であるが,はっきりしたものは, 「漢書・地理誌」である。これは一世紀に書かれた書物であるから,日本を倭国と呼び始めたのは紀元前後ということになる。それ以前に倭国という表現は存在しない。 倭国の領域の一般的見解は,中国・四国・九州地方を指すようで,近畿地方以東は含まれていないようである。誕生時期といい,領域といい, 倭国と素盞嗚尊が統一した連合国家とは一致しているのである。倭国の語源にはいろいろと説があるが,倭国という名は素盞嗚尊が自分の統一した 連合国家につけた名ではないかと考える。出雲国王時代の国名は素盞嗚尊がヤマタノオロチ退治をした後、最初の宮殿の地である須我神社の地で 日本最初の和歌を読んでいる。「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣作るその八重垣を」この歌から国名が出雲になったようである。出雲国王時代はそれでよかったが、 瀬戸内海沿岸地方を統一したとき名前を新しく考える必要が出てきた。そうして選んだのが「ワノクニ」=「ワコク」であろう。

 中国語の「倭」と同じ発音をする漢字は「環」または「輪」である。瀬戸内海を取り囲み環のように国が連合を組んだという意味で「環国」と命名したのではないだろうか。中国がその発音を聞いて「倭国」と記録したのであろう。「倭」とは中国人が付けた名で,日本側ではその意味を嫌い,「和」としたと記録されているが,「倭」の意味が気に入らないのなら,日本の国名を元から使われていた「ヒノモト」にすればいいことで,「和食」「和室」「和紙」など,現在まで「和」を日本の意味として使う必要はない。古代日本人にとって「ワ」という読みは大切なものであったからこそ,「和」と書き変えてもその読みを残したものと考える。「ワ」とは素盞嗚尊が統一した統一国家に付けられた名で,中国に朝貢したときに,日本人が自分の国を「ワ」と言っているのを聞いて「倭」と当て字をしたものと考える。
 素盞嗚尊の行動を伝える神社は神戸以西の瀬戸内沿岸地方、紀伊半島部であり、大阪湾沿岸地方にはない。また、紀伊半島における素盞嗚尊の伝承の中にはイザナギ、イザナミを伴っているものも含まれているために、紀伊半島部を統一したのは、この後の九州統一の後と考えられる。よって、この当時の倭国の領域は山陰及び淡路島以西の瀬戸内沿岸地域と考えられる。
 中期の大阪湾岸地方は池上曾根遺跡をはじめとして、技術的に進んだ有力豪族の国があり、朝鮮半島からの新技術では統一できなかったものと考えられる。おそらく、素盞嗚尊は大阪湾岸地域の統一を後回しにして、先に九州統一に取り組んだものと考えられる。

瀬戸内地方の統一の実態 

 

 三次地方から芦田川沿岸地方にかけては、出雲系土器が出土する。ところが、瀬戸内海沿岸地方のその他の地方には出雲系土器はほとんど出土しないのである。そして、この後に実行されたと思われる九州統一でも、統一されたと思われる地域に出土するのは瀬戸内系土器であり出雲系土器ではない。これはどうしたことであろうか。考古学的遺物の出土状況から考えて以下のように推定する。

 瀬戸内地方は出雲地方とは全く文化の違う地域であった。その地域を出雲勢力で支配することの難しさを素盞嗚尊は身をもって体験していたのではあるまいか。それが、おそらく清神社の伝承であろう。文化が違えば意思疎通も十分にできず、その地域の人々から反発を受け、素盞嗚尊の本来の目的である平和統一ということにはならないのである。地域住民より反発を受けてしまえば、後は力で抑え込むことしかなくなる。それを防ぐために、連合国家という考え方を導入したのではあるまいか。出雲国が瀬戸内地方を支配するのではなく、瀬戸内地方の人々に平和統一事業に協力してもらうのである。素盞嗚尊は鞆の浦を拠点として、平和統一事業の協力者を募っていったのである。

