朝鮮半島からの帰還

 対馬統一関連地図

 出雲国建国関連地図

 素盞嗚尊帰還コース関連地図

 朝鮮半島関連地図

 朝鮮半島にわたって先進技術を手に入れた素盞嗚尊の帰還ルートを検証してみよう。朝鮮半島の西海岸に沿って半島を迂回し、高霊に立ち寄った後、南端の巨済島より23kmで鴻島、そこを経由して51kmで対馬の三根湾につく。戻ってきたのはBC5年頃であろう。

 対馬からの帰還

 対馬からの期間コースは「対馬-壱岐の伊宅郷-筑紫-長門の須佐-岩見の神主-温泉津-仁摩の韓島を経て五十猛町の韓浦に上陸した」と伝承されている。そのコースの伝承地を探ってみよう。

 対馬

  対馬での着岸地は対馬町河内字藤内の岩盾神社の地と思われる。この地に着岸し、対馬の北側を回り、厳原辺りから、壱岐を目指して出港し、壱岐の湯元湾立石の伊志呂神社の地に着岸、南周りで、郷ノ浦の天道神社の地を経て、伊宅郷(原の辻遺跡)に到達したと思われる。

 壱岐の伊宅郷

 壱岐の伊宅郷というのは、まさに原の辻遺跡のあるところである。この地は3世紀の壱岐国の都のあったところと推定されている。この原の辻遺跡では楽浪郡の文物と一緒に弥生時代の出雲の土器が出土している。素盞嗚尊は楽浪郡から新技術を学んでいると思われ、素盞嗚尊の朝鮮半島渡航をまさに裏付けているといえる。

 筑紫

 五十猛命が天降りの際に多くの木種を将来したが、韓地には植えずに、筑紫より始めて列島内に木種を播いたと記されている。素盞嗚尊の関係の地として、ソシモリやクマナリがこの記事に見えており、ソシモリが牛頭の意、クマナリが熊川・熊津であれば、朝鮮半島内にはいくつか、これに該当しそうな地名がある。同時に、日本でも、牛頭に通じる牛頸・牛頸山が福岡県大野城市にある。ここには時代がずれるが、伽耶に源流をもつ須恵器の窯跡群があり、素盞嗚尊が筑紫国に上陸後、この地に滞在したのではあるまいか。牛頸山は福岡市一帯の眺望が素晴らしい。素盞嗚尊はこの山に登って眺望しているのではないだろうか。

 古物神社(福岡県鞍手郡古月村大字古門字西山)に次のような伝承がある。
 「八幡宮の縁起に曰く、古門村は神代の昔、素盞嗚尊が高天原より出雲国に行く時の旧跡である。十握剣と素盞嗚尊を昔から祀る神社で、剣神社と号す。」

 高天原から出雲に行くときにこの地を通過したことが伝承されている。ここでいう高天原がどこかが大きな問題となる。ここでいう高天原は韓国高霊郡と思われる。神話に於いては素盞嗚尊が天照大神の治める高天原で誓約をした後、高天原で悪事を働き追放され、その途中でこの古物神社の地を通過したと考えるのが筋である。まさに、朝鮮半島の高霊郡からの帰還後ここを通過したとすればスムーズにつながるのである。

 素盞嗚尊が朝鮮半島帰国後滞在したと思われる筑紫の地は牛頸と古門である。この2点から筑紫巡回コースおよび目的を推定してみよう。
 このとき、素盞嗚尊は当時の日本列島最先進地域である北九州一帯の統一を何れやらなければならないことは感じていたはずである。そのためには、北九州一帯の状況を知っておく必要がある。北九州の巡回は是非とも必要であったろう。この時北九州地方は戦乱状態にあり、その激戦地が現在の筑紫野市一帯である。そこがよく見渡せるのが牛頸山である。素盞嗚尊は牛頸周辺でこの戦いの様子を調査したと思われる。その後遠賀川流域に入り、この地域は戦乱に巻き込まれておらず、北九州中心域とは別の状態であったことも調査したであろう。遠賀川を下り、この当時の出雲出張所のあった宗像に立ち寄った。この途中に古門を通過することになる。

