対馬統一

 素盞嗚尊の憂慮

 周辺地域が出雲国に加盟するようになって次第に巨大化し、出雲国の将来を考えた時、素盞嗚尊は不安を感じてきたのではないだろうか。出雲国がこのまま巨大化してくると、当然ながら周辺の国との衝突が起こることが予想される。その場合どちらかの国がどちらかの国を併合する形となり、日本列島が一つの国になるまで、その戦争は続くことになると思われる。そのような姿を素盞嗚尊の父であるフツも話してきたことであろう。この国の将来が悲観されたのである。

国家統一の動機

 伝承によると出雲国王時代には,素盞嗚尊は出雲各地から毎年代表者を呼び寄せ,会議を開いていたようであり,その会議によって重要なことを決めていた。 つまり合議制だったのである。古代の権力者は独裁になりやすいのであるが,素盞嗚尊はかなり民衆のことを考えた政治をしていたようである。 神社伝承でも,出雲国王としての素盞嗚尊は人々からかなり慕われていたことが伝えられている。素盞嗚尊は常に民衆のことを考える性格の人物であり, その性格が次のようなことを感じさせたのではあるまいか。

 素盞嗚尊の父フツは,おそらく朝鮮半島の権力抗争に敗れた人物で,素盞嗚尊はその話を聞いていたと考えられる。また, 出雲の豪族ヤマタノオロチの横暴をみるにつけ,日本列島が統一されていないために,このまま時が過ぎると出雲国はいずれどこかの国と戦争をしなければならなくなり、 多くの人々の血が流されることになろう。

このように、各地の有力豪族が権力を欲しいままにしていた状況に「今のうちに、何とかしなければ」というものを感じたのではあるまいか。

有力豪族の権力抗争を憎み,

「今のように,小国家が分立した状態で,それぞれの王が,権力欲をむき出しにしている状態では,いずれ朝鮮半島のように列島内至る所で戦争が始まり, 人々は苦しむ状態になる。幸い日本列島は小国家乱立状態で,それぞれの国家は烏合の衆である。今のうちに統一してしまえば, 未来永劫,争いのない世界がやってくるのではないだろうか。」

とでも考えたのではないだろうか。この考えは日本書紀の「八紘一宇」「六合一都」の考え方で,初代神武天皇が大和で即位するときに人々に示したとされている。 これは、戦前に強調され,太平洋戦争の口実になったものである。しかし、古代にしては考えられないほど理想的な考え方である。素盞嗚尊の実践があったからこそ、 この考え方が存在していたのではあるまいか。おそらく,素盞嗚尊の考えを受け継いだ神武天皇が大和で即位するときに,この考え方を示したものであろう。

 最初に統一された瀬戸内海沿岸地方から,出雲系土器が出土するが,その数はまばらで少ない。このことは素盞嗚尊のこの地方統一は少人数だったことを意味し, 少人数での統一は平和統一しかあり得ない。素盞嗚尊は,瀬戸内海沿岸地方の人々に国家統一の必要性を説いて回り,その協力者を募ったものと考える。 古代と雖も人々は戦いを好まず,平和な生活を望むであろうから,協力者はかなり多かったのではあるまいか。 そして,彼らの協力を得て次の地域を統一していくという方法を使ったのであろう。

 これは,素盞嗚尊が権力欲や支配欲なしで,純粋に国家統一を目指していたことを意味している。もし,素盞嗚尊が権力欲を持っていたのなら, 瀬戸内地方を統一した後は,この地方を出雲勢力の勢力下に置くであろう。そして,統一に武力を用い,あくまでも出雲勢力を中心に動くはずである。 統一した地方の人々を動かして,次の地域を統一するといった手法は,統一された側に支配されるという感情を持たせず, 目的意識を持って積極的に国家統一事業に参加させるといった効果をもたらせたと考える。そのため,統一される側も,抵抗感が少なくなったのであろう。 実際にその後の九州統一でも,遺物から判断して,出雲勢力よりも瀬戸内勢力がかなり活躍している。

