平和統一

 大和朝廷は武力統一ではなくて平和的統一である。

第二節       統一方法

第一項       武力統一ではない

第二項       平和的統一

第三項       日本史の謎の解明

 

2節 統一方法

第一項 武力統一ではない

武力統一は人々の反発を招く

 「古代日本正史」を初め多くの人の説が,大和朝廷が戦乱の末に全国統一をしたとしているが,このように考えると,先の日本史の特徴はすべて矛盾点となって返ってくる。「古代日本正史」を初めとする神社伝承を元とした書物は、スサノオが統一者となっていて、彼が,武力平定したように考えられがちであるが,武力平定したのでは,人々の反発をさけることができないはずである。全国におびただしく存在する神社は,そのほとんどがスサノオを祭っている。これは,この人物が全国で尊敬され,決して,恨みを買うことのなかったことを意味している。武力統一をしたのでは,このようなことはあり得ない。人の恨みが簡単に消えるものでないことは,豊臣秀吉に対する朝鮮半島の人々の感情を見てもわかる。スサノオが全国至る所で,神として祭られているということは,彼が神と見えるような統一方法を採ったということである。

王朝交替の証拠なし

 武力統一したのであれば,統一王朝が衰退したとき,かつて征服された勢力が,王朝を倒そうと謀り,王朝交替が何度も起こるはずである。そして,権力者もそれを防止するために,堅固な守りをするはずである。しかし,宮城はほとんど無防備で,王朝交替が起こった証拠はない。

 王朝交替は起こったという説は存在するが、それにしては、周りの豪族にほとんど変化が見られず、継続しているのはなぜだろうか。王朝交替が起こると周りの豪族に大きな変化が起こるはずである。前王の血筋が絶えて、代わりにどこからか遠縁の王を招いたということは考えられるが、はっきりとした形での王朝交替があったとは考えられない。

集団戦の跡と思われる遺跡がほとんど存在しない

また,弥生時代における集団戦の跡と考えられる遺跡が少なく,かなり平和な時代だった。さらに,武力統一の場合,中心域から徐々に周辺に勢力を拡大していくために,日本全土を統一するには大変な年月がかかり,少人数ではできることではないので,中心になる国が相当な国家体制を充実させておかなければできることではない。一世紀はまだ国家体制も十分に整っていない時期であり,武力統一はあり得ないことである。

畿内に九州系の土器や墳墓がほとんど存在しない

統一国家の中心地である大和は,朝廷成立以前には,北九州地方に比べて未開の地であり,遺跡・遺物も貧弱である。このような地になぜ中心地ができるのであろうか。武力統一なら北九州勢力が中心となっておこなわれたと考えるのが自然である。北九州勢力が統一事業を行い,畿内に東遷したという説もあるが,それならば,畿内に九州系の土器や墳墓が多く見つからなければならないが全くと言っていいほど見つかっていない。これは、九州からは少人数しかきていないことを意味している。少人数では,武力制圧は不可能である。武力を使う以上,それ相当の人数や装備をそろえなければならず,それならば,多量の九州系土器の持ち込みがあるはずであり,また武力制圧後も九州系の持ち込まれた文化が強く残るはずである。それが全く出土しないことはとても考えられない。畿内にどこかの地域の土器や墓制が集中して多いということはない。これは,どこか外部の勢力が大挙して畿内に侵入し,そこを中心として,全国統一をしたのではないことを意味している。侵入があったとすれば,あくまでも少人数である。

宗教統一

 弥生時代後期初頭を最後に権力君臨型の王墓というものが消滅し,かわりに,祭祀型の王墓と考えられる四隅突出型墳丘墓や方形周溝墓が広がっている。これは,権力によって支配していた小国家群が何らかの宗教によって統一されたと見るべきであろう。宗教統一ならば,少人数で遺跡・遺物の少ない大和を中心として国家統一をすることも可能である。

 古代の大和朝廷による政治は祭政一致であったらしい。古墳築造にしても労働力を確保するには,権力にものを言わせるか,信仰の力を使うしかないが,古墳上で祭礼が行われていることから判断して,明らかに後者である。これは,古墳が分布している範囲に同一の強力な信仰が存在したということを意味し,大和朝廷が宗教によって統一されていて,権力によって君臨していたのではないということである。大和朝廷が武力統一をしたのなら,被征服者には朝廷に対する反発心が強く残り,信仰によって人々を動かすことは不可能で,権力にものを言わせて人々を押さえつけるしかなくなる。そうすれば,宮城は反乱に備えて,警備が厳重になり,また地方の権力者の邸宅も厳重な警備の上に成り立っているはずであり,それが全く出土しないことはあり得ない。出土した地方の権力者の住居跡と思われる所もほとんど無防備である。これは大和朝廷の性格と全く異なる。古代は地方までも神に対する信仰心が浸透しており,地方権力者も神の扱いを受けて政治を行っていたと考えるべきである。

 武力統一によって大和朝廷が成立したとすると,このように矛盾点が多いのである。大和朝廷は宗教によって全国統一したと見るべきである。

第二項 平和的統一

宗教統一の条件

 宗教統一と言っても,ある人物がある教えを広めても,地域差の大きい当時の日本列島に住んでいる人々が,単純に「はいそうですか」と一つの信仰に走るとは思われない。また侵入先に別の宗教が存在すれば、今度は宗教同士の戦いとなる。宗教的に国家統一をするには,他地方が宗教的に未開である必要があるが、弥生時代といえども、各地方に若干の宗教的なものは存在したであろう。それらを取り込んでしまうためには、人々に神の存在を信じさせるよほど具体的な何かが必要である。