 対馬を通して,朝鮮半島から先進技術を導入した素盞嗚尊は,瀬戸内海沿岸地方に赴き,新技術を示して,国家統一の必要性を説いて回った。 この地方の人々は,新技術を駆使して,当時の人々にとって信じられないような現象を引き起こしている素盞嗚尊を見て, 素盞嗚尊を神と感じ,素盞嗚尊の考え方に同調した。そして,素盞嗚尊の統一国家に加入し,他の地域に加入を勧めるのに協力した。

 この当時日本列島に住んでいた弥生人は,中国大陸や朝鮮半島の戦いに敗れて逃げてきた人々の子孫で,中国文献に「呉の太伯の子孫」とあるように, まだそのことを記憶していたようであるから,権力抗争の悲劇は知っていたはずである。この日本列島にも同じ様な悲劇が起こるのを恐れ,容易に素盞嗚尊の考え方に同調し, 協力したのではあるまいか。彼らの協力により,多くの地域が次々と統一国家に加入し,瀬戸内海沿岸地方は西暦紀元頃統一された。

 素盞嗚尊が統一したと考えられる地域に素盞嗚尊を祭った神社及びその伝承が伝えられているが,素盞嗚尊の行動を伝える伝承を持つ神社は, 瀬戸内海沿岸地方から兵庫県南部,紀伊半島南部にまで広がっている。しかし,大阪や,奈良地方にはみられない。大阪や奈良地方は別の有力豪族がおり, 入り込めなかったものと考える。有力豪族は,豊かな生活を送っていたであろうから,簡単には素盞嗚尊の統一国家には加入しなかったものと考えられる。

素盞嗚尊の行動を伝える伝承を持つ神社の分布から判断して,素盞嗚尊は瀬戸内海の制海権を完全に把握していたものと考える。 この頃瀬戸内沿岸地方に高地性集落が登場するが、瀬戸内航路の安全を願う見張り台と考える。

当時の瀬戸内海沿岸地方は,文化的にかなり後れており, 有力豪族の国らしきものもほとんどなかったと考えられ,簡単に統一できたのではないだろうか。素盞嗚尊は統一した地域内の交流を活発にして,新技術の普及に努め, 人々の生活水準の向上に努めた。人々は生活水準の向上などにより,素盞嗚尊をますます強く信頼するようになり,後の九州統一の強力な協力者となるのである。

考古学的変化

 中期末に当たるこの頃,瀬戸内海沿岸地方に起こった考古学的変化を挙げてみると次のようなものがある。

銅剣祭祀の始まり

 中細銅剣が異形化し,銅剣祭祀が始まった。この頃までの北九州での銅剣は,細型銅剣が中心でステイタスシンボルとして使われていたものであり, 祭器としての使用の形跡はない。祭器として使われた形跡のある中細銅剣b類・c類は中国・四国地方中心に分布し,中期末の瀬戸内海沿岸部で製作されたと考えられている。 そして,岡山県からその原型になったと思われる木製の細型銅剣が見つかっている。青銅器の埋納祭祀が始まったのは, 中期末の瀬戸内海沿岸地方と考えられている。これは、外部からの技術導入によって、新しい技術と共に宗教が誕生したことを意味している。また、 実戦用武器の出土がないことから、これは、平和裡に行われたと考えられる。

青銅器の広がり

 これ以前は銅剣・銅矛などは北九州周辺に限られていたものが,徐々にではなく,急激に大阪湾沿岸地方まで広がっている。 さらに同笵関係にあると考えられる銅剣が大分県から大阪府の範囲で見つかっている。これらは,青銅器の瀬戸内海沿岸での東西交流が急激に盛んに なったことを意味している。これも中期末に瀬戸内海沿岸地域の統一が進んだことを意味している。