 素盞嗚尊はこの時高良国王高皇産霊尊に会っていると思われる。高皇産霊尊も日本列島平和統一を考えて飛騨国と親戚関係を作っていた。素盞嗚尊が平和統一を考えたのはこの高皇産霊尊の影響を受けたのが原因ではなかろうか。

 素盞嗚尊が出雲を統一したことは、飛騨国も高皇産霊神尊も知っていたことであろう。出雲も当時の一大勢力であったために出雲も協力者に取り込まなければ、日本列島平和統一はありえないのである。

 長門の須佐

須佐之男命が、出雲の国から朝鮮半島に往き来したとき、須佐の地にとどまり、海路を望んだことから神山(こうやま)と命名されたという。
 この神山は現在の標高 532.8 mの高山で、山頂からは、美しい海食崖が数多く見られる須佐湾を一望できる。素盞嗚尊はこの山の山頂から、海路を確認したものであろう。頂上には強い磁力を帯びた岩が点在している。 この高山磁石石は国の天然記念物に指定されており、鉄分を多く含む岩が幾度かの落雷で磁化されたものであろう。素盞嗚尊命は朝鮮半島から製鉄技術を学んできていると思われ、帰る道すがら列島内で鉄が取れるところを探していたのかもしれない。

 高山の八合目に黄帝社が存在している。この神社は元神山神社と言われている。その創建年代や由緒は明らかでない。中国古代の名君の一人として知られている黄帝が祭られており、この黄帝は航海・造船の神としてあがめられている。「防長寺社由来」によると、「異国の御門軒轅黄帝の神霊、則我朝崇神天皇御宇、此山に応現して初て船造万民教給う、其時船の道具の出所今以て在名トス・・・・・・」とある。かなり古い時代から高山に黄帝社としてまつられていた事が考えられる。しかしながら、素盞嗚尊旧蹟である神山の神山神社の元社とも伝えられており、また、船を造ることを伝えたのは素戔嗚尊と五十猛命であることから、この黄帝は素盞嗚尊のことではないかと推定される。

 素盞嗚尊は朝鮮半島との往来時にこの地に滞在していたことが分かる。

 岩見の神主 

 今の江津市二宮町神主の地と思われる。素盞嗚尊はこの地に立ち寄っているようであるが、具体的な伝承は見つかっていない。この地には式内社多鳩神社があり、事代主命終焉地として知られている。また、此の神社の背後には天狗山がある。素盞嗚尊の聖地熊野山も別名天狗山であるが、なにも伝承されていないようである。

 温泉津

 温泉津には素盞嗚尊関連伝承はなかなか見つからないが、下の民話より、素盞嗚尊が此の地を訪れていることはわかる。

 「しりのないニシ」
大蛇退治をして有名になったスサノオノミコトは、石見の様子を見るために、小浜(温泉津町)を訪れた時の話です。
小浜近くの笹島には、矢を作るのに質のいい竹が生えているので、スサノオは、1本1本、選んで切っていました。夢中で切っていると、潮が満ちてきたので、大急ぎで、浅瀬の方へ歩いて行きました。しかし、大波が打つ寄せて、着物の裾をぬらしてしまいました。近くの川で、着物を洗い、乾くまで一休みしようと、着物を石の上に干し、砂浜に横になって、寝てしましました。夕方、寝過ぎたと慌てて、干しておいた着物を着ようとすると、せっかく干していた着物は、風に飛ばされたのか、川に浸っていました。着物を引き上げてみると、裾の方に、ニシ(タニシ)や、ヒルがびっしりと付いていました。
「これは、けしからん!着物に引っ付くとは、なにごとだっ!」
…と、スサノオは怒り、ニシを着物からはがし、とがったニシのしりをねじ切って、川に捨ててしまいました。吸い付いたヒルも、
「二度と吸い付くなっ!」とヒルの口をねじ切って、捨ててしまいました。それからというものは、この辺りのニシは、シッポが切れたようになり、ヒルも、人の血を吸わなくなったということです。