人々の不安の解消

 紀元前後の日本列島は,小国が分立する状態にあり,それぞれの小国はまだ国としての体制も十分には整えていない頃である。このような頃に住んでいる人々は,いつ,どこで,略奪や攻撃を受けるかわからない。事実,この頃は,北九州を中心として,防備のためと考えられる環壕で囲まれた集落が多く,鉄鏃や鉄剣・鉄刀等の鉄製武器の出土が多い。また,食糧やその他の物品も,安定して手に入れることが難しく,もし,多量にそれらのものを手に入れても,今度は,近くの集団からの略奪を警戒しなければならない。現在のような警察権力は存在しないのである。

 当時の人々は,このように,治安や食糧に関して不安の多い生活を送っていたと考えられる。このようなときに,人望のある人物が「我が連合国家に加入しなさい。そうすれば,誰からも攻められることもなく,食糧や物品を安定して供給できることを保障する。」等と言って相談を持ちかければ,ほとんどの集団は喜んで参加するのではないだろうか。そして,人民を苦しめている夜盗集団のようなものを退治すれば,ますます強く信頼するようになるのではないだろうか。

 「古代日本正史」でもスサノオがまとめて回ったとされている北九州各地で,大きな戦争をした形跡もなく,簡単に統一されているのである。当時,北九州地方は,日本列島内で最も強力な武力を持っていたと考えられ,武力で簡単に併合されるはずがない。物資の安定供給や治安維持を条件に加入したものと考えられる。スサノオの国家統一は,一世紀当時,北九州にかなりの規模の王墓が存在していたことから考えて,併合というよりも,連合国家と考えた方がいいようである。期が熟してから,王から中央の役人に政権移譲が起こったと考える。跡を継いだニギハヤヒも,近畿以東を同じ様な方法で統一したと考えられる。

先進技術の導入

 また,地方に住んでいる人々にとって,朝鮮半島や中国の高度な技術を何者かに見せられたとすると,その不思議な現象故,人々がその人物を神と信じ込むことは十分にあり得ることである。おそらくスサノオやニギハヤヒは大陸の高度な技術を示して国家統一をしたのではあるまいか。通常高度な技術は最初に手に入れた人物が独占することにより,周辺の人々を従え,権力欲を満たすものであり,滅多なことでは他に伝えることはないのである。中期までは鏡などが特定の地域に集中するといった状態にあったが,中期末以降の大陸の高度な技術の地方への浸透が異常に速いことからこのように考えるのである。

 このような統一をするためには,統一者はかなりの人格者であることが要求され,物欲があって,交換条件として何かを要求するような人物ではとても無理である。スサノオ・ニギハヤヒが純粋に人々の幸せを願って国家統一を実行したということでなければ,多くの人々はついてこないであろう。

第三項 日本史の謎の解明

 このような方法で統一したのであれば,一般民衆の目には,この二人が,自分たちの生活を保障してくれた神のように見えるであろうから,多くの地方で,人々がこの二人を祭るというのもうなずけるし,二人の実績があるから,教義も教典もない神道という特殊な宗教が発生し,全国に広まったのもうなずける。そして,副葬品の多い権力君臨型の王墓が消滅し,副葬品の少ない方形周溝墓や四隅突出型墳丘墓のような祭礼を重要視した墳墓が出現するのも説明できる。

 倭国とヒノモトが,跡継ぎの政略結婚で合併することができたのも,共にスサノオの勢力を受けていたから,と解釈されるし,歴代の天皇がこの二人の系統の人物でなければ,人々が納得しなくなり,天皇にとって変わろうと言う人物が出てこないのも納得できる。そのため,歴代天皇は自己防衛を考える必要が全くなく,宮城が無防備であるというのも説明でき,万世一系という世界史の常識では考えられない歴史を残すことになったということも説明できる。そして,古代の天皇はこの二人を祭っていさえすれば,人心は安定し,徳によって人々を治めることも可能だったのである。

 大和朝廷が成立した直後から,関東から九州までの広い範囲を支配していたのも説明可能である。さらに,このような統一方法は,中心になる国の国家体制が十分である必要はなく,少人数での統一が可能である。そして,大和という未開の地が中心地になることも可能であり,朝廷に武力がなくても,全国一斉に古墳という新しい墓制を広めることも,銅鐸を消滅させることも,神の力を使えばできることである。

 また,「好太王碑文」にあるように倭人の軍が不利な条件にも関わらず強かったのは,平和統一がなされた結果,当時の人々には,「神によって造られた国」というような意識があったはずで,朝廷軍の団結力は,相当,強かったことがうかがわれる。事実,このような考え方は,近代の戦争にも使われている。実際に,神社史料によると,戦いの前に,あちこちで神を祭っている。神を祭ることで,志気を高めたのである。

 このような方法での統一をするには,統一される側の国家体制が十分でないことが必要である。この方法での統一は,一世紀という時期であったからこそできたもので,定説である四世紀以降では,国家体制がしっかりしているため,国家間の利害が対立し,大戦争なしでは到底不可能と考えられる。

 このように,平和統一といった考えをすれば,前に挙げた日本史の特異性が,否定しなくても,ことごとく自然に説明可能となる。

次に,年代順に中国史料や,考古学的事実と照合してみることにする。



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