瀬戸内の銅戈

 広島,岡山で銅戈が見つかっているが,これは形式からして北九州の鉄戈を模して作ったものと判断されている。鉄戈は北九州のみから出土しており, 朝鮮半島の銅戈を模して作ったものと考えられている。この鉄戈を模して作った銅戈が広島.岡山で見つかっているということは, 瀬戸内勢力が,北九州から銅戈を直接輸入せず,わざわざ鉄戈から銅戈を作っているということであり,最初から祭器として作ったものと考えられ, 副葬されていた北九州とは明らかに別の文化である。これも中期末の瀬戸内地方に高度な技術革新があったことを裏付けている。

瀬戸内系土器の広がり

 中期末に九州地方や畿内地方に東部瀬戸内系土器が一方的に入り込んでいる。これは瀬戸内勢力の拡張主義が起こったことを意味し、 相互の交流ではない。東部瀬戸内系土器が一方的に他地方へ入り込んでいると言うことは,瀬戸内勢力がまとまり,そして,他地方よりも高い文化を持っていたと考えるべきである。 また,瀬戸内海沿岸地方で始まったと推定されている祭器化した銅剣は,北九州地方に逆に流れ込んでいる。大阪湾型銅戈が大阪湾地方に出現するが, これも瀬戸内海地方から持ち込まれたと考えられる。
 東部瀬戸内系土器の周辺地域への広がりは何を意味しているのであろうか。実践用武器が伴えば侵略が考えられるが、武器は伴っていない。そのかわり、 青銅祭器を伴っているのである。どちらかといえば宗教の進入といった感じである。

瀬戸内系祭祀の広がり

 中期までは高坏の出土がほとんどないが,後期になると高坏が多く出土するようになる。これは中期末あたりに祭祀が盛んになったことを意味している。 また,東部瀬戸内系の高坏や器台が九州地方や近畿地方に見られることから,東部瀬戸内系の祭祀が周辺に広がっていると判断され,瀬戸内勢力は, 祭祀と共に周辺に勢力を伸ばしたことがうかがわれる。祭祀というものは保守的なものであり,一つの祭祀のあるところに別の祭祀が入り込むのは大変難しく, 必ずといってもよいほど戦乱を伴う。大きな戦乱の形跡がないということは,この祭祀がそのまま大和朝廷の祭祀に継続している ということである。

Bタイプ槍鉋の出土

槍鉋はA型とB型がある。Aタイプは九州を中心とするタイプで、Bタイプは中国地方が発祥の地である。グラフは出土した 槍鉋を地域と型で分類したものである。中期末の瀬戸内海沿岸地方に今までに存在しなかったBタイプの槍鉋が急激に出土するようになる。 それまでは,九州からAタイプの槍鉋のみ出土していることから,瀬戸内勢力が独自に朝鮮半島から輸入したものらしい。Bタイプの槍鉋は, 以後九州や近畿地方へ広がる傾向を示しているが,九州のAタイプの槍鉋は,九州からほとんど外へは広がっていない。 これは瀬戸内勢力が九州や近畿地方へ勢力を伸ばした証であろう。また、後期中葉にAタイプの槍鉋が広島に出土しているが、これは、 後で述べるような伝承(広島県の大分系土器)とつながっている。

出雲系土器の分布

 広島県地方に出雲系土器(出雲中心域の土器)が見られる。広島県地方の出雲系土器は,広島県北部と芦田川流域で, いずれも弥生中期末に一斉に出現し,後期中葉になると一斉に姿を消し,畿内系土器と入れ替わる。芦田川流域は素盞嗚尊が訪問したという伝承を持つ神社が 点在していて,素盞嗚尊が出雲往復に通った地域であると思われ,時期も素盞嗚尊が瀬戸内海沿岸地方を統一してから大和朝廷が成立するまでの間で, 伝承と完全に一致している。瀬戸内系の文化が周辺領域に広がっているが,その中心ともいうべき場所に出雲系土器が出土するということは, この瀬戸内の文化は出雲の影響を受けたものであることになる。瀬戸内から出雲に文化が流れたのであれば,出雲地方に瀬戸内系土器の出土が見られるはずであるが、 出雲地方に瀬戸内系土器が出土し始めるのは後期後葉になってからであり、この頃に瀬戸内系土器の出土はない。これらより、中期末の瀬戸内に 始まった考古学的変化は出雲地方からもたらされたものと推定され、これも伝承を裏付けている。