<島根県の民話>

 仁摩の韓島

 仁摩町の宅野港には韓島という小さな島が港の防波堤の目の前にある。この韓島は素盞嗚尊が新羅國からの帰りに立ち寄ったとされ、栲の木から繊維をとり馬路の神畑でハタを織られたと伝えられている。この島には韓島神社が鎮座、白い鳥居と拝殿が見えた。主祭神は素盞嗚尊であり、「韓島と称するのは神代にスサノオ命が韓国へ往来の途次、この島に船をつなぎ、その風光を愛した縁からという」との伝承が残されている。

 しかし、この韓島は現在船をつなぐには適さない島である。そこに繋ぐよりは仁摩漁港か、宅野港に繋いだ方がよいと思われる。当時は共に入り江だったと思われる。しかし、どちらにしても、朝鮮半島との往来の時、この地に滞在したのは確かであろう。

 五十猛町の韓浦

 韓神新羅神社社伝
 「五十猛神・大屋津姫神・爪津姫神の三神は父神・素盞嗚神と一緒に新羅の国に天隆り、そこから埴船に乗り日本へ帰国するとき、磯竹村の内大浦の灘なる神島に上陸し、素盞嗚神はこの大浦港に御社を建てたとある。これを継いだかたちで五十猛神社では、御子五十猛神・大屋津姫神・爪津姫神三柱の神は磯竹村の内なる今の宮山に御社を建て鎮り給い、それより五十猛村と言う」

 朝鮮半島から戻った素盞嗚尊一行はこの五十猛の地に足を留め、暫らく滞在したようである。この周辺の関連伝承地は以下のようなものである。

神島 素盞嗚尊一行が船を繋ぎ止めて海岸の様子を窺ったといわれている。
神上島
神島に舟を繋いだ後、素盞嗚尊一行が最終的に陸地に上がられたと伝えられる。
神別れ坂 素盞嗚尊と、三柱の兄弟神が別れたところ。
薬師山 薬草を植え育てたといわれている山
逢浜 兄弟神が和歌山の地にそろって旅立つ時に逢ったといわれる浜
漢女神社 爪津姫命は、漢女神社に鎮って伐採や製材にあたられたといわれている
大屋 大屋津姫命は、大屋にて、建築に努められたといわれている
宅野 二人の姫神は、宅野で、「たく」の木から繊維を採取し、馬路の神畑で、機織物の道を開かれたとも伝えられている。また、素盞嗚尊一行が韓島に立ち寄られ衣服を改められたあと、五十猛海岸へ上陸されたという
五十猛 五十猛命は、五十猛にとどまって、造林に励まれたといわれている

 この地で素盞嗚尊は五十猛命と別れたようである。朝鮮半島に旅立ったとき、この石見国は、まだ出雲国の管轄外にあったと思われる。この地を統一するために、朝鮮半島からの新技術をこの地に広めようとして、五十猛命・大屋津姫命・爪津姫命はこの地に留まったのであろう。五十猛命はこの後、複数回朝鮮半島に赴き、九州長崎、佐賀方面の統一事業を行っている。統一後再びこの地に戻って暫らくした後、この地から紀伊国に旅立っているようである。

 素盞嗚尊は出雲国に戻るために五十猛命と別れて、暫らくのち、この地を旅立ったと思われる。

 安来

 安来には以下のような伝承が伝えられている。

「牛頭天王の素戔鳴尊は吾は最早朝鮮に止まる事を好まないと仰せられて土で船を作り再び日本に帰って来られたのが 出雲の國安来であった。ああこれで心安くなったわいと申されたので安来の名が着いたとの事である。」

 これは、素盞嗚尊の出雲国での上陸地が安来であることを意味している。五十猛を旅立った素盞嗚尊は島根半島を回って、この地に上陸したことになる。通常、杵築あたりに上陸すると思われるが、わざわざ島根半島を迂回したのは何のためであろうか。

 朝酌

 松江市朝酌の多賀神社の伝承
「素盞嗚尊命が新羅国より埴土の舟に乗り出雲国に渡り、この地に船を留め宮を作った。」

 この伝承は安来に到着後、朝酌に来たことを意味している。朝酌で宮を作っているので、この地にしばらく滞在していたことになる。素盞嗚尊のこの後の伝承はわからないのであるが、朝鮮半島から持ち帰った新技術の内最も重要だったのは、製鉄技術ではなかったかと思われる。実際に弥生中期末のこの時期以降、出雲地方に鉄器の出土が急増する。また、農地も増加しており、鉄器を用いた農業技術も進歩しているのである。