 このような気持ちで統一事業をやったからこそ,多くの人々が協力し,後に日本最高の神として崇められるようになったと考える。

 実際に日本列島は弥生中期は小国家乱立状態であったが、この時期は戦闘を意味する遺物が数多く出土しているが、日本列島統一が始まる弥生時代後期に入ってからは、武器を意味する遺物は祭器に変わり戦闘関連遺物は激減している。これは、日本列島統一事業は宗教的に行われたことを意味し、戦争によって併合されたのではないことを意味している。

 素盞嗚尊は日本列島をなんとか平和的に統一できないものかと考えたことであろう。

 平和的統一方法

 父であるフツや八束水臣津命が国引きで朝鮮半島から持ち込んだ剣などの金属器の輝きに人々が驚き、また、新しい農業技術で人々の生活が楽になっていく姿を見ていた。そして、その技術を広めることで周辺地域が次々と出雲国に加盟して来たのである。 素盞嗚尊は外国の最新技術が国の経営に欠かせないことに気づいた。最新技術を示して国を豊かにすることによって、周辺地域を出雲国に加盟させれば、日本列島が平和的に統一できることに気付いた。

 当時の人々に生活苦があった状態では、生きるのに精一杯でとても理想的な行動をしようという気にならないが、 この時期は温暖期にあたり生活はやや持ち直した時期であったようである。時期的にも統一にはよかったようである。

 日本列島統一をするには,他の地域に対する売り物として,多くの先進技術や高い文化が必要である。各地の人々に統一国家に加入せよと言っても, そのメリットがなければ,従う者はいないし,加入した地域もそのメリットが継続していなければ,また離れて行くであろう。 父の故郷である朝鮮半島の先進技術を手に入れ,統一国家に加入した人々に伝えれば,人々の生活水準は上昇し,加入地域も増えるであろう。

素盞嗚尊は、朝鮮半島から来た父のアドバイスをもとにして、国家統一の前に,まず,その先進技術や高い文化を入手するルートを恒常的に確保しようとした。

 宗像地方の確保

 朝鮮半島の先進技術を恒常的に確保するには、その経路を確実なものとしなければならない。壱岐→対馬→朝鮮半島の経路となるが、出雲国と壱岐国の間がかなり離れている。その途中に中継地が欠かせない。その中継地として考えられるのが宗像である。

 北部九州では後半期になると銅剣は使われなくなり、とくに中広形や広形の銅矛・銅戈は、武器形祭器となって、多くが埋納祭祀に使われる。埋納祭祀は、近年では村の中で完結し首長層が一般成員から離脱する際の祭祀にも用いられたことが判明しつつあるが、基本的には村を越えたまとまりを対象とする。すなわち、小地域や国あるいは国々の祭祀である。しかもこれらの武器形青銅祭器は、奴国の中心集落である福岡県春日市須玖遺跡を中心に集中的に生産され、製品は対馬を経て朝鮮半島南部にまで及んでいる。 後期の青銅祭器の体系では、銅矛が最上位にあり、その次に銅戈が位置する。とくに対馬での銅矛単一多数埋納は、 奴国・伊都国を盟主とするツクシ政権の国々のマツリにこれらの銅矛が用いられたことを示す。注目されるのは、 弥生後半期の宗像地域ではそうした銅矛・銅戈の埋納例が皆無な点である。上八中羅尾の石棺墓から出た中細形銅剣や鐘崎の石棺墓出土中細形銅剣は樋が鋒部まで伸びず、中国・四国地域との関係性が強い銅剣であり、本来中広形・広形の銅矛・銅戈埋納は不在であった可能性が高い。

 <武末純一氏 沖ノ島祭祀の成立前史より>

 この論を見てわかる通り、宗像地方は弥生時代中期末になると、今までの北九州一帯の出土状況から離れて、瀬戸内・山陰地方とのつながりが強くなるようである。この傾向は沖ノ島にも見られ、宗像→沖ノ島→対馬の経路もあったようである。