考古学的変化の理由

高度な文化の流入経路

 これらの変化は,この時期,瀬戸内海沿岸地方が急激に一つの勢力圏に組み込まれ,その勢力が周辺に広がっていったことを意味している。 この瀬戸内勢力は,独自の銅剣を製造する技術やBタイプの槍鉋を製造する技術を身につけており,瀬戸内系の土器が北九州や近畿地方に流れていっていることと併せて考えると, この当時の瀬戸内の文化は,ある面において,北九州や近畿地方よりも高いものであったことがうかがわれる。

 その高度な瀬戸内の文化はどこから来たのであろうか。大陸からと考えられるが,北九州とは異なる高い文化であるから,北九州経由とは別のルートを通ってきたこと になる。朝鮮半島南端部から山陰を経由して瀬戸内海地方へ流れたと考えるべきであろう。それと、 出雲系土器が瀬戸内海沿岸地方で出土していることから,この文化は出雲経由でやってきたものと考えられる。

日本側から輸入した技術

瀬戸内勢力が朝鮮半島から流れてくる文化を待っていて受け入れたのでは,北九州経由で流れ込む文化が多くなり、西部を中心として、北九州の文化が流れ込むはずである。 北九州とは明らかに異なる文化であるから、出雲か瀬戸内の何者かが直接朝鮮半島に行き、高度な技術を直接輸入したためと考えられる。
 出雲地方に生まれ育った人物がまったく知らない朝鮮半島に出かけていって技術習得するというのは当時の状況からして不可能であると考えられる。しかし、 素盞嗚尊の場合父のフツが朝鮮半島出身であり、朝鮮半島のことを熟知しており、素盞嗚尊にとって、朝鮮半島に赴くことはそれほどの抵抗感はなかったと考えられる。 これも、伝承と考古学的事実をスムーズにつなぐ要素となっている。

遺物の集中度

中期末に起こった瀬戸内地方の技術革新が、北九州地方の高度な文化と大きく違う点は、北九州の文化がその中心域に限られていて、 そこから他の地方に広がる傾向は全くみられないのにたいして、瀬戸内周辺の文化は、中心というものがはっきりとせず、 関連遺物がまばらに出土するといった点である。北九州の場合は、外国との交易で得た宝物をある特定の豪族が独占し、 権力を誇示するために用いたためと判断されるが、瀬戸内地方のものはどう考えればよいのであろうか。もし、権力者が存在して、 その権力を誇示していたのであれば、中心域が存在し、その周辺のみから多量の遺物が出土するはずであり、現実と大きく異なる。統率者が全く存在しない未開の地であるならば、 周辺地域よりも高度な文化を持っているのが説明つかない。瀬戸内地方には偉大な統率者が存在し、その統率者が、高度な文化を輸入し、 周辺にばらまいたということ以外には説明できない。

技術導入の目的

 その先進技術を積極的にばらまく目的は何であろうか。権力欲や支配欲では自分で独占した方がよいために明らかに異なる。 技術を受け入れた側では、技術を伝えてくれた人物に対する畏敬の念がわき上がるはずであり、この地方で銅剣埋納祭祀が広まっていることと、 高坏の出土が増えることと考えあわせると、宗教的支配を目的としたものと考えられる。

 では、なにを目的として宗教支配したのであろうか。権力欲や支配欲でないことは明らかである。銅剣埋納祭祀はこの地方独自のものであり、 どこかの宗教が流れ込んだものとは異なることから、瀬戸内地方で発生したものと考えられる。また、同じ様な変化が、九州や近畿地方にも広がっているが、 その形態は瀬戸内地方とは異なるため、何かある目的のために宗教支配をしたと考えた方が良さそうである。

 この後、瀬戸内系の土器が九州や近畿地方に広がっていること、急激に西日本地域での流通が盛んになることから考えて、国家統一が進んだと考えられる。 伝承、考古学的事実から考えて、その目的は、平和的国家統一であると考えられる。