 造船技術

 多賀神社の伝承に「埴土の舟」とあるが、この船はどのような船であろうか。「HPポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源」に次のような記事があった。

 この「埴土(はに)」は、マオリ語の「ハンギ」、HANGI(earth oven,contents of the oven,scarf)、「土中の蒸し焼き竃、その内容物、(技術用語)木材の嵌(は)め継ぎ」の転訛(NG音がN音に変化して「ハニ」となった)で、「(技術用語)scarf、木材の嵌(は)め継ぎ」とは、「土中の蒸し焼き竃」(ハワイ、ニュージーランドの「ウム料理」の「ウム」と同じもの)が地面に穴を掘って作ることから、木材に穴(「ほぞ」ともいいます)を掘り、穴と穴を別の木材で堅く連結して大きな構造物を作る技法をいうのです。

 造船技術が丸木舟の段階に止まっていては、舟の大きさは材料の木材の大きさによって限定され、外洋の荒波を凌ぐ大きな舟は作れません。そこで、丸木舟の舷側に板を立てる準構造船が生まれ、次いで竜骨に骨組みを付け、板を貼る構造船が誕生し、現在の造船につながります。この木材と木材を緊結するのに、藤や葛の縄で堅く縛る方法もありますが、強度が不足します。そこで木材を緊結する不可欠の技法が木材に穴を掘って他の木材を嵌めて(埋めて)繋ぐ「嵌め継ぎ」なのです。

 スサノオ伝説の中で、従来「荒唐無稽」と考えられてきたこの「埴土」船の記述は、正に現代の造船技術につながる当時の最新技術を創始し、これを日本に伝えたことを意味する記事であったのです。

 これをみてわかるように「埴土の舟」とは楽浪郡で学んだと思われる造船の新技術を示していたのである。

 素盞嗚尊はこの航海で、多量の鉄鉱石、銅鉱石及び加工技術を持ち帰っていると思われる。しかしながら、日本列島内で鉄が採取できれば、効率はさらに上がる。素盞嗚尊はこの後、鉄が採取できるところを探して回ったのではあるまいか。

 鉄の採取候補地

 、『出雲国風土記』大原郡の山野・河川の項にあり、「御室山。郡家の東北一十九里一百八十歩。神?佐乃袁命、御室造ら令め給ひて、宿りし所なり。故、御室と云ふ。」 御室は神の御在所で、御室山は大東町中湯石室田の宝山(470m)とされ、海潮温泉の裏山である。海潮温泉にも素盞嗚尊が入湯したという伝承がある。出雲を統治していた素盞嗚尊が山奥に御室を作るというのも変な話である。この周辺は古代において製鉄がなされていたと思われる地域で、すぐ近くの清田には西利太神社があり、古代において製鉄がおこなわれていたと言われている。朝鮮半島から帰った後の素盞嗚尊はこの地に居を構え、製鉄を行ったのではないかと推定する。

 別の帰還経路

 『残太平記』に、現在領土問題が起きている竹島と思われる記事が載っている。
「竹島は、五十猛嶼とも表記され、素盞嗚尊の御子神の五十猛神に由来する名前である。すなわち、五十猛神が新羅の曽尸茂梨から木種を持って日本に戻って来る途中に立ち寄った。」

 この経路を推定すると、
① 楽浪郡(平壌)→春川市(直線200km)、楽浪郡から、陸路直線200kmで五十猛命滞在伝承のある春川市につく、ここには海路でソウル市を経由してきたのかもしれない。
② 春川市→江陵市(直線100km)、江陵市は臨屯郡の郡治がおかれていたところである。五十猛命がこの地を訪れた西暦紀元前後は楽浪郡に編入されていた。現在の韓国東部の中心都市である。
③ 江陵市→鬱陵島(直線160km)、鬱陵島はこの当時于山国として独立していたようである。
④ 鬱陵島→竹島(直線60km)
⑤ 竹島→隠岐の島(直線160km)
⑥ 隠岐の島→出雲(直線40km)

 対馬経由よりも危険性が高いが、何回目かの渡航の時にこの経路で帰ったものであろう。

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