 この宗像は後に宗像三女神が降臨し、海上交易路の拠点として発達していく地である。この地が当時の北九州地域の考古学的状況と弥生時代中期末より異なってくるということは、弥生時代中期末より出雲・瀬戸内文化圏に取り込まれたことを意味している。おそらく素盞嗚尊がこの地を確保して海上交易路の中継拠点としたためであろうと思われる。

 北九州中心域の博多地方や糸島地方は有力豪族がひしめいており、なかなか入り込めなかったと推定される。しかし、大陸からの先進技術導入の足掛かりとなる地はどうしても必要だった。北九州中心域から離れており、かつ、対馬との往復ができる場所として、素盞嗚尊が選んだ地が宗像地方だったと考えている。当時の宗像地方は北九州中心域からは外れており、有力豪族もいない空地のような状況であった。素盞嗚尊一行は簡単に入り込めたのであろう。対馬との往復に北九州中心域を通過したのでは、中心域の有力豪族との衝突が起こる可能性がある。それを何としてでも避けたいと思った素盞嗚尊は宗像地方を拠点として宗像→大島→沖ノ島→対馬のルートを開発し、このルートを通って対馬往復をしたものと考えている。

 この中の沖ノ島は対馬大島間のほぼ中央に位置し、ルート上で極めて重要な中継地点となる。素盞嗚尊は必ず上陸し航海の安全を祈願せずにはいられなかったものと推定している。そのために、沖ノ島が祭祀の島として次第に認知されてきたものであろう。

 このルートは北九州中心域が倭国によって統一されてからは、壱岐→対馬のルートに変わったと考えている。

対馬統一

朝鮮半島往復のルート上にあるのが対馬である。出雲国王になった素盞嗚尊は,日本列島統一に絶対必要な最新技術を恒常的に手に入れるため、 対馬を出雲国の支配下に入れることを考えた。紀元前10年ごろのことであろう。

 対馬の考古学的状況

 対馬における弥生時代の遺跡は、南端のつつ地区から北端の豊地区に至るまで、各地の浦で知られているが、それらの浦々に共通した条件として、後背にいくらかの耕地をひかえ、前面に良好な入り江をもっていることで、全体に南部(下島)より北部(上島)に多く、西海岸の中央部に遺跡の密度がもっとも高い。弥生文化の発祥地(北部九州)に近い東南部(厳原町東海岸)に遺跡が少なく、韓国南部と向き合った西北部(上県町、峰町西海岸)に多い。これは南部に良い入り江が少ない地理的条件によるものと考えられる。
 対馬では弥生時代中期末(西暦紀元前後)になると、多量の副葬品を所有した墳墓が三根湾の一角に出現する。ガヤノキ、タカマツノダン、サカドウといった首長級の墳墓の出現である。副葬品としては前漢鏡、楽浪系銅釧、半島産小銅鏡などの青銅製品が多い。この周辺が対馬国の発祥の地であろう。
 中期後半になるとにわかに遺跡が増加し、これより後期にかけて、空前の活況を呈したことがあらわれている。それは舶載の青銅器や鉄器、玉類を輻輳した墳基が出現し、後期になると広型銅鉾が大量に移入されていることなどから考えて、このころ、重大な歴史的変動があったことは間違いなく、それは対馬国の誕生を示すものと推量されている。峰町の三根川中流域の小高い傾斜地に弥生時代の住居跡をたくさん残したヤンベ遺跡の発掘が行われ、対馬では始めての大規模な弥生時代の集落の跡ということで、卑弥呼の時代の対馬の国の中心地ではないかと推定されている
 遺跡数の多さ、分布密度の濃さにおいて三根浦と仁位浦が島内で卓越しているが、時代区分は少しずれており三根浦の主要な遺跡は中期末に集中し、仁位浦は後期に集中している。