 このように、考古学的変化を調べると、神社伝承における、素盞嗚尊の統一行動を完全に裏付けることができ、同時にその他の説明は難しい。

銅剣埋納祭祀

 素盞嗚尊は瀬戸内海地方統一後,人心を統一するために,朝鮮半島から導入した技術を使い,交流を活発化し,銅剣の異形化を進め,その銅剣を使った祭りを始め, 祭礼を広めた。その当時の瀬戸内地域に住んでいた人々は金属というものを見たことがなく、素盞嗚尊が持ち込んだと思われる銅剣の輝きを見て、 人々はさぞ驚いたことであろう。素盞嗚尊はその驚きを利用し、銅剣を魔除けの意味に使ったということは充分に考えられる。人々は祭の後、 その銅剣を自分達の集落の外れに埋めることにより、五穀豊穣・家内安全を願ったものと思われる。素盞嗚尊は銅剣を配るとともに、 朝鮮半島の先進技術を伝えることにより、瀬戸内地方の人々の心をつかみ、あわせて、国家統一の必要性を説いてまわったのであろう。

それにより,青銅器などが瀬戸内海沿岸の広い領域に急激に広まるようになり,瀬戸内海沿岸地方が堅固な国家体制になり, 以後の瀬戸内勢力圏拡張の礎になったものと考える。

     瀬戸内海沿岸地方の統一伝承

 瀬戸内海地方の素盞嗚尊関連伝承

伝承地 場所 伝承
血洗いの滝 岡山県赤磐市 高さ11mの二段の滝は素戔鳴尊が八岐大蛇を退治した剣を洗い、身体を清めたという伝承
書写山 兵庫県姫路市 素戔之鳴が降臨されたところとある。性空開山以前から素戔嗚尊を祀り素盞嗚尊の杣と呼んでいた。ここに書写の名の由来がある。
天津津祀神社 的場山(兵庫県龍野市) 天照国照彦火明命から預かった一粒の稲種を水田に播いたところ、万倍になって稔った。この神を氏神として祀り、 イイボ粒神と名付けた。これが揖保の起源だという。
広峰神社 広嶺山(兵庫県姫路市) 大昔、姫路では北西の風を「広嶺おろし」といい、広嶺を風の源と信じ、 風の神を祀っていた。素盞嗚尊は日本書紀では建速素盞嗚尊と書かれているように、風の神でもあり、ここ広嶺の風の神と素盞嗚尊が習合した
氷ノ山 岡山県 素戔嗚尊は須賀山(氷ノ山)に降臨され八岐の大蛇を退治し、奇稲田媛を妻とし陵と宮を造った。 この宮を須賀の山神宮といった。
神出神社 兵庫県神戸市 素戔嗚尊と奇稲田姫命の二神がこの山に降臨され、薬草を採取し住民の病苦を救い、 農耕の指導をされた。この二神から御子が多数生まれたが、特に大己貴命大国主命が誕生されたので、ここを神出といった。
綾部国中神社 京都府 神代の時代、山背國西岡訓世郷が一面湖水であったとき、午頭天王が天から降りて水を切り流し、国とするためその中心に符を遣わした。 その符は、素戔鳴尊の愛馬である天幸駒の頭を自ら彫刻し、新羅に渡海の前に尊の形見として遣わしたとある。 その形見が國中宮の御神体として祀られている。
桜椅神社 滋賀県余呉町 太古ここが湖の頃、須佐之男命が肥の川上の八俣遠呂知を退治し給ひて此の所の東の側の阿介多と言う小高い所に来臨し、 剣の血を洗た御霊跡と伝わる。
因達の神山 姫路市新在家本町 昔、大汝命の子の火明命は、強情で行状も非常に猛々しかった。そのため父神はこれを思い悩んで、棄ててのがれようとした。則ち因達の神山まで来て、 その子を水汲みになって、帰らない間に、すぐさま船を出して逃げ去った。
一之宮神社 兵庫県加東市東条町 昔、神がもろもろの村に菓子(このみ:木の種子)を頒けたが、この村まで来ると足りなくなった。
<東条川流域 東条町天神 一之宮神社「素盞嗚尊」>
昔神代に素盞嗚命天降りまして地方巡視の際、当地方に休憩遊ばされたその遺跡を奉祀したのが当一之宮神社
岩岡神社 神戸市西区岩岡町字岩岡山182

遠き神代の昔、素盞嗚命(牛頭天王ともいう)が降臨後、当氏子地に、神幸せられた由緒がある。

 このほかに兵庫県神戸市近辺は素盞嗚尊を祀った神社が異常に多い。素盞嗚尊の訪問を伝える神社もある。岡山県・兵庫県南部から淀川を遡り琵琶湖周辺まで、訪問していることが想像される。

 しかしながら、四国地方(愛媛県・香川県・徳島県)は素盞嗚尊統一伝承を持つ神社が調べた範囲では見つからない。代わりに饒速日尊のものと思われる伝承地がいくつか見つかっている。四国地方は饒速日尊が統一したのであろう。しかしながら、山陽地方を統一した紀元前後に於いて饒速日尊(大歳命)は10歳ごろと思われ、単独で統一するにはまだ若すぎるようである。さらに四国に伝わる饒速日尊関連と思われる伝承地には瀬織津姫(天道姫)を伴っているのが多く、饒速日尊が四国地方を統一したのは饒速日尊の瀬織津姫との結婚後(AD10年頃)ではないかと思われる。

 では、なぜ、素盞嗚尊は四国地方を統一しなかったのであろうか、四国地方には有力豪族がいなかったことに加え、北九州地方は朝鮮半島との交流の玄関口であると同時に有力豪族も多く、一刻も早く北九州地方の統一をやらないと、伊都国・奴国辺りの豪族が勢力を強めており、平和的統一が困難になると危惧したためではないかと思われる。

 北九州地方を統一する前に、素盞嗚尊は五十猛命を伴って再び朝鮮半島に赴いていると思われる。さらなる新技術を取り込んだものと考えられる。五十猛命はこの時、楽浪郡を超えて漢帝国の長安まで行き、木種(桃・杏等)を持ち帰っていると思われる。

 吉備国の状況

 弥生時代中期末に岡山県南部地域を起点とした考古学上の変化が起こっている。

 日常生活に装飾性豊かな土器を使っていた弥生時代中期でも、終わり頃になると各地で小さな変化が起こり始める。 日常生活に使っていた土器を一回り以上も大きく作り、さらに特別な装飾を加えた土器が出現する。 こうした動きが始まったのが岡山県南部地域である。弥生時代中期末のこうした動きは、後期になると、日常生活の土器がシンプルなものになっていく 一方、特別な土器は装飾性豊かになっていくのである。この変化が最もよく見えるのは、水や酒などを入れるための壺と、 壺を載せて高く捧げるための器台である。器台は、弥生時代中期後半から全国各地で使われ始められるが、 大型の器台は主に西部瀬戸内(広島県~愛媛県中心)と東部瀬戸内(岡山・香川県~兵庫県南西部中心)で、 それぞれ地域性を持ちながら、装飾がなされ、また大型化していった。一方、近畿地方では、器台の出土数自体が瀬戸内地域と比べると少ないため、 壺と器台を用いたマツリを行うという習慣は、東部瀬戸内周辺で盛んだったようである。

 岡山県南部地域は弥生時代中期中ごろより分銅型土製品が数多く出土している。岡山県を分布の中心として近県一帯に広がっている。そして、中期末に装飾された大型器台などの祭祀形土器が岡山県南部地域(備南地域)で誕生し、これも周辺に広がっている。備南地域は当時の弥生文化の先進地域のようである。

 弥生時代中期末になると、この備南地域の土器が北九州地域や南九州地域、更には大阪湾岸地方まで広がる傾向を見せている。逆の動きはほとんど見当たらないので、一方的な移動である。