 対馬に伝わる伝承では対馬は素盞嗚尊が開祖で代々素盞嗚尊の子孫が対馬を統治しているとされている。対馬では中期末以前には王墓らしき墳墓は存在しないので、 伝承と照合すると、素盞嗚尊が対馬にやってきて国を作ったということになる。対馬は山が多い島であり、素盞嗚尊がやって来るまでは、まとまった国としての存在はなく、 素盞嗚尊はここに国を作ることにより出雲と朝鮮半島の交流拠点を確保したものと考えられる。その拠点を三根湾沿岸に作ったものであろう。 そして,対馬から朝鮮半島に渡り,先進技術の導入を謀ったのである。そのため、対馬には出雲系神社が多く出雲と同じ神在月伝承が残っていると推定する。

 博多と釜山は玄界灘を隔てて、約200Km。対馬は博多港から138Km,釜山から50Km,対馬海流は3ノット(5.6Km)/時で北東へ流れている。晴れた日には、対馬の北側から朝鮮半島の山々や建物を望むことができる。この海は壱岐、対馬を挟んで常に陸地を見ながら安全に航行出来る航路であった。対馬は、魏志の倭人伝、古事記、日本書紀にもその名を記されている。

 対馬の統一伝承

対馬・壱岐における素盞嗚尊・五十猛命関連伝承を持つ神社

神社 住所 伝承
那須加美乃金子神社 対馬市上対馬町小鹿字大浜520番地 素盞男尊五十猛命を率い八十木種を持って韓地曾尺茂利の所に行き、其の種を植えさせ玉ひ、帰朝の時比山に八十木種を植え玉ふより繁茂し、人の入ることを深く禁ずる處にして、実に神霊の地なり。<神社明細帳>
若宮神社 上対馬町豊字難ケ浦 五十猛命は素盞男命の御子にして韓地に渡らせ給ふ時此の地は行宮の古跡なり。後其の霊を祀り若宮神社と称す。古より国主の建立の社なり。
<対馬神社誌>
島大國魂神社 長崎県対馬市上対馬町豊409 素盞嗚尊が御子神・五十猛命とともに韓地・曾尺茂梨の地へ渡った時の、行宮の跡。
那祖師神社 対馬市上対馬町豊字大多1337番地 素盞嗚尊は朝鮮半島東南部の経営のために対馬と朝鮮半島を往復した
曽根崎神社 対馬市上対馬町五根緒字平山188番地 五十猛命は素盞男命の御子なり。其神跡なれば之を祀る。
曽根崎神社 対馬市上対馬町唐舟志字在所381番地 素盞鳴命御子五十猛命を従へ韓土へ往き給ひけるとき、御舟を寄せ玉ふ旧跡なれば神祠を建てて之を祭るあり<対馬神社誌>
岩楯神社 対馬市上対馬町河内字藤内ケ内43番地 往昔、素盞嗚尊が韓土より帰り玉ふ時、此の浦に御船を寄せ玉ひしと云ふ
国本神社 対馬市上県町瀬田1番地 祭神 天之佐手依姫命、上古対馬代々の国王の寄神の霊を祭る
行相神社 長崎県対馬市豊玉町田字船蔵1059 対馬中央西海岸の良港にして古代海神の神蹟に祠を建て鎮守の神として祀る。
元嶋神社 長崎県対馬市豊玉町唐洲字妙見647 祭神素盞嗚尊。唐洲の地韓土に対峙し、常に外寇に際しては要衝の地たり、故に邊要に鎮衛とし且つ王朝の時に在ては渡唐皆此地に風を待ち、海上安全の守護神とす。
和多都美神社 長崎県対馬市豊玉町仁位字和宮55 上代の海宮とは対馬のことをいい、仁位和多津美の宮はその神跡。豊玉彦命はその神跡に宮殿を造り、一男二女をもうけた。穂高見命、豊玉姫命、玉依姫命である。伝承では、山幸彦(彦火火出見尊)が辿り着いた海宮の古跡。山幸彦は、ここに三年留まり、豊玉姫命を妃としたという。
伊志呂神社 壱岐市勝本町立石西触727番地 往古、十二月晦日、社大明神高麗より今の立石村白石浜畳瀬に着船し給う。故、今に浜にいます。所謂、白石大明神是なり。妹神は其処より山野を越え、今の粢田に到り、坐て其の地に御殿を作る。
天道神社 壱岐市郷ノ浦町小牧西触 当社は神代よりの鎮座。「古考伝」云う、天道大明神、韓国より駒牧邑大江の浜に到り給う。此の地に井泉あり。滑川と云う。其の川の傍らにて竜馬に乗り、滑木(ナメキ)の辻に到り給う。宮室を造りとどまる。大江浜の石に竜蹄の跡、今なお存す。土俗敬いて登らず。 8月18日、御幣を立てる。亦、神幸の時、昔の御通路とて畑中を通りて大江の浜に到る。

 対馬の最北端には嶋頭神社(那祖師神社に合祀)があり,この地は,その昔素盞嗚尊が韓地ソシモリにわたったときの行宮の足跡といわれている。また、 那祖師神社の伝承では素盞嗚尊は三韓経営のため対馬と朝鮮半島を往復した、とある。素盞嗚尊の朝鮮半島訪問は1回ではなく複数回に及んだものと推定される。 そして,神話では,朝鮮半島に渡った素盞嗚尊は全国に木の種を配って回ったとされている。木の種を配っても生長して実が成るまでには年数がかかり, 実際上の効果がほとんどないと考えられ,木の種というのが新技術を示しているのではないだろうか。

 対馬には出雲系の神社が非常に多く,神無月伝承に関わる神迎え儀式が伝わっており,出雲との間を,毎年,神が往復していたと伝えられている。 これらから,対馬は他の地方よりも,出雲との間に深い関わりがあることがわかる。これは,他の地域よりも早い時期に出雲の勢力下に入っていたためと考える。

 素盞嗚尊・五十猛命が立ち寄った港は伝承では対馬の北東海岸に集中している。西側には北西部の岩盾神社に見られる程度である。対馬の弥生遺跡集中地帯には伝承をもった神社があまり見当たらない。素盞嗚尊が来た頃の対馬の中心とみられる地域は三根湾一帯である。そして対馬の最北端には対馬から朝鮮半島に渡ったという伝承が集中している。これと、対馬海流の流れから素盞嗚尊一行の朝鮮半島渡航の経路を推定すると、対馬の先端から大陸に渡るとすれば、52km程で今の韓国釜山港あたりに着岸することになる。帰りは韓国巨済島より23kmで鴻島、そこを経由して51kmで対馬の三根湾につく。このコースは海流に乗れるので比較的楽に渡海できるであろう。

 この経路は直に朝鮮半島に渡るルートであり、対馬に長期滞在するルートではない。この点から判断すると、素盞嗚尊が対馬を統一したのは、出雲国統一直後ではなく、少し後(九州統一の直前AD1年頃)ではないかと思える。BC10年頃におけるこの時期は、少しでも早く新技術を取り入れたいという気持ちから、対馬は単なる経由地だったのであろう。

 対馬からの期間コースが伝承されている。その帰還コースは,「対馬-壱岐の伊宅郷-筑紫-長門の須佐-岩見の神主-温泉津-仁摩の韓島を経て五十猛町の韓浦に上陸した」と云うものである
 ここでいう壱岐の伊宅郷とは旧湯岳村を指し近くに原の辻遺跡がある。素盞嗚尊は原の辻遺跡に立ち寄っていると思われる。壱岐は対馬と違って国としての形態がすでに出来上がっていたために素盞嗚尊が入り込む余地がなく、その中心地である原の辻遺跡を寄港地として利用したものと考えられる。

原の辻遺跡 那祖師神社

 素盞嗚尊関連伝承地 

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新技術の導入
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