 素盞嗚尊がこの後北九州・南九州を統一しているが、それに付き添っていき、統一事業に協力したと考えれば、うまく説明できるような瀬戸内系土器(備南地域)の分布なのである。

 しかしながら、岡山県下に素盞嗚尊が訪問したという伝説地はほとんど存在しない。両隣の広島県福山市及び兵庫県姫路市周辺には素盞嗚尊伝承地が多い。素盞嗚尊は岡山県地方をどのようにして統一したのであろうか。

 素盞嗚尊が山陽地方を統一しようとした時、岡山県地方は周辺より弥生文化の先進地域だったようである。しかし、国全体を支配するような王は存在していた形跡がない。高度な文化を持った人々がやってきて共同体を形成していたと考えてよいであろう。その後のこの地域の瀬戸内形土器の広がりから判断して、備南地域の弥生人たちは素盞嗚尊の日本列島統一構想に強く同意し自ら率先してその実現に協力していると考えられる。しかし、それならばなぜ、素盞嗚尊の訪問伝承が少ないのであろうか。

 素盞嗚尊が福山市の鞆地方を拠点とした時、備南地域は弥生文化の先進地域であることを知っていたと思われる。そうであるならば、先進技術を示して統一することは難しいと考えられる。備南地域は、素盞嗚尊にとって、統一すべき最初の先進地域なのである。

 素盞嗚尊は自ら見聞きしてきた九州地方の戦乱の状況を説明し、「日本列島が統一されていなければ、この地域も近いうちに戦乱に巻き込まれるであろう。そうなる前に列島を統一したいのだが、協力してくれないか。」とでも言ったのではあるまいか。岡山県地方の人々は統一事業を是非とも成功させないと将来とんでもないことになる事を実感し、以後積極的に統一事業に参加したのではないかと考える。

 備南地域の人たちは素盞嗚尊の提案に対して積極的に協力する方針を固めたのであろう。素盞嗚尊に一刻も早く北九州地方の戦乱を収めて統一してほしいという願いから、備南地域はまず自らで統一し、北九州遠征の希望者を集め、その間に素盞嗚尊にはさらに東部地域を統一することを提案したのではないだろうか。それならば、素盞嗚尊自身が備南地域を巡る必要がなく、素盞嗚尊伝承が少ないのに、備南地域の人々が統一事業に積極的に協力しているという事実を説明できる。

 備南地域の人々は早速周辺地域を回り、自らの努力で、周辺地域を統一し倭国に加盟させた。そして、日本列島統一の必要性を説き、他地域への遠征をする協力者を募った。この協力者たちが、北九州・南九州・近畿地方に備南地域の土器を持ち込んだのであろう。

 この地方の人たちは、まず自分たちの統一事業の成功を祈って、そして、自分たちの団結力を高めるために祭祀を強化することから始めた。そのために、この地方を始まりとする祭祀形土器が周辺に広がることになり、銅剣が祭器化しているのである。

 岡山県地方の人々が統一準備をしている間に、伝承から推察して、素盞嗚尊は姫路地方、神戸地方、京都、近江と統一していったと考えられる。姫路地方・神戸地方は素盞嗚尊関連伝承が多いので、長期にわたって滞在し、周辺を統一したと考えられるが、京都・近江は伝承が数少ない。おそらく、訪問した程度で、統一までには至ってはいないのではないだろうか。

 素盞嗚尊が神戸に滞在しているとき、大阪湾岸地方も訪れていると思われるが、この地方の人々の意識には統一事業に協力しようという発想が全くなかったと思われる。素盞嗚尊はこの地方を統一するのはかなり難しいと感じていたことであろう。

 素盞嗚尊が神戸に滞在しているとき、岡山県地方の人々から、統一準備ができたと連絡が入った。すぐにでも統一しなければならないのが北九州地方である。早速、岡山県地方の人々を引き連れて、北九州地方に統一に向かったと考える。

 このように考えると、山陽地方の対岸にある四国地方をこの時統一していない理由がわかる。

 山陽地方統一関連地図

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